The Sacred Mother - Part1 The New World

第二章   異邦人(5)




 翌日は朝食の後、九時から面接が始まった。行き先は同じ隣の白亜のビルだが、市長さんと面会した部屋とは別のところだ。そこで、僕たちはこの時代の首席歴史学者である、ラリー・ゴールドマン氏と会った。
 ゴールドマン博士は四十代終わりくらいの年配で、ミックのような堂々たる体格の持ち主だった。銀色のラインが二本入った白い上着とズボンが、なおさら大きく見せている。顔は少し赤ら顔で半分禿げあがった額は広く、残り少ないブロンドの髪を、きちんと後ろに撫で付けている。飛び出したような目は薄い灰緑色で、少し鉤鼻だ。
「やあ、はじめまして。君たちに会うのを楽しみにしていたよ。ここにはもう慣れたかい?」
 ゴールドマン氏は手を差し出しながら、気さくな調子で話しかけてきた。
「いいえ、まだ慣れたとは言えませんが……」ミックが僕らを代表して、そう答えた。それが正直なところだ。
「そうか。まあ、来たばかりだからね。最初は少し違和感があるだろうが、そのうちに慣れるさ。では、さっそくで悪いが、これから私たちの研究に、ちょっと協力してもらいたいんだ。いいかね?」
「はい」
「ありがとう。では歴史班のメンバーが来てから、本格的にはじめるとしよう。君たちにやってもらいたいことは、簡単だ。これからスクリーンを通して、絵や写真を見せる。みんな旧世界に属しているもので、私たちは文献を通してしか知ることができないものがほとんどだ。だから君たちに、生の情報を提供してほしいんだよ。どんな細かいことでも、くだらないと思えることでもいい。ともかく思いついたことを何でも、話してくれないか」
「わかりました」僕たちは一斉に頷いた。
 やがて、何人かの男女が部屋に入ってきた。
「では、ジャンル別にアルファベット順でやっていこう。最初は哺乳動物だ」
 ゴールドマン博士は機械の操作を始めた。あとから入ってきた数人の男女たちは、一緒に持ってきた銀色の箱をめいめいの膝の上に乗せ、椅子に座って、始まるのを待っている。
 最初に浮かび上がったのは、猿(ape)の写真だ。
「図鑑的な説明はいい。そういう資料は持っているから。君たちの感想とか、それに関わりのあることとか、そういうものを聞かせてくれ」
「猿……ですか?」急に言われても、言葉につまる。
「人間の次に賢いって言われていた動物ですね」と、ミックが口火を切る。「進化的には人間により近いもので、apeという言葉は、monkeyより広義の猿をさすんです。ピグミー・マーモセットのような小さいものから、マンドリルやひひのたぐいまで」
 それを受けて、僕らは話しはじめた。
「チンパンジーは芸をするのもいるよね。字の読めるのもいるし」
「だけど、大きくなると凶暴化しがちだから、小さいうちだけだね」
「そもそもサルをペット化しようっていうのが、間違いだと思うな。あいつらは基本野生だ。犬や猫とは違う」
「リスザルとか、赤ちゃんを取るために親を殺したりするしね」
「乱獲で、絶滅しそうなものも結構あるらしいね」
「猿の惑星と言う映画もあったな。あれも未来世界で、人間が滅びてサルが進化して」
「人間とチンパンジーのDNAは90パーセント同じらしいからね」
「でも、人間に対してサルっていうと、侮蔑の意味だね」
「軽蔑的なニュアンスがあるからね。猿真似とか、猿知恵とか」
「黄色人種に対する蔑称として使われることもあるね」
「それは、モンキーじゃないか? 意味は似てるけれど」
「ああ。でも、なんでそう言うのかな?」
「そうだなあ。感じが似てるからじゃないのか?」
「それは差別発言だ! アジア系から叩かれるぞ」
「俺がそう思ってるわけじゃない。あくまで言葉としてさ」
「そうだね。たしかに悲しいことだけれど、そう言う見方は存在するからね」
「もう一つ、モンキー・ビジネスって言うと、汚い商売って意味になるな」
「今はエイプなんじゃないかい? モンキーじゃない」
「だから、サルの惑星(Planet of Apes)だろ?」
「そんなSFが成り立つほど、人間に近い可能性を持っているということだね」
 そんなとりとめのない、おしゃべりに近い話を、相手は逐一記録しているようだ。と言っても、キーを使って文字を打ち込んでいるわけではなく、後で聞いた話では、僕たちが話した言葉が音声認識されて、彼らの持っている端末にテキストとして入力されているらしい。その画面を見ながら適当なところで段落わけをし、ファイルに記録しているようだ。
