The Sacred Mother - Part1 The New World

第二章   異邦人(4)




 得体の知れない深い衝撃を感じて、僕は目覚めた。クリーム色の天井が近くにある。同じ色の壁と、ベッドの横にかけられた茶色のカーテンが見えた。最初は何の感情も起きなかった。自分がどこで寝ているのかすら、思い出せない。どこかのホテル? いや――。
 僕はゆっくりと起き上がった。ぐっすりと寝たせいだろう、疲労感は消えている。天井にくっつきそうなほど大きく伸びをしてから、僕はじっと眺めた。このベッドは──静かにカーテンを開け、小さなハシゴをつたって、床におりてみる。この部屋は──記憶がよみがえり、つながった。僕はまだここにいる。
「まだ、夢が終わっていないのか……」
 ソファにどんと座りながら、そんな呟きが漏れた。失望と苛立ちを感じた。いつになったら、目が覚めるのだろう。これだけ寝ても、まだ夢が覚めないなんて。考えたくはないけれど、もしかしたら本当に、これが現実なのだろうか――。
「ジャスティン……」小さな声がして、ロビンが僕の下段のベッドから出てきた。
「まだ起床時間より前だよ。君も早く目が覚めたの?」
「ああ、まだ七時半か」僕は時計に目をやって、頷いた。
 長い寝間着を着て近づいてくるロビンの姿を見ると、一瞬今の状況を忘れて、思わず吹き出しそうになる。でも、僕の隣に腰掛けて振り向いた彼の顔は、悲壮なほど真剣な表情をしていた。
「夢じゃなかったんだね」ロビンは小さくつぶやいた。
「まだわからないさ」自分の声は、どこかうつろに響いた。僕は首を振り、付け加えた。「でも残念ながら、夢じゃないって言う可能性が、ずいぶん高くなったな」
「うん。すごくがっかりしたよ」
「僕もさ。でも、夢じゃないとしたら、ここはいったいどこなんだろう?」
「ニューヨークじゃないの?」
「それはわかってるよ。でも、どこの世界のニューヨークなんだろうな」
「パラレルワールドかな?」ロビンは首を傾げた。「僕の読んだSF小説にも、そんなのがあったよ。自分たちが生きているのとは、違う世界が存在するって。別のタイムラインにある世界……平行世界が」
「これもその一種か? だけど、仮にそうだとしても、どこで分岐しているんだろう。今の僕たちの地球と同じ年代にしては、科学が発達しすぎている気がするし」
「平行世界じゃないとしたら、ここは未来世界なのかもね」
 ロビンはしばらく考えるように黙ったあと、天井に目をやった。
「僕、朝早くに目がさめて、まだここにいるってわかってから、ずっと考えていたんだ。これが夢じゃないのなら、この世界はなんなんだろうって。そう思ったら、未来だっていうのが、一番妥当な考えに思えてきたんだ。平行世界の未来かもしれないけれど、少なくとも、ここは僕たちがいた世界じゃない。それだけはたしかだし」
「そうだな……」
「でも……この世界は……とても恐ろしい未来世界かもしれない。そうも思えてきたんだ。ほら、ここに来る途中、ずっとすごい草原ばかりだったでしょう。それに、昨日くれた検査の紙……この日付の年号……紀元が違ってる。考えているうちに、恐ろしい仮定が出てきちゃたんだ。ひょっとしてこの世界は、過去になんらかの形で世界が滅びたあとに、できたんじゃないか。この新しい紀元は、その時を起点としているんじゃないかって」
「ええ? おまえ、それって、考えすぎじゃないか? SFの読みすぎだ……」僕は言葉を飲み込んだ。言われてみれば、たしかにそういう可能性も否定できない。あの大草原、断崖絶壁の海、クレバスのような川、巨大なバッタ、アトランタもフィラデルフィアも、ワシントンDCさえも存在しないアメリカ。人口一万人そこそこの小さなニューヨーク――たしかにありえる。そう思ったとたん、身体が冷たくなった。
「そんなバカな! 仮にそれが本当だったとしても、今はいったい、いつなんだよ。それに一回滅びるって言うのは、いったい、いつのことなんだ!?」
「そんなことは、わからないよ。本当に、僕の考えすぎかもしれないし。それに僕らの世界の延長上の未来かどうかも、わからないし。でも、もしここに長くいることになったら、きっとだんだんわかってくるよ」
「冗談じゃない。長くなんて、いてたまるか! 帰らなきゃ。ニューヨークのステージは、どうするんだよ! MSGは!」大声を上げてしまってから、はっと我にかえった。そんなことを言っても仕方がない。「ごめんな、怒鳴ったりして」
「ううん。いいんだよ、ジャスティン。僕らみんな、まだ混乱しているんだよね」
 ロビンは首を振り、僕たちはしばらく黙った。

