The Sacred Mother - Part 1 The New World

第一章  プレリュード(4)





 フルメンバーになってから一か月がたった二月半ば、僕はヴォーカリストが入ったらやりたいと、前から思っていたことを、実行に移した。歌入りオリジナルを完成させることだ。「インストでいくつか曲は作ったけど、歌を入れたいんだ。おまえ、歌メロは自分で考えられるか? 歌詞も書けるか?」と。
 その時には、その分野における彼の能力はまったく未知数だった。あまりにも歌のインパクトが素晴らしかったので、僕らはみな、アーディスが“最後のピース”であることを疑わなかったけれど、出来ないものは何もない、と言っていいほどすべての分野において突出した能力の持ち主である彼でも、クリエイティヴな分野は、また別物かもしれないと。
「みんなが作ったインスト曲の上に、歌を乗せるってこと? やったことないや。うちで試してみるから、できたらインスト曲録音したの、貸してくれるとありがたいな。あ、僕再生機持ってないから、ついでにそれも」
 一度聴いたら覚えられる記憶力なら、その場で演奏して聞かせるだけでも大丈夫じゃないか、と僕は思い、そう言ったが、「んー、まあ、それでもできそうだけど、実際の音聞いてた方が、イメージ湧きそうな気がして」ということらしい。まあ、それもそうだと思い、僕は兄のものだった古いMDプレイヤーとデッキを持ち出して、それまでに出来ていたインストのオリジナル曲五曲をMDに入れ、プレイヤーごと貸した。
 それから十日ほどたったころ、エアリィはそれを返してきた。
「二曲だけ出来た。あとは……んー、歌入れるより、インストとしてやった方がいいと思う。インストで完結しちゃってる感じだから」
「わかった。出来たものはどこに入ってるんだ?」と僕が聞くと、彼はきょとんとした顔で、「え、だって録音できるものないし、僕は楽譜書けないから、頭ん中だけだよ」と答える。思わず「おいー」と叫びたくなったが、エアリィは写実的記憶力の持ち主だから、忘れることはないのだろうな、と思いなおした。
「と、とりあえずここでちゃんと録音して、媒体に落としておこう。僕らも一緒に演奏して……君がヴォーカルパートを書いてきたのは、どの曲とどの曲?」
 ミックが慌てたように言い、僕らもみな頷いた。いくら驚異的な記憶力の持ち主でも、頭の中だけというのは、あまりに頼りなさ過ぎる。
「二曲目と五曲目。あれ、タイトルあるの? 僕、勝手につけちゃったけど。『Truer Words』と、『A Spirit in Calling』って」
「いや、今のところ正式タイトルはないから、別におまえが曲名をつけてもかまわないさ。歌詞に連動している部分もあるだろうからな」僕は頷いた。彼が挙げた曲タイトルだと、どういう詞が飛び出しそうか、期待と少しの不安を交錯させて。
「ついでに他の三曲にもつけちゃった。一曲目は『Rain Forest』熱帯雨林ぽいじゃない、感じが。三曲目は『Tragedy』うん、悲劇、いろんな意味で。四曲目が『The Big Drive』大きな車に乗って、わーっと走ってる感じ」
「ああ、まあ……意外とはまるかもな」僕らは顔を見合わせて苦笑する。
「わかった。二曲目と五曲目だね。他のインスト曲も、君のタイトルを採用してもいいよ。イメージに合っていそうだから。ちょっと待って。準備するから」
 ミックが微笑と苦笑を同時に浮かべながら、いつも持っているノートパソコンを開き、練習場にセットされている簡単なミキシングボードから端子をつないだ。専用ソフトを使ってパソコンのハードディスクへ録音し、そこからCDにバックアップをしたりする。僕はあまり技術的なことは、よくわからないが。
 録音を開始し、僕らも演奏を始めた。しかし頭一分くらい、エアリィはまったく入ってこない。(おい、いつ入るんだよ)と思いかけた頃、彼は歌いはじめた。
「あなたは言う/それが世の中の条理だと/社会は動いている/大きな規範で/どうやって生きるべきか/どういう風に振舞うべきか/何を話すべきか/僕はなんて言ったら良い?/あなたがそんな風に話すなら/僕はどう感じるべき?/あなたがそんな風に振舞うなら/真実、何が真実なんだろう/あなたは言う、それが真実なんだと/だけどもっと真実の言葉があるなら/それを聞かせて/どこにあるのかわからないけれど」
 それは初めて彼の歌を聴いた時と、勝るとも劣らない衝撃だった。なんというメロディ――時おり楽器群にクロスするような感じで響くので、完全に調和しているとは言いがたいが、フックに富んだ、それ自体独立した旋律。でもインストと相反することは決してなく、うねるような波を感じさせる。ありきたりでなく、それでも親しみやすく、心に染みとおるメロディ。そしてその言葉は――。
「歌詞が青臭いのは許して! そんな大人じゃないから、僕」
 エアリィは曲が終わると、頭を振って笑った。「それにまだ韻とか、それほど気にしてなかったから、まあこれ、ベータ版。もうちょっとシェイプアップ出来ると思う」
