The Dance of Light and Darkness : 光と闇の舞踏

第五部 水の国アンリール(5)




「また仕事が増えたのか」
 マーロヴィスの宿で、留守番の五人と再会し、ローリアルネでの顛末を話すと、フレイが少し顔をしかめながら、そう声を上げた。
「しかも報酬は、ブルーの罪の印を取る、か」
「いいんじゃないかな。それができれば、彼にとって幸いだろう」
 ブランが穏やかに微笑みながら言い、
「セアラーナさんとアマリラさんが二人とも歌姫になれて、良かった」
 アンバーが改めて、そんな感想を述べる。
「それはな。本当に。二人のためにも良かったぜ。それに、すごい報酬をもらえたしな」
 フレイは笑い、そして一息ついて続けた。
「しかし、その山ってやつも、神殿と同じで、水だらけじゃないだろうな」
「この衣を着れば、それは気にならなくなるはずよ」
 レイニが微笑んで言い、ついで白髪の小男を見た。
「ブラン。これに翼の穴をあけてほしいんだけれど、あなたの道具をこの聖水に浸さないといけないの」
「そう。アンバーのと、俺と、リルの分を頼む。たぶんそこはフェイカンのミガディバ山と同じで、道のない山だろう。ロッカデールでもらった道具を使うにしても、飛んでいかなければならないからな」
「わかった。道具箱を持ってこよう。それに、縄梯子も聖水に浸した方が良いのかな」
「その方が良いのかもしれないな。明日一日で準備して、明後日の朝、出発しよう」
 ディーの言葉を受けて、ブランはアンリールの地図を開き、手をかざした。
「ここからポロネル山まで、かなりあるね。ここでは駆動生物は夜走ることができないし、周りは水しかないから、野営もできない。だから、次の町までに日が暮れる前に着かない場合は、そこで泊まるしかないから、五日くらいかな」
「せっかくフェイカンで簡易宿をもらったのに、使い道がないわね」リセラが苦笑し、
「ほかの国では、使えると思うけれどね」と、ロージアも頷く。
「いいのか、それで……」
 黙ってうつむいていたブルーが顔を上げ、口を開いた。
「みんな、俺を助けるためにタダ働きしてくれるのか……?」
「文句があるなら、やめてもいいんだぞ」
 フレイがにやっと笑った。
「文句なんか……あるわけねえ。いや、ただ……」
 ブルーはみなを見回し、頭を激しく振った。そして叩きつけるように続けた。
「俺なんかのために、ありがとよ!! 本当に、言葉がねえ!」
「君ももう、罪自体は償ったんだしね」ブランが優しく言い、
「そう。本当に許されない罪もあるのかもしれないが、心から悔いていれば、償えない罪はない。俺はそう信じている」
 ディーも、低い声で同意する。
「まあ、精霊様に『心から悔い改めていない』と言われないよう、頑張れよ」
 フレイは再び笑い、相手の背中を叩いていた。
「ああ。そうありたいぜ」
 ブルーは短く言い、下を向いた。その身体は少し震えていた。

 翌日一日で、ブランは服の加工をし、他のみなは洗濯や湯あみ、必要な買い物をし、出発の準備を整えた。そして再び水の道を、北へ向かった。ポロネル山に着くまでに七つの町と村を通り、そのうちの五カ所で泊まる。最後は山から車で三カーロンほどの距離にある、小さな村だった。そこを早朝出発し、一行は山のふもとに着いた。
 ポロネル山は、巨大な険しい岩山で、すべての表面に水が薄く流れ落ちていた。上る道もないし、木もない。
「これ、フェイカンの山より厳しいな。どうやって登ったらいいだろう」
 アンバーが上を見上げ、大きく息を吐き出した。
「この山の結界に入るには、まずこれを着ろ」
 ディーは車に積んである青い衣装の一つを、翼の民の若者に投げた。自分も、衣に袖を通す。リセラとロージアも、同じようにした。
「結界に入れないということは、そこから進めなくなるのか?」
 問いかけるフレイに対し、ブランが首を振った。
「いや、上から水の塊が落ちてきて、流されるそうだよ。この本によると」