 ドアがすうっと音もなく開き、昨日見た(たぶん同じだろうと思う)マネキンのようなメイドロボットが入ってきた。片手に抱えた青いバスケット(スーパーにあるものと同じ感じだが、二回りくらい大きい)の中から洋服の束と、ビニールらしいものでパックされた六つの包みを取り出し、テーブルの上に置いている。
「お目覚めでしたか。おはようございます。着替えを持って参りました。それと一緒に、昨日皆様からお預かりしましたものを、お返しいたします」
「はい。おはようございます」相手はロボットでも、やっぱり習慣なんだろう。僕はそう挨拶を、しかもつい丁寧に返した。
 彼女は品物を出し終えたバスケットを床に置いた。そしてもう一つの手に持っていた青い板のようなものを広げた。折り畳み式のようだ。こちらも同じようなカゴになった。
「あなたがたの持っておられる衣服をすべて、この中に入れておいてください。朝食を持ってくる際に、回収しますから。他の皆様にも、そうお伝えください」
「あの……全部ですか?」僕は聞いた。
「はい、そうです」
「ここでは、僕らは自分の服を着てはいけないんですか?」
「こちらの服装に着替えてください。ここに持ってまいりましたので。シンプソン様からのご命令です。ご了承ください」
「……わかりました」
 ロボット相手に議論をしても、しかたがない。僕はため息をつき、肩をすくめた。
 メイドロボットは僕に目を向けた。カメラの目がその姿をチェックしたようだ。
「あなたのその服も、脱いでこのカゴの中に入れてください。今夜からは、昨日用意しました就寝着でお休みください」
「わかりました」僕はなんとなく叱られたような気分になり、微かに肩をすくめながら答えた。「じゃあ着替えますから、その前にシャワーを浴びたいんです。できますか?」
「シャワー室は洗面所の左側にあります。使い方はわかりますか?」
「いいえ」
「では、ご案内します。こちらへ」
 洗面所の左側の壁はシャワー室のドアだったのか。洗面所のドアと違い、壁と同じ色だったので気づかなかったが、良く見ると、右側に小さな銀色のボタンがついている。メイドがそこを押すと、ドアが開いた。中はクリーム色のタイルを敷きつめた、普通のバスルームより、かなり狭い部屋だ。手前に薄い緑のプラスティックで出来た四角いかごが置いてあって、その向こうにクリーム色のバスタブらしきものが、縦に壁にはまっている。
「入る前に、この調整パネルを確認してください。湯温と強弱、洗浄剤の量、シャンプーをするかどうかを設定します。シャンプーをしない場合は、この下にヘッドカバーが入っていますから、それを被ってください。それが終わりましたら、服をすべて脱いでこの中に入り、こちらの赤いボタンを押してください。洗浄中は、目を開けないように注意してください。ヘッドカバーを使った場合は、元に戻してください」
 まさに機械的な口調で、彼女はそう説明した。僕は調整パネルに触れ、もう一度教えてくれるように頼み、ようやく納得した次第だった。

 アンドロイドのメイドが部屋から出ていってしまうと、ロビンと僕は顔を見合わせた。
「じゃあ、とりあえず、シャワーを浴びよう。助かったよ。昨日川を渡ってから、身体がべとべとして仕方がなかったんだ。髪もごわごわになったし」
「塩水だったものね。僕もそうだよ。でも、どの服に着替えたらいいのかな?」
 僕らはテーブルの上に置かれたものを見た。六個の包みは、僕らも知っている、透明なジップ付きビニール袋のようなものだ。袋には名前が書いてあったので、僕は自分のものを取り、中身を改めた。下着類と靴、それにズボンが入っていた。昨日シンプソン女史に渡した免許証やパスポートも、小さなジップ付き袋の中に入っている。トランクスとブリーフの中間のようなデザインの下着と、白いアンダーシャツ、それに靴下は二組ずつ用意されていた。それに、濃い灰色の細いズボンと。上着の方はそれとは別に、束になっておかれている。全部同じサイズで、色はグレーが濃いのと薄いのと二着、茶色系が同じく濃淡で二色、灰色がかった青、くすんだ緑。地味な色ばかりだ。どれも無地で、襟もないし縁飾りもついていない。サイズは均一なので、好きに選んでくれということなのだろうか。そうなると早い者勝ちだ。僕はモスグリーン、ロビンはベージュを選び、交替でシャワーを浴びた。
「君から先にどうぞ」と言われたので、僕が最初にバスルームに行ったけれど、これも奇妙な体験だった。パネルで温度と勢い、洗剤量を調整し――お湯の温度は摂氏で設定、勢いは弱から強まで五段階ほどあり、洗剤量もゼロから多めまで六段階ほどある。僕はすべて標準に設定し、髪も洗いたかったので、シャンプーはありにした。服を脱いで、立てたバスタブの中に入り、内壁についている赤いボタンを押すと、すうっと板がおりてきて前がふさがった。と同時に、いきなりなま暖かい液体が四方八方から、かなりの勢いでぶあっと吹き付けてくる。『目を開けないように』と言われたことを思い出して、あわてて目を閉じた。でも、少々遅かったようだ。少し目に入ってしまったらしい。痛い。でもこの中は狭すぎて、手で目を拭うことすらできなかった。