 ひとしきり猿についての話が尽きてしまうと、次はbearになり、最後のzebraまで、昼食をはさんで二時半ごろまで、哺乳動物編は続いた。それからは爬虫類、次に昆虫、魚類と、夕食を挟んで、夜の九時まで続く。翌日は植物編、それから風俗、日をまたいで社会と続いた。三日間ずっと、絵や写真を見て、それからの連想や感想を話すという、同じような作業だ。途中二度の食事と、身体機能テストによって作成されたという健康維持体操プログラムで中断されるだけで、朝九時から夜の九時まで(ここは二四時間制だから、二一時だ)、歴史班への研究協力が続いた。作業自体は、ただしゃべっているだけだから、疲れることはない。でも、僕らの世界で馴染みのものばかり見ていると、帰りたいという思いは、ますますつのってきてしまう。
 夜九時になって作業から開放されると、いつも強烈なホームシックに襲われた。帰りたい――帰りたい。こんなところに、いつまでもいたくない。このまま帰れなかったら、ずっとここにいることになったら――それだけはどうしても避けたい考えだけれど、意志に反して、いつもそんな思いが浮かんできてしまう。たとえ未来に世界の崩壊が訪れようとも、僕らは自分の時代に帰りたい。僕らの居場所――夢も希望も生きがいも、すべてあの世界にあるのだから。その思いは僕だけではなく、六人全員の、共通の願いであることは明らかだ。毎晩そんな思いと戦い、それに耐えきれなくなると、寝支度もそこそこに、ベッドに潜ってしまう。もう長い夢を見ているだけだとは、誰も言わなくなっていた。眠ることで、現実を忘れるしかない。眠って起きたら、夢から覚められるかもしれないという期待は、時がたつにつれますます薄くなっていくけれど、その思いもまた、消しがたくあった。朝、再び現実に直面することになろうとも。

「協力、ありがとう。三日間もつきあってくれて。ずいぶん参考になったよ」
 歴史班との面接最終日は、いつもより二時間早い、七時ごろに終わった。助手の人たちはロボットの助けを借りて、研究用具の撤収にかかっている。博士は言葉を継いだ。
「これから夕食だね。もし差し支えなければ、私も一緒にとっていいかな? まだもう少し君たちと話したいこともあるんだ」
「ええ」
「では、引き続き、この部屋にいてくれたまえ。夕食はここへ運ばせよう」
 やがて、食事が運ばれてきた。ローストビーフとシーザーサラダ、マッシュポテト、パンとコーヒー、ブロッコリーのクリームスープだ。デザートに小さなケーキもついてきた。僕らの間には穏やかで快活な気分が、少しだけ戻ってきていた。ある程度日がたって、少しずつ気持ちが落ち着いてきたのか、それとも、おいしい食事をたっぷりとったせいかもしれない。
 夕食のあと、コーヒーを飲んでいる時、博士はきいてきた。「ところでね、君たち。ここをどう思うかい?」と。
 僕たちはお互いに顔を見合わせ、ロブが代表して答えた。
「ええ、ここは、とてもいい所ですね。整然として気持ちのいい町ですし、みなさんにもとても、親切にしていただいていますし」
「でも僕たち、来てからずっとここにいて、外を見ていないし、一般の人にも会ってないから、本当はよくわからないですけど」エアリィがそう付け加えた。それはたしかにそうだが、正直すぎる。ロブの社交辞令も台無しじゃないか。
 しかし博士は二人の返答に満足したようで、にこにこしながら頷いていた。
「まあ、そうだろうね。だが、すべての面接がすんだら、外へ出る機会があるだろう。それに、これから長くここにいることになるだろうから、この時代の人たちとも十分知り合いになれるよ」
 好意で言ってくれているのだろうが、ここに落ち着くという考えは、ありがたくない。ゴールドマン博士はどうやら敏感な人らしい。微かに肩をすくめている。
「ずっとここにはいたくないという顔をしているね、君たちは。無理もない。君たちは自分たちの時代で、十数年から二十年以上、生きてきたわけだからね。君たちは今まで暮らしてきた、あの時代が好きかい?」
「ええ」答えは一瞬のためらいもなく、口から出てきた。何人かがまるでこだまするように、同じ答えを返す。
「そうか……」博士はテーブルの上で両手を組み合わせ、じっと僕らを見ていた。「まあ、おもしろそうな時代だったことは、私にもわかる。しかし君たちの時代は、本当にそんなに良かったのかい?」
 ええ、もちろん――そう答えようとして、僕ははたと返事につまってしまい、他の五人の顔を見た。みなも同じように感じているようで、少し当惑した表情をしている。
 僕らの世界は病んでいる。良識ある人たちは、誰もがそう感じているだろう。社会の退廃は深刻さを増していき、世界規模で頻発するテロ、内乱、ひどく汚染された地球環境。深刻化していく異常気象。政治スキャンダルも日常茶飯事、経済は全世界的に低空飛行状態で、デフォルトの危機に瀕している国もある。都市にはホームレスがあふれ、殺人、暴力、犯罪が横行し、人の弱みに付け込んだエセ宗教や、悪徳商売や詐欺が幅を聞かせている。現実でもインターネットの世界でも、常に悪意と危険が潜んだ世界――こんな時代が、はたして未来世界の人たちに『良い時代だった』と、胸を張って言えるだろうか?
