The Sacred Mother - Part 1 The New World

第一章  プレリュード(5)




 部屋のドアをノックする音が聞こえた。僕ははっとして頭を上げた。
「誰?」
 しばらく沈黙の後、ジョアンナの声がした。
「わたしよ。ジョイスも一緒にいるわ。入れてちょうだい。話があるのよ」
 僕は一瞬ためらった。「今、邪魔されたくないんだ。悪いけど、帰ってよ」
「ジャスティン、あまり興奮してはダメよ。あなたの気持ちも、わからないではないけれど。ともかく入れてちょうだい。入れてくれるまでは、わたしたち、ここを動かないわ」
 普段は穏やだが、ジョアンナという人は一度決心してしまうと、絶対あとには引かない。今も彼女がその決意なのは、独特のきっぱりした口調から伺えた。しばらくは気にしないようにしたが、三十分以上たっても、まったく立ち去る気配がない。僕は降参し、渋々ドアを開けた。部屋に入ってきた二人は、ベッドの上に作りかけになっている荷物を見て、驚いたようだった。
「ジャスティンお兄ちゃん、ひょっとして、家出するつもりだったの!」ジョイスが目を丸くして、荷物と僕を交互に見ながら叫んでいる。
「そうだよ。どうせ父さんや母さんには、わかってもらえないんだ。僕は明日、出ていくよ。そうすれば、みんなにも迷惑は、かからないだろ」
「いやよ、そんなの!」妹はポニーテールにした栗色の髪を揺らせて僕に飛びつき、わっと泣き出した。「あたし、お兄ちゃんが行っちゃうなんて、いや!」
「ジョイス、ごめん。でも、みんないつかは大きくなって、家を出ていかなきゃならないんだよ。大学へ行っても、カレッジに入寮することになるだろうしね。三、四ヶ月早くなるだけだよ」
「だって……いつ、帰って来てくれるの? パパとケンカしたままじゃ……」
「ああ。しばらくは帰って来れないだろうけど、でも外では会えるさ。泣くのはやめてくれよ、ジョイ。もし父さんや母さんが許してくれたら、また遊びに帰ってくるよ」
「本当? 本当に来てくれる?」
「ああ、それに僕の落ち着き先が決まったら、いつでも遊びにおいで。ただ、僕も仕事を持つから忙しいだろうけどね。暇な時だったら、相手になれるよ」
「本当? うれしい!」
 ジョイスは僕の傍らに腰をおろすと、大きな淡褐色の目をきらきらさせて見上げた。「あたし、がんばってパパを説得するわ。お兄ちゃんがミュージシャンになることを認めてもらうの。そうすればお兄ちゃんもお休みの時に、家に帰ってこられるわけでしょう?」
「ちょっと待って、ジョイス。あなたは先走りしすぎよ」ジョアンナは僕を挟んで妹の反対側に腰をおろしながら、苦笑して遮った。「それより前に、もう少しじっくり考えなければならないことがあるのではなくて? ジャスティン、あなたに聞きたいことがあるの。あなたはちゃんと考えて決めたの? 本当に音楽を一生の糧にして、生きていくつもりなの? 兄さんの言うことは本当だと思うわ。決して生易しい業界ではない。それでも何が起きても後悔しないほど、あなたは音楽が大好きなの? その仕事がどうしてもやりたいの?」
「うん。僕なりにいろいろ考えたんだ。難しい道だってこともわかってるつもりだけど、でもやっぱりこれしかないって思えるんだよ」
「そう……」姉はしばらく僕の顔をじっと見守り、静かに頷いた。「もう一つ、質問があるの。わたしは音楽業界のことは詳しくないけれど、とかく良くない評判を聞くわ。麻薬とか、乱れたセックス、アルコール中毒、暴力。どれも恐ろしい罪よ。母さんや兄さんもはっきりとは言わないけれど、そのことを心配しているのだと思うの。あなたはそういう罪に染まらないって、ここで誓えて?」
 姉の言葉には、率直で真摯な響きがあった。僕には、まるで良心の声のように聞こえた。
「大丈夫だよ。誘惑に負けたり、罪に染まったりはしない。いつも良心を保つようにするよ。それに、人に悪い影響を及ぼすようなことはしない。神さまに誓ってもいいよ」