 やがてシリコンのような柔らかいもので、頭皮を揉まれる感じがした。それが終わると、細かいブラシのようなものが頭をなでていく。両脇にやわらかいボールのようなものが当たる感触がして、身体に当たる水流も強弱をつけて、ぐるぐると渦を巻いているような感じがした。その間、僕は目の痛みを我慢するしかなかった。やがて頭に何も触れなくなり、両脇のボールも引っ込んだ。水流も普通の感じになった。いちかばちか、僕はそこで目を開けてみた。いや、まだ少し早かった。洗剤を含んだ成分が、頭から流れ落ちてくる。僕はあわててまた目を閉じ、しばらく待ってから、もう一度あけた。ようやく普通のお湯を感じた。やっと、しみるのが治った。やがてお湯が止まり、ふあっと暖かい、乾燥した空気が吹き付けられてくる。これも頭の部分は強めで、そのほかはふわりとしたやわらかい気流だ。身体がすっかり乾いたところで自動的に止まり、透明板が開いて終了。時間にして全部で五分くらい。髪の毛から爪先まで、すっかりきれいになったらしい。たしかにさっぱりした。でも、なんだか自分が洗濯物にでもなったような気分だ。
 脱衣室で、パックごと持ち込んだ新しい洋服に着替えた。ランニング型のシャツやハーフトランクス、靴下とボトムスは寝間着と同じような素材で、着心地はなかなか良いし、サイズもまるであつらえたようにぴったりしている。上着は少し光沢のあるしっかりした生地で、ラグラン袖になっていた。でも引っ繰り返してみても、縫い目がない。切り替え線が表にあるのに、どうなっているのだろう。そういえばここの服は下着も寝間着も、縫い目がなかった。襟はなく、ラウンドネックで、胸の辺りまで切込みがある。そこから頭を通してかぶり、袖を通す。胸の切込みから下着が見えるけれど、まあ、仕方がない。袖は少し短めで、胴回りはかなりゆるく、丈はお尻の真ん中くらいだ。
 緑は僕の好きな色だし、僕の目の色でもある。髪や肌の色との調和も悪くはない。でも、どうせならエメラルドかペールグリーンが良い。ミントグリーンでも悪くはない。こんなくすんだ色は、あまり好きじゃない。でも、文句も言えない。靴はここの人たちが履いている、白いバレーシューズのようなやつだった。
「標準で、頭を洗うんだったら、設定は変えなくていいぞ。それからボタンを押したら、すぐ目を閉じろよ」と、注意を与えて、ロビンと交替した。

 ソファに腰を下ろしてまもなく、キャビネットの中に置かれたディスプレイのライトが点灯し、アラーム音が部屋中に響いた。八時だ。それは耳障りではない柔らかいトーンで、リンゴーン、リンゴーンと鐘が鳴るような響きだけれど、目覚ましには十分効果があるらしい。他の四人も、それで目を覚ましたようだった。
 最初にベッドから降りてきたのはエアリィで、僕を見ると苦笑してちょっと肩をすくめ、首を振った。「すっごく良く寝た感じだけど、起きた時、一瞬えっ、て思った。まだ、ここなんだね」
「ああ……」僕も苦笑して頷いた。
 続いて起きてきたロブは、困惑しきった表情でため息を一つつき、「まだなのか……」と呟いていた。ジョージはむっとしたような顔で何も言わず、ミックも失望したように肩をすくめただけだった。
 朝食時間までに、全員のシャワーと着替えが終わった。上着はロブが濃いグレーでジョージが明るい灰色、ミックが濃い茶色でエアリィが青灰色だ。まあみんな、地味だけど似合う色に落ち着いたと思う。ただ寝間着もそうだけれど、六人とも体型がバラバラなのに上着が均一サイズというのは、結構滑稽な結果になる。僕には横幅が少し大きく、長さは少々短い。つまり、身長百八十センチ前後、体重は七十キロ台後半(ここはメートル法採用のようだし)くらいの人を標準として作られた服のようだ。だから僕は一番違和感がなく着られるほうかもしれない。でも小柄な二人にはかなり丈が長くなってしまうし、身幅もあまる。ロビンよりも幅がなく、今のところはまだ身長もないエアリィに至ってはフレアが出てしまい、しかもワンピースのような丈で、「これじゃ、本当に女の子だ!」と、全員にからかわれる始末だ。まだラグラン袖だから救いだが、かなり肩も落ちてしまうし、袖も二回ほど折り返さないと手が出ない。本人も元々ゆったりした服は好きらしいが(大きめのトップスに少しタイトなボトムスは、彼の定番ファッションだ)、さすがにここまで来るとたぶだぶ過ぎて、大きいお下がりを無理やり着せられた女の子のようにしか見えない。逆に身長は合っていても標準以上に横幅のあるミックは、まるでTシャツを着ているようだし、筋肉質のジョージもかなり身体にフィットしていた。