「自信を持って、そうとは言えないようだね」ゴールドマン氏は微笑を浮かべた。
「私も文献で、旧世界末期の様子は、ある程度知っている。戦いと犯罪、暴力、汚染の巣だったありさまをね。それに比べて、私たちの世界は平和だよ。国家はここ一つしかないから、戦争なんか、起きるわけもない。都市はお互いにある程度独立しているが、全体として一つにまとまっているから、変に対抗意識を燃やすこともないしね。新世界がスタートしてから今までの二五〇年近くの間、犯罪は数えるほどしか起きていない。とくにここ百年あまり、ずっとゼロを記録しているんだ。その理由がわかるかい? 私たちの社会には、貧富の差がほとんどない。欲しいものは求めさえすれば手に入るし、またさほど貪欲にならなくとも、満足できる心をもっている。君たちの時代は、商業ベースの競争社会、そんな印象を受ける。常に新しい商品を作り出し、メディアを通してそれを欲しがるように仕向ける。そして経済が回る。その結果、人々はもっともっと多くのものを欲しがるようになり、それが環境破壊の遠因の一つにもなった。そういう分析を踏まえ、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、こういう社会システムが作られたのだよ。同じ毒に染まらぬように。そう、精神だ。新世界でもっとも重点をおかれてきたものは、科学と同時に、精神の教育なんだよ。他者に対して寛容であれ、労力を惜しむな、貪欲になるな、尊厳を持ち、穏やかな心で常にいられるように、憎しみや怒りなどを抱かぬように。この教育が徹底しているおかげで、ここ一世紀ほど、犯罪ゼロを達成できたわけだ」
「そうなんですか……」ミックとロブが僕らを代表して、頷いていた。
「さらに私たちの生産システムは、決して地球環境を汚しはしない。もっともこれだけ人が減ってしまっては、たとえ君たちの時代のような無造作な消費をやったとしても、たいして深刻な汚染や環境破壊など、起きないだろうがね。しかし私たちはもっと未来的な展望に立って、これからもっと人が増えていき、消費規模が増大しても環境に影響がないように、最大限のリサイクルを行っているんだ。電力は今のところ百パーセント太陽発電で賄っているし、将来的にも賄えるかぎりは、そうしていくつもりだ。私たちの太陽発電システムは、君たちの時代のものよりはるかに大規模で、効率にも非常に優れている。どんなに規模が大きくなっても、環境を少しも汚すことなく、対応できるんだ。たとえ人口が今の三〜四万倍になっても、十分対応できるくらいにね。太陽と海水は、今も昔もほとんど無尽蔵に利用できる、貴重な資源なんだ。海水プラントも、百年ほど前に着工されて、順調に発展している。それに私たちの科学技術は、分子レベルでの変換を可能にした。物質を一度原子まで分解し、分子に組み立てるんだ。その技術のおかげで、たいていのものは、限りある天然資源を減らすことなく作り直せる。ゴミから、立派に生活必需品を作り出せるわけだ」
「なるほど……」
「それでも君たちは、自分たちの時代がいいのかい?」
 たしかに物質的なレベルでは、新世界のほうがいい。社会的なレベルでも、たぶんそうなんだろう。でも――。
「僕たちの時代は、たしかに良くはありません。でも、僕たちはあの時代が好きなんです」僕は思いきって顔を上げ、博士の薄色の目を見た。「僕たちはあそこで生きていたから。家族がいて、友達がいて、夢や愛や憧れも、みんなあの時代の中にあるんです。ここはたしかにいいところかもしれないし、みんないい人には違いないと思います。でも、でも……ここに僕たちの居場所はありません」
「そう。ここでは、僕たちは異邦人です。なじまない分子なんです。だから僕たちは帰りたいんです」ミックがあとを引き取るように続けた。何人か、賛同の声がする。
「そうか……」博士はしばらく宙を見ながら、考えこんでいるようだった。
「たしかに家族や友人が向こうにいるから、離れるのはいやだという気持ちは、私にもわかる。生まれた時からその環境になじんでいた者が、急に異質の世界へ来たら、戸惑うのも無理はないだろう。しかしね……君たちがここに来たことは、君たちにとって幸いだと、私は思ってしまうのだ」博士は視線を戻し、僕らの顔を見ながら、静かに言葉をついだ。「君たちの世界は、あと十一年で終焉を迎えるのだから」と。
「え?」突然言われたその言葉に、すぐには何のことだかわからず、ぽかんとするだけだった。次の瞬間、その意味を悟った。四日前にアンダーソン市長から聞いた言葉。
『ある時点で文明が途切れた。そして、世界が分断されたのだ』
 その分断点は、まだ八十年以上先だと僕たちは思っていたけれど、そうではないのか? 僕らの文明の終点は新生紀元元年の二〇九二年ではなく、もっと早い時点なのか? あと十一年というと、二〇二一年――?
