The Sacred Mother - Part 1 The New World

第一章  プレリュード(6)




 電話が終わった後、ビュフォードさんは僕らを見回し、相変わらず嬉しそうな様子で、手にした書類をテーブルに広げた。
「マネージメントの契約が終わったら、ディストリビューションのレーベルとも、契約しないとね。カナダ国内は、うちは自主レーベルを持っているから問題ないが、他はね。メジャーレーベルからのオファーが、いくつか来ているんだ。コンテストの全国大会に、主だったところのA&Rは来ていたからね。君たちは州大会の頃から、かなり評判だったんだよ。交渉権は五つの音楽事務所が競合していた。社長が僕にくじを引かせたんだ。事故で生き残ったのだから、運があるだろうと言ってね。無事、一番くじを引き当てることができた。自分の運に感謝したよ。所属マネージメントが決まったら、その次はレーベル契約になるんだが、僕たちが仮契約を済ませた後、レーベルの担当者たちが寄ってきて、名刺を置いていった。君たちと契約をしたいから、よろしく、と」
「そうなんですか……本当に?」あまりにとんとん拍子に行きすぎて信じられない心地になっていた僕は、思わずそう問い返した。ジョージとロビンも、同じことを口にしている。
「ああ。全員そろわないと、どこのレーベルが良いかは決められないだろうが、一応目を通してみるかい? 有力なのは、この三社なんだが……」
 A、B、C──三社とも、相当大手だ。どこも、かなり業界に力のあるところでもある。契約金、というか、印税のアドバンスはBが一番高いが、あそこはアーティストにあれこれ口出しをすることでも有名だ。これはちょっと僕個人としてはパスかな。AとCは条件的に似ているが、更新条件はAが一番きつく、そのぶんCよりアドバンス割合も原盤比率も高い。でも僕個人としては、Aに一番惹かれた。理由は単純だ。僕が大好きな、そして目標としているバンド、このマネージメントの大先輩でもある、今は亡きスィフター。彼らが所属していたレーベルだったから。どうしてもAがだめなら、Cでもいい。他のみんなの意見も聞いてからでないと決められないが、たぶんみんな似たような意見だろう。
 それにしても……不思議な気分が、再び襲ってきた。音楽事務所でレーベル契約を、それも有力なメジャーレーベルのオファーを検討しているなんて、これは本当に現実のことなのだろうか。
「嘘みたいな話だよな、本当に」同じ思いを感じたらしく、ジョージもどことなく当惑したような表情で言っていた。「全国大会で優勝して、こんなに大きな音楽事務所に専属契約してもらえて、これだけ超メジャーレーベルからのオファーが三つだ。三つだぜ、信じられないな」
「いや、もう少し規模の小さいレーベルからのものをあわせれば、五つだよ」ロブ──ビュフォードさんは微笑した。「君たちは大スターになれる可能性を秘めている。多くの業界人がそう認めたのさ。それが現実だ。ひるまず進んでいこうじゃないか」
 ジョージとロビンは当惑と喜びの入り交じったような目線で、僕を見てきた。僕も彼らを見、笑おうとした。そうだ。これは夢ではなく、紛れもない現実だ。歓びと同時に、その現実が未来の重さにも感じた。
「僕もね、本当にうれしいんだよ」
 ビュフォードさんは、僕らのほうに身を乗り出してきた。「才能あるミュージシャンをこの手で花開かせてみたい、それが僕の夢なんだ。君たちに会ってその夢が実現しそうだと、本当に興奮しているよ」 「俺たち……期待に添えますかね」ジョージは苦笑を浮かべている。 「大丈夫。あとは君たち次第だ」ビュフォードさんは笑って頷いていた。そして再び僕たちを見回す。「さて、これで四人がOKか。実は君たちのバックグラウンドを調べた時、ストレイツ家もスタンフォード家もあまりに大物なんで、僕らはみな懸念していたんだよ。もし反対されて、妨害されたら逆らえないだろうと。でも両方とも理解のある家で、本当に良かった」
 ジョージとロビンは顔を見合わせ、苦笑しているようだ。
「ストレイツ君が来るのは夕方だろうが、あとは、ローゼンスタイナー君だけだね」
「そう言えば、エアリィ遅いな。早めに来て、エステルちゃんの幼稚園のお迎えまでには帰るみたいなこと、昨日言ってたんだが……お継父さんに反対されたのかな」
 僕が言うと、ビュフォードさんは懸念の色を浮かべていた。
「それだと、困るね。あの子は、まだ十三才だからね。来月で、やっと十四だ。まだ児童保護法年齢だから、君たちと違って保護者の同意がないと、契約できないんだ」
「ああ、そう言えば……」そうだ。同級生だから、エアリィの年齢をあまり意識したこともなかったが、十七の僕より三歳年下だ。十六才未満の未成年者の場合、契約には保護者の同意が必要だ。もしお継父さんに反対されたら、契約自体ができないわけか。
「もしステュアート教授が反対するんだったら、俺たちみんなで援軍に行くかな」
 ジョージは腕を組み、苦笑している。もちろん、その場合は僕も説得に行くが――。
「ステュアート教授っていうのかい、エアリィのお継父さん」
