The Dance of Light and Darkness : 光と闇の舞踏

第六章 氷の国セレイアフォロス(1)




 アンリールとセレイアフォロスとの国境には、二つの町がある。東側のサラティマと、西側にあるウェンリルだ。町の規模はサラティマの方が三倍ほど大きく、施設も多く、入出国する人の多くが利用するが、ウェンリルは駆動生物の引換所と通貨交換所しかない。この町は、中央を南北に分ける高い石の壁の南側がアンリール領で、北側がセレイアフォロスに属している。壁の中央には門があり、二枚の青い扉がついている。両側には小さな建物があり、他の国の国境と同じように、同じ服を着た門番たちが守っていた。
 アンリール側で駆動生物を預け、引き換え証をもらった後、一行は車を後ろから押して、門をくぐった。水の神殿からもらった通行証と、クリスタ少年の帽子についた稀石のおかげで、門番たちは少しの簡単な質問だけで、あっさりと押してくれた。
 門をくぐると、そこはセレイアフォロスの国だ。向こう側の門番にも通行証と帽子についた稀石を見せ、入国する。引き換え証で駆動生物を受け取り、セレイアフォロスの通貨に換えると、一行は再び車を走らせた。

 セレイアフォロスの道は、アンリールのような水路ではない。いや、元は水だったのかもしれないが、それが凍ってできた道だ。だから地面は冷たく、固かった。道の区切りは縁石で縁取られ、青白い色の原野が続く。ところどころに生えている木は鋭くとがった形で、白くとがった葉っぱに覆われていた。
「ロッカデールで見たような木が、凍って白くなったみたいね」
 リセラがそれを見て、そんな感想を漏らしていた。
 空は薄水色で、空気はひんやりと冷たかった。一行は思わず身震いした。
「ここでは、暖かい上着を買わなくては辛いわよ」と、レイニがみなに向かって微笑み、
「次の町に着いたら買いましょう。それまでは、敷物を被るしかないわ」
 ロージアがかすかに首をすくめ、後ろに積んであった敷物を、前の座席に座っている人たちに手渡した。後ろの座席の人は自分で敷物を手に取り、身体に巻き付けている。
 国境の町ウェンリルからは、北に向かう街道と、東西に延びる道がある。ここを東に向かうと、アンリール側のサラティマと対応する、メヴィルスの町があり、そこから北に向かう街道をずっと行けば、首都セヴァロイスに着く。しかし、その途中にクリスタが言う“すべてを凍らせる氷の地帯”があるので、そこは通れない。それゆえ、一行は少し遠い西の国境、ウェンリルまで行き、そこから北進してのち、東へ向かう行程を取っていた。
 セレイアフォロスの駆動生物は、パジェミラと呼ばれる。それはすべすべした水色の流線型の身体に、四本のひれ状の足を持っていた。アンリールの駆動生物のように泳ぐことはせず、氷の上をすいすいと滑るように進んでいく。駆動生物は、同じエレメントを持つ人間の言葉しか理解しないので、行先を伝える指示席に座るのは、氷のエレメントの持ち主でなければならない。一行の中ではレイニだけだが、今はクリスタが申し出て、指示席に座っていた。
「このくらいしか、ぼくは役に立てませんから」と。
 この国の駆動生物はアンリールと同じように、夜は走れない。下が水ではないため、一応野営は可能だが、凍った地面からの冷たさを防ぐためには、厚い敷物が必要そうだった。
 
 ウェンリルから北へ五十キュービット先にある町、モレスで宿を求め、みなはそこで厚手の上衣を買った。しかしこの国の住民たちは、特に寒さに備えるような服装はしていない。普通の生地の長袖上衣、ズボン、長いスカートで、レイニもクリスタも、上着は特に必要ないらしい。防寒用の衣服は他の国から来た旅行者のためらしく、数も置いている店も少なかったが、かろうじて買い求めることはできた。