「世界が終わったのは、新生紀元元年ではないのですか?」ロブがうわずった声で聞いていた。
 ゴールドマン博士はゆっくりと首を振った。「いや。新生紀元元年とは、新世界の社会システムが確立され、初代大統領が就任した翌年に建国宣言と憲法を発布した。その年なんだよ。実際のカタストロフは――私たちはそう呼んでいるが、それより七十年も前なのだ。実に悲惨な出来事で、地球上のものすべてが壊滅してしまった。人間も都市も文明も、動物や植物でさえ、ほとんど死に絶えたんだ。生き残ったものは八千人あまりの人間と一握りの施設、一部の小昆虫と深い海に住む魚、わずかな植物、それだけだ。それも植物のほうは新生紀元が始まってまもなく、やっと自然再生しはじめたんだ。それまでは、まったく不毛だった。昆虫も同様だ。カタストロフから新世界が再生されるまでの七十年間は実に苦しい過渡期で、人口は最低で二千人そこそこまで落ち込んだ。そこからやっと、ここまでになったのだよ」
 驚きの声すら出なかった。ただ、息をのむことしかできない。ほかのみなの反応を見る余裕さえなかったが、たぶん彼らも同じだろう。
 ゴールドマン氏は僕らを見回し、少し唇を舐めてから、静かな口調で話し続けている。
「君たちがここに来たのは、五日前だったね。その日の献立を覚えているかい? 乾パンと豆の缶詰、ドライミルク。私たちが毎年十一月二日にその食事をとって黙祷し、先祖に感謝を捧げるわけは、それがカタストロフの日だからなんだ。二〇二一年十一月二日。君たちがここへ来る前にいた“時”から、きっかり十一年後だよ。そして、これは別の時間線ではない。そういうことは時空主任学者のパストレル博士の方が詳しいが、彼と私は君たちが話していた旧世界の事象と、今までの歴史をつき合わせて検討した結果、同一時間線だろうという見解で一致した。元々博士は平行世界の理論には懐疑的な人だが、それが裏付けられたとも言える。そしてそれが何を意味するか、君たちにもわかるね。同一時間線上の未来がここなのだから、私たちの歴史は君たちの未来だ。つまり、君たちがもし元の時代に戻ったら、君たちの生命もあと十一年で終わってしまう可能性が、非常に高いということになる。だから繰り返すが、ここに来たことは君たちにとっては救いなのでは、と思うのだ。ここにいれば、君たちは安全だ。寿命いっぱいまで生きられるのだからね」
 答える言葉は、なお一言も浮かんでこない。博士が熱心に言っていたこと――ここなら僕らは安全だという言葉は、頭の中を素通りしてしまったように感じた。ただ、自分たちの世界があと十一年で終わってしまうという、衝撃的な事実だけしか感じられない。
 なぜ、そんなことが? 知らなければならない。僕は、そして他のみなも、口々に擦れた声でいっせいに問いかけた。いったい何が起こったのか? どうしてそんなことになってしまったのかと。ゴールドマン氏は手を組み合わせ、落ち着いた声で答えた。
「私たちにも、はっきりとはわからないんだ」と。
「それは、完全には解けることのない謎だろうね。ただ二二世紀半ばから行われている調査で、ある程度の事実はわかっている。まずは、この地図を見たまえ」
 彼は銀色のボックスを操作し、スクリーンの上に何かを映した。僕らのよく知っている世界地図だ。その海岸線が、青い線で縁どられている。
「これが、君たちの知っている旧世界の地図だね。では、もう一枚地図を重ねてみよう」
 スクリーンの上に、もう一枚の地図が現れた。白っぽい色調の元の地図の上に、少し緑がかったそれが重なる。その地図の海岸線は赤い線になっていて、赤と青、その二本の線は、かなりずれている。赤い線で縁取られた地図では、アメリカ大陸はカリフォルニア半島が半分なくなっていて、東海岸のほうもかなりえぐれていた。フェニックスの砂漠には大きな湖ができ、セントローレンス運河から東海岸にかけて、大きな入り組んだ湾になっている。もとのニューヨークもニューイングランド地方も、カナダの沿海州もプリンス・エドワード島も、ほとんど海の中だ。南北アメリカは、メキシコの中程から中米地域までの間にすっぽりできた海で、二つの大陸に分断され、南アメリカは南端が少し丸くなっている。中央アジアの真ん中に広大な湖があって、シベリアは半分沈んでいる。日本列島も一部分がなくなっていて、中近東、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアの沿岸も形が変わっている。ずいぶん変形した世界地図だ。
「赤い線で縁取られたものは、二二世紀の終わりにロボットによる測量結果をコンピュータ処理してまとめられた、現在の世界地図だ。比べてみると、世界の変わり方がよくわかるだろう。ことに海岸線の変化と、一部の水没地域がね」
 たしかにこの地図で見れば、ここに来る途中いきなり海岸線に出たのも、ニューヨークがあるべき位置になかったのも、納得できる。途中で渡ったあの断層川だって、きっと地割れの跡か何かに違いない。でも、この大きな変化をもたらしたものは、いったい何だったのだろう──?