「去年ロードアイランドのブラウン大学から来た人って言ったら、その人だろ? 他にはいないからな。結構有名な人だぜ。俺は学部が違うが、講義を取っている奴によると、めちゃくちゃ厳しいらしいぜ」
 苗字が違うのか。そう言えば、エステルちゃんの苗字がステュアートだった。バンクーバーからトロントへ帰る時、うっかり落としてしまった彼女の航空券を僕が拾った時、そこに記された名前を目にしたから、知っている。エステル・F・ステュアート。

 エアリィは三時半を過ぎた頃、ようやくオフィスにやってきた。
「ごめん。遅くなりました」そう言った後、すぐにバッグから黄色い用紙を取り出し、ビュフォードさんに渡している。「承諾書です。継父さんの署名入りのやつ」
 その紙はバンクーバーで仮契約を済ませた後、マネージメントの社長コールマン氏から、「君にはこれが必要だから、保護者の署名をもらってきてほしいんだ」と、手渡されたものだった。
「お継父さん、許してくれたのか?」僕は問いかけた。
「うん。あっさり」エアリィは頷く。
「何も言われなかったのか? それってなぁ……逆の意味で、ひどくないか? いや、そんなこと、俺が言う筋合いじゃないが、でもな」ジョージが言いかける。
「どうして?」
「いや……そもそもお前に関心があるのか、って思っちまうんだよ。下種な勘繰りだけどな。気を悪くしたら、すまん」
「いや、全然。心配してくれて、ありがとう、ジョージ」エアリィはニコッと笑い、しばらく黙った後、続けた。「でも、違うんだ。継父さん、僕に関心がないわけじゃないよ。まあ、研究に没頭しちゃうと、周りに関心がなくなる人だけどね。昨夜は普通に家に帰ってきて、でも書斎にこもってたから話しそびれたけど、今朝エステルを幼稚園に送って帰ってきたら、起きてて。話したら、『そうなのか。そんな予感はしていた』って」
「……意外だな。おまえ、全国大会で優勝してオファーが来るまで、全然そんな気はなかったんだろ?」僕は問い返す。
「うん。だから不思議に思ってたら、母さんに言われたって、手紙を渡してくれた」
「おまえのお母さん? って、去年の六月に亡くなったんだろう?」ジョージが問う。
「そうなんだけど、その二か月前に、継父さんに言ったんだって。もし自分が死んだあとで、僕が芸能方面に行きたいって言ったら、渡してくれって。継父さんは、縁起でもない、と思ったらしいんだけれど、それに僕が血筋とはいえ、そっちの方に行くとはその時には思わなかったらしいんだけど――なんか、腑に落ちたって言ってた」
 微かに、背筋にちりっとしたものが走った。亡くなったお母さんは、自らの死を、息子の未来を、予感していたのだろうか。
「お母さんの手紙には、なんて書いてあったの?」ロビンが問いかけている。
「うん。まあ、いろいろ。ちょっと大げさなことまで書いてあった」エアリィは少し黙った後、続けた。「でもね、すごく心配してた。母さん自身も昔、ミュージカル女優をやってたんだけど、その時にいろいろヤなこともあったみたいで。芸能界は闇の断崖だ、なんて書いてた。転落しないように、あなたの光が失われることがないように祈ってますって」
 しばらく沈黙。その後、ジョージが空気を変えるように言う。
「ま、まあ――よかったな。お母さんの祈りを、実現できるように頑張ろうぜ。で、それは、午前中の話だろ? 今四時前だぜ。ずいぶん遅くなったな。これじゃ、すぐにエステルちゃんの迎えに行かなくちゃならないだろうに」
「いや、お昼ごろには行くつもりだったんだ。でも継父さんが出かけたあと、急にミル小母さんが来ちゃって」
「誰だ、ミル小母さんって」
「継父さんのお姉さん。六月から、うちの家政を見てくれる人なんだ。小母さん、今までオタワで小母さんのお母さん――継父さんのお母さんでもあるけど、その人と住んでたんだけど、四月に亡くなったんで、オタワの家が片付いたら、うちに来ることになって。僕も九月から大学に行く予定だったし、どのみちこうなったから、家のことできないし。でも六月一日に来るって言ってたのに、一週間近くも早く来たんだよ。『もうオタワの家も処分したし、早い方が良いと思ったのよ』って」
「それは……仕方ないな、遅くなっても」全員が苦笑しながら頷くしかない。
「それで、小母さんに用意した部屋に案内して、台所とかランドリーとかバスルームなんかも見せて、普段はどうしてるのとかいろいろ聞かれて、説明してるうちに小母さんの荷物が来て、部屋に運び込んでもらって――もうすごく疲れた」
「それじゃ、たしかにお疲れ様だな」僕はその背を軽く叩いた。
「その小母さんって、他に家族はいないのか?」ジョージが聞く。