「いや……良いと思う。僕らのほうも少し手直しするよ」僕はかろうじて答え、思わず言葉を継いだ。「でもおまえ……こんな詞、書くんだ。どういうインスピレーションなんだ?」
「これはさ、十日くらい前に学校でラテン語の時間に、ジョンソン先生がパーソンズに怒ってたじゃない。お説教的な感じで。あれ聞いてて思ったことが元なんだ」
「あれか。たしかにあの言い方はひどいと思ったが……そうか……」
「変?」
「いや、この路線で大丈夫だよ。とてもいい曲になった……」ミックが少し詰まったような声で言い、頷く。「それじゃ、二曲目に行こうか。君に渡したMDの五曲目だったね」
「うん。一番ロック風味なやつだね」
 僕たちは再び演奏を始めた。最初の曲はミッドテンポの比較的重いビートだったが、この曲は跳ねるような疾走感がある、今のところ一番お気に入りの曲だ。そして結果は――僕らは再び驚かされることになった。変拍子やリズムチェンジの入った、少し複雑なロック曲、その上に紡がれる躍動感と熱気に満ちたメロディ。時おりシンコペーションをあわせ、きれいに転調する。楽曲の複雑さに負けないアレンジだ。そして歌詞の方は、そう、なんと言ったらいいだろう――スクールカーストとか、同調圧力とか、そういうものを冷静に見つめて、そして問いかける。「それはいったい誰のためなのか。それは楽しいのか、何のために。何を自分は真に求めているのか」と。最初の曲、『Truer words』は大人達の求める規範に対する疑問、そう、どちらも社会対個人の価値観や存在を問いかけるもの。ある意味、非常に僕好みというか、ビンゴだ。Swifterにも通じる――あちらは大人なので、もう少し比喩も多く、やや哲学的だが。
 僕は悟った。きっと他の三人も同じ思いだっただろう。僕らは宝くじの一等を引き当てた。あらゆる意味で僕らの理想を実現した(ちょっと若すぎる年齢以外は)、最後のピースが完璧にはまったのだと。

 三月、ちょうどロビンと僕が十七回目の誕生日を迎えた頃、僕らはコンテストに応募した。一度、ミックとジョージの前のバンドでも応募したことがあるという、プロへの登竜門で有名な、国内で一番大きいアマチュア・ロックコンテストだ。今年の六月でやっと十四才という若いヴォーカリストを迎えたことで、ますますクラブ出演の道は遠のき、たまに行われるハイスクールの体育館や公民館でのライヴしかほぼ出番のない今(あと二年が、あと五年になってしまった)、それが道を開く一番の方法だった。その時には三曲目の歌入りオリジナルを作っている最中だったが、まだ完成はしていなかったので、先に出来た二曲のうち『A Spirit in Calling』を応募曲とし、規定にあったようにオーディオと映像の二ファイルを作ってDVDに焼き、バンド全員で撮った写真と個人データを記入して郵送した。
 その時には、僕はあまり結果を期待してはいなかった。たしかに自分たちのバンドには満足していたし、その中でできるだけのことはしているという自負もある。でもこの広大なミュージックシーン、星の数ほどもあるアマチュアバンドの中で、自分たちがどんな位置にいるか、クラブシーン経験のない僕にはまったくわからなかったから、うぬぼれる勇気もなかった。エアリィにいたってはミックに「この用紙に必要事項を書き込んで」と紙を渡された時、「うん。でもMELVICって何? 国内最強のコンテスト? ええ、応募するの? 本気で? 嘘だぁ!」と、驚いたように声を上げていた。カナダに来てからまだ半年の彼は、コンテストの存在すら知らなかったわけだ。それにバンドを結成してからは一年でも、アーディスが参加してからはまだ二ヶ月だから、いきなりのコンテスト応募に面食らったのだろう。ただミックやジョージ、それにロビンまでが珍しく、「いや、いいところまで行けるかもしれないよ」と強気だった。

 応募から一ヶ月がたったころ、練習場に来たミックはバッグの中からおもむろに、一枚の紙を取り出して広げた。
「さっき、メールが来たんだ。これはその写しさ。コンテストの結果が来たよ」
「「どうだった!?」」僕らは一斉に声を上げる。
「こう書いてある。【エントリーナンバー八三八番、AirLace──あなたたちは、オンタリオ州一次、二次予選を通過いたしました。五月八日、午後四時より○×ホールにて州大会を行いますので、本メールを直接か、またはプリントしたものを持って、当日十二時までに会場にお越しください。州大会でのあなた方のエントリーナンバーは二四番です】」
 ミックは手にした紙を僕らの方に掲げた。「ほら、確認してごらん」
「ええ?!」その内容を読むと、思わず大声が出た。
「予選を通った? 州大会だって?!」
「うぉー! 本当に予選を通ったか!」ジョージが感極まったような声で叫んだ。「前の時には、応募して一週間もたたないうちに落選メールが来たが、今回は遅いから、期待はしてたんだ。それでもな……ああ、オンタリオ州予選は、全国で名だたる激戦区なんだぜ」
「そう。僕たちは無事激戦の中を勝ち抜けたんだ。きっと行けるだろうと思ってはいても、この結果を見た時には、僕も震えたよ」ミックの口調は落ち着いているが、声はまだ少し上擦っている。