「そう。それなら、わたしはあなたを信頼するわ、ジャスティン。わたしはあなたを良く知っているつもりよ。あなたは不道徳な子ではない。軽はずみでも、向こうみずでもないわ。あなたがそう言うからには、よっぽど強い決心があるのね」
「うん。僕は本気なんだ」
「それなら、わたしはあなたの行く道に、祝福があるように祈るだけだわ。あなたは自分の選んだ道を行く権利があるのですもの。その選択に責任がもてるかぎりはね。今はたしかに、家を離れるのがいいことなのかもしれないわ。父さんも母さんも冷静さを失っているから、少し時間と距離を置いたほうがいいでしょう。でもね、ジャスティン。わかってもらおうとする努力は、これからもやめてはいけないわ。父さんも母さんも、決してわからず屋ではないの。あなたの話があまりに急で、思いもよらないことだったから、びっくりして我を忘れているだけなのよ。九月から大学の医学部へ行ってくれると思い、それを心から喜んでいて、入学の準備をしていたのよ。必要になる本のことや、あなたがカレッジに入寮した時のための支度のこと、将来のことを、父さん母さんは嬉しそうに話していたわ。それなのに、あなたにかけていた期待を突然裏切られた。父さん母さんからすれば、そうとしか思えないのかもしれないわ、今は」
「うん……それは、わかっているよ。父さん母さんには、本当に申し訳ないことをしたと思っているんだ」
「あなたがそれをわかっているなら、大丈夫ね。父さん母さんも、少し時間はかかるかもしれないけれど、いつかきっとわかってくれるに違いないわ。あの人たちは、あなたのお父さんとお母さんなのよ。あなたを生んで、あなたに愛を注いで、ここまで育ててくれた人たちなの。そのことへの感謝は、忘れてはだめよ」
 その言葉は冷静さを失っていた僕に、落ち着きと理性とを取り戻してくれるような気がした。僕はふっと息を吐き、頷いた。「そうだね……ありがとう、姉さん……」
「あなたに神のご加護がありますように、ジャスティン」
 ジョアンナは灰色の瞳に彼女独特の慈愛を宿して僕をまっすぐに見、静かに頷いた。「もう一つ、忘れないでね。もし夢が実現せずに、うまくいかなくても、あなたの人生はそこで終わりではないことを。他の道も、やり直せる機会もたくさんあるということを」
「うん。ありがとう、姉さん。いつか、万が一夢が破れる時が来たら、思い出すよ。今はまだ、考えたくはないけれどね」
「大丈夫よ、ジャスティンお兄ちゃん。あたし、力になれるなら何でもするわ」
 ジョイスが両手で僕の手を握り、きらきらした瞳で僕を見つめた。「がんばってね、お兄ちゃん。あたし、どんな時でも、お兄ちゃんの味方よ」
「ありがとう」僕は妹の手を握り返し、両手を回して二人を抱きしめた。
「ありがとう、姉さん、ジョイス……僕も二人の幸せを願っているよ」

 翌朝、僕は荷物を詰めた旅行用バッグとギターを入れたケースを持って、食堂に下りていった。荷物を置くと、テーブルに歩み寄る。
「お父さん、お母さん、ジョセフ兄さん。僕は今日、家を出ていくよ」
 しばらく、みなは無言だった。ジョアンナとジョイスは予想していただろうが、父母や兄には衝撃だったのだろう。三人ともフォークやナイフを宙に浮かせたまま、唖然として見ている。僕も次の言葉を失って、家族の顔を見返していた。
 やがて呪縛がとけたように、フォークやナイフはテーブルの上に置かれた。
「ジャスティン。あなたって子は……まあ! 本当に出ていくつもりなの!」母が立ち上がり、かすれた声で叫んだ。
 反応が返ってきた今、僕は言葉を続けることができた。
「ごめんなさい、お母さん、お父さん! それに兄さん」僕は床に跪いた。
「お父さん、お母さん。親不孝なまねをしているっていうことは、僕もよくわかっているんだ。許してくれなくても、仕方ないって思ってる。期待を裏切ってしまって、本当にごめんなさい。でも僕はやっぱり、自分の好きな仕事をしてみたいんだよ。せっかく来たチャンスを逃がしたくないんだ。お父さん、お母さん。僕を産んで、今まで育ててくれて、ありがとう。それから兄さん、ずっと気にかけてくれて、愛してくれてありがとう。僕はこの家で、とても幸せだった。それなのに、こんな形で出ていくことは、すごくつらいけど……僕はずっとみんなのことを、愛しているから」
