The Sacred Mother - Part 1 The New World

第一章  プレリュード(3)




 翌日は一時から三時まで、バスケットボールサークルの練習があった。小学校時代は野球をやっていたけれど、卒業の年にバスケが好きになり、中学からそっちに転向していた。別にプロになるとか、スター選手になるという夢は、みじんも持っていない。ただ、楽しいからやっているだけだ。ギターとは、あまり相性は良くない組み合わせだとは思うけれど、今までつき指なんかしたことはないし、ギターの演奏に響かせたりはしない自信もあった。
 その日、僕は練習時間より三十分ほど早く来た。ちょうど昼休み時間帯だから、体育館には誰もいない。一人練習には、うってつけだ。
 この日もかなり暑い日だった。僕は得意の、スリーポイントシュート練習をしていた。コートの中央からリングをめがけて、何度もボールを投げる。広い体育館に、ただボールの音だけが響く。その静寂が好きだった。自分一人しかいない、穏やかな静けさが。
 練習をはじめて十分くらいたったころ、僕の投げたボールはゴールを外れ、リングの縁に当たって大きく跳ねた。その時、声がした。
「あっ、おしい! けど、上手いね!」
 僕は突然現われた未知の侵入者に驚き、その声のトーンに二度驚いた。水晶のベルから鋭さを取り除き、それに風の音の軽やかさを一緒にしたような声だ。
 振りかえると、体育館の入り口のところに、誰かが立っている。相手は二、三歩、中へ入って転がってきたボールを拾い上げ、顔を上げて僕を見た。扉から差し込む光に、髪の毛がキラキラと輝いて、同化している。
 ――天使が来たのか――? それが、僕の第一印象だった。俗な意味ではなく、文字通り、真っ白な服に、背中から純白の羽根が生えた、あれだ。いや、羽根はさすがに生えていないようだ。それに、着ている丈の長いシャツは白いけれど、下はブルージーンズのようだ。その子はぱさっと髪を振り、ニコッと笑って口を開いた。
「こんにちは!」
「あ、初めまして……」思わず、そんな挨拶を返してしまった。
「あ、そっちが正しいか」その子は笑い、聞いてきた。「この学校の、バスケサークルの人?」
「そうだよ……」僕は頷いた。
「練習って、どのくらいあるの?」
「週三だよ。月、水、金で三時半から五時半まで」
「じゃあ、完全に趣味だね」
「まあ、そうだよ。学校のサークル活動だからね。専門のコーチもいなくて、学校の先生が兼任しているし。本気でやりたい人は、専門のクラブへ行くよ。ホッケーぐらいかな、熱心にやっているのは」
「ホッケーかぁ。まあ、カナダだもんね」
「ところで君……どこから来たの?」僕はそこでやっと、現実的な問いを放った。
「うん? 体育館の裏通路から来たんだよ」相手は髪を振るように小さく身体を揺すって、笑った。「それで、ボールの音が聞こえたから、ちょっとのぞいてみたんだ」
「いや、僕が聞きたかったのは、そういうことじゃないんだ。君は……誰? ここの生徒じゃないよね、どう見ても。まだ中学生くらいじゃないかい?」
「あ、そういうことか!」相手は頭を軽く叩くような仕草をした。「ごめん、怪しかったね。でも僕、いちおうここの生徒だよ。今期からだけど」
「じゃあ、新入生かい?」
「違うよ。最終学年に入るんだ。今日、事前ガイダンスで来たんだ」