「今日は、四月の十七日だな。本選まで、あと三週間だ。やることはわかってるな」ジョージが厳かに告げ、僕らはみな「練習だね」と、頷く。
「そうだ。今までのように週三、四回じゃなく、最低でも五日は取りたいな。平日三時間、今日のような休日は、五時間くらいはな」
「うん。僕らは大丈夫だよ。エアリィはたぶん、無理だろうけれど」僕は苦笑した。
「まあ、あいつは特別ルールだからな。今日だって、三時半から妹連れで参加するって言っていたしな」
「エステルちゃんも来るんだね。特に、今日は土曜日だしね」
 ミックは微笑し、続けた。「それは彼が加入した時の約束だから、仕方がないね。僕ら四人の時には、インスト部のシェイプアップに専念しよう」

 僕らが練習を始めて二時間ほどたった頃、エアリィがエステルを連れて合流してきた。僕らはいつものように、彼女のために椅子と小さなテーブルを用意した。エステルはたいてい、ピンクと白、ウサギのぬいぐるみを二つ抱え、お絵かき帳とクレヨン持参でやってくる。大きな音で耳がやられないよう、ピンクの耳当てもつけている。兄の方は妹のために水筒とお菓子を持ってきて、お菓子の方は僕らにもふるまってくれる。手作りらしいが、うちの家政婦、ホプキンスさんにも負けない味だ。今日もクッキーを持ってきてくれたので、母屋から紅茶を持ってきてもらって、僕らも一息入れた。そして僕らは、コンテストの結果を彼にも告げた。
「え? 本選出るの? 僕も?」エアリィは驚いたように言い、
「当たり前だろうが!」と、僕らは一斉に返す。
「おまえ、もう少し自覚を持ってくれよ。いくら特別ルールだと言っても、正式メンバーなことに、変わりはないんだぞ」僕は肩をすくめた。
「うん。でも、また土曜日か」
「エステルちゃんは、連れてきてもいいよ。出演はできないけどな、当然」
 視線が妹のところへ飛んだので、僕は先んじて言った。他の三人も頷く。
「わかった。で、応募曲を演奏すればいいんだね」
「そうだよ。僕らのエントリー番号は二四番だから、かなり後だろうけれどね。全部で二八組が出演して、最後に州代表二組が選ばれるんだ」ミックが説明する。
「選ばれなかったら、そこで終わりなんだね。もし万が一、選ばれたら?」
「その二週間後に全国大会があるんだ。今年は、バンクーバーで行われるけれど」
「うわ、西海岸。遠!」
「もし、行ければの話だがな、あくまで」ジョージがそう釘をさす。
「もし選ばれれば、交通費と宿泊費は主催者側から出るよ」ミックも補足する。
「そうなんだ。それで、もしバンクーバーに行くことになったら、同じ曲をやるの?」
「いや、その時には、別の曲が必要だよ」
「何をやるの?」
「いや、先走るなよ、エアリィ」僕はそこで止めた。「まだ全国大会の話をするのは、早すぎるだろ! とりあえず州大会だ。二八分の二だぞ。ここで止まる確率の方がはるかに高いんだ」
「単純な確率論だけではないとは、思うけれどね、僕は」ミックが微かに首を振った。「先はたしかに、見据えておいた方が良いと思うよ。途中で止まる可能性もあるにせよね。そう、全国大会では、州大会とは違う曲を演奏することになる。もし行くことになったなら、二週間の間に、別の候補曲を選定して、練習しなければね。だから、ちょっと忙しくなるかな。それで、もし全国大会で優勝できたら、コンテストの動画チャンネルに登録される。普通に動画サイトで流すよりも、見てもらえる確率は格段に高くなるし、音楽事務所やレーベルの人たちも見に来るから、彼らの目に止まれば、デビューの道も開けるんだ」
「そうなんだ。そうなったら、大学との両立って、可能?」
「いや、無理だろ」僕は思わず声を上げた。
「そうだね。今はCD媒体の売り上げも激減しているし、動画やストリーミングもまだそこまで普及はしていないうえに、もしこちらが主流になったとしたら、ますます厳しくなるだろう。印税がけた違いに少ないからね。だから、ライヴで知名度を上げつつ、収入を得る必要がある。売れなくて、オファーがないなら、大学へ行くことも、副業を持つことも可能だけれどね。でも、音楽で成功しようと思ったら、たぶんそんな暇はないはずだよ」ミックが後を受けて、説明していた。
「そうなんだ」エアリィはしばらく黙り、そして続けた。「それで、みんなは音楽で成功することを望んでる、ってことなんだね」
「そこは見据えてなかったのか、おまえ」僕は再び声を上げた。
「うん、全然」
 そう返されて、思わずこけそうになる。たしかにバンドに加入した時も、「そこまでコミットする気はなかった」と言う奴だから、熱量の差は無理もないのかもしれないが。
「でも、万が一そうなっちゃったら、ジャスティンもロビンも、大学どうするの? まあ、僕もだけど」
 そうだ。僕らはもうすでに、進学先が決まっている。三人ともトロント大学へ行く予定で、エアリィは特待枠で物理学部、ロビンは人文学部、そして僕は医学部だ。