 マーロヴィスを出る時、買ってきたポロネル山についての本を、彼は道中で読んでいたのだ。フレイはその言葉に、「それはいやだな」と、ぶるぶる身を震わせていた。
「俺は疵人だから、入れないんだな」
 ブルーがうめくように言う。
「そう、今はな。だからおまえは留守番だ。ブランと、ペブルと一緒に。そうだ。サンディとミレアも、ここに残った方が良いな」
「またお留守番?」
 ミレアが不満そうに声を上げたが、すぐに思いなおしたようだった。サンディとミレアは、危険や厳しい労力が必要な場所では、極力置いていかれる。彼女たちの非力ゆえの配慮なのだと、今はわかっていた。
 アンバーは青い衣を着て付属の布を頭からかぶり、縄梯子を持って、山肌沿いに飛んでいった。服から翼が出せるように、ブランが加工ずみだ。しばらくのち、アンバーは再び地上に降りてきた。
「だめだ。これをかけられそうなところが、見つからない。木もないし、岩の突起もない。この山は、ほとんど足場になりそうなところすらないよ」
「それは弱ったな」ディーは困惑顔になり、
「せっかくこれも聖水に漬けたのにね」と、ロージアも残念そうに首を振る。
「それじゃ、どうやって登ったらいいかしら」
 リセラが当惑気味に声を上げ、みなは一斉に上を見上げた。なめらかな山肌に、薄い水が流れ落ちていて、つるりとした印象の山は、フェイカンのミガディバ山よりも険しさはないが、それ以上に登るものを拒んでいるように思われた。
「さすがにアンバーでも、山頂まで一気には飛べないだろうしな」フレイが苦笑した。
「無理だよ。仮にできても、僕一人じゃ意味がないと思う。その聖水珠は、レイニしか持てないんだから」
「山のてっぺんから垂らすにしても、梯子もそれだけの長さはないしねぇ」
 リセラも首を振る。
「仕方がない。こうなったら三人で行こう」
 しばらく何かを考えていたらしいディーが、そう口を開いた。
「三人って、誰?」
「レイニとアンバーと俺だ。レイニが山頂に行けなければ意味がないから、彼女は外せない。彼女を俺とアンバーで連れていく。飛んで、足場になりそうなところが少しでもあったら、そこで一度止まり、そこからまた飛んで上がって、山頂を目指す。うまくいけば二、三回で着けるはずだ」
「だったら、あたしも行くわ。運ぶ人数は多いほどいいんじゃないかしら」
「それも考えたが、リル、おまえの飛行能力の限界は少し低いから、上手く足場まで渡れないかもしれない。本来はアンバーとレイニだけの方が自由は効くのかもしれないが、何かあるといけないから、俺も行く。でも、おまえは残れ」
「ああ、そうね……かえって足手まといだわね」
「気を悪くしないでくれ」
「大丈夫」リセラは微かに笑い、小さく首をすくめた。
「じゃあ、八人で留守番か。気をつけて行けよ」フレイが声をかけ、
「二人ともポプルをちゃんと持っていってね。途中でレラが足りなくなると困るから」
 ロージアが二人の飛行能力を支えるエレメントのポプルを手渡していた。

 アンバーとディーは両側からレイニの身体を支え、山沿いに飛び出した。そして山の三分の一を過ぎたほどの高さで、小さな突起を見つけた。
「これは一人分しか、足をかけられないね。それも片足だ」
「ああ。もう片方の足は山肌につけないといけないな。もう少し飛べるか、アンバー」
「ああ、僕はたぶん大丈夫」
「じゃあ、おまえはもう少し上に行って、別の足場を探してくれ。俺はここで一度止まる。その方が良いだろう。それでここから、おまえたちの足場まで飛ぶ」
「わかった。じゃあ、先に行くよ」
 アンバーはレイニを抱え、もう少し上まで上がっていった。そして小さな突起を見つけ、そこに辛うじて足をかける。突起は不規則に三つで、レイニも片足をかけて、片方の手で翼の民の若者の手を握っていた。そこにディーが飛んできた。
「じゃあ、僕らはまたここから飛ぶから、ディーも一度そこに止まって休んで、改めて飛んで」