「ええ!?」僕と同じ学年!? この子はどう見ても、十二、三才――仮にロビンのように若く見える子だとしても、せいぜい十四くらいだろう。それに、この子は少女だと思っていたが、話し方はまるで男の子のようだ。ゆったりしたシャツを着ているから、はっきりとはわからないけれど、見たところ胸も膨らんではいない。男の子っぽい喋りをする、あまりグラマーではない女の子なのか。それとも見た目が女の子っぽい男の子なのか。シャツの丈が長いので、前も見えない。もっとも仮にそうでなくても、じろじろ眺めるような不躾なことは出来ないし、赤ん坊や幼児ならいざ知らず、思春期の微妙な年頃の子に「君は男?女?」なんて、失礼なことも聞けない。
「で、でも君は……僕らと同い年じゃないと思うけれど」僕は辛うじて、そう問いかけた。
「あ、じゃあ、君も最終学年?」
「そうだよ。でも、君っていくつ?」
「十三」
 やっぱり、見た目相応の年か。四、五年スキップとは、相当派手な飛び級だ。
「転入生って言ったよね。元はどこから?」
「プロヴィデンスのセント・ハサウェイ・ハイスクール」
「ロードアイランドか。じゃあ、君はアメリカ人かい?」
「いや、国籍はカナダだよ。ほとんど向こうで育ってるけど」
「そうなんだ……」
 外が少し騒がしくなってきた。たぶんサークルの人たちが来たのだろう。その子はさっき拾い上げたボールを左手に持ち替え、投げ返してきた。投げられたボールがすぽんと僕の手に収まると同時に、すっとドアの向こうに消えていった。その声が、少し遠ざかるように響いてくる。「邪魔しちゃって、ごめん。また明日、学校で会えるといいな!」
「あ」僕は小さく言葉を発し、その場に立ちつくした。幻でも見たような、不思議な気分になっていた。言っていることは現実的だ。でも声のトーンや容姿、存在の雰囲気そのものが、どこか浮き世離れした印象を感じる。僕らと同じ次元に属していないような――
(あの子が転入生? 本当かな……?)
 ぼんやりとボールをもてあそびながら、そう思わずにはいられなかった。あの子はひょっとしたら本当に、幻かなにかではないだろうか。十三歳の高校生――しかも、最終学年生。どれだけ頭がいいのだろう。それも今まで見た中で、最上級の容姿――少し距離が離れていたけれど、それでもはっきりわかる。光のような金髪で、ギリシャ神話で神に愛された者たちもかくや、と思われる容貌。とんでもないオーラ。ありえない。できすぎている。明日学校へ行ったら、転入生なんかいないことがわかるのかもしれない。

 翌日は、新学年最初の日だ。僕はロビンとともに、真っ先にロビーに張り出されたクラス分け表を見に行った。記されているのはフルネームではなく、姓とイニシャル、学籍番号と性別だけだけれど、容易に見分けはつく。ロビンも僕も、すべてAクラスだった。やった! 僕らの学校の大学進学コースは主要科目がすべて能力別編成で、Aクラスは全校生徒の上位四分の一を意味する。僕たちはここのハイスクールに入学して二年目に進学コースに進んでから、ずっとAクラスをキープしていた。最終学年に来て落ちたくはなかったから、この結果にほっとしていた。
 僕は名簿をもう一度上から順に見ていった。他の顔ぶれは、どのクラスもあまり食指を動かされないメンバーばかりだ。またロビンと二人でなんとかやっていくしかないのかな──そう思いながらさらに名簿を見て行った僕は、自分の名前の下に見覚えのない名が記されているのを見つけた。
【A.R.Rosenstainer】
 あれ? 僕は驚き、思わずもう一度見返した。僕らが選択している科目のAクラス名簿全てに、同じ名が記されている。ローゼンスタイナーといえば、二十数年前に亡くなった有名な映画スターと同じ苗字だけれど、今まで僕らの学年にこんな姓の人はいなかった。転入生だろうか──?