 プロのミュージシャンになりたい。それが僕の夢。もちろんそのためにバンドをやっているのだし、それを目標にして、がんばってきたつもりだ。実現することを夢見て。でも、それはいつ現実になるのだろう? 本当にミュージシャンになりたいのなら、なぜ僕は大学へ、しかも医学部へ行こうとするのだろう。ロックミュージシャンに大学は必要ないだろうに。進学を決めた時には、たしかに思っていた。まだはっきりプロへの道は開けていないのだから、大学へ行きながら今のようにセミプロとして活動をし、チャンスがあったらプロになろうと。でももしチャンスが来なかったらそのまま就職して、趣味として続ければいい――進学を決めた裏には、心のどこかにその思いがあったことは否めない。夢が見果てぬ夢で終わる可能性も考えて、安全な逃げ道を作っていたのだと。
「まあでも、先のことはわかんないから、その時に考えたらいいか」エアリィは首を振り、迷いのなさそうな口調で言う。自分から話を振っておいて、気楽な奴だ。でも、たしかにそのとおりで、三週間後に終わってしまう可能性も十分、いや、かなり高いだろう。

 でも実際には、そこで終わりはしなかった。僕らは州代表に選ばれてしまったのだ。とても信じられなかったが、紛れもない現実だった。夢はまだ進んでいる。
 二週間後の土曜日に、バンクーバーでコンテストの全国大会が行われた。僕らは大会の前日、初めて西海岸のその都市を訪れた。翌日午後からリハーサルが始まり、夕方五時から本番。全国大会では州大会と違う曲にしなければならないので、先月セッションで一から作り上げた四番目の歌入りオリジナル曲、その当時一番の自信作でもあった『Shades of Green』でエントリーした。これは思春期の、それこそ“青臭いものの見方”を自嘲気味に振り返ったような歌詞で、その底から純粋で無垢な精神性が輝き出るような、そんな曲だ。構成はいわゆるヴァース・コーラス・ヴァース・コーラス・ミドルエイト・コーラス、というような典型的なパターンをあえて外し、ちょっと複雑にした。変拍子やリズムチェンジも入れた。イントロから七拍子のアルペジオなんてSwifterの影響がありありだけれど、耳に残る軽快なヴォーカルメロディがインストの複雑さをカヴァーして調和する、不思議な曲でもある。
 演奏を終え、すべての出場者が出番を終えた後、三十分ほど休憩。その後、出場者十二組全員がステージに上げられる。そこで司会者が発表していく。まずは特別賞。それから準優勝。僕らの名前は上がらない。やっぱりそう甘くはないかな、ストレートな音楽の方が有利だったかな、そう思いかけたころ、司会者が高らかに言った。
「それでは最後に、今大会の栄えある優勝者を発表します」
 十秒ほどの緊迫した沈黙のあと、勝ち誇ったようなトーンで告げる。
「八番。オンタリオ州、AirLace! 参加曲『Shades of Green』!」
 一瞬、耳にした言葉が信じられず、僕は固まった。
「えー!? マジでぇ!?」と、エアリィは驚き全開なトーンで声を上げ、「うぉおおお!! やったぞ!」と、ジョージは両手を突き上げ、雄叫びを上げた。ロビンは「うわぁあ」と震えながら、両手をぎゅっと握り合わせ、ミックは紅潮した顔で「やった! とうとう!」とため息を吐くように言った。
 そんなみんなの反応を見、聞きながら、僕はなおも声が出なかった。会場の拍手と歓声の中、奇妙な激しい戦慄が身体を駆け抜けるのを感じた。本当に──実現してしまうのか? 僕の夢がこんなに早く。
 司会者に「おめでとう。今の気分は?」と聞かれても、すぐには言葉が出なかった。 「あ、なんだか本当に……信じられません。でも本当に嬉しいです。ありがとうございます」――やっとそれだけ言った。先に司会者にマイクを向けられたエアリィが、「嘘みたい。ホント、信じられない。でも嬉しいです! ありがとう!」と答えた後だったので、結果的に同じことを丁寧に言いなおしたような感じになってしまったけれど、それは僕自身の感想でもあることには間違いない。

 毎年このコンテストには、音楽事務所やレコード会社など、業界の人が大勢足を運んで、これぞと思った出場者に対して交渉し、契約を持ちかけるという。結果、毎年優勝者はほぼ必ず、時には準優勝や特別賞の出場者にも、稀には選に漏れた人でも、プロへの道が開けることになるらしい。業界自体は年々厳しくなってはいるらしいが、とりあえずチャンスは与えられることになる。
 大会終了後、僕たちは出演者何組かが一緒に使っていた楽屋ではなく、テーブルと椅子が八客置いてある小さな部屋へ案内された。
「これから交渉が始まりますから、そこで待っていてください」
 主催者側の係員が言う。出された飲み物を飲みながら二十分ほど待っていると、ノックの音がし、二人の男性が現われた。ひとりは四十代半ばくらいの年配で、濃い金髪を七三に分けてなでつけ、銀ぶちの眼鏡をかけた背の高い人。もう一人は二十代後半くらいだろうか。背は年配の人より少しだけ低く、髪は茶色で少しウェーヴがかかり、肩幅が広く体つきはしっかりしているが色白で細面だ。茶色の目はあまり大きくなく、鼻筋は通っているがやはり細い感じで――まあ、あまり大きな特徴はないかもしれない。