「わかった」
 二人がどいた後の突起にディーは足をかけ、そこからまた飛んでいく。それを二回ほど繰り返し、三人は山頂に着いた。

「ああ、怖かった。足場が小さくて、おまけに滑るし」
「本当ね。落ちたらと思うと、怖かったわ」
「いやはや、無事にここまで登ってこられて、本当に良かったな」
 後から頂上に来たディーは苦笑して、アンバーとレイニを見やっていた。
 山頂は平らで丸く、ちょうど神殿の広間ほどの広さだったが、立っていられる場所は、その外周部分だけだった。歩道の浮き板ほどの幅のそこから先は、澄んだ深い水がたたえられ、そこから絶えず水があふれて、山肌を流れ落ちている。
「ここがアンリールの水の源なのね」
 レイニがささやくように言い、
「すごく深そうだね」
 アンバーは少し身を乗り出すように、のぞき込んでいる。
「落ちるなよ。水の民以外は、たぶん助からないぞ」
 ディーは苦笑して、軽く腕をつかんでいた。
「でも、水守はどこにいるんだろう。フェイカンでは鳥だったけれど」
 その時、水の底がかすかに泡立った。その泡はだんだん数を増していき、銀色の光がまつわるように光っている。やがて水面から、何かが姿を現した。それは流線型で、微かに青く光る透明な身体を持ち、頭を思われる場所に二つの青い目がついている。その頭のてっぺんから体の下の方まで、青く輝く房が付いていた。それは鳥ではなく、時々海で見かける魚に近い。それも、巨大な魚の化身のようだった。
 三人は、慌ててその場に膝をついた。
「あなたが大水守様でしょうか」
 レイニが問いかけると、それは頷くような動作を見せた。
「精霊様より、聞いている。聖水珠をこれへ」
 とどろくようでいて、同時にささやくようなその言葉は、ディーとアンバーにも聞き取れた。フェイカンでの火守の言葉は、同じ火のエレメントを持つフレイとリセラにしか聞き取れなかったが。二人が着ている衣のせいらしい。
 レイニが胸に下げた袋から水球を取り出し、両手に掲げると、それはひとりでにふわりと浮き上がり、微かにきらめきを放ちながら、弧を描いて吸い込まれるように、水の中に落ちていった。落ちた水面からほの青い光が放たれ、ゆっくりとらせんを描きながら水底へ沈んでいくにつれ、水の中に光が放散していく様子が見て取れる。
 しばらくのち、水守は再び頷くような動作を見せた。
「これでよい。淀みは取り除かれた。ごくろうだった」
 再びしばらくの沈黙ののち、言葉を継ぐ。
「そこの異国の若者よ。おまえには、何か心に疑問があるだろう」
「――わかりますか?」
 ディーが顔を上げると、それは再び頷くように頭を動かした。
「わかる。おまえの言葉も、その聖なる水衣のおかげで、理解できる。ただ、おまえの質問が何かまでは、わしは見通せぬようだ」
「再び淀みが現れたら、また聖水珠を用いるのか。その時には誰がその役を果たすのか。いや、そもそも根本からその淀みの原因を絶たなくてもいいのか――それが、私の心の中に生じた疑問なのです」
「もっともな疑問だ。だが、その心配はないだろう」
「そうですか――」
「淀みは、人々の心の曇りから起こる。だが――いずれ、浄化が始まるのだろう。もう一度、聖水珠が必要になる前に」
 やがてその形は静かに崩れ、水面に溶け込んでいった。あとには澄み切った、静かな水をたたえた水面だけがあった。三人ともに、深く息を吐き出した。
「用は無事に済んだようだ。降りるか」ディーが立ち上がり、
「帰りは楽そうだね。下っていくだけだから」
 アンバーは小さく首をすくめ、レイニもほっとしたような表情を浮かべていた。

 ふもとにとめた車で待っていた八人には、頂上での出来事は見えなかったが、三人が山を登り、頂上に消え、やがてゆっくりと下ってくるのを目にした。アンバーとディーが両側からレイニの身体を支え、空中を滑るように、山に沿って降下していっている。やがて三人は、車のすぐそばに来た。
「待たせたな。用は無事に済んだ。帰ろう」