 あっ──そこまで思った時、不意に思い起こされてきた。昨日、体育館で出会った子。あの子が、そのローゼンスタイナーという子なのだろうか。もしそうならあの子は後者、見た目が女の子っぽい男の子だったわけか。名簿にははっきりM――男性と記されている。でも本当にそうだろうか? あの子とこの転入生は、本当に同じ人物だろうか? それとも、まったく似ても似つかぬ人だったりするのだろうか。
 
 訝りながら玄関を抜け、教室へ向かう廊下を歩いていると、ちょうど角を曲がって、その子は現れた。僕は思わず足を止めた。大きめの水色Tシャツに、たぶん昨日と同じだろう、色のさめたインディゴブルーのジーンズ。歩みにつれて淡いブロンドの髪が揺れて、微かにきらきらと光る。それにしても、今日から早くも授業が始まるというのに、彼は何も持っていない。バッグも、テキストも、ノートさえも。
 彼はすぐに僕を見つけたようだった。目が合うと、にこっと笑って手を振り、小走りになってやってくる。「おはよう! また会ったね!」
 至近距離で見ると、改めてその容貌に感嘆する。それに、こんなに青が印象的な眼も、見たことがない。晴れた夏の空のようだ。その眼を縁取る長いまつ毛は、ちょっと変わった色をしていた。金色でも茶色でも、黒でもない。目の色を濃くしたような青。
「おはよう……」僕はぎこちなく微笑してあいさつした後、思わず続けてしまった。
「君は、やっぱり転校生だったんだね」と。
「うん。そう言ったじゃないか」相手は怪訝そうな表情になっていた。
「学校の案内とか、ガイダンスはなかったのかい?」
「あ、それ昨日終わった。担当の先生にも会ったし」
「誰だったかい?」
「ノーマ・ジョーンズ先生」
「そう。僕も同じ担当だ」
 同じAクラスで苗字が近いから、同じ担当かなとは思ったが、正解だったようだ。
「ホント? じゃ、同じスケジュール? これから英文?」
「そうだよ。英文のAクラス。君もそうじゃないかい?」
「わお、本当に?! そうだよ。すごい偶然!」
「今日は英文、数学、ラテン語、午後から物理だろ?」
「そう! ね、いやじゃなかったら、今日君たちと一緒に行っていい?」
「ああ……もちろん、いいよ」ほとんど何も考える間もなく、僕は頷いていた。
「ああ、よかった! ラッキー! ありがとう!」
 この子には、人に対するためらいとかはなさそうだ。思ったことを、すぐ口に出す風でもある。ロビンと正反対だな――そんなことを思っていたところに、当のロビンがおずおずと僕にささやきかけてきた。
「ねえ、ジャスティン。この子が……君が昨日言っていた、不思議な子なの?」
 すっかり圧倒されているという風情だ。まあ、無理もないだろう。僕も昨日はそうだった。しかもロビンは僕より数段、人見知りが強いのだし。
「あっ、そうだ。彼とは昨日会ったけど、君は初めてだね。彼の友達? 同じクラス?」
 転入生はにこっと笑って、そう話しかけてきた。
「う……ん」ロビンは赤くなって、うつむいている。
「ああ、そうなんだ! よろしくね!」
 相手はロビンの人見知りなど、まるで気付いていないようだった。いきなり両手を伸ばしてロビンの両手をつかむ。しかし、これはロビンにとっては、あまりのことだったようだ。まるで火に触れられたかのように、あわててひったくるようにして、両手を引いてしまった。その顔は真っ赤になっていた。
「あ、ごめん。いやだった?」
「いや……そうじゃ……ないけど……」ロビンは首まで赤くなっている。
「ごめん、彼はシャイなんだよ」僕は苦笑し、そう助け舟を出した。
「そうなんだ」
「でも、いい奴だから大丈夫だよ。彼はロビン・スタンフォードっていうんだ。僕の子供の頃からの、大親友なんだ」
「そうなんだ。彼も君と同い年? けっこう若く見えるけど」
「ロビンは僕と同い年だよ。十六歳だ。僕らは同じ日に生まれたんだ」
 自分より三つも年下の子に若く見えるなどと言われたら、ロビンはちょっと傷ついたかな、と僕はちらっと心配げに視線を走らせたが、相手はただ、「へえ、すごい偶然!」などと、単純に驚いているようだ。
「で、僕が一緒に行っても大丈夫?」
「大丈夫だよ、な」僕はロビンをチラッと見た。
「うん……」ロビンも顔を赤くしたまま、頷いている。