「初めまして。幸運なことに、私たちが最初の交渉権を得たからよろしく頼むよ。私はASTRA Music Production総合マネージャー兼社長の、レイモンド・コールマンだ」
 年配の男性の方がそう名乗った時、僕は思わず声を上げた。「ASTRA?!」と。ミック、ロビン、ジョージも同じように声を上げている。かなり有名な、僕にとっては特別な音楽事務所。ロビンとミック、僕が大ファンだった、僕たちがこの道をめざそうと決心するきっかけになったスィフターが所属していたマネージメントだ。過去形で言わなければならないのが悲しいが。そう、彼らはもういないのだから。
「知っていてくれたのなら、嬉しいね」社長氏は笑みを浮かべた。「そうだね。資料によると君たちのうち三人は、一番好きなミュージシャンにスィフターを上げてくれていたから。嬉しいね。若い子のファンもいないではなかったが、数は少ないからね。だから、うちの事務所のことも知ってくれていたんだね」
「は、はい」僕はかろうじて頷いた。ミックも同じようにしている。ロビンは固まってしまったらしく、ただうつむいただけだったが。
 社長氏は笑顔で頷き返し、傍らの若い方の男性をさして言葉を継いでいた。
「こっちの男はロバート・ビュフォードという。我々はロブと呼んでいるのだが、去年までスィフターのロードマネージャー補佐をしていた男だ。あの事故の、唯一たいした怪我もなかった生存者さ。ある意味強運の持ち主だ。彼が州大会で、君たちのことを報告してきた。君たちにほれ込んだと。全国大会へ行くことになったから、社長もぜひその目で確かめてくれと言うんで、私もここへ来た。そして彼の目に狂いはなかったことを確信した。彼はぜひ君たちのマネージャーになりたいと言う。おっと、それは先走りすぎかな」
 コールマン氏は椅子に座りなおすと、僕たちを正面から見据えた。
「君たちは非常な逸材だ。うちのマネージメントと、ぜひ専属契約をして欲しい。うちは君たちも知ってのとおり不幸な事件があって、今は有力アーティストがいない状態だ。しかし長年培ってきた経験と信用がある。レコード会社やプロモーターへの有力なコネクションもあるし、優秀なスタッフも残っている。うちへ来てくれれば、全力でバックアップすることを約束する。だから、ぜひうちへ来てくれ」
 夢が現実になる時、どれほど震えるような歓びを感じるだろうかと思っていた。でも実際には、ただただ信じられなかった。耳にした言葉が、目の前の人たちの存在が。どんな夢だって、これほどとんとん拍子に行くなんて、考えられない。
 僕たちは先送りするはずの決断、見果てぬ夢にかけるのか安寧な現実を取るのかという一生を左右する重大な分岐点に、思ったよりもずっと早く直面することになってしまった。卒業式を間近に控えた、ハイスクール最終学年の春に。秋から僕たちはトロント大学に、進学が決まっている。ミックは来月大学を卒業して大学院に進学する予定で、ジョージのほうはあと一年、大学の課程を残している。もし今プロになったら、進学はできないだろう。セミプロならいざ知らず、プロのミュージシャンと大学生とは両立できるほど甘くない。大学へ行けないことはかまわない。でも進学をやめてしまうと、もう後戻りができないような気もして不安だ。僕が跡を継いで医者になってくれると信じて疑わない両親の顔が、頭の中をかすめていく。
 何を迷うんだ。とうとう望みが叶うんだぞ。なのになぜ、いざ実現しそうになっている今、不安を感じてためらったりするんだ。間違いなく大きなチャンスだ。ためらって逃したら、次はいつやってくるか保証はない。運良く次の機会が巡ってきたとしても、その時には自信を持って受けられるのか? 今受けるのと、どんな違いがあるのか? 何も違いはしない。ためらうのは愚かなことだ。チャンスが早ければ、よけいな回り道をしなくてすむ。それに僕たちからすれば、憧れのマネージメントからのオファーだ。好運の女神は後ろ髪が禿げているという。ためらって逃がすなんてもったいない。いつかは決断しなければならないことだ。思ったより少し早いだけだ。
「みんな、どうする? 僕は願ってもない話だと思うけれど」
 ミックが僕らを見回して問いかけた時、僕は即座に頷いた。
「受けるよ! よろこんで」
「俺も異存はないよ」ジョージはにんまりとした笑いを浮かべた。「しかしまあ、こんなに早くこの日が来るとはな。驚きだよ。大学はすっぱりやめよう。親にはいろいろ言われそうだが、元々その覚悟だったんだ」
「僕は卒業の年だから、憂いなく決断できるよ。大学院は入学辞退になっても、プロになれるのなら惜しくはないさ」ミックも笑みを浮かべながら、何度も頷いている。
「へえ、ホントにここまで来ちゃったんだ。夏一杯でやめるの、残念だなって思ってたけど……」エアリィの言葉は、青天の霹靂の一言だった。他の三人も同じだったらしく、一様に驚きの表情を浮かべている。
「え? どういうことだよ、エアリィ!」僕は思わず声を上げた。
「あ、まだみんなには言ってなかったけど」彼は少し戸惑ったような表情を浮かべた。「九月から、MITに行こうかなって思ってたんだ」
 MIT? マサチューセッツ工科大学――?