 ディーは地上に降り立つと、待機していた八人に告げた。
「時間は、それほどかからなかったね。二カーロンもたっていないよ」
 ブランが膝に乗せた時を測る装置を見ながら、小さく笑う。
「さっきの村には、明るいうちに十分戻れるわ。そこから次へは無理でしょうけれど」
 ロージアも頷きながら、微かに笑みを浮かべている。
 起点の村に戻るべく、一行は車を進めた。
 山に続く細い水道から広い道へと入った時、ちょうど彼らが向かおうとしている方向の反対側から、一人の少年が歩道の浮き板の上を、走ってきていた。いや、走っているというより、気は走ろうとしているのだが、身体がついていかず、よたよたと、ところどころ早足になり、揺らめきながら歩いてきている感じだ。十四、五歳くらいの年頃で、服装は隣国、氷の国セレイアフォロスのもののようだ。耳の下まで伸びた水色の髪の上から、すっぽりと大きな水色の帽子をかぶっている。その帽子には、微かに光る淡い水色の、大きな稀石がついていた。
 少年は一行の車を見ると立ち止まり、両手を大きく振った。
「どこへ行くんですか? もしセレイアフォロスに行くなら、今は行かない方が良いですよ! もしローリアルネの方角へ行くなら、お願いです、ぼくを乗せていってください!」
「え?」指示席のレイニは車を止め、少年を見やった。車に乗っている後の人々も、同じようにしている。
「私たちはこれから、ローリアルネまで行くのよ」
「じゃあ、お願い、乗せてください! ぼくはローリアルネに行きたいんです」
「あなたはどこから来たの?」
「セレイアフォロスから。あそこのレミルダという町から来たんです」
「ああ。アンリールとの国境に近い、南の方の町ね」
 少年は目をパチパチさせて、改めてレイニの姿を見たようだった。
「あなたもセレイアフォロスの人ですか?」
「ええ。以前そこに住んでいたことがあるわ。レミルダより、かなり西北の町よ。私は純粋な氷の民ではなくて、水が半分混じっているけれど」
 答えてから、レイニは再び少年を見た。
「あなたはレミルダから、一人で来たの?」
「はい」
「歩いてきたの? 乗り合い車を使わずに?」
「レミルダからは、もう車は出ていないんです。町中凍ってしまって、身動きできないから」
「え?」一瞬絶句した後、レイニは言葉を継いだ。
「じゃあ、あなたはレミルダからずっと歩いてきたの? ここまで四、五日はかかるわよ」
「はい。すごく長かったし、もう厳しいなって思ったところに、車が見えたから……ああ、精霊様のお助けだ、と思えてしまって」
「この車は、我々のほかにあと一、二人は乗れる。君がローリアルネに行きたいのなら、とりあえず乗ってもいい。それで、話を聞かせてくれ」
 座席からディーが声をかけると、少年はぱっと顔を輝かせた。
「いいですか?! 本当に!?」
「ああ。二番目の、リルとロージアの隣の席に行ってくれ。ああ、二人の女性の隣だ」
「ありがとうございます!!」
 少年は心底ほっとしたような表情で、扉から這いこみ、リセラの隣に座った。そこであらためて気づいたように、小さな声を上げる。
「あれ、そう言えば、この車は緑だ。青じゃない。それにお姉さんたち、他のみなさんも、アンリールの人じゃなさそうですね。そこのお兄さん以外」
「そう。あたしたちは、ほとんどがディルトなの。ミディアルから逃れてきて、アーセタイルからロッカデール、フェイカンを通って、今アンリールに来ているの。この車はアーセタイルの神殿からもらったから、緑なのよ」
 リセラの説明に、少年は目を丸くしていた。
「本当に? あの移民とディルトの国ミディアルですか? でもあの国は、もうありませんよね」
「そう。あの国は滅ぼされて、今はマディットの属国になってしまったわ。それであたしたち、ミディアルが滅ぶ直前に船でアーセタイルに逃れたの」
「そうなんですか。すごいですね……」
 少年は驚いたように口をつぐんでいた。