「何が原因なんですか? よく言われている、ポールシフトですか?」ミックがうわずった声で聞いていた。
「ポールシフトか。大規模な地殻変動だけなら、その可能性もあっただろうがね。もしくは、小惑星の衝突の可能性もあっただろう。実際、半径二キロほどの小惑星が地球に急接近したのは、たしからしい。その一部が砕けて、隕石群となって降り注いだということも。その星は当時の計算によると、そんなに急接近する軌道ではなかったそうだ。コンピュータの予測ミスか、それともなんらかの外的干渉が働いたか……その前後、大量の宇宙線が降ってきたことも、検証されている。だが、その源と原因はよくわからない。それらが複合して、非常に悲惨な結果をもたらしたということ以外はね。隕石の衝突で地震や津波が起き、さらに地殻変動ももたらして、多くの都市が壊滅しただけではない。その当時地球上にあった核兵器や核施設が、ほぼ全部爆発してしまったようなのだ」
「ええ?」僕は、そしてたぶんほかの五人も――目を見張り、ただ絶句するだけだった。
 ゴールドマン博士は穏やかな薄色の目で僕らを見ながら、言葉を続けている。
「その結果は、言うまでもない。世界と文明は、たった数時間で終わってしまったのだよ。この地球上には二百年ほど前までは、放射性物質が残留していた。ここに生きている私たち全員が、DNAになんらかの放射性変異を引きずっている。これは新世界人の特徴の一つなんだ。君たちのDNAパターンにその変成が見られなかったことも、君たちが旧世界人だという証拠の一つになったくらいだ。幸い前世紀に画期的な除染技術が発明されたので、今は残留放射能の心配は、ほとんどないがね。だが、原子力関係の兵器や施設がなぜ爆発をおこしたのか、その因果関係はわからない。有力国の核施設が隕石の直撃で爆発し、それによってオートリベンジシステムの引き金が引かれたのか。同時に降り注いできた大量の宇宙線の影響で、システム自体にバグが入りこんだのか。宇宙線に含まれる大量の中性子が直接、爆弾自体を起爆したのか。原子力発電所なども爆発していることを考えると、最後の説がもっとも有力なのだが、それにはよほど強い力が必要になるので、はたしてそんなことが可能なのか? 自然現象の範疇で起こりうるのか、それともほかの外的要因が働いているのか。控えめなものから空想的なものまで所説はあるが、それを証明することは誰にもできない。三百年の時を経ての調査で、直接的な記録も何一つ残っていない状況ではね。カタストロフは複数の破滅的要因が複合した結果だ。だが、真の原因は何であったか。三百年以上たった今でも、それは解けない謎のままだし、これからも完全に究明されることはないだろうと言うのが、我々学者の一致した見解なのだよ」
 博士は歴史の講義をするような口調で、静かに淡々と説明している。僕たちは誰もみな、言葉もなく、ただじっと聞いていた。とっくの昔に過ぎた、歴史の断片? それとも、フィクション? それが、これから起こる未来の出来事だということが――僕らの生きていたあの時代の未来だということが、とても本気には思えなかった。そんなことは作り話だ。『もうじき世の終わりが来るぞ!』と、予言者気取りで騒いでいた連中に、もう何度も蒸し返されて、かびが生えているような主題だ。あれはどれも、結局当たらなかった。運命の年、運命の日――それはいくつあったか。それもみな無事に過ぎ、誰もが本気にはしていない戯言だ。そうに決まっている。本当に、世界が滅びるはずはない――。
 それは違うぞ! 心の中で理性の声が、そう叫んだような気がした。ここは二四世紀の未来世界だ。もしこれが夢でなく現実で、本当に僕らが今までいた世界から伸びている未来にいるのだとしたら、博士が言っていることは、すでに過去の事実だ。僕たちの時代に、アラブの春やイラク戦争、同時多発テロ、アフガンやユーゴの動乱、湾岸戦争やソビエト連邦の崩壊、果てはコロンブスのアメリカ大陸発見や合衆国の独立が過去に起こったことであるように、この時代にとっての世界崩壊は歴史の一部、すでに起こったことだ。これから起こるかもしれない恐れではなく、確実に起きたことだ。『私たちの歴史は、君たちの未来だ』と、博士もさっき言ったように。