「ああ、よかったぁ! じゃあ、よろしくね。彼がロビン・スタンフォードで……君は? 彼がさっきジャスティンって呼んでたけど、それが君の名前なの?」
「そうだよ。僕はジャスティン・ローリングスっていうんだ」
「へえ、かっこいい名前だね!」
「そうかな……」僕はちょっと照れた。「でも、そういう君は? ローゼンスタイナーの上の名前は、なんて言うの?」
「アーディス。アーディス・レイン」
「そう。良い響きだけれど、ちょっと変わった名前だね。頭文字Aだから、アルバートとかエイドリアンとか、そういうのかと思ったよ」
 言ってから思った。いや――彼にそんなありがちな名前は、やっぱり似合わないな、と。
「妙な名前だとは自分でも思うよ。由来聞かれてもわからないから、困るし」
「いや、妙だとは思わないよ。君によく調和していると思う」
 お世辞でなく、僕は本当にそう思っていた。でも、結局彼をこのファーストネームで呼んだのは、最初の一ヶ月ほどだけだった。前にいたニューイングランドで呼ばれていたらしい、アーディという呼び方も、僕らは結局しなかった。エアリィ──空気の精エアリアルから転化したニックネームで、その後僕らは彼を呼び続けることになる。
 発端は、バスケットサークルだった。彼が加入した、最初の練習日のことだ。バスケットをやる人は、長身が多い。その中で五フィートと少しくらいしかないアーディスは、年齢的なものも相まって、サークルの「ちびっこ」だ。だがフリー練習でボールを持った彼は、恐ろしい素早さでコートを駆け抜け、とんでもない大ジャンプから、ダンクシュートを決めた。その素早さと優雅さと、まるで重力が消えたようなジャンプの高さに、誰からともなく「エアリアル」――空中の精と呼び出したのだった。それが砕けて、エアリィになった。
 アーディス──エアリィ──ともかく彼は、ここローズデイルイースト・ハイスクールの、まるで竜巻のようなものだった。最年少で、小柄で、女の子みたいだが、運動神経はとんでもなくて、スポーツエリートすらかなわない。アメフトのような体力勝負のものでさえ、タックルをすべて交わして走ることができる――なぜそんな状況になったのかは、よくわからないが。本人曰く、『ちょっと一緒に遊んだだけ』らしいが、たぶん挑まれたり絡まれたりしたのかもしれない。が、完璧に返り討ちにあったようだ。バスケットサークルでも、親善試合で強豪クラブと戦って、一人で勝ってしまった。まあ、僕も一応いくつかアシストしたが。
 勉強の方も、飛び級の派手さから察してはいたが、実際はそれ以上だった。最初の英文授業で僕の隣、ロビンと反対側のサイドに座ったアーディスは、僕に頼んできた。
「ねえ、ジャスティン、僕、テキスト持ってないんだ。悪いけど、ちょっとだけみせて」 「ああ、いいよ」僕は笑って本を渡した。
 受けとると、彼はぱらぱらとページを繰り、すぐに返してきた。
「ありがと、助かった。返すね」
「もういいのかい? だって、授業はこれからなんだよ。テキストがなくちゃ、君だって困るだろ? 遠慮しなくて良いんだよ。僕はロビンに見せてもらうから」
「うん、ありがと。けど、ホントにもういいんだ。だいたいわかったから」
 その言葉に、嘘はないようだった。その授業中、先生にテキストの中にある長編詩を読めと言われた時、僕はテキストをもう一度手渡そうとした。だが彼は、「大丈夫」と小さく言うと、立ち上がって完璧に暗誦した。僕は驚いて、授業が終わってから聞いた。「あの詩を知ってたいたのかい」と。アーディスは首を振り、「ううん。でも、さっき見たから」と答えていた。一度見ただけで覚えられるとしたら、それは写実的記憶。しかも、あの読書スピードだ。派手に飛び級したのも納得できた。
 次の数学の時間にも、僕のテキストを借りて同じように数十ページをぱらぱらと見、返してきた。その授業で先生が最後に、「これはとても高度な問題だ。誰か解けるか?」と問題を出した時、クラスの誰もが、僕も含めてわからない中、彼は「はい」と手を上げ、黒板の前に行って、鮮やかに解いた。先生は「パーフェクトだな」とうなり、クラス中がどよめきを漏らしていた。