「うん。一回結婚したけど、三年くらいで旦那さん亡くなっちゃって、子供はいなかったから、それからお母さんと住んでたって言ってた。元は学校の先生で、五年くらい前にお母さんが健康を害してからは、退職して家のことやってたから、家政は大丈夫だって。それで、僕は出かけなきゃいけないって言ったら、どこへ行くんだってなって、音楽マネージメントと契約に、って――小母さんすごく驚いて、どうしてそうなったんだとか、継父さんは承知したのかとか、ちょっと騒がれて、で、『あー、もうローゼンスタイナーの血は仕方がないのねえ。あなたはアグレイアさんの子だからねえ。エステルもそうだけれど――でも、転落するんじゃありませんよ、アーディス。気をつけなさいよ。ジャーメインやアランやエステルのためにもね』って。それでもう、こんな時間。幼稚園に五時まで延長をお願いしちゃったよ」
 想像はできそうだ。その小母さんに会ったことはないが――苦笑しつつ、その言葉が気にかかった。ローゼンスタイナーの血――エアリィも、ちょっと『あ、余計なこと言ったかな』という表情になっている。
「アリステア・ローゼンスタイナーの系譜だね」ビュフォードさんが言った。
「えっ? 知ってた?!」
「君たちのことは、身辺調査したからね。オンタリオ州大会の後で。そうそうたる経歴で驚いたよ。大物政治家の御曹司、大財閥の社長子息、大病院院長の息子、そして伝説の映画俳優の孫とはね」
「えー?!」思わず声が出た。エアリィのラストネーム、ローゼンスタイナーという表記を最初に見た時、真っ先に連想した人――アリステア・ローゼンスタイナー。六十年代の終わりから八十年代初めにかけて、一世を風靡した映画俳優。今でもその世代の人たちにとっては、名前を知らない人はないほどの有名人だ。実は僕の母も彼の大ファンだったらしく、母の部屋には今でもその出演作品のDVDや伝記、関連本が置いてある。僕も少し興味を覚えて、母の本棚から借りたバイオグラフィーを読んだことがあるので、彼のこともある程度は知っていた。
 アリステア・ローゼンスタイナーさんは、捨て子だったらしい。赤ん坊の頃、野原に捨てられていたのを、ニュー・ブランズウィックの小さな町の神父さんとシスターの兄妹に拾われ、彼らの養子として育っている。ローゼンスタイナーとは、養父である神父さんの姓だ。そして演劇に興味を持った彼は、十七歳の時にハリファックスの劇団に入り、その一年後、評判を聞きつけてはるばるハリウッドからやってきた新進気鋭の映画監督に見初められて、その監督の映画でスクリーンデビューした。その映画は大ヒットし、一躍スターとなったアリステアさんは、その後も十本の映画で主演を務め、それをすべて成功させた。オスカーも二回獲得した。そして十二作目のクランクイン直前に、趣味の飛行機を操縦中に機体トラブルで墜落し、三七歳で亡くなった。
 アリステアさんには幼馴染の妻がいたが、身体が弱く、娘を一人生んだ後、一年たらずで世を去ってしまっていた。その娘さんがアグレイアさん。光の女神を意味する、少し変わった名前だったので、記憶に残っていた。エアリィは、そのアグレイアさんの子供? そう、お継父さんのお姉さんが、同じことを言っていたらしいから、そうなのだろう。そう言えばアグレイアさん――アリステア・ローゼンスタイナーさんの一人娘の訃報を、去年の六月に見た覚えがある。『去年の六月に母さんが事故で死んだ』と言っていたエアリィの話とも符合する。そうすると彼は、アリステア・ローゼンスタイナーの孫なのか。ええっ! 驚くとともに、母が知ったら思い切り感激するだろうなあ、と、よけいなことまで思ってしまった。同時に、なんとなく納得がいった思いだった。エアリィの際だった存在感や磁力は、きっと祖父譲りなのだろうと。
「うーん。でもこの姓でお祖父さん連想させられるなら、なくしたいなあ、芸名には。たぶん僕、お祖父さんにはそんな似てないと思うし、ぱっと見わからないはずだから」エアリィはそんなことを言い出した。
「そうだね……インパクトはすごいけれど、お祖父さんとは別種の気はするね。君はお祖父さんの名前が、ある種の先入観としてみられてしまうのが、いやなのかい?」ビュフォードさんは微かな笑いを浮かべた。
「うん。まあ……難しい言い方すれば、そうなのかも。あの人は有名人だから、母さんも現役時代、それで悩んでたみたいで。人間としては、お祖父さんのことがとても大好きで尊敬してるけど、すぐアリステア・ローゼンスタイナーの娘だって言われるのが嫌だって。それで良い役をもらうと、すぐ親の七光りって言われるって気にしてて。うーん、僕はそういうの関係ないんだろうけど……元々この姓、長ったらしいし、なくてもいいかなって」
「そうだね。君たちにそういう七光りは必要ないかもしれない。君が芸名として、ローゼンスタイナー姓を落としたアーディス・レインだけを使うなら、それはそれで簡潔でいいよ。いや、それとも最初から君の愛称、エアリィを使うかい? なかなか君にあっている呼び名だと思うけれど。僕もそう呼んでいいかい?」
「呼ばれるのはいいけど、クレジットに愛称だけってのは、んー、なんかやだなぁ。そういう人もいるけど……僕はアーディス・レインでいいかな」
「わかった。じゃあ、ラストネームのローゼンスタイナーをカットした形で良いんだね」
 ロブ――ビュフォードさんは頷き、ついで僕らのほうを見た。「他のみんなはどうだい? 本名を使うなと、親御さんたちに言われたりはしていないかい? その場合は、芸名を考えないといけないが」