 一通り全員の身仕度が終わった頃、朝食が運ばれてきた。白いトレーの上に、ロールパンが二つ、四角い形に焼いたオムレツ、砂糖のパックが別についた暖かいミルクコーヒー、ドレッシングのかかったレタスとトマトのサラダが、ナイフとフォークと一緒にのっている。おかわり用のパンが入ったカゴと、バターとジャム、マーマレードの壷までついていた。昨日の乾パンと豆は特別食だと言っていたから、これがきっと普通の食事なのだろう。少しほっとした。前から食べていたものと、ほとんど同じだ。
 九時十五分ごろ、同じメイドさんが(どのロボットも服の胸のところに白いタグが縫い付けられていて、そこに番号が入っている。このメイドさんの場合は、NYA0122だ。そのことに朝気づいた僕は、もう一度見て確認していた)お盆を下げにきて告げた。
「十一時三十分から、アンダーソン市長が、みなさんにお会いになるそうです。五分前に面会室までお連れしますから、それまでここでお待ちください」と。
 ああ、今日も一日、どうなるのだろう。また検査だの尋問だのを受けるのだろうか。この世界のことが、少しはわかるのだろうか――。

「なかなか、夢が覚めないな」ジョージがソファに身を投げ出しながら、いらだったように口を開いた。
「そういえば昔の中国の話に、こんなのがあるんだ」ミックが考えこむような口調で話している。「ある哲人が、自分が蝶になった夢を見たんだ。その夢があまりにリアルだったから、目が覚めて、はたして今のは夢だったのか、それとも本当は、自分は蝶で、今人間としている夢を見ているんだろうかと悩むんだ。なんだか今の僕らは、それに似ている気がしてね。今僕らは夢を見ているのか、もしこれが現実なら、今までのことが夢だったのか……」
「これが現実だなんて思いたくないな……」僕は頭を振り、ため息をついた。
「でも、これが現実だったとしたら、今までのことのほうが夢なのか……僕もそんな気がしてるんだ。でも、それを認めたくない」
「そうだね、ジャスティン。僕も同感だ。ここに来て、自分の認識に疑問を持つようになったよ。これが現実でないなら、これまでの自分たちもひょっとして現実ではなかったのかもしれない。僕もなんだか、わからなくなってきているんだ」ミックは見えない出口を探すように、壁に目をやっていた。
「もしこれが夢なら、あの窓から飛び出したら、空飛べるかな」エアリィは窓の方を見ながら、あっさりとそんなことを言う。
「本当にやるなよ! 夢じゃなかったら、確実に死ぬから」僕は思わずけん制した。ジョージも同じように思ったらしく、ほぼ同じことを同時に言っている。
「言っただけだし。やるつもりはないけど。やばそうだし」
「あたりまえだろ!」
 そう言う僕たちを見、エアリィは小さく肩をすくめた。「ってか、どうして二択になるのか、僕にはわかんないんだけど。今までの僕らも現実だし、これも現実っていうのも、ありなんじゃない? 現実の中にちょっと超常現象が入っちゃったのか、結局夢オチになるのか、今のとこはわかんないけど。でも、僕らの今の感覚はリアルだから。だからって、今までがリアルじゃなくなるっていうの、わからないな」
「まあ、それはそうだが……そうじゃないんだ。今までの僕らも、たしかにリアルだったかもしれないけれど、ここから元の僕らの“現実”に戻れると思うか? もしこれが本当に、今の現実だったら。そういう点で、今までのことがリアルじゃなくなるっていうんだよ。これが現実だと認めてしまったら」僕は首を振るしかない。
「でも否定したって、結果は変わんないと思うな」
「それはそうだがな……」でも心境的には、なかなか思い切れないんだよ。そう僕は心の中で付け足した。僕らの“現実”を、今は受け入れるしかないと、わかってはいても。  昨夜と同じように、ドアは中から開けることができないので、僕たちはただそこにいるしかなかった。キャビネットの中に置いてあるパソコンのような機器に触ってみる気も起こらず(いつものごとく、エアリィだけは触ってみていたが、「あー、これIDとパスないと、全然動かない! ここでハッキングはやばいし……無理か」と、あきらめていたようだ)、この状況では、いつものようなおしゃべりは期待すべくもなく、時間が流れていく。窓から見える空は灰色がかり、妙な具合に見えた。霧状の透明なものが、はるか上空をちらちらと光って流れ落ちている。
「もしかしたら、これは……」僕はつぶやきかけ、
「うん、雨だよ。街の外じゃ、雨が降ってんだ、きっと」エアリィが空を見上げながら、言葉を引き取るように言う。
「ああ……」僕は驚きを含んで頷き、じっと空を見上げた。ここは本当にどんな世界なんだ?