 その後の授業も、時々時間前に僕やロビンのテキストを数分だけ借り、途中まで見て返す、その繰り返しだったが、内容は完全に頭に入っているようだった。彼は結局、最後までテキストを買わなかった。その必要はないのだろう。成績も終始満点でトップを走り続けた。彼が勉強しているところなど、授業以外では見たことがないにも関わらず。しかも授業ですらノートはまったくとらず、聞き流しているような感じだったのに。宿題もほとんど授業前の休み時間にやっている。その時だけはレポート用紙とペンだけ持ってきて、十分もかからずに完璧に仕上げてしまう。読むスピードも早いが、書くスピードも本気になると早い。一分もかからずに一ページだーっと書くけれど、決して字は殴り書きにはなっていない。動きが高速になっているだけだ。
 その身体能力の異様な高さは、(こいつ、もしかしたらサイボーグなんじゃないか?)などとあらぬことを思ってしまうほどだったが、一つだけ弱点を見つけた。持久力だ。体力と言ってもいいか。短距離はとてつもなく早いが、本人曰く、「十五分超えると無理」になる。とんでもないスーパーヒューマンだけれど、完全無欠ではないらしい。
 彼とは初日以降も僕らは行動を共にし、二人組が三人組になった。友人と呼べる人間は、今までロビンだけだった僕に、二人目の友達ができたのだ。

 エアリィ、ことアーディス・レイン・ローゼンスタイナーの存在は、バンドの他の二人にもすぐに知られた。僕もロビンもこの新しい友人について、報告したい衝動を抑えられなかったからだ。とは言っても、バンドの新メンバーにとは、みじんも考えていなかった。六月に十三歳になったばかりという年齢もあったし、本人も僕らのバンド話に、とても興味がある、という感じではなかったからだ。
 それでも、知り合ってから三か月がたった十二月に、近所のハイスクールで、ドリンクがついた、複数のアマチュアバンドが出演するライヴに出ることになった時、僕は彼にチケットを渡した。料金は取らず、プレゼントという形で。バックステージパスもつけた。これまで妹とガールフレンドにしかチケットとパスを渡したことがないけれど、仲のいい友達にも見に来てもらいたかった。それだけの理由だ。
「ありがと。金曜日の夕方か……」エアリィは少し考えているようだったが、頷いた。
「見に行くよ。でも、チケットもう一枚くれる? そっちは払うから」
「誰かと一緒に来るのか?」
「うん。妹と」
 妹か。そう言えば、バスケットの親善試合の時も来ていたな。エステルという名前で(彼がそう呼んでいたから)、五、六歳くらいの、まだ小さな子だ。その日は土曜日で、留守番させようとしたらどうしてもきかなくて、ついてきたと言っていた。金髪の巻き毛で、色は白く、大きなパッチリした青い目の、かわいらしい女の子だった。
 僕らの出番が終わった後、エアリィとエステルは一緒に楽屋へ来て、ミックやジョージとも対面を果たし、二枚分のチケットとドリンクのお礼を言って(結局僕が二枚目もプレゼントしたので)、帰っていった。「みんなうまいね! すごく音が気持ち良かったし、楽しかったよ!」という感想を残して。その時に僕は、「気に入ってくれたなら、今度、練習を見に来ないか?」と誘った。これも深い意味はなくて、ジョイスやステラを練習見学に誘ったのと、動機的には大差ない。「うーん、年内は無理。それに、普段は夕方なんでしょ? でも年明けに、叔母さんたちがエステルを遊びに連れて行ってくれるらしいから、その時なら行けるかな」という返答だった。
「なんだぁ? あの目のくらみそうな超絶美少女、いや、男か。妹も可愛いな」
「それに、あのオーラは本当にすごいね」とは、二人が帰った後の、ジョージとミックの感想だ。

 言葉通り、年が明けてまもなく、エアリィが僕らの練習を見に来た。雪深い日で、地下鉄の最寄り駅まで、スタンフォード家で車を出して迎えに行っての来訪だ。誰か見学者が来るたびに(ヴォーカリストのオーディションも含めて)、スタンフォード家で送迎してくれていたので、別に特例ではないが、彼は少し驚いていたようだった。
 この日は学校のない日だったので、練習は三時から始まり、四時過ぎに一度休憩を入れた。「凄くみんな上手いね」と、エアリィは最初に言い、そして「知ってる曲はなかったけど」と続けた。
「君は普段、どんな音楽を聴いているんだい?」と、ミックが問いかけた。