 我知らず涙が流れてきた。誰も、何も言わなかった。凍りついたような沈黙の中、僕はゆっくりと立ち上がり、荷物を取り上げてみなに背を向け、廊下へ出ていこうとした。
「待ちなさい、ジャスティン」母のつまったような声がした。
 僕は振り向いた。母は僕を見たまま、しばらく何も言わない。やがて、震える声で口を開いた。「せめて……せめて、朝くらい、食べていくものよ……」
「ありがとう、母さん。でも僕、なんだか胸がいっぱいで、何も食べられそうもないんだ」
 僕は精一杯、笑顔を作った。泣いたままでは、出て行きたくない。
「ジャスティン! 間違っていると思ったら、意地をはらずに帰ってこいよ! おまえは、まだ十七だ。若いんだからな」ジョセフがテーブルから立ち上がって、そう言っている。
 ジョアンナはそっと微笑んで頷いてみせ、ジョイスは元気な声で、「がんばってね!」と言ってくれた。父は新聞に顔をうずめ、何も言わなかった。その手が、かすかにぴくぴくと震えているのが見える。
「許してもらえたら、また来るよ。ホプキンスさんにもよろしく言っておいて。今まで……ありがとう、本当に。そして……ごめんなさい」
 僕は廊下から玄関へと進んだ。喉元にこみ上げてくる固まりを感じながら玄関のドアを閉め、何かに追われるように小走りに、家の門から外へと出ていった。

 よく晴れた暖かい、五月下旬の朝だった。僕は門を出、我が家を振り返った。閑静な住宅街の中、広い芝生を前景にして建つ、レンガ調の壁にモスグリーンの屋根の大きな家。厳しくも暖かい両親と、よく遊んだり相談相手になってくれたりした姉や兄、年も近く気の合う妹、優しいホプキンスさん。彼女が休暇中で不在だったことは、ある意味ほっとしていた。両親のみならず、僕は彼女の期待も裏切ってしまったのだから。物質的には何一つ不自由したことなく、愛情も常に満ちていた家。そこから出ていくことは、暖かい繭を抜けて、厳しいけれど広い大空へ飛びだすことだ。
 僕は大きく深呼吸をし、時計を見た。七時四○分だ。これからどこへ行こうか。足は自然とロビンとジョージの家へ向かったが、途中で気がついた。彼らだって、家族を説き伏せるのに苦労しているのではないだろうか? 今僕が行ったら、よけい混乱するんじゃないだろうか?
 ジョージとロビンのスタンフォード兄弟の家は、国内有数の大財閥だ。スタンフォード財閥は基本的に同族経営で、衣類と雑貨を扱う小さな貿易商からレジャー産業まで手を広げるようになった大会社へと、一代で発展させた創業者であるバーナード・スタンフォード氏がCEO、その次男で、氏の末っ子であるロバート氏(ジョージとロビンの父親)が社長を務めている。バーナード翁の長男は系列会社の社長で、長女と次女の婿も、同じようにそれぞれ系列会社を経営している。ジョージとロビンの一番上の兄、ブライアンを含め、孫たちの何人かも、すでに経営者見習いとして会社に入っているという。ジョージとロビンの実家であるウォールナット・フィールドの隣の建物には長男、彼らからすると伯父に当たる一家が住んでいる。その隣には、それぞれ娘たち、二人にとっての伯母一家が住む。この一帯は、スタンフォード一族の王国だ。
 幼い頃から何度も訪れ、僕にとっては第二の我が家ともいえるウォールナット・フィールド。名前のとおりクルミの木がいっぱい茂っている広い庭、壮大な屋敷と豪華だが品のいい調度、たくさんの雇い人たち。ちょっと見にはいかめしそうだが、どことなくユーモラスな感じも漂わせている、頭のはげた小柄なバーナード翁。口ひげを蓄え、とび色の髪がいくぶん後退しかかり、小太りで一見気のいいお父さん風のロバート氏。血色のいい顔につやつやした黒い髪を編み上げ、きびきびとした動作の、気さくなジェーン夫人。眼鏡をかけ、黒髪をきちんとなでつけた、ちょっと神経質な感じの、一番上の兄ブライアン。この家族たちが、ロビンやジョージの決断をどう受け止めるだろうか? もし僕の家以上に、保守的だったら――?