「氷の民は、寒いのが平気なんだな」
 厚い上着の上から敷物を巻きつけて、フレイはぶるぶる震えながら、周りに目をやっていた。
「火の民が暑さに強いようにね。逆に私たちは、熱には少し厳しいわ。ミディアルの砂漠や、フェイカンみたいなね。私はまだ、水が混じっているから大丈夫だけれど、それでも強いとは言えないから」と、レイニが微笑む。
「そう言えば、レイニはセレイアフォロスの、どこに住んでいたの? もう凍ってしまった場所?」
 問いかけられ、彼女はリセラに目をやり、小さく微笑んで首を振った。
「いいえ、リル。幸いなことに、私の町はまだ無事のようよ。神官長様に教えていただいた道を通れば、三日目くらいには通るはずだわ」
 一行はアンリールの神殿を出る時、テェリス‐ロイ神官長から、凍りついた場所を通らずにセヴァロイスへ行く道を記した地図を渡されていたのだ。それは車の前座席中央に座ったブランの膝に広げられ、隣に座ったレイニも時々それに手をかざしていた。指示席に座るクリスタ少年にも、道順はその都度伝えてある。

 三日後、一行はレイニの故郷の町である、ソレートに着いた。
「今は昼の八カルだから、今日はここに泊まらなければならないけれど……大丈夫?」
 ロージアが少し気づかわしげに、レイニに問いかけた。
「ええ。大丈夫よ。そうだわ、宿屋よりも私の家に泊まりたいから、そこに行ってもいいかしら」
「それは構わないが……」
 ディーが頷くと、レイニはクリスタ少年に代わって指示席に座り、一件の家の庭に車を乗り入れた。
 かつて住んでいた家を訪れるのは、アーセタイルでブランの故郷、モラサイト‐ホーナで以来だが、レイニの生家はそれよりかなり大きく、庭も広い。青みがかった、氷のような素材でできた、セレイアフォロスにはよくあるつくりの家だった。庭には二本のポプルの木があり、水色の実がいくつかついている。庭には井戸があり(丸く氷を取り去って、その下の水を汲めるようにした装置だ)、駆動生物と車を収める小屋もある。その中には、すでに一頭の駆動生物と、小さな車が入っていた。
「誰か住んでいるのか?」
「ええ。でも、大丈夫。私たちの車を入れる広さもあるわ」
 問いかけたディーに、レイニは頷いて答えていた。彼女は車を降り、家の扉をセマナという開錠術で開けると、中に向かって声をかけた。
「ただいま! パラナ! ローアお祖母さん! いらっしゃる?」
 やがて家の中から声がして、玄関に一人の娘があらわれた。十五、六歳くらいの年頃で、豊かな水色の髪を両側に束ねている。彼女は驚いたように目を見開き、声を上げていた。
「レイニ姉さん、本当に?!」
「ええ。突然来て、ごめんなさいね。戻ってくる予定はなかったのだけれど、これからセヴァロイスへ行く用があって、通りかかったのよ。今の私には、たくさんの仲間たちがいるけれど、泊まれるかしら、今夜」
 その言葉に、パラナと呼ばれた娘は玄関の外に目を移した。
「うわっ、本当にたくさんの人たちね。みなさん、ミディアルでお知り合いになったの?」
「ええ」
「もちろん、泊まれるわ。もともと、この家は姉さんのものだし、あたしたち二人だけじゃ広すぎて、空き部屋もかなりあるから。あ、みなさん、どうかお入りになってください。車とパジェミラは小屋に入れてくださいね。あとからお水を持っていきますから」
「ありがとうございます。あ、妹さんですか?」
 リセラがそれに応えて言うと、パラナは微笑して首を振った。
「いえ、従妹です。血はつながっていないけれど。でもあたしは、姉さんと呼んでいるんです。子供のころ、時々遊んでもらっていたし。メリナと一緒に」
「そのあたりの話は、夜にでも説明するわ」