「音楽――自分からは、あまり聞かないかなぁ。ラジオとか、スーパーで流れてるのを耳にするだけで。あ、でも嫌いじゃないよ。このバンドの音楽は、なんかすごくいい感じ」
 ミックやジョージ相手にも、いきなりタメ口か、と苦笑いを押し殺しつつ、僕は練習の解説をした。「最初にやったのはスィフターの“Drift”、その次は“Adam’s Rib” それからしばらくはフリージャムをやって、僕らのオリジナルを三曲、最後に“Borrowed Days”をやったんだ。まあ、オリジナルやジャム以外も、スィフターのディープカットだから、おまえが知らなくても無理ないな」
「あー、スィフター! そうなんだ。ディープカットなら、なおさら知らないけど、好きだって言ってたもんね、ジャスティンもロビンも。でも、あんな終わり方して、残念――て言うか、悲しいね。あの事故の次の日って、二人して、学校休んでたし」
 そう、僕に音楽の道を開いてくれた彼らは、最悪の終わり方をしてしまっていた。僕が彼らのコンサートに行ったり新譜を聞いたりすることは、もう永遠に不可能だ。去年の十一月、北米ツアー第二レグの終盤に、ツアーバスの事故でバンドメンバー四人のうち三人を失い、バンドがなくなってしまったのだから。事故の二週間前に、ロビンとジョージ、ミックと四人で、トロント公演を見に行った。それが僕にとって、彼らの最後のショウとなってしまった。朝のニュースで事故の知らせを聞いた僕は、ショックのあまり、気分が優れないと言って学校を休み(実際に嘘ではない。たしかにひどい気分だったから)、部屋にこもって、ずっとCDを聴いていた。どうやらロビンもそうだったらしい。
「でもスィフターって、インストバンドじゃないよね。インスト曲もあるみたいだけど」エアリィは、そう言葉を継いでいた。
「そうだよ。でも僕らはインストバンドだから、インストアレンジしているんだ」
「そうなんだ。インストバンドも、なんかマニアックでかっこいいな」
「いや、インストバンドを目指しているわけじゃないんだよ。ヴォーカルは募集中なんだ」
「あ、そうなんだ」
「おまえって、歌は歌えるか?」
 後になってみると、なぜこう言ったのかわからない。ふと口から出てきたのだ。
「歌? うーん、音痴じゃないとは思うけど」
 エアリィは少し驚いたような表情になっていたが、すぐに意図を察したのだろう。「あ、つまり、ヴォーカル付きバージョンの練習したいわけ? そのくらいなら、たぶん付き合えるよ。曲、聞かせてくれたら」
「じゃ、さっき最後にやった“Borrowed Days”はどうだ?」
「いいよ。オリジナル聞かせて。歌部分は知らないから」
「わかった」僕はバッグを開けてHDプレイヤーを取り出し、求める曲を表示させた。
「これがオリジナルだ。プレイボタンを押せば始まるから」
 エアリィがヘッドフォンで曲を聞いている間に、僕らはマイクのセッティングをした。ジャスト五分三十秒後に、彼はプレイヤーを止め、「いい曲だね、これ。歌入りで思ったけど、歌詞も良い感じ。こういう感じなんだ、スィフターって。ほかのも聞いてみたくなったな」と、僕に返してきた。時間からして、一回しか聞いていない勘定だ。
「CD貸すから、聴いてみてくれよ」
「ありがと。でも僕、プレイヤー持ってないから、聞けないや」
「そうなのか。わかった」
 CDプレイヤー、持っていないのか? 家にはあるだろうと思うが。そういえばアーディスは携帯電話だけはベーシックな奴を持っているが、ゲーム機も自分で使えるパソコンも持ってはいないらしい。PCがないと、動画サイトで聞くというのも出来ないだろうな、と思う。本人も『家のPCは継父さんの仕事用だから、他は誰も使えないんだ。十六になってバイトできるようになったら、自分のを買いたいな』なんて言っていたし。
 この曲はSwifterの中でも、かなり難しい部類に入る。僕たちは弾きこなすことができるけれど、過去三回やったヴォーカルオーディションでは、もう少し難易度の低いものをやっていた。それなのに、実力的には未知数の友達といきなり合わせるにしては、難しすぎる選曲だったかもしれないと、イントロを弾きながら改めて思った。ヴォーカルの入りも、音程の取り方も、楽器との絡みも、初心者には厳しいだろう。いくらアーディスが写実的記憶の持ち主とはいえ、一度聞いたきりだし――いや、一度聞けば、充分なのか?