 僕は方向を変えて歩き出した。とりあえず家から遠ざかろう。歩いているうちに、地下鉄の駅が目に入った。家からは、歩いて十五分ほどの距離にある場所だ。あの夜、Swifterのコンサートを見終えて帰ってきた時、階段を上ってここに出てきた。ロビンの家でもうちでも、夜遅くなるからと車での迎えを提案されたけれど(実際、会場まではスタンフォード家の車で送ってもらった)、僕たちは断っていた。ライヴの余韻に浸っていたかったから、そんな予感のせいだ。それは正しかった。地下鉄には、同じコンサートに行った大勢の人たちが乗っていて、その話題を盛んに話している、コンサート後の熱気の余韻に浸ることが出来た。でもロビンと僕が『バンドを作ろう!』と、あの街灯の下で興奮して話し合ったその直後、黒塗りの見慣れたリムジンが横に停まり、『ロビンお坊ちゃま、ジャスティン様、雪が降ってまいりましたし、ここから先は人通りもあまりありませんゆえ、お迎えに参りました』と、スタンフォード家の副執事が助手席から降りてきて告げたものだ。車では数分くらいの距離なのに。
 僕は思い出して苦笑し、地下鉄駅の階段を下りた。普段は自動車での移動が多く、ほとんど公共交通機関は利用していないので、少し新鮮な気分を感じ、僕はふと学校まで地下鉄で行ってみようと思いついた。学校まではたった一駅、階段を上がり、見慣れた通りを歩いていく。十分ほど歩いた後、僕はハイスクールの近くにある、ファーストフードの店に入った。家を出るという緊張感が抜けたら、お腹がすいたのを思い出したからだ。
 一人で朝食をとりながら窓の外を見ると、春の明るい日差しに照らされて、並木の影がくっきりと道に浮き出ている。登校時間になる頃で、何台も送迎の車が通って行く。歩きや自転車の学生もいる。僕たちは一ヶ月ほど前に、最終試験を終えた。あとは一週間後に行われる卒業式まで、学校には行かなくてもいい。並木の向こうに、学校が見える。つい先月まで通っていたのに、学生時代が遠い昔のようにさえ感じられた。

 ポケットの中で携帯電話が鳴った。僕は電話を取り上げ、通話ボタンを押した。
「もしもし……」
「あっ、ジャスティン?」聞こえてきた声は、ガールフレンドだ。
「ステラ?」僕は驚きながら問い返した。「おはよう。どうしたんだい、こんな朝から。学校はお休みかい?」
「ええ、今日は卒業式なの。だから、わたしたちはお休みなのよ。学年代表で、式に出る人たちは別だけれど」
「そう。君の学校は、早いんだね」
「ええ。いつもこのくらいの時期よ。それでね、今夜の卒業パーティに招待されたの。一緒に来てくれるかしら?」
「そう。何時から?」
「六時からなの」
 行けるだろうか? 午後からマネージメントのオフィスへ行って、本契約をして、アパートも探さなければならない。それに僕が持ってきた荷物の中に、卒業パーティに着ていけそうな服はあっただろうか? 今朝あれほど大げさに家を出ておいて、その午後に服を取りに戻るなんて、間抜けにもほどがある。でも断ればステラはがっかりするだろうし、彼女にもいずれ僕の決断を話さなければならない。その前に下手に機嫌を損ねたくはない。
「良いよ。じゃあ、五時半に君の家に迎えに行くよ……」
 でも、兄の車を借りるわけにはいかないだろうし、家の運転手にももう頼めない。
「ごめんよ、だけど家の車では行けないんだ。タクシーになっても良いかい?」
「あら……」ステラはちょっと残念そうな声になった。「お兄様の車もお家の車も、今日は都合が良くないの?」
「まあ、そんなところだね」思わず苦笑がこみ上げた。
「それならタクシーでも良いわ。迎えに来てね」
「ああ」僕は頷き、ついで聞いた。「ところでステラ、僕も話したいことがあるんだ。学校がお休みなら、これからちょっと出てこられないかい?」
「いいわよ。でも、お昼までね」

 一時間後、僕らは彼女の家にほど近い喫茶店で会った。