「……いや、それは大丈夫です」僕も含めた三人は顔を見合わせ、首を振った。
「祖父ちゃんは一族の誇りを忘れるなと言いました。だから、俺はジョージ・スタンフォードを名乗ります」ジョージがきっぱりとした口調で言い、「僕も。……でもロバートでなく、ロビンにしてください」と、ロビンが小さな声で続く。
「僕も同様です。ジャスティン・ローリングスでけっこうです。それに僕は、親の仕事の影響があるのはトロントだけだから」僕も頷いた。
「そうか。じゃあ、君たちはミドルネームを落とした本名で大丈夫なんだね。ロバート君はロビンと。もとは僕と同じ名前だね。ロバート同士だ。よろしく。そしてストレイツ君は今いないが……彼はどうだろう。父親との関係をとりあえず伏せるなら、本名じゃない方がいいんだろうか。そのあたりは、夕方来てもらってから決めよう」ロブは微笑し、再び僕らを見回した。
「それにしても本当に、変わった取り合わせだね、君たち。このコンビネーションから何が生まれてくるか、僕は今からわくわくして仕方がないんだ。君たちはどうだい?」
「期待と不安が入り交じっています」 僕はそう答え、ロビンとジョージも頷いていた。そのパーセンテージは各人で違うだろうけれど、僕の場合はとりあえず半々と言うところだ。エアリィは「なんかすごく、わくわくする感じ」と答えていたから、彼の場合は百パーセント期待だけか。楽観的な奴はいいな、としか言えない。
 みなはお互いに顔を見合わせ、笑った。この日から、僕たちはプロのミュージシャンという大海へ、一緒に漕ぎ出していくことになったのだった。

 運命は休むことなく進み続けた。全員で協議した結果、レーベルは最初に思ったとおり、A社に決まった。ミックの名義はミック・プレスコット――エアリィ同様ラストネームを落とし、さらにロビンのようにファーストネームを愛称にした形になった。プレスコットという名も元は母親の姓で、アメリカの大財閥の一族なのだけれど、他にも同姓はいるので問題はないだろう、と。そういう点ではストレイツもそうなのだけれど、そこは念を入れて、ということらしい。
 五月末にハイスクールの卒業式を終えると、エアリィとロビン、僕は髪をのばし始め、マネージメントが借りてくれたアパートメントに住むようになった。僕は家を出てきてしまったので、みなより一足早く移り住んだが、他の三人も――ミックは元の下宿にいたので――六月の第一週には、引越しを済ませている。
 そこはワンルーム形式で、きちんとした作りの、なかなか良い部屋だった。広さも僕の実家の個室よりゆったりしていて、小さなバスルームとキッチンが付属している。家賃は月五三〇ドルらしいけれど、「最初の仕事が取れるまでは、マネージメントで負担するよ」と、社長氏が言ってくれていた。さらにCD関係の収入やライヴのギャラが入るまでは、月千ドルを生活費としてくれるという。僕らはレーベル契約時に、アドバンスとしてある程度まとまったお金がもらえたから、それでしばらくの間は暮らせたが、「それはアルバムの制作費と機材のアップグレード用だから、とっておきなさい」と言われた。至れり尽くせりの待遇だ。
 そのアパートメントの部屋は、初めての僕の城、僕一人だけの独立した空間だ。両隣にはエアリィとロビンがそれぞれの個室で暮らしているし、ロビンの隣は、ジョージの部屋だ。僕らは、しょっちゅうお互いに行き来しあった。ファーストアルバムの制作に費やした夏の間はずっと、昼過ぎに連れ立ってスタジオに向かい、夜遅く、みんなでアパートに戻ってくる。毎日がその繰り返しだったが、新鮮で楽しかった。
 九月に、ジョージは以前から付き合っていたガールフレンド、パメラさんとの間に子供ができたのをきっかけに結婚し、もう少し広い、ワンブロック先のアパートへ引っ越していった。レコード会社にマスターを渡してからリリースまでの一ヶ月半の間は、プロモーションビデオを撮ったのと、顔見世のためのいくつかの取材、音楽番組出演があった以外は特に仕事もなく、フリータイムを楽しんだ。ジョージは新婚の妻と蜜月を過ごし、ミックは二週間ほどオタワに帰省、ロビンも時々自宅に帰り、エアリィは妹を遊びに連れていったりした他に、前に住んでいたプロヴィデンスの友達のところへ、やっぱり妹を連れて、十日ほど遊びにいっていたようだ。彼の場合機材のアップグレードがないから、アドバンスとしてもらったお金を、少し交通費に回せたのだろう。と言っても、安い長距離バスを使っていたらしいけれど。僕は時おりステラと会う他は、一人で本を読んだり、ギターを練習したり、他の部屋を訪ねたり、逆に来てもらったりして、日々を過ごしていた。そして十月の第二週に、いよいよファーストアルバムがリリースされ、僕たちはメジャーデビューを果たしたのだった。

 幸運は続いてやってきた。デビューして三日後の午後、アパートの部屋にいた僕の元に、ロブから電話がかかってきた。
「チャンスだぞ!」
 彼はすっかり興奮した口調で、いきなり言った。「今、みんなに順番に電話しているところだ。今夜、フィラデルフィアに行くぞ。だから急いで荷物をまとめてくれ」