 やがて、ドアがすっと開き、再びメイドさんが入ってきた。十一時二五分だ。
「みなさま、ご案内いたしますから、こちらへどうぞ」
 僕らは無言で彼女の後について部屋を出た。外にはもう一人別のアンドロイドがいて、(こっちは銀色の金属製で、緑の服の胸にNYB0198というタグが付いている)僕らの後ろからくっついてくる。逃げられないようにいうことだろうか。でも抗う気なんて、元からありはしなかった。
 エレベータで二五階に上がり、渡り廊下を通って、隣のひときわ高い白亜のビルへ行き、さらに三五階まで上がる。鈍い光沢を放つ大きな銀色のドアが開くと、中は広い応接室のような部屋になっていた。壁や天井は光沢のあるベージュ色で、毛足の長い金茶色の絨毯が敷かれ、モスグリーンのビーズクッションのようなものが八つくらい、ガラス張りの丸テーブルのまわりに置かれている。向かい側には木製の大きな机と、肘掛のついた大きな椅子があり、長さが一フィートほどで、高さはその半分くらいの銀色のボックスが、机の上に乗せてあった。壁の一方は大きな窓で、金茶色の濃淡模様のカーテンがかけてある。透明な窓ガラスの向こうに、町の風景が見えていた。背の高いビルがいくつか、その向こうに公園らしい緑が広がり、その後ろにはクリーム色の集合住宅のような建物が整然と並んでいる。
 座っていいものかどうかわからなかったので、そのままそこに立っていた。アンドロイドたちも、僕らの両脇に立ったままだ。
 まもなくドアが開いて、男の人が入ってきた。五十代後半くらいの年配で、五インチほどの長さにそろえられた茶色の髪には、かなり白いものが交じっている。背の高い、均整のとれた体つき。眉がかなり太く、ちょっと鼻が大きいが、彫りの深い整った顔立ちで、若い頃は結構ハンサムだったのではと思われる顔だ。その人は白い上着に、深い紺色のズボンをはいている。上着やズボンの裾には、金色のラインが一本入っていた。彼の後ろには、男性と女性が一人ずつ付き従っていた。男性は三十代半ばくらい、女性はもう少し若く、二人とも紺色の上着と黒のズボン姿だ。秘書だろうか。
 最初の男性は僕らの前で立ち止まり、一瞬じっとこちらを見た。その表情は、昨日会った人たち、シンプソンさんや検査室の女性の視線に、どこか似ている。そして次の瞬間、表情がふっと緩んだ。
「やあ。そこの椅子に座りたまえ」その人は気さくな調子で言うと、自分は机の前の大きな椅子に腰かけ、連れの二人も、その両側のスツールに腰を下ろした。僕は緑の丸いクッションの上に、いくぶんおずおずと腰を下ろした。たしかに椅子だ。しかもかなり座り心地がいい。当たりは柔らかく、身体はしっかり支えてくれる。僕たちがみな腰を下ろすのを見てから、その人は手を振って、二人のアンドロイドをドア際に下がらせた。
「大丈夫だ。いくぶん不自由な思いをさせたかもしれないが、私たちも君たちの正体がわからなかったし、君たちがどう言う行動に出るのかも予測できなかったので、軟禁状態のようにしてしまった。すまなかったね」
 その言葉に込められた誠意を感じ、僕の心は少しほぐれていった。
「私はジャーヴィス・アンダーソン。ニューヨーク市長だ」
 えっ、ニューヨーク市長は、そんな名前の人だっただろうか。一瞬そう思いかけ、ああ、そうか、と次の瞬間、納得した。ここは少なくとも僕らの世界じゃないんだ、と。
「とはいっても、君たちの時代では違うニューヨーク市長がいるんだね。君たちは市民ではなかったそうだが」相手はこちらの心中を見透かしたように、にやっと笑った。
「あ……はぁ」僕たちは顔を見合わせ、間の抜けた返事をした。
「君たちも混乱していることだろうね。不安にも思っているだろう」
 アンダーソン氏は青灰色の目に同情の色を覗かせながら、僕たちを見た。「無理もないだろう。ここは君たち旧世界人から見れば、きわめて異質の世界だ。我が新世界は」
「えっ?」旧世界? 新世界? ここは新世界? どういう意味だ? 僕らの北アメリカ圏もヨーロッパと対比して、新世界と呼ばれたことがある。でも、ここは――?