「我々の話も、道中おいおい聞かせよう。それより、君のことを話してくれ。君がなぜ、ローリアルネに行きたいのかも」
 ディーが声をかけると、少年は思い出したように頷き、話し始めた。
「はい。ぼくはクリスタっていいます。クリスタ・バレナディン・ベルグナ。年は十五になったところです。ぼくは……ああ、どこから話したらいいのかな。セレイアフォロスの真ん中、少し南の方にライベルガ雪原っていう大きな広い場所があって、そのど真ん中にイリセラ氷山っていう鋭く高い山があるんですけれど――そこから急に氷が広がってきたんです。セレイアフォロスはほとんどの場所が、もともと地面は凍っていますけれど、それが厚くなって、木も凍って、それがだんだん広がっていってしまって。最初にその雪原に面した村が飲み込まれて、それがレミルダまで来てしまって。木が凍って、家が凍って、人も駆動生物も凍ってしまいました。ぼくは逃げたけれど、一緒に逃げていた姉さんが言ったんです。わたしは逃げられない。でも、あなたは逃げて。逃げてローリアルネまで行って、アンリールの精霊様に助けを求めてって。アンリールなの? 氷の精霊様じゃなくてって問い返したら、神殿のあるセヴァロイスに行くには、北へ向かわなければならないから、氷に飲み込まれてしまうって。でもぼくはためらっていたら、姉さんも氷に飲み込まれて凍ってしまって。ぼくはそれで……走って逃げてきたんです。姉さんの言うことに従おうって。姉さんはラリアだから、きっと何かわかっていたんだって」
「ということは、あなたもミヴェルト持ちなの?」
 ロージアが問い返すと、クリスタは頷いた。
「はい。それと、この帽子も姉さんがくれたんです。元は姉さんのなんですけれど、被っていると、稀石の力でレラが強くなるらしいです」
「そうか。それなら、大事に被っているといい。我々はどのみちローリアルネに戻って、水の神殿の神官長様に報告しなければならないことがあるから、行先は同じだ。そこまで一緒に行こう」
「そうよね。ここからローリアルネまで歩いたんじゃ、半節以上かかってしまうわ。車でも五日かかるのにね。乗って行きなさいよ」
 ディーとリセラに言われ、少年は本当にほっとしたような表情になった。
「ありがとうございます。本当に、精霊様のお助けだ……みなさんに、ご加護がありますように」そして思い出したように付け加えていた。
「みなさんの守護精霊様は、それぞれ違うみたいだけれど」と。
 少年の口調には蔑みは一切感じられず、ただ違うものだと認識している、それだけのようだった。十二人になった一行は、ローリアルネへの帰途についた。

「ごくろうだった」
 再び水の神殿、巫女の間に通された一行、疵人ゆえに神殿には入れないブルーとさらに留守番に残ったフレイ、ペブルを除く九人を見、水の巫女が口を開いた。
「疵人を許す力は、神官長に委ねた。そして、セレイアフォロスの少年よ」
 クリスタに目を向けると、言葉を継ぐ。
「氷の精霊から、事態は伝わっておる。だが、我は干渉できない」
 少年の落胆した表情を見、巫女は言葉を継いだ。
「向こうも、それはわかっておるようだ。彼らと一緒に、セレイアフォロスへ戻るとよい」
「彼らって――?」
「我々のことですか?」
 ディーが少し驚いたように問いかけると、巫女は頷いた。
「そうだ。力を貸してやってくれ」
 そして退去の印が鳴った。

「セレイアフォロスでは氷の力の暴走が起きているようで、精霊様にも原因はわかっておられるが、解除するには外部の力が必要らしい。君たちがそれには適任だ、ということだ」
 控えの間に戻ると、テェリス‐ロイ神官長がそう説明した。
「だから君たちにセレイアフォロスへ行って、向こうの首都セヴァロイスまで行き、氷の神殿の巫女様に会ってほしいということだった」
「でも、そこまでの間に氷の暴走地帯があると、彼クリスタは言っておりますが」