 そう。充分なのだろう。入りは完璧だった。僕は一瞬ギターを弾く手が止まりかけた。上手い――だけではない。とんでもないインパクトだ。
 アーディスは元々印象的な声をしている。光る海と風を連想するような、そんな響きだ。その声のトーンもエアリィ──エアリアルという彼の呼び名の、由来の一つだったほどに。でも話し声でなく、歌うとこれほどのパワーが出せるなんて。音量も響きも。それに、羽が生えて飛んで行きそうな飛翔感と、ある種の神聖ささえ感じさせる。難しい音程も決してはずさずに、楽々と伸びやかに歌いこなしていく。
(見つけた!)僕は思わず、心の中で叫んでいた。
(前線のパートナーを見つけた! とうとう!)
 おそらく他のメンバーたちも、同じ思いだったに違いない。ヴォーカルパートが終わると、僕らは一斉に演奏を止めた。
「え、終わり? この後、コーダあるよね」
 エアリィは少し驚いたように僕らを見、ついで肩をすくめた。「えー、みんなすごく怖い顔してるけど、どうしたの? やっぱり僕、やらないほうがよかった?」
「違う! そうじゃない!」僕は声を上げた。「驚いただけだ。エアリィ、おまえ、本当に何でもできる奴だけど、ここまで歌えるとは思わなかった」
「ああ。なら、よかった。何か気に障ったのかと思った。僕もみんなの演奏で歌えて、気持ちよかったし、楽しかったよ。他にも、何かやる?」
「じゃあ、もう一曲やろう」
 今度は同じくスィフターの曲だが、そこまで難解ではないパワーバラードを聞かせた。僕らももちろん、レパートリーに入っている。エアリィは今度も一度で曲を覚え、完璧に再現、いや、少し自分流の解釈も入れたのだろう、オリジナルを超える感涙の出来にしてくれた。そして僕は、今度は後奏をすっ飛ばさず、そのギターソロを今まで以上に気合と感情を入れて弾くことができた。
「うわ、やばいぞ、これは……」
 演奏を終わったあと、一瞬の間をおいて、ジョージがうめくように呟いた。
「凄い。完璧な相乗効果だ。鳥肌が立ったよ」ミックも顔を紅潮させている。
 僕らは目を見合わせた。こんな帰結になるとは、アーディスに出会った時には、まったく思いもよらなかった。いや、僕の潜在意識では、悟っていたのかもしれない。だから彼と親しくなり、チケットを渡し、練習に誘い、歌うように言ったのだろうか――。
 ただ、オーディションで来た人たちと違い、エアリィの場合、僕らのバンドに参加する意思は、なかっただろうと思える。僕ら四人が加入要請をした時、彼は少しとまどったような表情をしていた。「そこまでコミットするつもりはなかった、っていうか、考えてなかった」とも言った。
「おまえが僕らのバンドに入るのを妨げている要因って、なんだ? 言ってくれないか」僕は単刀直入に聞いた。
「……時間かな。このバンドの練習って、週三、四で三時間くらい、それも夕方からが多いって聞いたから」
「学校が終わったら、僕と一緒にロビンの家の車で来ればいい。帰りは近くまで送っていってもらえるぞ」
「いや、学校からここへ直行はできないんだ」
「どうしてだ?」
「……妹を幼稚園に迎えに行って、夕飯作らなくちゃいけないから」
 予想外の返答に、僕は一瞬言葉を失った。ミックやジョージ、ロビンも同じようだ。
「プライバシーに踏み込むことになったら、本当に申し訳ない。でもよかったら、君の家庭の事情を聞かせてくれないかな。話したくなかったら、無理にとは言わないけれど」
 やがてミックがいたわるような、なだめるような口調で切り出した。