 激しい震えを感じた。単なる絵空事にしか思われなかった恐怖は、本当は具体的な根拠のあることだ。よく言われている。地球上には人類全体を一掃してもあまりあるくらいの強力な核兵器があると。二十世紀の終わり、ちょうど僕らが生まれる少し前に、ソ連が崩壊して冷戦が解け、東西対立がなくなってからは、軍縮の気運がいっそう高まっていた。戦略核兵器もかなり削減された。それでもなお、人類にとっては致命的すぎる量があったという。隕石の雨がもたらした天変地異に加えて、すべての核が爆発してしまったとしたら、世界が一瞬で滅びても不思議はない。
 避けられないだろうか――そんな思いが頭をかすめた。もしこれからもとの世界へ帰れたら、なんとかして避ける方法はないだろうか? でも急接近してくる小惑星は予想軌道を取らなかったのなら、NASAにその可能性を仮に指摘できたとしても、計算した結果、『ああ、大丈夫だ』と、とりあってもらえないだろう。未来世界で聞いてきた、などという話は信じてもらえないだろうし、今さら核兵器の完全廃絶を訴えても、『現在、努力している』で終わってしまうに違いない。反原発も、すでにチェルノブイリからずっと唱えられていた題目だ。僕らにいったい何ができる? たとえもとの時代に帰れたとしても、破滅を回避できる手段など、ないに等しい。やはり歴史は変えられないのだろうか――。
「あっ……ああ!」エアリィが小さく声を上げた。「あの夢だ……バスん中で見た……あれだ。僕らの世界の終わり……」彼は両手を頭に当て目を閉じて、一瞬震えたようだった。
 僕も思い出した。バスが光のトンネルをくぐる直前、エアリィが話していたあの夢か。宇宙から光が降り注いで、小惑星が軌道を変えて地球に接近して割れ、そのうちの一つが隕石の雨になって、地球に降り注いだ。光が地球に当たると天変地異が起き、閃光とキノコ雲につつまれて、世界の終わりになった――彼はそう言っていた。あの時はただ『世紀末の映画でも見たのか?』と、笑って終わりになったけれど、さっきの博士の説明と、ほとんど同じ状況じゃないか――。気づいて僕も、思わずぞくっと寒気が走った。同時に僕自身の夢の断片も頭をかすめていく。ここへ来て初めての晩に見た夢を。
『それほど遠くない未来に、この世界が終わる。恐ろしい……恐ろしいことだ』
『でも、それは裁きと同時に、祝福でもあるんだよ』
 いったいどういう意味だろう? わからない。まるで感情が半ば麻痺してしまったようで、何も深くは考えられない。
「君たちの気持ちはわかるよ」ゴールドマン博士は僕らを見ながら、静かに言葉を継いだ。「だが直接原因はなんであるにせよ、そういう悲劇を招いたのは旧世界の人々の罪なのだという我々の一般的な見解は、否定できない。酷な言い方をすれば、自業自得なんだ」
「自業自得?」僕は訝りながら、半ば憤りながら、その言葉を繰り返した。何人かが唱和していた。
「そうだろう。因果関係はどうあれ、そういう致命的な兵器自体は、君たちの時代の人が作って、持っていたわけだ。必要もないのにね。その当時、世界に大規模な戦争は起きていなかったし、深刻な対立もなかったのだろう? 小さな内乱や利害関係の対立はあったらしいが、核兵器まで動員して、武力に訴えるほどのものではなかったというじゃないか。それならばなぜ、そんなものを持っていたんだ? 使うつもりもないのに。第一そんなものを派手に使えば、地球そのもの、人類全体を滅ぼしてしまうに決まっているのに。正気な人間なら、それがわかっているから、決して使わないだろう。世界の二大勢力がお互いの脅しのために持っていたというのが原因なら、その対立が解けた時に、なぜその致命的な核兵器を、すべて放棄してしまわなかったのだ? 原子力発電だって同様の意味で危険だと、以前から取りざたされていたという。事故もあったという。処理方法さえまだ完全に確立できていないのに、運転を続けていたというじゃないか。そんな、一つ間違えれば人間の手に負えないような致命的なものなど、放棄すれば良かったんだ。それさえなければ、ほぼ全滅などというひどい事態だけは、招かずにすんだだろうに。もちろん隕石群の落下で、相当被害はこうむっただろうけれどね」
 そう言われると、返す言葉もなかった。力の論理が――武力で相手を脅し、自然さえも蹂躙してきた、その身勝手が地球の怒りを招いたのかもしれない。そんな思いが、ぼんやりと頭をよぎっていく。