「でも、驚いたのは、君たちだけではないよ。科学検査部が決定的な証拠を私たちに突きつけるまで、実際のところ我々も半信半疑だった。不思議だね。不思議なことだ。そうとしか、言いようがない」
「あの……どういうことなのでしょうか」ロブが少し掠れ気味の声で問い返している。
「君たちは、我々の時代には属していない。それが、治安維持本部が各都市のセンターに問い合わせて、出した結論だった。君たちの指紋やDNAパターンを世界中の人たちと照合してみても、該当がなかったからね。君たちは二一世紀初頭に生きていると言っていた。科学検査の結果、その言葉に嘘はないことが証明された。時代知識も正確だ。もちろん文献を調べれば、わかる知識もあるだろうが、少なくとも一般の人たちが知ることの出来る知識以上に、君たちは知っていた。君たちは誰も、嘘は言っていない。精神分析の結果も、どこにも異常は見当たらない。みんな、ごく健全で正常な若者たちだ。君たちのDNAパターンには、みんな共通して、この世界にはない特徴がある。さらに今朝回収された君たちの乗り物も、旧世界のものだということが確認できた。君たちの風俗にしてもね。私たちは朝一番で緊急会議を開き、こう結論したのだ。どうしてそうなったのかはわからないが、君たちは私たちの時代にやってきた、過去からの訪問者なのだとね」
「過去からの訪問者……?」僕は、呆然とした口調でそう反復した。それ以上、何も言えなかった。
「もしそれがホントだったら、今は……いつなんでしょうか?」エアリィがいつもの彼より少し緊張しているようなトーンで、そう尋ねていた。無理もないだろう。そしてこれは僕も知りたかったが、怖くて口に出せなかった質問だった。
 アンダーソン市長は少し黙った後、静かに口を開いた。「今は新生紀元の二四八年。と言っても、君たちにはピンとこないだろうね。世紀数で言ったほうがわかりやすいな。今は二四世紀だ。君たちの時代より、ちょうど三三〇年先の未来になるわけだよ」
「二四世紀……三三〇年先の未来?」
 僕は呆然と(おそらく僕らの誰もが)、言われた言葉を反復した。それは最初、何の意味も持たない不思議な言葉のように響いた。次に繰り返した時、やっとその意味が、じわっと胸にしみ込んできた。
 三百年以上もの未来! あの光のトンネルは、タイムホールだったとでもいうのだろうか? 僕たちは時間を超えてしまったのか。現実には起こるはずもないと思っていた、不思議な力で。こんなことがありえるのか? それともこれはやっぱり、とんでもない夢なのか。でも、いつまでも夢が覚めなかったら、これが本当に現実なら、僕たちはいったいどうなるんだ? もとの世界に帰れる見込みはあるんだろうか? それとも、このままここに留まらなければならないのか? この世界で暮らすことになるのか? 残りの人生を――いやだ! 絶対に嫌だ! こんな世界に、いつまでもいるものか! ここには僕たちが馴れ親しんだものは、何一つない。一緒に来た五人の仲間以外に、知っている人も誰一人いない。僕らの家族も恋人も、夢も、この世界には存在しない。
 べったり座りこんで泣きたかった。頭を床に打ち付けて、叫びたかった。目が覚めろ! この忌まわしい現実よ、去れ! 僕をもとの世界に連れ戻してくれ! この期に及んでも働いている自制心さえなかったら、僕は本当にとり乱して、暴れていたに違いない。でも実際にしたことは、椅子に座ったまま、骨が白く浮き出るぐらいぎゅっと手を組み合わせ、身体の震えを止めようとしただけだった。他の五人の反応を見る余裕はなかったが、たぶんみんな同じだろう。
「君たちにとっては、とんでもない現実だろうね」アンダーソン氏は僕たちをじっと見守っていたようだったが、やがて穏やかな口調で口を開いた。「しかし、現実は現実だ。目をつぶることはできないよ。受け入れなければね。もっとも、私たちがその事実を受け入れるのと、君たちがそうするのとでは、心理的な抵抗に大きな差があるだろう。君たちには、失うものが多いだろうからね。少なくとも、今の段階では。だがどんなに辛くとも、ただ否定するだけでは、何も進歩はしない。たとえそれがどんなに受け入れがたいものでも、現実は現実として認めなければならない。君たちは今、二四世紀の未来世界にいる。夢ではなく、現実に。そう認めることだ。そこから、すべてが始まるのだからね」
 そうだ。とにかく現状をはっきり認識しなければ、認めなければ、先へは進めない。辛いけれど、たしかにアンダーソンさんの仰っていることは、本当だ。僕たちは自分の世界から、ほとんどすべてのものから切り離されて、遠い未来にいる。それを認めた今、これから僕たちがすべきことは、なんだろう――?