 ステラは十六才、九月で十七になる。カトリック系のプライベートスクール、良家の子女が行く品の良い学校として有名なそのスクールの十一年生だ。彼女はジーンズやTシャツ、スウェットのようなカジュアル系の服は、まったくといっていいほど持っていないらしい。学校は制服があるし、普段の服装もほとんどワンピースやスカートばかりだという。ピンクや赤といった華やかな色や、派手な装飾も好きではないらしい。僕の知る限りでは、白や紺系を好んでよく着ていた。
 この日もセーラーカラーの白いワンピースだ。スカートは広がりすぎず、タイトすぎてもいず、全体に青い水玉が飛んでいる。襟元とカフス、スカートの裾には青いリボンの縁取りがついていた。黄金色の巻き毛を肩に垂らして、両サイドの髪を耳の上で小さく結び、青いサテン地のリボンを飾っている。顔立ちは全体に小作りで、少し上を向き加減の小さな鼻と頬のかすかなそばかす、それに顔のほかのパーツに比べて少々口が大きすぎることが彼女の悩みの種らしい。でも僕から見れば、彼女の理想だと言っていた完璧な美人──すらりとして背が高く、ギリシャ彫刻のような研ぎ澄まされた美人より、小さな欠点はあっても、愛らしいステラの顔が好きだ。はにかんだように目を伏せるその表情、頬に上る紅の色、微笑むと右側の頬にだけ浮かぶえくぼ。彼女はその魅力に気づいているだろうか。
 そんな彼女に僕は話した。僕に訪れた運命の転換と、これからの決意を。ステラは驚いたように目を見開いて、じっと話を聞いていた。二、三度激しく瞬きし、何か言いたいように口を開けたが、思いなおしたようにまた閉じる。
「まあ!」彼女は口に出しては、それだけ言った。そして少し間を置いて、再び繰り返した。「まあ!」
「突然で、びっくりしたと思うけれど」僕は手を伸ばし、ステラの手をとった。
「そういうことなんだ、ステラ。僕はミュージシャンになる。君は反対かい?」
「反対というより……ただ、驚いたわ」ステラは目を見開いたまま、首を振った。
「わたし、あなたはお医者さまになるとばかり、思っていたのですもの。九月から大学の医学部に行くと言っていたし……それでゆくゆくは、あなたのおうちの病院の、お医者様になると思っていたのよ。ご両親は、それで良いとおっしゃったの?」
「いや、大反対されたよ。勘当同然だね。それで、家を出てきたんだ」
「まあ……」再びそう言ったあと、彼女は僕の傍らにおいてある大きな旅行バッグとギターケースに目をやり、やや詰まったような口調で続けた。「だから、そんなに荷物がたくさんあったのね。どうしたのかと思ったのよ」
「ああ、そうなんだ」僕は微かに苦笑して、肩をすくめた。そして彼女の手を、少し力を込めて握った。「ステラ、僕は本気なんだよ。それだけは、わかってほしいんだ」
「ええ。あなたがロックを好きだということは知っていたし、バンドに一生懸命だということも、知ってはいたけれど……あなたのバンドがダンスに出ていて、わたしたちも知り合ったのですものね。でも、そこまで本気で考えていたなんて知らなかったわ……」
 ステラは目を伏せた。しばらく思案しているようにテーブルに視線を落としていたが、やがて再び目を上げて僕を見た。
「でもジャスティン、ご両親に反対されても、あなたの決意は変わらなかったのでしょう? わたしが反対しても、やっぱり気が変わったりはしないのでしょうね」
「ああ。君には申しわけないけれどね。でも、できたらわかってほしいんだ。君だけには」
「そう。わかったわ……少し考えさせて」ステラは微かに頷き、再びテーブルに目を落とした。考え込んでいるような沈黙が、しばらく続いた。僕は黙って待っていた。
 やがて、彼女は思い切ったように目を上げ、頷いてくれた。「ええ。わかったわ。それがあなたの夢なのよね。しかたがないわ。でも、一つだけ約束して」
「なんだい?」
「浮気はしないでね。他の女の子と仲良くしたりしないで」
「しないよ。そんなこと、絶対に」僕は思わず吹き出した。