 レイニは微笑み、一行とともに家の中に入った。

「私の母はこの家の一人娘で、祖父はこの町では有力者の一人だったそうよ」
 その夜、広間にみなが集まって、ポプルと水の食事をとった後、レイニは話し出した。
「この町に、アンリールから嫁いできた人がいて、その人の弟が私の父だった。父がこの町にその姉を訪ねてきた時、母と知り合ったそうよ。祖父は二人の結婚にあまりいい顔はしなかったけれど、アンリールは兄弟国だからということで、何とか承知してもらって、二人は私が三歳になる時まで、一緒に暮らしていたわ。私は父の記憶は、あまりないけれど」
「お父さんは自分の国に帰ってしまったの?」
 リセラの問いかけに、レイニは首を振った。
「いえ、東の山に咲く花を探しに行って、そこで命を落としたそうよ」
「……花?」
「ええ。私が病気にかかって、それを治すのに必要だと。花を取ろうとして、崖から落ちたみたい。父の洋服とともにその花が残っていたから、私は助かったのだけれど、と母は言っていたわ」
「まあ……」
「それから一年半後に、母は再婚したわ。その人は純粋な氷の民で、私にとっては義理の父親ね。彼とパラナの母親とは、兄妹なの。だから、私たちは血のつながらない従姉妹というわけなのよ。二人が結婚して一年後に、妹が生まれたわ。名前はメリナ。彼女はラリアだった。私はミヴェルト持ちだから、妹の言っていることがわかったし、このパラナもミヴェルトを持っているから、同じだった。妹も私たちに心を開いてくれたわ。彼女は歌姫系ではなかったけれど、エレメントの力はとても強かった。母も義理の父もミヴェルトは持っていないから、メリナの言うことはわからなかったけれど、妹をとても愛していた。その妹が七歳になるまで、私たちは幸福な一家だったと思うわ」
 レイニは寂し気な微笑を浮かべ、微かに首を振った。
「メリナが七歳になったころ、神殿から通達が来たの。彼女が、巫女候補に選ばれたと。父と母はその知らせを、喜びを持って受け止めたようだけれど、同時に恐れもあったと思う。でも妹は、はっきりと怯えていたわ。わたしは選ばれない。きっと聖獣様に喰われるって。彼女は予知系のラリアだったから、未来が見えたのでしょうね」
 一同は衝撃を受けた表情とともに、押し黙っていた。
「私はその言葉を、父母に伝えた。父母は驚き悲しんだようだけれど、神殿と精霊様には逆らえないと、初めは言っていた。でも私は納得がいかなくて、妹を助けたくて、神殿から使いが来る前日に、彼女を連れて町の外に逃げたのよ。もちろん町からは人がたくさん探しに来て、見つかって、連れ戻されてしまったけれど」
 何人かが小さな、ため息に似たうめきを漏らした。
「でも朝、神殿の使者たちが見えた時、父は急に取り乱して、抵抗したの。お願いだ。娘を連れて行かないでくれ。巫女になれなくてもいいから、殺さないでくれって。それで、邪魔をすると殺すぞって言われてても抵抗し続けて、神殿の使者たちに殺されてしまった。その後、使者の方の一人が言ったわ。おとなしく来なさい。これ以上抵抗すると、あなたたちは罪人となる。だが今なら、巫女候補の手当ても渡そう、と。それで、妹が言ったの。行きます。これ以上、みなが苦しむのはいや、と。彼女は最後に私たち一人一人に抱きついて、『さよなら』と言った。そして一シャーラン後に、小さな稀石になって返ってきたわ。今もその小箱の中に眠っているわ」
 レイニは視線を、青白い金属でできた棚の上にやった。そこには、水色の小さな箱が置いてある。