「おまえ、僕らと一緒にトロント大学に行くんじゃなかったのか? 特待生だろ」
「うん。話が来たときはそうしようと思ったんだけど、次点の人に、譲ってくれって頼まれてさ。彼はそれを逃したら大学へ行けないって言うんだ。経済事情で」
「それで譲ったのか。バカだな。特待生じゃなくたって、他にも奨学金はあったろうに。誰だよ、その図々しい奴は」
「いや、誰とかはいいよ。それで、継兄さんがMITを勧めてくれたんだ。彼、そこの大学院にいるんだ。僕なら特待生枠取れるから、教授に推薦してやるって。家の方もね、家政を見てくれる人が来月から来てくれるから、大丈夫だってなって」
「嘘だろ……」僕は思わず頭に手を当ててうめいた。「やめてくれよ。たった一年でアメリカに戻るなんて言うのは」
「あ、まだ決めたわけじゃないよ」エアリィはあっさりした口調で言う。「返事は保留してたんだ。このコンテストの結果が出るまで。ダメだったら、MITへ行こうって思ってた。みんなと別れるのは、寂しいなって思ったけど――よかった。そうならなくって」
「じゃ、お兄ちゃん、ボストン行かないの?」
 僕らが何か言うより早く、子供らしい声が響いた。エアリィの隣の席で絵本を見ていたエステルが、僕らの会話を聞いていたらしい。彼女の同行は、僕らにも予想済みだった。オンタリオ州大会にも来ていたし、練習にもほぼ毎回来ていたから。全国大会に行くために、スタンフォード家の車で順にメンバーをピックアップして空港に向かった。エアリィの家に寄った時、ちょっと申し訳なさそうに「ごめん、エステルもいい?」と妹を連れてきた時には、「やっぱりなあ」と、僕らは微苦笑を交わしたものだ。考えてみたら、父親が不在か、いてもかまってやれない状態の家に、泊りの旅行で小さな子を一人残しておくわけにはいかないから、当然でもあった。彼女の飛行機代は、お継父さんが出してくれたらしい。学校以外は、ほぼエアリィとセットで付いてくるエステルだから、僕らはもうすっかり彼女の存在に慣れていた。公共の場や楽屋では、おとなしく絵を描いたり絵本を見たりして一人で遊び、僕らがリハーサルや本番の時にも、ステージの隅っこの椅子に座ってじっと待っていたから、お行儀はいい子だ。僕らだけの時にはわりとおしゃべりで、比較的活発な子だが。
「うん。たぶん家は出るけど、トロントにはいるかな」
「わぁ、よかった!」兄の答えに、妹は両手を合わせ、歓声を上げる。
「紛らわしい言い方するなよ!」僕は安堵のあまり、思わず肩を叩いた。「つまりは、おまえもOKなんだよな、プロになるの」
「うん。そう言おうとしたら、途中で切られた」
「話の順序の問題だ、それはな。でも、良かったよ」ジョージも満面の笑みで頷いている。「おまえはどうする、ロビン? ここまで来たら、おまえも後には引かないよな」
「あたりまえだよ! 僕の夢だったんだから」ロビンは首を振り、兄に答えた。
「よし、じゃあ、プロになるということで決定だな!」ジョージがそう宣言し、
「では、さっそく仮契約、良いかい?」と、社長氏が身を乗り出してきた。
「本契約は、トロントの事務所で改めて行おう。親御さんたちにも話さなければならないだろうから、そうだな……明後日、事務所まで来てくれ。これが地図と連絡先だ」
 仮契約が終わると社長氏は僕らめいめいに名刺と、マネージメント事務所の場所を記した小さな地図を手渡した。

 一度転がり出したボールは、もう止まらない。翌日、僕らはバンクーバーからトロントへ帰り、その夜、僕は乗り越えなければならない大関門に正面突破を試みた。ホプキンスさんは休暇中で不在だけれど、夕食の席には家族全員がそろっている。父、母、兄のジョセフ、姉のジョアンナ、妹のジョイス。話をするにはいい機会だ。それにホプキンスさんの不在は、強力な反対勢力が一人減っていることを意味する。どの道、今日中に話をしなければならない。
 夕食が終わり、コーヒーもほぼ飲み終わったころ、僕は意を決して切り出した。
「話したいことがあるんだけれど、聞いてほしいんだ」
 そして僕は、一気に言った。僕は大学へは行かない。バンドがコンテストの全国大会で優勝して、プロから誘いが来た。僕らはそれを受けた。仮契約もすんだ。ハイスクールを卒業したら、マネージメントが借りてくれたアパートで暮らし、プロとしての第一歩を踏み出すつもりだ、と。