「フィラデルフィア? って、アメリカの?」
「そうだ。先月、全員のパスポートとアメリカの興行ビザを取っただろう。それがさっそく役にたったな。これからライヴをしに行くんだ! アリーナショウのオープニングアクトだ。先方がおまえたちを指名してきたんだ」
「えっ?」そう言われても、何がなんだかさっぱりわからない。
 ロブの詳しい説明を聞いて、僕もやっと状況が飲み込めた。あるベテランの大物バンドが今全米ツアー中で、そのオープニングアクトを勤めていたサイレントハートという、僕らと同じマネージメント会社に所属する中堅バンドが、移動中のバス事故でツアー続行が不可能になったらしい。前日の夜、前公演地のノースカロライナ州ローリーからフィラデルフィアに向けて移動している時に暴走車に当て逃げされ、バスが横転してしまったという。去年の十一月に起こったスィフターの悲劇的な大事故と場所も近かったが(といっても、十マイルほど離れているらしい)、幸いメンバーもスタッフも軽傷ですんだ。でもギタリストが手を捻挫し、ドラマーが足を痛めたため、再び楽器を演奏できるようになるまでに一週間かかるという。そこでメインアクトのバンドのマネージャーが、その朝十時ごろ連絡してきたらしい。元々第一サポートのバンドがいるのでオープニングはなくともいいが、今まで三バンド体制で来ていたので、見に来た人に不公平になるといけない。すぐに代役を選定し、写真付きプロフィールと音源をメールに添付して送れ。代役候補を気に入らなかったら、一週間は二バンド体制で行く。その間、当然ギャラはなしだ。もし代役がいけるとなったら、次のフィラデルフィア公演から一週間、四公演のオープニングを勤めてもらうことにする。その場合は元のバンドと同額のギャラを払う、と。それで社長は同じような中堅バンドと、デビューしたばかりの僕らの二組の資料と音源を先方にメールで送った。そうしたらお昼過ぎに、そのマネージャーが電話をかけてきたという。
『新人の方を送ってくれ。こっちのほうが断然良い。メンバーたちも気に入って、最初からこっちが良かったと言っていた。私も同感だ。三日前にデビューしたばかりなら、仕方がないが。この子たちには一週間だけの代役ではなく、ラストまで同行して欲しい。まあ、どのみちあと二週間半で終わるがね』と。その後すぐに新しい契約書がファックスで送られてきて、社長がそれに署名し、送り返したところだ、と。
「そういうわけで、機材も必要だ。楽器とアンプを用意しておいてくれ。エフェクターもな。七時半にマネージメント会社のマイクロバスで、そっちに迎えに行くから。PAは相手のサブボードを借りることになるから、大丈夫だが。まだおまえたちは専属クルーさえいないんだな。だから、とりあえずサイレントハートの無事なクルーたちに、急遽おまえたちのクルーを勤めてもらうことにしたらしい。社長がそう手配してくれた。八時には出発するぞ。急いで準備してくれ。長いドライヴになるから、運転も交代だ。がんばろうな!」
 あまりにトントン拍子に行きすぎて、信じられないほどだ。いきなりアリーナツアーのオープニングアクトなどという、とんでもないチャンスが降ってわいてきたなんて。ツアー終盤になってのピンチヒッターだったから、期間は二週間半で回数も十一回と短かったけれど、出発を見送ってくれた社長氏が言っていたように、それは最初にして最大のチャンスだった。

 プロとして初めてのステージ。アリーナの大観衆をいきなり相手にしたあの夜の緊張と興奮を、僕は死ぬまで忘れないだろう。コンサート前日の夜八時に僕たちはトロントを出発し、国境を越え、フィラデルフィアまで行った。乗り物は、後ろに機材が積み込めるスペースがある、定員七人の大型ワゴン車だ。マネージメントで十五年前に購入し、それ以来さまざまな新人バンドのロードに使われてきたらしいこのワゴンは、見た目もさることながら、中も相当に使い込んでいる感じだった。灰色のシートはまだら模様になっていて、あちこち擦り切れているし、床はところどころ毛羽立ち、窓もけっこう曇っている。元はシルバーだったらしい塗装は、くすんだ灰色以外のなにものでもなくなっていた。しかもところどころに、擦ったような傷がある。その車を交代で運転しながら、当番でない時間に眠り、午前十時近くに、僕らは現地に着いた。
 会場のアリーナに着いた時、その大きさに圧倒された。関係者入り口にヘッドライナーのバンドのスタッフさんが出てきて、僕たちにバックステージパスを手渡す。それを見ながら、まだその現実が信じられない気分だった。
「○○のメンバーたちは四時を過ぎないと来ないから、それまで休んだらいい」と言いながら、そのヘッドライナーのスタッフさん(首から下げているパスを見たら、アシスタント・ロードマネージャーと書いてあった)が、僕らの楽屋に案内してくれた。