「母はその後、憔悴しきってしまって、二年もしないうちに死んでしまった。ちょうどブランのご両親と、同じようだったかもしれないわ。私も何年かの間は、とてもひどい気分だった。私がメリナの言葉を、父母に伝えてしまったから? いえ、私がメリナを連れだしたから? 抗おうとしたから? だから父もそうできればいいと、最後に抗ってしまったのかしら、と。それに母が私に対して、娘に対する愛情のほかに、憎しみも持っているのが見てとれて――私のために、私の本当の父は死んだ。私がメリナと連れだしたから、今の父の心も乱れたのだって」
「そんな……」何人かが小さな声を上げた。
「母が死んだ後も、私は三年くらい家にこもっていたの。その間にも、パラナとローアお祖母さんは何度となく家を訪ねて、励ましてくれたわ。それで私も、だんだん立ち直れたのよ。二人には、感謝しているわ」レイニは視線を従妹に向けた。
「ローアお祖母さんは、パラナとメリナの祖母で、私の二度目の父のお母さんよ。彼女もラリアなの。パラナのご両親は北の方の町で働いているけれど、あと三年くらいで、帰ってくるはずね。それで、彼女のご両親が北へ行く時、住んでいる家をどうしようか、という話になって。元々借りていた家だったから。でもローアお祖母さんは、この町を離れたくないようだったし、お祖母さん一人では困るからと、パラナも残ると言い出したの。だからわたしは、良かったらローアお祖母さんとパラナには、この家に来て住んでもらったら、と提案したのよ。それで、二人にこの家の留守を預かってもらっているの。いえ、この家自体を二人に譲ろうと、私は思っているわ。私がここに帰ってくることはないだろうと、思っていたから」
「なぜレイニは家を出ようとしたの? ご両親や妹さんの思い出のため?」
 リセラの問いかけに、問われた方は微かに頷いた。
「そうね。ここにいると、いろいろ思い出して辛いし。でも最初は、セレイアフォロスを離れることは、考えていなかったわ。この町に来た、ディルトの女性と知り合うまでは。ヴィエセリアという名前で、闇と水のディルトという珍しい組み合わせの人だった。彼女が私に言ったの。この町で、嫌な思い出や、人にあれこれ思われて嫌なら――私が妹を連れて逃げたことは、町の人に知られていたから――いっそ外へ出たら。世界は広いわよ。私と一緒に、ミディアルへ行かない? と。わたしはこれからセヴァロイスに行くから、帰りにここへ寄るわ。それから一緒に行きましょう、と。でも彼女は来なかったわ」
「あら――どうしたのかしらね?」
「さあ――もともとその気がなかったのか、忘れてしまったのか、何か他の急な予定ができたのか、それとも何かあったのか、それはわからないわ。でも彼女の言葉だけは、胸に響いていた。ミディアル――そこでは、だれもがやり直せるって。それで私はパラナとローアお祖母さんにそう告げたら、お祖母さんは言ったの。『そうね。苦難もあるだろうけれど、その方があなたは幸せになれる。ここによりもずっと。たくさんの、良いお仲間ができるわ』と。お祖母さんも予見系のラリアだから」
「そうなの」
 リセラとロージアが同時に頷き、部屋の隅に座った小柄な老女を見やった。老女と言っても、顔にしわはなく、髪も水色のままだが。サンディもその姿を見、かつて他の国での老人を見かけた時に仲間たちに問いかけ、説明されたことを、思い出していた。――『老人になると、容貌はあまり変わらないが、だんだん小さくなっていく』
 ローアは肩までの水色の髪に、丈の長い水色の服を着、一行ににこやかにあいさつした(パラナの通訳付きだが)後は、隅の椅子に座って、みなの話をじっと聞いているようだった。ラリア(異言持ち)の人には、同じエレメントの持ち主の言葉しか理解できないので、純粋な氷の民である彼女には、レイニ(とクリスタ)の言うことしか、わからないだろうが、この場ではレイニが主な語り手であるため、頷きながら聞いているようだ。
「あたしも、レイニ姉さんがミディアルを出てからどうしていたのか、聞きたいわ」