「本当に? 約束よ」
「ああ、約束するよ」
「それなら……いいわ。がんばってね」
「ああ、ありがとう、ステラ!」
 僕は安堵のあまり、彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。でもステラは人前でのそんな行為をとても許さないだろう。
「でも、今日は大丈夫なの? 卒業パーティには来てくれるの?」ステラは心配そうに首をかしげ、問いかけてくる。
「ああ、行くよ。ジョイスに頼んで、着ていけそうな服を持ってきてもらうから。来週には僕も卒業式だから、ちゃんとした服装が必要だしね。タクシーにはなってしまうけれど、五時半に君の家に迎えに行けるようにするから」
「そう。よかったわ」ステラはティーカップを手に取りながら、控えめな微笑を見せてくれた。

 ステラの家に歩いて送り届けた後、僕は正式契約のために、再び地下鉄に乗って、マネージメントのオフィスへと向かった。通された部屋には、すでにジョージとロビンが来ていた。二人の話では、やはり最初はかなり反対されたらしい。殊に父親は、なかなか納得できない様子だったという。二人一度にということも、動揺に拍車をかけたのだろう。同族会社のことゆえ、息子三人ともに会社を継がせたかったらしい。ジョージには大学で経営学を勉強させていたのに、卒業まであと一年で中退、ロビンは入学手続きも済んでいたのに、僕と同じように入学辞退。そのことに対しても、かなり反対されたという。でも一族の主である祖父が言ったらしい。『そうだな。枠にはまらない生き方をするものが出てきても、良いだろう。みなが皆、同じ価値観を持ち同じ生き方をするのは、つまらないからな。会社の方はブライアンにがんばってもらって、おまえたちは外へ出るか、ジョージ、ロビン? それもいい。私は規範に外れたことが好きだ。それでなくては発展しないからな』と。
「それで、親父も何も言えなくなっていたぜ。うちでは誰も、祖父ちゃんには逆らえないんだ。でも祖父ちゃんには言われたぜ。外へ出ても、おまえたちはスタンフォード一族の一員だ。その誇りを忘れるな、と」ジョージは少し首を振りながら、言っていた。
「それに、こうも言われたんだ。おまえたちはスタンフォードの一族だ。それは変わりないが、おまえたちのこれからの活動に対して、バックアップは一切しない。妨害もしないが、と。経済的な援助も一切しないし、会社に関わらなければ遺産もない。自分たちの力で切り開いていけ。だがもし失敗して食い詰めたら、その時には会社で拾ってやるとさ」
「でも失敗したら、戻れるんだ。寛大だね」
「そう甘くはないぜ、ジャスティン。俺もロビンも、その場合は高卒の事務員として、一番下からのスタートだからな。きちんとした実績を残さず、見込みもなければ、昇進もさせないって言われているんだ。それでもいいなら、おまえたちは自分の好きな道を行け、とさ。上等だ。だめだったら、事務でも何でもやってやる。でも今俺が考えていることは、俺たちのバンドを、会社の広告塔になれるくらい、でかくすることだ。もっとも、俺もロビンもその中心には絶対なれないが、って言ったら、祖父ちゃんは大笑いしてたぜ」
「頼もしいなあ、ジョージ」それしか言葉がない。
「だから、頑張ろうな」彼は、ぽんと僕の肩を叩いた。
「ああ。でも考えてみたら、すごいね。二人とも、そのまま行けば企業経営者になれただろうに。スタンフォードグループの系列会社は、たくさんあるし」
「俺は、会社は好きじゃないんだよ」ジョージは頭を振った。「いや、普通の会社に勤めるならまだしも、うちの会社はなあ。どうしても経営者の身内っていう目で見られるし、後継者争いにも巻き込まれる。なまじ、祖父ちゃんが実力主義で、親父の次は、祖父ちゃんの孫たちの誰か、一番ふさわしいものに継がせるなんて宣言してくれたおかげで、大変なんだ。子供の頃は仲が良かった従兄姉たちが、みんなライバルみたいにピリピリになっちまって。伯父さん伯母さんもな。表面は和やかなんだが、目が真剣過ぎてな」