 そこは実家の僕の部屋くらいの広さで、簡易寝台を兼ねているだろう、背もたれのないビニール張りの長椅子が壁際に一つ置いてあり、部屋の真ん中にはスティールの長テーブルと、折りたたみ式の椅子が六客。テーブルの上には電動式のポットとミネラルウォーターの大ボトル、インスタントコーヒーの小袋がいくつかと、砂糖と粉末ミルク、紙コップが置いてあった。床はむき出しの少し擦り切れたリノリュームで、くすんだ灰色の壁には飾りのないシンプルな鏡がかけてあるが、ところどころ曇っている。まあ、前々座なのだから、こんなものなのだろう。
 バックステージパスを持っていれば外へ出てもまた入れるから大丈夫だと、主催者側のスタッフさんが言っていたので、僕たちは機材を中に運び込んだ後、会場を出て近くのレストランで食事をとり、眠かったので車に戻って仮眠した。機材を降ろして後部座席も倒せるようになったから、せいぜい一人しか眠る場所のない楽屋よりは、まだ眠れるだろうと思ったからだ。
 午後四時近くになって、ロードエリアにファーストサポートのバンドのバスが入ってきた。それから十分ほどで、ヘッドライナーのリムジンが入ってくる。僕たちも車を降り、挨拶のために彼らの部屋を訪れた。
 ヘッドライナーの楽屋は僕らのものの五倍くらいの広さがあり、調度も格段に豪華だ。大画面テレビとDVDデッキ、テーブルの上には高級そうな酒とアイスペールやグラスが並べられ、凝ったおつまみ各種と果物が銀の皿に盛られている。サイドテーブルの上にはコーヒーサーバーとティーポット、ミネラルウォーター、カップや白い皿がたくさん用意されていて、クリームをたっぷり盛ったラズベリーパイがカットされ、やはり銀色のお皿の上においてあった。これはまだ本格的な食事ではなくスナック的な感じで、夕食はたぶん、もう少し先に出てくるのだろう。床には赤い絨毯が敷いてあり、もう一方の壁には鏡台が並んでいた。その奥にはカーテンで仕切られたコーナーがあり、そこは着替え用の小部屋のようだ。
 二台の黒い革張りソファにどっしりと座った五人のメンバーは、僕らが挨拶に行くと、目を上げ、二人ほどがにやりと笑った。この人たちの名前は知っているし、時々ラジオでも曲がかかる。僕の好みとはいえなかったけれど、あくまで媒体を通してしか知らなかった人たちが目の前にいるというのは、妙に緊張する。
「あと十一回だが、まあ、がんばってくれ」メンバーの一人がタバコをくゆらせながら笑い、そう言葉をかけてきた。彼らは決して尊大ではなく、どちらかといえば友好的とも思える。でも同時に、なんだか面白がっているような感じも受けた。ポッと出の学生上がりの僕らが、いきなりアリーナでやったら、どうなるのかと。
「音源はわりと良かったね。ライヴはどうだい?」別のメンバーが聞いてくる。
「ベストは尽くします」僕たちはそうとしか、答えられなかったが。
 その後、僕らは第一サポートのバンド(本来のオープニングアクト、サイレントハートとほぼ同期の、七、八年選手のアメリカのバンドで、二枚のアルバムがスマッシュヒットしている。僕は聴いたことがないが)にも挨拶に行った。そこの楽屋は僕らの楽屋の三倍弱くらいの広さで、テレビはヘッドライナーのものより少し小さく、ゲーム機が置いてあって、ソファは一つ、安楽椅子が一つ、長テーブルと椅子、小さなサイドテーブル、壁際には鏡台とクロゼットが並んでいる。テーブルの上にはやはり果物や飲み物、酒、スナック、それにこちらは早めの夕食タイムのようで、ピザやサンドイッチ、フライドチキンのボックスなどが並んでいる。床にはグレーのカーペットが敷いてあった。
 このバンドの四人は先のヘッドライナーの人たちよりかなり若く、三十前後という感じで、開放的な雰囲気だ。
「本当に若いね。アリーナは始めて?」と、向こうのメンバーにそう聞かれて、
「うん。最大で二千人。コンテストの時の。それ以外はハイスクールの体育館でしか、やったことないです」と、エアリィが答えていた。
 敬語はまあ、最後だけは合格だが、うん、じゃない、はいと言え。
「うあぉ、それはそれは! まあ、がんばってな」相手は肩をすくめて、笑っていたが。
   僕たちは、改めて自分の楽屋に戻った。先の二つを見てしまうと、本当に小さい。でも、贅沢は言えない。テーブルの上には、紙皿にのったサンドイッチがラップをかけておいてあり、オレンジジュースのカートンと、コーラの大ボトルもあった。
「サウンドチェックは逆順だから、おまえたちは開場ぎりぎりの十五分くらいだろう」
 ロブの言葉に頷き、それまでの一時間を、僕らは楽屋の椅子に腰かけて待った。みんな緊張した面持ちで、誰もケータリングにも手を伸ばさない。ロブとエアリィ以外は。
「食べないの? お腹すいてない?」と、エアリィは少し不思議そうに僕らを見、「食後に動きたくないから、僕は食べちゃうよ」とサンドイッチに手を伸ばしていた。それにつられたようにロブも手を伸ばし、そして苦笑いを浮かべた。「ファーストサポートの楽屋にはパストラミやターキーがあったようだが、これはただのハムサンドだな」
「まあ、前々座だもんね。そんなに贅沢は言えないよね」
 エアリィはちょっと肩をすくめ、オレンジジュースを紙コップについで飲むと、ついでにロブのコーラも注いであげていた。そのあと、再び僕らを見る。