「力による解決は、何も生み出さないよ」ゴールドマン氏は穏やかな声で話し続けていた。 「戦争は、そのもっとも大規模な例にすぎない。自己の欲望を満たすために、他者を力にものを言わせて、押さえつける。個人的なレベルなら、ただの喧嘩か、悪くとも犯罪ですむだろうが、国家の間となると、ことは深刻だ。多くの罪もない人たちを巻き込む。罪なき命を奪い、血を流させる。そんなことは、起きてはならないことだ。力を力で押さえても、本当の征服にはならないことを、なぜ気がつかないのだろう。戦いといえば聞こえはいいかもしれないが、力で脅して押さえつけるのは、人間として最低のことだ。ましておや、武器に頼るなんてね。そう私たちは教えられている。旧世界の人たちにもこの考えが徹底されていたら、決して武力による嚇しなど、望まなかっただろうに。そして自然をさえ、その力の論理で押さえつけるような暴挙も、なかっただろうにね」
「それは……たしかにその通りかもしれません……」ため息とともに、そう認めざるをえなかった。人間の身勝手が地球を殺してしまう前に、自然の摂理が下した裁きなのだろうか。だけど――だけど、悔い改める時間はもうないのだろうか? この時代ではもうすでに過去の事実になっている恐ろしい終焉は、絶対に避けられないものなのだろうか? 激しい震えを感じた。もしこれが本当に現実なら、僕らの文明は、人々は恐ろしい未来に向かって、薄氷の上を歩いていることになる。十一年後に突然足元が割れ、滅亡の深淵に落ちていくとも知らずに。
「君たちには酷な話になったね。許してくれたまえ。旧世界のシステムが間違っていたとしても、それは君たちのせいではないのに、責めるような口調になってしまって。それでなくとも動揺しているだろうに。今はきっと、心の整理をするのに、やっとというところだろう。だが時間が経てば、もっと耐えやすくなるさ。君たちは芯が強そうだからね」
 博士はなだめるような微笑を浮かべながら、僕たちの肩を順々に叩いた。
「私のセッションは、これで終わりだ。君たちに会えて、たいへん有意義だったよ。今は君たちもいろいろとつらいだろうが、これだけは覚えておいてくれたまえ。この世界はいつでも喜んで、君たちを迎えるつもりだとね。いずれここでも君たちの居場所が見つかると、私は信じているよ」
 博士の言葉には、紛れもない温かみと優しさが感じられた。そのことに、感謝すべきなのだろう。でもみんな、ただ黙りこくって頷くだけだった。それが精一杯だったのだろう。僕もそうだった。

 そこから部屋までどうやって帰ったのか、あまり覚えていない。たぶんいつものようにエレベータに乗り、渡り廊下を歩いて、またエレベータに乗って帰ってきたのだろうが、僕の目に周りの様子は認識されてはいなかったようだ。誰かと話をした記憶もない。きっとみんな、同じようだったのだろう。
 頭の中には、ただ一つの思いだけが渦巻いていた。僕たちの世界が、あと十一年で終わる。世界は滅亡する――本当に? ああ、本当に悪い夢であってくれればいいのに。あのおんぼろワゴンの中か、どこかの病院か、それとも自分の部屋かニューヨークかアトランタの楽屋か、どこかのモーテルの部屋か、ともかくどこでもかまわないから、僕たちの時代のどこかで目覚め、ああ、なんて変な恐い夢を見たのだろうと、笑って言えたら、どんなにいいだろう。この夢はいつまでたっても終わらない。限りなく現実に近い感覚の悪夢だ。いや、やっぱりこれは現実なのかもしれない。でも、これがもし現実なら、本当に僕らの世界は、もう少しで終わりになってしまう――。
 思いだけが、空回りし続ける。自分たちの時代にいる、愛する人たち。やっとミュージシャンとしての道を歩むことを認めてくれた父と母。僕の夢を理解し、心配してくれた兄ジョセフ、僕を信じ、神の加護を祈ってくれた姉ジョアンナ、いつも信頼し、慕ってくれた妹ジョイス。そしてガールフレンドのステラ――僕のかけがえのない恋人。みんなその時に、消えてなくなってしまうというのか。とても信じられないし、受け入れられない。いつまでもこんなことを考えていたら、気が狂いそうだ。

 部屋へ帰っても、誰も何も言わなかった。しばらくして、やっとロブが長い溜息を吐き、ゆっくりと首を振りながら、口を開いた。
「シャワーを浴びて、寝なくてはな」
「眠くなんかないぞ!」ジョージが叩きつけるように叫んだ。
「なあ、みんな。悪い冗談だって言ってくれよ! 誰か、俺の目を覚まさせてくれよ。お願いだ! ちゃんと目が覚めるなら、喜んで寝てやる!」
「目が覚められるものなら……僕だって、そうしたいんだけれどね」