 沈黙を破って、エアリィが小さく首を振りながら、再び質問を発した。
「すみません。それを認めて……次に考えることは、僕たちはこれから、どうなっちゃうのかなってことなんですが……二択には、なれるんですか? ここにずっといるのか、それとも元の時代に戻れるのか」
「うーん、それは今のところわからないとしか、答えようがないね。たぶん選択肢はないのだろうと言った方が、無難なのかもしれないが」市長は少し肩をすくめてから、穏やかに微笑して答えた。「この世界にも、いわゆるタイムマシンはないからね。宇宙や時空間を研究している科学者たちはいるけれど、たぶんその分野においては、君たちの時代から、ほとんど進歩はしていないだろう。と言うより、今の技術力では、それ以上の検証は困難なのだ。だから、残念ながら私たちには、君たちを確実にもとの時代へ帰してあげられる方法はないんだよ。時空科学者たちは、君たちに面接してみたいと言っているがね。どういうメカニズムで、時間旅行などという禁断の扉が開いたのか、彼らは興味津々なのだ。無理もないことだが。主任教授のパストレル君は、こんな奇跡が起こりえるなら、何かこの禁断の領域についての手掛かりが得られるのではないかと言っていたが。だがそれは起こった事象の検証であって、それ以上にはならないだろう。しかし、心配はしなくともいい。諸手続きと科学者たちの面接がすべて終わったら、君たちをこの世界の市民として登録し、生活の保障をしてあげるよ。君たちが望むなら、勉学に励んでもいいし、職業についてもいい。ここで新しい人生を開くんだ。それも、決して悪い道ではないよ。この世界は君らの時代より、はるかに住みやすいからね。我々は喜んで、君たちを受け入れる準備がある。きっと、ここで幸福になれるさ」
 たとえいくら住みやすくとも、その答えはまったく嬉しくない。市長さんは僕らに対し、好意的だ。この世界も――なんとなく、それは感じる。それに受け入れ体制が整っているなら、安心とは言えるのだろう。でも、ここでずっと残りの人生を――六十年近くも過ごすのだけは、絶対にごめんだ。そんな思いしか感じられなかった。
「お気遣い、ありがとうございます。それで……閣下、一つ気になることがあるのですが、質問してよろしいでしょうか?」ミックが沈黙の後、口を開いた。
 アンダーソン氏が頷くと、問いが発せられた。これも聞きたかった質問だ。
「小さなことかもしれませんが、なぜ、この世界は西暦ではなく、NAという新生紀元を使うのですか? 世紀だけは通暦で、紀元が新しいのは、なぜなのでしょうか?」
「いや、小さなことではないよ。鋭いところをついたね」
 市長は苦笑に近い笑みを浮かべた。「でも、それを知ることは、君たちにとってショックではないかな……いや、もしここに長く暮らすことになれば、どうせ知らなければならないことだね。教えてあげよう。私たちは、この世界を新世界と呼び、君らの時代を旧世界と称している。ある時点で古い世界が終わり、新しい世界が始まったからだ。君らの文明は終わり、新しい世界が再生した。その時、私たちの先祖は昔からの西暦をやめ、新生紀元を採用したんだ。新しい文明、新しい世界の旅立ちを記念してね。ただ、以前からの脈絡を失わないために、世紀だけは通暦を使うことにしたのだよ。新生紀元元年は、西暦では二〇九二年にあたる」
「僕らの文明が終わった……?」僕は再び茫然と反復した。何人かが、同じようにしているようだ。
「君たちは現在地球上の総人口が何人か、知っているかね?」
「いいえ……」
「そうだろうな。教えてあげよう。だいたい二万二千人だ。この広い地球に、それだけの人間しか住んでいないんだよ。このニューヨーク市が一番大きくて、九千人ほどいる。百年ほど前に首都移転をした結果だ。最初に百体の建築用ロボットを送り、約三十年かけて、まっさらの土地の上に一から、この都市を築いた。そして百人乗りの大型シャトルを三台作り、十数回往復して、四千人ほどがオタワからここまで来た。それから百年の間に子孫が増え、新たに移住してくる人も増えて、今の規模になったんだ」