 そこでパラナがそう言い出し、彼女は頷いて、これまでのことを簡単に語った。
「すごくたくさんのことがあったのね」
 パラナは感心したようにため息を吐きだし、続けた。
「ミディアルにいた頃みたいに、年に一、二回でもいいから、便りをくれても良かったのに。お祖母さんは大丈夫だって言っていたから、多少は安心していたけれど、やっぱり少しは心配したのよ。それに、セヴァロイスに行く用事がなければ、ここにも寄る気がなかったなんて」
「ごめんなさいね。そろそろ便りは出そうかと思っていたのだけれど」
 レイニは申し訳なさそうに、従妹に向かって小さく微笑んだ。
「メリナを連れだした時には、まだ姉さんも十二歳だったんだし、町の人も今はどうこう言わないと思うわよ。不敬だと思う人もいるけれど、気持ちもわかるっていう人だっていると思うし」
「ええ……まあ、ね。でもあなたとローアお祖母さんに会えて、うれしかったわ、パラナ」
「あたしたちもよ。あ、待って、お祖母ちゃんが何か言いたいみたい」
 パラナは椅子を老女のそばに持っていき、その小さな手を取った。老女の口から、言葉が漏れた。それをみなもわかるように、パラナが繰り返す。
「“氷の巨人”が現われたのよ」
「“氷の巨人”?」何人かがそう反復した。
「人々の心が凍てつき始めた時、“氷の巨人”が現われると聞きました」
 老女の口から洩れる異言を、パラナがそう伝える。
「古い伝承です。私の祖母から聞きました。今、その時が来ているようです。でも、きっとみなさんなら、解決できるでしょう」
「……思念の獣みたいなものかしら。アーセタイルやロッカデールであったような」
 ロージアが微かに眉根を寄せながら呟く。
「たぶん、それと同じようなものかもしれないな。ただ、念は獣になるが、他の形をとるものは、純粋な想念だけではないのだろう。アンリールであったような“淀み”が、さらに進んだものかもしれないな」
 ディーがこめかみに手を当てながら、考えるようにゆっくりと言う。
「“獣”ならレヴァイラで浄化できるけれど、“巨人”はどうなのかしらね」
 リセラも髪を振り、視線を天井に向けてから、一行のリーダーを見た。
「セヴァロイスの神殿に行けば、きっと巫女様や神官長様が教えてくださるんだろう」
 ディーは苦笑いを浮かべ、天井を見上げた。
「そうなのでしょうね、きっと」
 レイニは微笑み、椅子から立ち上った。
「ところでね、みんな。今日がザンディエの十八日なら、見てもらいたいものがあるの。寒いけれど上着を着て、私と一緒に来てくれない? 一カーロンくらい歩くけれど」
「いいわよ。どこへ行くの?」
 リセラが立ち上がり、ついでみなもぱらぱらと立って、上着を探している。
「サデユ湖原よ」
「あ、じゃあ、あたしも行っていい? 一度行ってみたかったの」
 パラナが立ち上がり、隣の老女が何かを言う。その手を取って彼女は頷く。
「うん。行ってきていいって。お祖母ちゃんは、ここで待ってるって」
「じゃあ、行きましょう。クリスタくんも、大丈夫?」
「はい。ぼくも行きます」
 レイニに促され、少年は帽子をかぶりなおしながら、立ち上がっていた。

 レイニを先頭にして、一行は通りに出た。町は静まり、通りを歩いている人もほとんどいない。青白いカドルの街灯が、ほのかに町を照らしていた。やがて彼女は街道を外れ、空き地を通って、林の中に入っていった。みなが彼女の後に続く。街を外れると暗くなるので、フレイがカドルをつけて、手に持っていた。
 やがて林が途切れ、視界が開けた。そこは凍りついた湖の上だった。足元の氷は厚い感触で、まるで冷たい地面のようだ。この国の、他の場所と同じように。足元の地面が楕円形に滑らかに広がり、その周りのとがった白い木々に縁どられている。空は深い藍灰色――限りなく黒に近く、ほんの少し青みがかった夜空には、無数の星が輝いていた。