 ミックが天井を仰ぎ、ため息を漏らす。
「僕は毎晩、期待して眠るんだよ。きっと起きたら、この夢から醒めるんじゃないかって。それでいつも朝が来るたびに、失望しているんだ。まだこの部屋にいるのを発見してね」ロビンは小さな声で力なく言い、首を振った。
「俺、来年の春には子供が生まれるんだぞ……」ジョージは頭を抱えてうめいた。「早く帰りたいよ。パメラに俺があいつを捨てて失踪したなんて、思われたくないんだ」
「でも兄さん、帰ったら……」
「あと十一年の命か? 上等だ! ここでつまらなく生きてるよりは、どんなにかましさ。俺は世界が終わるなら、一緒に終わってやるよ! 馴染みのものすべてと一緒にな。それともおまえは帰りたくないのか、ロビン?」
「ううん、やっぱり……帰りたいよ。怖いけれど……」
「僕も……恐いけど、帰りたいな」僕も頷いた。
「わかってて、世界の終わりにぶつかるなんて、結構勇気いると思う。十一年先って言っても、その時間がたてば来ちゃうんだから」エアリィは髪の中に突っ込むように手をやり、頭を振ってから、付け加えていた。「けど、やっぱり帰りたいな、僕も。ここも住んでみたら悪くないのかもしれないけど、なんか……考えられない、そんなこと」
「そうだね……」ミックが頷いた。
「みんな帰りたいんだ。そうだろうね。僕もだ。僕たちの生きていた世界は西暦二〇一〇年のあの時代で、ここじゃない。たとえ先がないとわかっていても、それまでに十一年もあるんだし、救いだってあるかもしれないんだからね」
 その言葉に、僕らはみんな頷いた。
「うん」
「ああ」
「そうだな」
 帰りたい。帰らなくては。これが現実なら――たとえどんな運命が待っているにせよ、僕たちは自分たちの時代で生きたい。その気持ちを強い信念にしよう。たとえ不可能に見えても、どこかに道はあるかもしれない。
「そうだな。明日はいよいよ時空学者との面接だ」ロブが頷きながら、僕らを見回した。
「もっとも彼らとて、確実な手段があるわけではないと、市長もおっしゃっていたから、期待はできないのだろうがね。だが、希望は持っていよう。どんなところへ帰るか、それはわかっている。それでも、おまえたちは帰りたいんだな」
「ああ」
「そうか。僕もそうだ。十一年というのは、かなり長い年月だ。その間にいろんなことができるだろう。それに、それですべてが終わりじゃない。助かる人だっているわけだ。でなければ、それから未来の世界なんて、あるわけがないんだからな。この新世界が存在するということは、言ってみれば絶望の中の希望なんだよ。これ以上は、何も考えないほうがいい。さあ、もう寝よう」
「ああ、そうだね」
 僕たちは交代でシャワーを浴び、寝間着に着替えてベッドに入った。あとでわかったことだが、この枕の中には脳波センサーと特定周波数のウェーヴが発信される装置があって、それが眠りを誘うらしい。それは睡眠薬などと違って、自然な仕組みで誘導されるので、脳に害は及ぼさないという。枕に頭を乗せると、自動的にその睡眠誘導波が十分ほど発信されるようだ。ただその装置にはタイマーが内蔵されていて、夜の間しか働かない。夜の十時から朝の六時まで。だからそれ以前に寝ても、十時になるまで眠れなかったわけか。もっともエアリィは『え? 九時前に寝たけど』と、きょとんとしていたが、彼は自力で眠れている、唯一の例外か。他のみなはやはり、僕と同じようなことを言っていた。
 夜十時、ここでは二二時になって、すでに重みを感じ、なおかつ脳波が睡眠波形になっていない場合は、すぐ誘導波が発砲されるらしい。だから、その時間になると眠っていたわけだ。夜中にトイレなどで起き、再びベッドに戻って枕の上に頭を乗せると、また睡眠誘導波が十分間だけ出てくるようだ。同じく枕の上で十五分以上覚醒状態だった場合も、誘導波が出てくるという。だから途中で起きてしまって寝つかれない、なんていう事態も起こらない。ここの人たちは、不眠症とは無縁というわけだ。この装置は、僕にとって非常にありがたかった。余計なことを考えないで、すぐに眠れるのは、ここでは大きな救いだから。それは他のみなも、きっとそうだろう。その晩ももう十時になっていたので、何も考える暇もなく、すぐにぐっすりと眠った。あの最初の晩以来、はっきりした夢すら見なかった。




BACK    NEXT    Index    Novel Top