「みんなはいいの、ホントに? あとでお腹すくよ」
「ああ……いいんだ。今はいらない」僕ら四人はいっせいに首を振った。
「まあ、緊張しているんだろう、無理もないさ」
 ロブも僕らを見た。その表情は、子供の晴れ舞台を見守る親のそれに少し似ているようだ。妹のピアノ発表会に来ていた母の表情にも、同じようなものがあったような気がする。僕ら一人一人を(大丈夫さ。でもしっかりやれよ)と言いたげな目で見、同時にロブ自身もちょっと緊張しているように見える。そして彼は、バンドの最年少メンバーに再び目をやっていた。「お水欲しいから、このミネラルウォーター少し飲んじゃっていい? コーヒー淹れないなら」と問いかけられたからでもあるだろう。それに頷きながら、「おまえは緊張しないのか、エアリィ」と、いくぶんかの感嘆とあきれたのが混ざったような口調で聞いていた。
「え? 別に。移動が長かったから、ちょっと疲れたけど、それだけだよ」
 どうやったら、そう平常心でいられるんだよ。でも、これも性格なのだろうな――僕は心の中で肩をすくめた。

 やがてサウンドチェックの時間が来て、サイレントハートの残ったスタッフさんと顔合わせをし、機材をセッティングして、簡単にチェックを済ませた。十五分ほどしか時間がないので、音出し、バランスチェックと、一曲だけなんとか通しが出来ただけだったけれど。再び楽屋に戻ったところで、開場時間だ。午後五時三十分――あと一時間で、僕らの出番になる。
 僕はギターを抱えて、長椅子の端に腰をおろした。あと一時間でステージに上がる。無限に広く見えるアリーナのステージの上へ、プロとして。緊張と興奮がより一層大きくなり、身体が震えてきた。今回、あまりに急なことだったから、リハーサルができなかった。幸い、三日前――ちょうどデビュー日になるのを記念して、一日スタジオを借り、デビューアルバムを全部おさらいしたから、ぶっつけ本番ではないけれど、ランニングリストさえ移動の車中で決めたという慌ただしさだ。準備万端とはとても言えない。失敗したらどうしよう。観客に受けなかったら……ひどいやじを飛ばされたり、トマトや玉子を投げられたりしたら……そんな不安ばかりが先立って、いてもたってもいられなくなってきた。手のひらにべっとりと汗がにじんでくる。
 僕は深く息を吐いた。目を上げて他のメンバーを見ると、ジョージも珍しく青ざめた顔をして、うろうろと落ちつきなく床を歩き回っている。ミックも強ばった顔つきで手を動かし、ロビンにいたっては僕の隣で真っ青な顔をし、ベースギターを抱えたまま、目に見えてがたがた震えている。
 ただエアリィの平常運転ぶりは、最初から完全にぶれないようだ。サウンドチェックが終わった後、楽屋に備え付けてあった擦り切れた数冊の雑誌をあっという間に読んでしまうと、「あ、そうだ。行くだけ、行ってみよ」と小さな声で呟き、バッグの中を探してノートとペンをとり出すと、楽屋を出て行った。トイレかな、でもなんでノートがいるんだ? と僕は漠然と思っていたが、それにしては、なかなか帰ってこない。二十分ほどたって、やっと戻ってきた。右脇にペンをさした状態のノートを挟んで、左手にはお皿を持っている。テーブルの上に皿を置いたので見ると、ヘッドライナーの部屋にあったラズベリーパイの一切れとフォークがのっていた。
「それは、どうしたんだ?」と、ロブに聞かれると、
「ヘッドライナーさんたちから、もらった」などと答えている。
「ええと……どういうことだ?」ロブは困惑した表情だ。
「さっき、ヘッドライナーさんの楽屋に行ってきたんだ。サインもらいに。行っていいかな、ってわかんなかったけど、『どうしたんだい? なにか用かい?』って向こうのスタッフさんがきいてきたから、『友達のお父さんがファンだったから、サインもらってこられるかなって思って』って言ったら、入れてくれたよ。フィルの――ロードアイランドの友達のお父さんが若いころ好きだったバンドらしいから、今度会った時に、渡せたらいいな、って思って」
 そんなミーハーなことをするな、恥ずかしい! 僕は思わず心の中でそう叫んだ。でも彼は、そうは思っていないようだ。
「あの人たち、ニコニコしてサインくれたから、よかった。『がんばってな』とも言ってくれたし。『可愛いね〜、十四才?』なんて頭撫でられたのは、超いらなかったけど」
 それは、完全に相手に子供扱いされているだろう、おまえ。まあ実際、四十代の相手からすれば本当に子供にしか見えないだろうし、仕方がないが。やっていることも子供っぽいし、自業自得だ。
 でもエアリィは自分の行為も相手の反応も、何も気にしてはいないようだった。ノートとペンをバックにしまいながら、言葉を継いでいる。「で、あの人たちがパイ食べる?って、くれたんだ。断るのも悪いし、一口食べたら、ものすごく甘かったから、もういらない。食べる?」
「いや……いい」僕らはいっせいに首を振った。サンドイッチも入らないのに、甘ったるいパイなんて、入るわけないだろう。というか、おまえの食べかけか?