 湖面に目をやったミレア王女が、「わぁ!」と小さな感嘆の声を上げた。他のみなも、すぐに理解した。湖面に空が映っている。地上にも、たくさんの星の光がふりまかれたようだった。
「わぁ……きれいね」リセラが息を吐くように呟く。
「今の時期、この時間帯は月が出ていないから、純粋に星だけの光ね。でも、これだけではないのよ。今は夜の五カルくらいだから、そろそろ始まると思うわ」
 レイニが空を見上げながら言い、ついで髪に手をやった。林を抜けて来る時に、少し引っかかったらしく、緩んでいた髪留めを外す。普段は上で束ねているその水色の髪が、星の光を映したような輝きを放ちながら、背中に垂れた。
「やっぱり姉さんは髪をおろした方が、きれいだと思うわ。束ねていても、きれいだけれど」パラナがそんな感想を漏らしていた。
「ミディアルでは興行をやっていたから、そのために上げたのよ。踊るのに邪魔だったから。今は習慣ね」
 レイニは従妹を見やり、しかし再び束ねることはせずに空を見上げた。一行もみな、上を見たその瞬間、小さな感嘆の声が誰の口からも漏れた。
 空に輝く無数の星が、流れるように動き出した。まるで星の雨のように、銀色の糸を引いて地上に落ちてくる。それは湖面に当たると、微かな青白い光を放ち、しばらくキラキラと光った後、すっと消えていった。幾千、幾万の小さな銀色のかけらが天から降ってきて、地面を光らせ、消えていく。
 一同は言葉もなく、その光景を見ていた。十ティルくらいの時間、それは続き、だんだんと間隔がまばらになっていき、やがて止んだ。みなは一斉に、ため息を吐きだした。
「星の雨、ね。この地方の今の季節、この時間帯にしか見られないっていう。あたしもまだ見たことがなかったけど、来てよかったわ」
 パラナが両手を合わせ、感嘆したような表情で声を上げた。
「この西側の地域だけなんですよね。レミルダのあたりでは、見られないです。すごいですね、本当に」
 クリスタも魅入られたように目を輝かせ、まだ空を見上げている。
「昔、私が妹を連れて逃げた時、ここに来たの。それで、星の雨を見たのよ」
 レイニも再び静かになった星空を見上げながら、ため息を吐くように言った。
「あまりの美しさに、圧倒されてしまったわ。メリナも驚きと喜びの表情で見ていた。そして、言ったのよ。ありがとう、お姉ちゃん。お星さまに力をもらったから、大丈夫。もう帰るって。でも、私は帰りたくなかった。ダメよ、来年も見るのって――」
 彼女は少し黙り、再び続けた。
「ヴィエセリアに会ったのも、ここだった。あの時私は、この星の雨が見たくなって、ここに来たの。彼女もそこに来ていたのよ。町で人から聞いた。一度見て見たかったって。彼女はこの町に二シャーランほど滞在していたけれど、その間に親しくなって、いろいろ話をしたわ。宿代がもったいないからって、最後の一シャーランは家に泊まってもらったりもしたし」
「ミディアルへ一緒に行こうって言った人? 今は消息が分からない」
 リセラの問いに、レイニは頷いた。
「そう。実を言えば、少し心配もしていたの。ミディアルへ行けば、もしかしたら彼女に会えるかもしれないって、そう思っていたこともあったわ」
「ミディアルにはレイニも二年近くいたし、あたしたちも国中回っていたけれど、会わなかったわね、それらしい人には」
「水と闇のディルトの若い女性ね……そう言えば、いた記憶はないわ」
 ロージアも思い出しているような沈黙の後、首を振る。
「姉さんがミディアルへ行ってからも、それらしい人は訪ねてこなかったわ」
 パラナも首を振り、両手を広げていた。