「そこを避けていくことは可能らしい。ここから西の国境、ウンリェルの町からセレイアフォロスへ入ると、まだ氷が来ていない地域を通れる。回り道にはなるが。氷の暴走は町では早いが、平地ではそれほど速くはないらしい。その地帯に広がるまでには、まだ一シャーランほどは余裕があるだろう、ということだ」
「わかりました」
「少年よ。そのそなたの帽子についている稀石には、氷の精霊様の紋章が刻まれている。それがあれば、国境を超えることは簡単だ」
「ああ、だから門番の人も通してくれたのですね」
 クリスタは納得したような顔だった。
「我々には、選択の余地はないようですね」
 ディーは苦笑を浮かべ、クリスタを見た。少年は訴えるように一行を見ている。
「この子を置いては、行かれないしね」と、リセラは言い、
「まあ、いつもの展開だな」と、フレイも苦笑いを浮かべている。
「それと、聖水珠を渡してくれたことについての、おまえたちの報酬を果たさなければならないな」
 テェリス‐ロイ神官長は立ち上がり、歩き出した。
「その疵人の男は、外にいるのだな」
「はい、神殿の中には入れませんので」
 ディーが答えると、神官長は頷き、一行の先頭に立って神殿の外に出た。そのまま歩いて門をくぐり、外に待機している車の前に来る。中からペブルとフレイが顔を出した。
「テェリス‐ロイ神官長様だ」
 ディーの言葉に、二人は慌てて頭を下げる。その後ろから、ブルーが顔を出した。
「おまえが疵人だな」神官長はブルーに目を向けた。
「車から降りて、私の前に立て」
 ブルーは真っ白な顔になり、少し震えながら車から降りた。神官長から数歩離れたところで立ち、そして膝をつく。
「そこでは遠い。もっと近くに寄れ。跪かなくとも良い」
「はい」
「では、腕を出せ」
 ブルーは服の袖をまくった。そこに浮き出ている二本の赤い印に、神官長は手を伸ばし、触れた。そこからかすかな光が出、手を離した時には、その印は消えていた。
「おお!」ブルーは感極まったような声を出し、見守っていた仲間たちの何人化も、小さな歓声を上げた。
「喜ぶのは、まだ早い」
 神官長は厳かな声で告げ、踵を返した。
「ついてこい。おまえの疵人の印は消えたので、神殿内に入れる。礼拝の間に立て。おまえが罪を真に悔いているならば、おまえの印は完全になくなる。もしそうでないなら、再び印が現れ、その瞬間、おまえは神殿外に飛ばされるであろう」
「なかなか厳しいテストね」ロージアが小さな声で呟き、
「がんばって、大丈夫よ」と、リセラが励ますようにその背中に触れる。
 ブルーはぎゅっと目をつぶり、かつて印があった個所を反対の手で押さえたまま、神殿内に足を踏み入れた。入り口で清めをし、礼拝所の中に入る。そのご神体の前に、彼は立った。懐かしむように、憧れるように周りを見回す。その眼はひどくうるんでいた。長い時間がたったように思われた。が、実際は十五ティルくらいなものだろう。神官長がつかつかと近づき、その腕をとった。印は現れていなかった。
「おまえの罪は、許された。ただ、忠告しておく。二度目はない。これからは、淀んだ欲望に負けないよう、努めよ」
「はい……ありがとうございます」
 ブルーは再び下を向いた。かつて印があった場所は、白いままだった。そこを撫で、そしてぎゅっと握った。その上に、涙が落ちた。
「そうだ。君が大水守に問うたことだが」神官長はディーに目を向けた。
「人々のこうした心の淀みが、欲望が、水を濁らせるのだ。アンリールも、それゆえ完全に問題がないわけではない。そのために、精霊様が思っておられることが、二つある。一つは、あまり異なる血を排除しすぎないことだ。それは傲りや蔑みの感情を生み、やがて心の濁りにつながっていくゆえに。ただ、フェイカンのような性急なやり方は、我が国はしない。火の精霊様の性質ゆえ、あれは致し方ないが、わが国では、もう少しゆっくりとやっていくつもりだ。神殿や、他の異民族が入れない場所への立ち入りも、まずは水衣を着てもらうことから始める。そしてもう一つは、いずれ大きな浄化が起こるということだ」