 僕の言葉の意味が家族に浸透するまで、かなりの時間を要したようだった。長い沈黙。やがて母がガタンと椅子を後ろに倒しながら立ち上がり、うわずった声で叫んだ。
「まあ、ジャスティン! なぜ、そんな大事なことを、一人で決めてしまったの?!」
「おまえがバンドを熱心にやっていたのは知っていたが」兄ジョセフの声もかすかに震えている。「大変なことだぞ。いや、医者にならなかった僕がえらそうなことは言えないが、それにしてもロックミュージシャンとは……どういう世界だか知っているのか?」
「知っているとは、言えないかもしれない。でも、実力や努力だけが必ずしも報われる世界じゃないことや、成功できるのはほんの一握りの人間だけだということや、成功したとしても堕落への誘惑も多い世界だということは、知っているつもりだよ」
「そうだ。好きだけでは、やっていけない世界だぞ。おまえがどれほどがんばっても、認められないかもしれない。どんなに努力しても這い上がれない、そういう可能性だってあるんだ。いや、そっちの方がはるかに多いだろう。特に今は、業界自体セールスが劇的に落ち込んでいるんだぞ。これからだって悪くなる一方だろう。おまえは夢を見ているだけだ。なぜ、危ない道を選ぼうとするんだ」
 だってそれは、僕の夢だから――それは軽々しい言葉だろうか。そう、本当に兄の言うとおり、夢を見ているだけなのだろうか。
 兄はため息を吐き、言葉を続けている。「おまえは医者に向いている。僕はそう思ってきたし、僕が親不孝をした分も、おまえが埋め合わせてくれると……いや、それは僕の勝手な期待だから、どうでもいい。でもな、ジャスティン。悪いことは言わない。芸能界なんて、外から眺めて憧れるだけにしておくんだ。中に入ったら幻滅するだけだ。いろいろなしがらみや誘惑や躓きや現実が、おまえの夢を奪っていくだろう。その時に後悔しても、もう遅いんだ」
 そうかもしれない。うまくいかない可能性だって、当然あるだろう。でもやりもしないうちから、あきらめたくはない。僕は反駁した。「どうして最悪のことばかり、考えなければならないんだい、ジョー兄さん。そういうことだって、あるかもしれない。それは、たしかに認めるよ。でも、そればかりじゃないはずだ。僕は音楽が好きだ。ギターが好きだ。仲間たちと好きな音楽をやって、それで生活が立てられたら、僕らの音楽を聞いてくれる人がいたら、それ以上は望まない。医者はたしかに興味はあるけれど、僕の天職じゃない。僕は父さんのように苦しんでいる患者さんたちを救うという使命感もないし、心が沸き立つわけでもない。たとえ成功の可能性がわずかでも、僕は自分の道にかけたいよ」
「……あなたはまだ若いし、今までに躓いたこともない。だからそう言えるのよ。あなたは現実の苦しさや厳しさというものが、わかっていないわ。わたしはあなたが医師にならないと言うなら、それはしかたがないとも思っているのよ。でも、ロックミュージシャンだけは……体面や体裁の問題ではないの。あまりに不安定だし、危険すぎるわ。音楽で生活が立てられる人なんて、ほんの一握りよ。それだって、いつまで続くかわからないのよ。不健康な世界だということも聞いているわ。ジャスティン……わたしはあなたを信用しているけれど、あなたは本当には何もわかっていない。夢を見ているだけよ。もっとよく考えなさい」母は懸命に落ち着こうとしているような声だった。
「だけど母さんや兄さんが、どれだけあの業界のことを知っているのかい? 外からの評判や偏見だけじゃないか」
「それだけじゃないぞ」兄がうなるように言う。「僕は少なくとも、おまえよりは知っている。僕だってロックは嫌いじゃない。おまえも僕がハイスクールの時、一時期バンドを組んでいたのを知っているだろう。そこでドラマーだった僕の友人はハイスクールを中退してプロをめざし、セミプロ活動に入った。彼は上手だった。才能もあったと思う。だが彼はとうとう芽が出ずに、今は結局、自分が以前出ていたクラブのバーテンダーをしている。八年も回り道をして、行きついた先が場末のクラブのバーテンダーだ。あの時でさえそうだ。ことに今は、音楽業界全体が厳しい状況に陥っている。新人をゆっくり育てている余力はない。すぐに成功しなければならないんだ。それがどれだけ難しいか。おまえだって、もし何年もそれでロスをしてしまったら、やり直すのは大変だぞ。また一から勉強しなおして、医大を受験する根性があるなら別だが、それでもどれだけかかるか……」