「きっと彼女は私と約束したことを忘れたか、できない事情があって、今も旅を続けているのかもしれない。そう思うことにしたわ」
 レイニは微かに首をすくめ、みなを振り返った。
「帰りましょう。すっかり夜が深くなってしまったわ」
 一同は頷き、来た道を引き返し始めた。

「明日は少し出発を遅らせましょうよ。今日は眠るのが遅くなるから」
 歩きながらリセラがそう提案し、ディーは微かに苦笑を浮かべていた。
「まあ、次の町には六カーロンの予定だから、少しくらい出発が遅れてもいいかもしれないな。レイニも従妹さんやお祖母さんとも、少し話もしたいだろうし」
「ええ、もう姉さん明日には出発するの? もっとゆっくりしていけばいいのに」
 パラナが驚いたように声を上げる。
「ごめんなさいね。でも、急ぎの旅なのよ。こうしている間にも、氷は広がっていくわけだし」
「東の方でそんなことになっているなんて、あたし知らなかったわ」
「知らせていないのでしょうね、きっと。騒ぎになってしまうから」
「でも来ちゃってから騒いでも、遅いのよね。レミルダではどうだったの?」
 パラナに問いかけられ、クリスタは目をパチパチさせながら答えていた。
「伝言鳥が来たのが、町が凍り始める二カーロン前だったんです」
「それでは、あまり余裕がないようだけれど……大丈夫だった?」
「いえ。みんな荷物をまとめて、南へ逃げる準備を始めて、僕の父母は家の中の荷物をまとめて車で南の門へ向かうから、僕と姉に先に逃げろって言って――それで、僕たちは走って南門を目指したけれど、人が多くて、なかなか進めなくて――もたもたしているうちに、北から氷が迫ってきて、あっという間に広がってしまいました」
「わぁ、それは無理だわ。なぜもっと早く知らせてくれなかったのかしら」
 パラナは肩までの水色の髪をくしゃくしゃとかきむしる仕草をした。
「ローアお祖母さんなら、きっとわかるから、お祖母さんの言うことをきいていてね」
 レイニは従妹を振り返った。パラナも少し安心したような表情をした。
「本当に、わたしたちもここまで来て、途中の町や村で誰も騒いでいないのが不思議だったけれど、知らされていないのね」
 ロージアが細い眉をしかめ、首を振っていた。
「国の重大事なのにな」フレイが言った後、ぶるっと震えてカドルを引き寄せる。
「おお、寒い。早く帰ろうぜ」
「俺はそれほど寒くはないな。それに、素晴らしいものが見られた」
 ブルーは言う。その眼は憧れるように輝いていた。
「おまえは光るものが好きだからだろう。せっかく疵人でなくなったんだから、もう間違いはするなよ」
「うるせえ! あれは神殿の稀石と同じで、眺めているだけで満足だ」
「まあ、あれは取れないしね。それに本当に、きれいだったな」
 アンバーも感嘆しているような口調で言い、
「あんなにきれいなもの、初めて見ました」
 サンディとミレアも、口をそろえて言う。
「美しいけれど、せつない美しさなのだろうな、レイニにとっては。でも貴重なものを見せてくれて、ありがとう」
 ディーの言葉に、レイニは微笑み、一行を振り返って再び微笑んだ。そして彼女は最後に白髪の小男に目を向けた。
「ブラン、お願いがあるの」
「なんだい?」
「メリナの稀石を、首飾りに加工してほしいの。これから、あの子も一緒に連れていきたいから」
「いいよ。何日かはかかると思うけれど、銀貨を使えば、加工できると思う。セヴァロイスに着くまでには渡せるよ」
「ありがとう」そう言って、微かな微笑みを返す。
 その夜遅く、一行はレイニの家で、四つの部屋に分かれて泊まり、翌日日が少し高くなった頃に、パラナとローアに見送られて、出発した。




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