「水守様も、そう仰っておられましたね。それに岩の精霊様も、世界は変わっていくのかもしれないと仰っていました。それは、どういう――?」
「それははっきりとは、まだ誰にもわからぬようだ。ただ君たちが、鍵なのかもしれない。いや、君たちが関わる何かが、だ」
 一行が当惑気味に顔を見合わせている間に、新たな従者が三人現れた。真ん中の人が、大きな袋を持っている。
「二人の神殿歌姫からの、約束の報酬だ。持っていきなさい。彼女たちはもう外部のものと接触ができないが、君たちに改めて、感謝を伝えてくれと言っていた。そして歌姫の一人、セアラーナ・カロラ・ヴェステの家族が逃れた場所が、その少年クリスタが来た町、レミルダなのだ。連絡鳥からの返事がないので、彼女がひどく心配していた」
「そうなのですか……」
「まあ……」
 何人かが小さく、驚きの声を上げる。
「では、君たちが無事にセレイアフォロスの危機を救えるよう、祈っている」
 テェリス‐ロイ神官長は微かに笑い、踵を返して、神殿の奥に戻っていった。従者たちがディーたち一行を門のところまで送っていく。
 翌日、彼らは再び北へ向かって車を進めていった。

「セレイアフォロスには行かない予定だったが、予定通りにはいかないものだな」
 車の中で、フレイがそう口火を切った。
「まあ、仕方がないわ。これも成り行きよ」
 リセラが笑い、クリスタを見やる。少年は、少しすまなそうな表情をしていた。
「そう。いつも誰かに出会って、何かに巻き込まれているよね、僕たちは」
 アンバーが小さく笑い、
「まったくだ」と、フレイが相槌を打つ。
「ところで、ブルー」
 ディーが言いかけると、指示席に座った青髪の若者は振り返った。
「おっと、ディー。疵人の印は外れたから、俺はここに残るか、というのはやめてくれ。みなが俺を厄介払いしたいのでなければな」
「俺にも言ったよなあ、ディーは」フレイも苦笑している。
「俺たちのためを思ってくれてはいるんだとは、わかるんだ。それは感謝している。だが、俺はみなとまだ一緒にいたいし、おまえもそうだろ、ブルー?」
「ああ」ブルーは前を向いたまま、ほとんど聞き取れない声で答える。その頬は色濃くなっていた。
「そうか。おまえが良いなら、それでいい。それで、レイニ」
「私がセレイアフォロスへ行きたくない理由があるかどうかっていうの、ディー?」
 水色髪の女性は、微かに首をすくめた。
「特にないわ。だから、行っても大丈夫。私があそこを出てきた理由は、みんなにまだ話していなかったけれど……向こうに行ったら、そのうちに話すわ。でも、本当に大した理由はないのよ」
「それならいいが」
「本当に、みなさんにはご迷惑をかけてしまって、すみません」
 クリスタが改めて言うと、ディーは振り返り、帽子越しに少年の頭に手を触れた。
「気にするな。俺たちは慣れっこだ」
「そうよね」
 リセラが明るい声で応じ、サンディとミレアも小さく笑う。
「さあて、ここからウンリェルの町までは七日かかる。長い旅になるぞ」
 ディーが声をかけ、一行は頷いた。水の街道を、車は進んでいった。やがて柔らかい青い空から雨が降り始め、彼らは車の幌を被せた。アンリールには雨が多い。景色は微かに銀色がかり、駆動生物たちは車を引いて泳いでいく。ときおり反対方向に行く車とすれ違うが、ほとんどが幌などしていず、乗っている人も濡れることを嫌っていないようだった。
「さすがに水の国だよな。でも俺はもう、水はたくさんだ」
 フレイが苦笑して、首を振っていた。
「おまえには、まあそうだろうな。でもまだ国境まで七日かかるぞ」
 指示席に座るブルーの上には幌がないので、濡れたままだが、気にはならないらしい。
 煙る景色の中を、彼らは北西へと向かっていった。


★アンリール編 終★




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