「うーん。ちょっとヘヴィーな話になるけど、いい?」エアリィはしばらく黙った後、ドラムライザーの上に座り、僕らを見上げた。僕ら四人は、一斉に頷く。
「えーと、どこから話せばいいかな。今、僕は継父さんと妹と住んでるんだ。継父さんは大学で研究に忙しくて、基本一週間の半分くらい、夜も家に帰ってこない。妹は今、幼稚園のシニアクラス」
「……お母さんは?」
「死んだ。事故で、去年の六月に。こっちへ来る二か月半くらい前」
 本当にヘヴィーな話だ。幼子付きの父子家庭か。しかも仕事で多忙だという父は、継父さんと言う表現をしているから、実親ではないのだろう。そうすると今、家の家政をやっているのは、十三歳のアーディスなのか。さらに突然母親を亡くし、住んでいる環境も変わってしまった幼い妹エステルもきっと、不安だから一人で留守番をすることができず、兄についてきたのだろう。バスケットボールの試合も、僕らの演奏会も。そう言えば、練習見学に誘った時も、『叔母さんたちが、エステルを連れだしてくれるから』その時なら来れる、と答えていた。逆説的に言えば、普段は夕方や休日時間帯、つまり僕らの練習時間には、妹の面倒を見なければならないから来られない、と言うことだ。
「時間か……たしかにそうだな。それだと」僕は思わず呟いた。自分の恵まれた環境を当たり前に考えすぎて、友達の特殊な家庭環境に思いが至らなかった。少し自分を恥じた。
「それを解決するオプションが、いくつかあるな」
 沈黙を破って、ジョージが言った。ドラムセットから離れ、冬だから冷えを懸念して床に敷いた敷物の上に、どっかりと座る。「一つには、うちからメイドをだれか派遣して、練習の時に、君の家の家政をやってもらう。妹さんの問題があるなら、シッターも付けて」
「ええ?」エアリィはしんから驚いたようだった。「なんでそこまで? そんな義理もないし、申し訳ないよ。気持ちはありがたいけれど、パス」
 スタンフォード家らしい、金持ちの発想だな、と僕も思った。まあ、僕も一瞬うちの家政婦さんを手伝いに行かせられないかな、と考えてしまったけれど。
「それなら、もう一つのオプションだ。君用の特別ルールを作る。練習は、夕飯が終わったら合流でいい。今俺たちは週四回練習をしているが、君は三回、大変だったら二回でもいい。妹さんが留守番できないのなら、一緒に連れてきてもいい。耳の保護を忘れずにな。連絡してくれたら、うちから君の家に迎えに行かせる。いや、これは遠慮する必要はないぞ。ジャスティンの家は近いから歩きだが、ミックもそうしてもらっているから」
 これなら先の案より行けるな、と僕も思った。アーディスの事情を考えれば、やむを得ない練習プランだ。
「……それなら、大丈夫かもしれないけれど……なんでそこまで? さっきも言ったけど」エアリィは怪訝そうな、不思議そうな表情になっていた。
「君には、その価値があるからだよ、アーディス・レイン・ローゼンスタイナー君。君を五人目のメンバーに迎え入れるためなら、そのくらいの譲歩は喜んでするよ、僕らは」
 ミックが笑みを浮かべ、言い切る。ロビンと僕も、ほぼ同時に頷いた。
「じゃあ、そっちのプランでOKかい?」ジョージがにやっと笑う。
「ああ……うん、はい。それでいいなら。えっと、よろしくお願いします」
 こうして待っていた五人目のメンバーは、突然に決まった。バンド結成から十か月近く過ぎて、空いていたピースがやっとはまったわけだ。でも最初から、このピースは彼、アーディスのためにあったのだろう。そんな気がする。




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