「バーナード・スタンフォードさんの孫って、たしかみんなで十人くらいだよね」
「そう。俺たちを含めて男が七人、女が三人だ。ポーラ伯母さんみたいな切れ者もいるから、女でも排除はしないらしい。でもな、俺はCEOとか社長とかには、あまり興味がないんだ」
「でもお祖父さんは兄さんのこと、かなり評価しているみたいだよ。大胆で思い切りが良いって、ほめていて。ダークホースじゃないかって、親戚の間では言われているらしいよ。前、父さん母さんがそんな話をしていたんだ。だから僕たちが外へ出るって言った時、伯父さん伯母さんたちは、かなりほっとした顔をしていたね」
「まったくな。だが俺は、そんなこと初耳だぞ、ロビン。伯父さん伯母さんたちも、俺よりおまえのことを警戒してなかったか? おまえは祖父ちゃんの秘蔵っ子だからな」
「でも、僕に会社経営の素質があるとは、とても思えないよ。実力的には、一番ないんじゃないかな。だから、大学も経営学じゃなくて、文学系だったし……結局、行かなかったけれどね。お祖父ちゃんが僕をかわいがってくれるのは、僕が孫たちの一番年下で、お祖母ちゃんに似ているからだと思うんだ」
「それはあるだろうな。だが、俺たち二人が後継者争いから外れたんで、親父は気の毒だったな。ひどくがっかりしたような顔でうなだれていた。それを見て、さすがに罪悪感を覚えたが、今朝になって親父は言ったんだ。まあ、いいのかもしれない。おまえたちが自由になりたいのなら、ってな」
「自由……か。そうだね」僕は思わず呟いた。
「そうさ、自由はいいもんだぜ。いろいろなしがらみから解放されてな。自由に夢を追える。多少貧乏になったって、不自由したって、覚悟の上だぜ」ジョージは僕の背中をバンと叩いて笑った。

 ミックはお昼過ぎに、マネージメントに電話をかけてきた。彼の実家はオタワで、バンクーバーから僕たちと一緒ではなく、直行便で帰っていったので、まだ実家にいるのだろう。
「あいつも、なかなかエリート一家だからな。すんなり許可が下りるかな」
 帰りの飛行機の中で、ジョージが言っていたものだ。
「スタンフォードもすごいけれどね。ミックのご両親はどんな人なのかい?」僕は聞いた。
「カーマイケル・ストレイツって知ってるか?」
 聞いたことがある名前だ。僕はしばらく考え、やがて思い当たった。
「政治家だね。与党の重鎮で、いろいろな大臣を歴任している……まさかその人が、ミックのお父さん?」
「そうだ。その奥さんはアメリカのコングロマリットの、創始者の娘だ。ミックはその夫婦の息子だ。それも結婚十一年目にできた、大事な一粒種なんだぜ」
「本当に!? それは、とんでもないエリートだね。大丈夫かなあ」
 一緒に帰っていた僕ら三人、エアリィとロビンと僕は、一斉に言ったものだ。

 バンクーバーでも会った若い方の男の人、ロバート・ビュフォードさんが電話を取った。彼は僕がこの部屋に入った時、すでに来ていたジョージとロビンとともにいて、立ち上がって迎えてくれていた。『よく来たね。正式に僕が君たちの専属マネージャーになったよ。ロブと呼んでくれ。一緒に頑張っていこう』と。
 ビュフォードさんは一言二言話すと、すぐに電話をスピーカーモードに切り替えてくれた。ミックの声が聞こえる。『大丈夫です。父も母も、許してくれました』と。
「それは良かった」ビュフォードさんは笑みを浮かべて頷き、「あとは、他のメンバーたちと話すかい? 今はローリングス君とスタンフォード兄弟が一緒にいるが」
『ああ、そうですか。そこにいるということは、彼らは正式に契約できたんですね』
「ああ、さっき終わったよ。君はいつ来られるかい?」
『今から空港に向かうので、夕方になると思います。トロントに着いたら、すぐそちらに伺いますので。ああ、じゃ、ジョージに代わってもらえますか?』