「これは新しい奴だよ。別のくれたから」エアリィは僕の心の中を読んだように笑い、言葉を継いだ。「戻ってくる時、ちょっと客席のぞいてみたんだ。ホント広いね。ここのキャパって、フルに入って一万七千人らしいけど、このコンサートセッティングじゃ、一万三千くらいなんだって。で、今日のお客は一万二千って、向こうのクルーの人が教えてくれたんだ。このツアー一番の入りだって。土曜日のせいもあるのかな。だから普段より売れるし、埋まるのも早いって。もうお客さん、六割くらい来てるらしいよ。平日だと、最初のバンドの時には四割弱くらいかな、って言ってたけど。でも今日はたぶん七千人くらいはいるんじゃないかなって、プロモーターの人も言ってたし」
 おい、人のプレッシャーをこれ以上増大するようなことを、言わないでくれ。
「でも考えると、すごいな。コンテストの決勝で、ホールで二千人くらいお客さんいて、わ、大勢! って思ったけど、それより多いんだ。三倍以上だし」
「もう、少し黙っててくれよな、エアリィ!」僕はついに声に出して抗議した。
「追い討ちかけるなよ。みんな、ただでさえ緊張してるのに。おまえは、この場でプレッシャーを感じないのか? よく、こともなげに言えるよな」
「プレッシャー? プレッシャーか……うーん」
 彼は少し首を傾けて、考え込んでいるようだった。「それって、どんなの?」
 その言葉に、僕らバンドの残る四人は文字どおりひっくり返った。
「不安ってこと? 怖いってこと? 僕はそんな感じしないな。それがみんなのいうプレッシャーってことならね。逆に、すごくわくわくする。だって、これだけの人の前でやれるんだよ! いきなりこれって、めったにないよ。みんなは、ずっと緊張してるんだ? どうして?」
「どうしてって、なぁ……」僕はそう言ったきり、苦笑してあとが続かなかった。
「不安で……怖いんだよ。君が言ったように」ミックも苦笑しながら、そう答えている。
「なにが怖いの?」
 そう無邪気に問い返されて、僕は声を上げた。「だからなあ! 失敗するのが怖いんだよ! こんなに大勢の人たちを前にして、気に入ってもらえなかったら、うまく演奏できなかったら……それが怖いんだ! しかもろくに準備さえできなかったのに」
「なんで? そんなこと、今から考えても仕方ないのに」
 エアリィは理解できないという表情で僕らを見、首を振った。「ここのお客さんって僕らのこと知らないだろうし、僕らは前前座なんだから、ウォーミングアップみたいなもんじゃない? 別にたいして期待してないと思うよ。それに、曲ってレコーディングアップするまでに何回も練習したんだし、こないだやった練習でもみんな合ってたから、大丈夫じゃないかなぁ。最悪、今回万が一、めちゃめちゃの演奏しちゃっても、お客さんはそんなに気にしないだろうし、挽回のチャンスもあるよ。あと十回あるから」
 思わずはっとした。さらっと言われた言葉は楽天的ではあるが、現実的でもある。それは僕が緊張のあまりに見失っていた真実だ。ミックやジョージ、ロビンも同じように感じたらしく、少し驚いたような表情で顔を見合わせていた。
「そうだ……そのとおりだね、たしかに。そんなに構えて緊張する必要はないんだ。お客は僕らにそれほど期待して、来ているわけじゃない。パーフェクトをめざしたり、ミスを一つもすまいとして、力んだりする必要はないんだ。いつもどおりやれば良い。それで受けてくれたら幸いだし、もしそうじゃなくても、次からがんばればいいんだ。これで終わりというわけじゃないんだから。たしかに今から悪い結果を怖れていても、仕方がないね」ミックが感嘆したような口調で言い、僕らはみな頷いた。
「本当に、おまえの楽天主義には負けるぜ、エアリィ。うちのフロントマンが怖いもの知らずで良かったな。おまえはきっと将来大物になるぜ。いや、おまえは今からもう大物だよ。性格と素質だけはな」ジョージはスティックをくるくる回し、笑っていた。
 本当にそうだ――僕も心からそう同意した。そして今まで自分を押しつぶさんばかりにしていたプレッシャーが、いつのまにか軽くなったのを感じてもいた。たしかにオール・オア・ナッシングではないのだから、重大に考えすぎる必要はないのかもしれないと。




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