「その人は不幸な例だろう。失敗もあれば成功もあるんだ。そんなの、やってみなきゃわからないじゃないか。それに仮に失敗したって、僕は後悔なんかしないよ。行きつく先がクラブのバーテンダーでも、好きな音楽を聴いて働けるなら、僕ならきっと満足するさ。いいじゃないか。自分の生き方くらい、好きにさせてくれたって。僕はもう十七なんだし、ハイスクールも卒業する。もう一人前だと思ってる……」
「ばかもん! 一人で大人になったようなことを言うな!」
 父が家中に響き渡るような声で怒鳴り、同時にテーブルを激しく叩いた。その衝撃でコーヒーカップが二つほどひっくり返り、夕食用の白いテーブルクロスの上に、小さな茶色のしみを作っていく。父はさらに声を張り上げた。
「おまえなんぞ、まだまだひよっこにすぎん! 自分の好きなようにさせてくれだと?! ふざけるな! 大学の手続きも、もうすっかり済んでいるんだぞ!」
「それは……悪かったと思うよ。入学金も学費も無駄にして。いつかきっと返すから」
「金の問題じゃない! せっかくトロント大学の医学部に合格したんだ。どれだけ母さんも私も、喜んだと思っているんだ! それをこの場で、全部ひっくり返そうというのか! そんなことは許さん! おまえは大学に行って、医者になれ、ジャスティン! 医者になって、この病院を継ぐんだ!」
「いやだ! 僕は大学には行かない! 医者になんかならない! 自分の道を行きたい! 父さんの思いどおりになんか、なるもんか!」僕は衝動的に叫んでいた。
 父は乱暴にいすを後ろに引き倒すと、大股にやってきて、手を振り上げた。次の瞬間、鋭い痛みと衝撃が頬を走った。さらにもう一回。僕は思わず後ろによろめいた。口の中に血の味がし、同時に、ますますかっと熱くなった。
「わかってくれないなら、もういいよ!」
 部屋を飛びだして行く僕のあとから、色々な声が交錯して追いかけてくる。
「ジョン、暴力はやめてくださいな! ジャスティン、待ちなさい! まだ話は終わっていないでしょう! 戻ってらっしゃい!」母がうわずった声で叫び、
「追わなくていい、ルーシア! ほうっておけ! あんな奴はもう知らん!」父は激した様子で、吐き捨てるように怒鳴っている。
「二人とも興奮しないで。もっと落ち着いたほうがいいよ」ジョセフが宥め、
「これが落ち着いていられるか!」と、父が怒鳴り返す。
「とにかく、もう少し冷静に話しましょうよ」なだめるような声で言っているジョアンナ、
「お父さんったら、ひどい! 叩かなくたっていいじゃない!」と、声を上げてなじっているジョイス――。
 階段を上がって部屋に行くまでに、いろいろな声が入り交じって聞こえてきた。僕は自分の部屋のドアをバタンとしめて、音を遮断した。中から鍵をかけると、ベッドの上にどさっと身を投げ出し、枕に顔を埋める。
 親に叩かれたのは初めてではないけれど、覚えている限り、ここ十年ほどはない。頬が熱く、ジンジンとしびれるような感じがした。でも、痛みはどうでもいい。名状しがたい胸苦しさを感じた。家族にすんなり賛成してもらえるとは思っていなかったけれど、これほど拒絶されるとも予想していなかった。僕は自分の見通しの甘さをなじり、落ちこみ、それから考えることをはじめた。どうすればいいのだろう。
「家を出るしかないな……」
 両親を説き伏せるには、まだまだ時間と労力がかかりそうだ。ひょっとしたら、一生ダメかもしれない。わかってくれないなら、もういい。僕は自分の道を行くだけだ。  僕は起き上がり、大きな旅行用バッグをひっぱりだすと、荷造りをはじめた。これから家を出て、自分の足で踏み出さなければならない。親が許してくれても、契約が完結すれば僕たちはプロとして独立生活を始めることになる。どのみちこの家は出なければならないのだから、こういう形になったとしても未練はない。僕はもう十七才だ。ハイスクールも卒業する。もう親の保護なんか必要ない――。僕は少し逆上せていたのだと思う。初めて親に正面切って反抗した興奮と、その無理解に対する憤激とで、頭がいっぱいだった。




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