「よく許してもらえたな」ジョージは受話器を取るなり、そう言っていた。
『君たちの方こそ』ミックは微かに笑っているようだ。
「すんなりいったのか?」
『まさか。バンクーバーから電話を入れた時には、ものすごく取り乱していたよ、二人とも。でもさ、僕は二人に言ったんだ。政治家になるなら、知名度も必要だってね』
「まあ、それはそうだろうが、もともと親父さんの地盤があるだろ?」
『でも、それだけじゃね。でも、そう言ったら、二人とも安心したらしいんだ。最終的には、僕は政治家になる心づもりがあるようだって』
「本当にあるのか?」
『さあね。でも、最後には仕方がないかなとは思っているよ。宿命みたいなものだろうね』微かな笑い声がした。『交換条件と言うか、約束もさせられたしね。両親との関係は、とりあえず公表しないこと。品行方正にし、異性関係や薬などのスキャンダルは決して起こさないこと。いつかは、父さんの後を継ぐこと』
「いつかは、か。いつになるかだな、問題は」ジョージも笑っていた。
『それと、僕の音楽活動に手は貸さない、と言っていたよ。妨害はしないけれど、と』
「うちと同じだな、それは」
『そっちもそうなんだね。期限はつけられたかい?』
「何の期限だ?」
『どこまでトライするか――芽が出なかった場合、どのくらいであきらめるか』
「いや。ただ失敗して食うに困ったら、スタンフォード家の体裁もあるから、会社に拾ってやるって言われただけだぜ」
『そうか。僕の場合は、三十までだ。それまでに成功のめどが立たなかったら、引退して父さんの秘書になれって言われたよ。それも条件の内さ』
 ミックが三十になるまで、ということは、あと八年くらいか。どう転ぶにせよ、そのころまでには決着がついているだろう。そうだ。ついでにミックにお願いしたいことがある。僕は電話をかわってもらい、家を出てきてしまったので、アパートが見つかるまで、しばらく彼の下宿に泊めてほしいと頼んだ。
 ミックは二年までは大学の寮に住んでいたらしいけれど、三年生になる時にそこを出て、今は市内の高級アパートメントで一人暮らしをしている。一、二度訪れたことがあるが、三部屋くらいあって、親元から派遣されたというお手伝いさんが通いで来て、家事はやってくれているという、その待遇の良さに驚いたものだ。でも今は、その理由も納得できる。
 家に帰れない僕は、誰かの家に泊めてもらわなければならないけれど、ロビンとジョージの家は、今は泊まりづらい。ミュージシャンになるならないで大揉めした直後に、しかもスタンフォード夫妻は基本的には反対、という心情だけに、同じ仲間の僕が行くというのも、いくら子供の頃からのなじみとはいえ、少し複雑かもしれないから。エアリィの家にも家族がいるし、エステルちゃんはともかく、お継父さんの方にはなじみがない。まあ、ほとんどいないらしいが。それよりは他の同居人がいないミックの下宿の方が、広いし、気が楽かもしれないと思ったからだ。
 ミックはすぐに頼みを聞いてくれた。『ああ、それはもちろんかまわないよ』と。
「正式契約が済んだら、君たち全員に部屋を提供する予定だよ。ワンルームで狭いがね」ビュフォードさんが僕らに言った。
『僕は大丈夫ですよ、今のところで。両親がそうして欲しいと言うので』
「じゃあ、ストレイツ君以外で。ローリングス君、君の部屋も用意しているよ。明後日には引っ越せると思う」
「そうですか。よかった。早速明後日、引っ越します。今日と明日は、ミックのところに泊めてもらいます。あ、でも今日は女友達の卒業パーティに夕方から行く予定なんで、夜になるけれど」
『じゃあ、僕は一度マネージメントに顔を出して、契約を済ませたら帰っているから、パーティが終わったら連絡してくれないか』
「ありがとう。お世話になります」よし、当面の宿は確保できた。




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