「オタワから?」
「ああ、新世界最初の都市は、オタワ市なんだ。我々の先祖たちは、そこに二百年ほど住んでいた。今も、あそこには五千人あまりの人が住んでいる。そして五十年ほど前にトロント市を復興させ、今は三千五百人前後の人がいる。モントリオール市は三十年前に復興され、今の人口は二千四百人ほど。そして十年前に、ボストン市が復興された。あそこはまだ、千五百人にも満たない小さな町だが。あとは、すべて人のいない荒野だ。ロボットの調査でも、それは証明されている。地球上のこのエリアにしか、人間はいないんだ。君たちの時代には二百以上の国家があって、七十億人以上の人間がぎっしり住んでいたという。歴史の文献も、そうなっているね。だが現在はこんな状態なのだ。これが何を意味するか、わかるかね?」
 身体中の血が、さあっと引いていくような気がした。そうだ、今朝ロビンが言っていたことが答えなのでは。人類がなんらかの災害で一度滅びかけ、そこから再生した世界が、ここなのだと。それにしても、世界人口が二万二千人――この広い地球上に、ドーム球場の定員たった半分足らずの人しか、いないなんて。新紀元の年数から察すれば、再生してから二五〇年近くたっているというのに。いったい、生き残ったのは何人なのだろう? その災害、災厄はどういう種類のもので、いつ起きたのだろう。新生紀元元年という、二〇九二年なのだろうか? そうだとすれば、僕らの生きていた時代から、八十年以上先の未来。寿命予測だと、僕はもうその時には、死んでいる。
「詳しいことは、歴史学者のゴールドマン君から聞くといい。彼は君たちにとても興味をもち、ぜひインタビューをしたいと言ってきたんだ。無理もないね。彼にとっては、君たちは旧世界の生き証人なのだから。明日から三日間アポイントをとってあるから、研究が終われば、詳しい事実を説明してもらえるだろう」
 アンダーソン氏の声で、僕は我に返って頭を上げた。
「では、君たちにはこれから昼食をとって、一休みしたら、午後いっぱい、機能テストを受けてもらうとしよう。生理学者たちも興味をもっていてね。君たちも何かしていたほうが、気がまぎれるだろう」

 面接室を出た僕たちは、二人のアンドロイドたちに導かれ、再びもとの部屋に帰った。まもなく、昼食が運ばれてきた。パスタとサラダ、野菜と鶏肉のケチャップ煮のようなものと、ミルクティーというメニューだ。昼食タイムが一時間ほどあって、その後、再び迎えがくる。今度はこの同じビルの地階にある、広いジムのような場所に連れていかれ、一人ずつ別々の部屋で、運動能力と知能テストが待っていた。それぞれ生理科学者が二、三人ずつ付き添っているようだ。機械を使って科学的正確さで行われるという以外、やっていることは僕たちの時代のものと、あまり変わりはない。次から次へと知的な、もしくは体力的な課題を科せられて、それをどんどんこなしていくことは、さっき聞いた話から僕たちの注意をそらせ、ことの深刻さをあまり考えないですむのに役に立った。
 でも夕食後は何も予定がなく、その時間がひどく重く感じた。何かやっていたい。たとえ検査でも面接でもいいから。ここにじっと座っていると、事実の重みにつぶされそうになってしまう。僕たちは夜八時半まではソファに座り、ポツリポツリと断続的に会話を交わしていたが、それからすぐに自分たちのベッドに引き取った。
 僕はここで支給された寝間着に着替え、寝転んでじっと天井を見た。何も考えられない。涙が出そうになって、慌てて枕に顔をうずめた。昨日と違って、まだ時間が早すぎるせいか、なかなか眠れない。部屋の時計が小さく九時のチャイムを鳴らし、やがて十時が鳴った。その音を聞いてまもなく、ようやく眠れたようだった。




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