光と闇の舞踏 The Dance of Light and Darkness

第二部 大地と緑の国アーセタイル(4)




 夜が深くなり、眠る時間が来た。ミレア王女とナナン、そしてロージアが車の中で眠り、あとのみなは草の上に広げた毛布の上に横たわった。空気は暖かく、草も柔らかいので、むしろ固い木の床に毛布を敷いた車の中よりも、寝心地はいいかもしれない。
 最初の見張り当番には、アンバーとサンディが当たっていた。見張りや、ミディアル時代の駆動車の引っ張り当番の組み合わせは、袋の中に小さな色付きの玉が入っているものを使って決めていた。この道具はディーが船を脱出する時、一緒に持ち出していたので、使うことができたのだ。この中には七色の小さな球が三個ずつ入っているが、今回は二人ずつ、五組を決めるため、中身を五色二個ずつに減らして行い、同じ色が当たった同士が組になる。見張りの順番は、ディーが決めた。サンディが一番にあたったのは、夜間の見張りに慣れていない彼女が夜中に起きださないで済むように、という配慮なのだろう。
「これが下に全部落ちたら、一カーロンなんだ。全部落ちたらひっくり返して、また上の液体が全部下に落ちたら、二カーロンたったっていうこと。まあ、ユヴァリスとマディットは他の国と昼夜の長さが違うから、多少誤差が出るけれど、ここなら大丈夫」
 アンバーは寝る前にブランから手渡された、小さな筒状のものを地面に置いた。それは真ん中で区切られていて、透明な側壁を通し、上にあった緑の液体が少しずつ下に落ちていくのが見える。
「これで時を図るんですね。これもブランさんの考えた装置ですか?」
 サンディはその装置を見ながら、問いかけた。何かこれに近いものを、彼方の記憶で見たことがあると思いながら。
「いや、これは普通に道具屋で売っているんだ。まあ、ブランの発明っていうのも、わりとあったけど……ほとんど船と一緒に沈んじゃったね」
 アンバーは頭を振ると、言葉を継いだ。
「これから二カーロン、何もなければいいな。僕たちじゃ、危ない奴が来たら、撃退できないからね。みんなを起こす間があれば、幸運なくらいだよ」
「でもアンバーさんは目がいいから、敵の気配はいち早くわかるのではないですか?」
「いや、僕は昼間じゃないと、『鳥の目』は使えないんだ。夜は全然だめだ。耳だけが頼りだね。ディーは夜目が聞くし、ブランは気配がわかるから、二人の方が夜の見張りは頼りになるよ。おまけにディーなら、大抵のものは撃退できるしね」
 二人は車の車輪に寄りかかるようにして座っていた。その前に敷かれた三枚の毛布の上に、五人が眠っている。それぞれに上着を体にかけて。車の前では、二頭の駆動生物が草の上に座り込んだ格好で、眠っているようだった。複数のかすかな寝息と、時々吹きすぎる風に草がなびく音が聞こえるほかは、静寂があたりを支配していた。
「完全に月が沈む前に、見張り当番になれてよかった。サランの節は、沈むのが早いから」
 アンバーは小さな声で言う。食事をしていた時には中天にあった月は、今はかなり低くなっていた。
「節によって違うんですか? 月が出ている時間は?」
 サンディもほかのみなの眠りの邪魔にならないよう、小声で聞いた。
「そうだよ。ビスティとフィエルの間は、一晩中月が出ているけど、だんだん沈むのが早くなっていって、デェエナの節には、まったくなくなるんだ。エビカルになると、今度は朝に近い時間に上ってくるようになって、だんだんまた月が出ている間が長くなるんだ。君の世界では、どうなんだかわからないけれど」
 アンバーは腰に下げた袋から小さな何かを取り出し、それに目を注いでいるようだった。それは彼の両掌を合わせたくらいの大きさで、金色の枠の中に何か文字や絵のようなものが浮かび、彼はそれに付属している銀色の小さな細い棒で、そこに何かを書き込んだり、ポン、と押したりしているようだった。時折それを膝の上に置き、何か考えているように空中に目をやって、また棒をとる。アンバーがこの妙な装置で何かをやっている姿は、サンディもときどき見かけた。ミディアルを旅していたころ、移動の車の中で。それが何なのか、尋ねたことはなかったが。それをやっている時、彼は非常に熱心な様子に見えたので、邪魔をしては悪いという思いもあったからだ。
 今この場では、見張りという役ではあるが、その視覚を使うことができないから、彼はその作業をしているのだろう――サンディは、なんとなくそう思った。黄色い髪の間から見える、その大きなとがった耳は時々ぴんと動くから、音は聞いているのだろう、とも。
 サンディは車輪に寄りかかり、膝を抱えて前を見ていた。カドルの光を消してしまった夜は暗く、月明かりがぼんやりとあたりを照らしていて、かろうじて眠るみなの姿と、遠くの森の影がわかる。空を見上げると、多くの銀色や金色の星が瞬いていた。眠さを感じたサンディは、気を紛らわせるために星の数を数えてみようと思ったが、百を超えたところでますます眠くなってきたことに気づき、やめた。そういえば、数を数えるのは、眠れない時にやっていたことのような気がする……。

 二人の間に置いた時を測る装置が、すべての液体を下に落としきった。それに気づいたサンディがひっくり返そうとする前に、アンバーの手がすっと伸びてきて、装置を返した。彼は相方を見ないまま、言った。
「眠かったら、寝ていていいよ。時間が来たら起こすから」
「あ、いいえ。大丈夫です」
 サンディは目を見開き、首を振った。そして暗闇に目を凝らした。黙って何もしないで座っていると、本当に眠くなるが、夜の見張りがあまりしゃべっていては、眠っている人の迷惑になるかもしれないし、相方は何かに熱中しているようなので、あえて遮って話しかける勇気もなかった。これがリセラ相手だったら、きっともう少し話ができただろうが、誰が相方になるのかは、完全に運任せなのだ。かといって、ここで眠ったら、せっかく見張りを買って出た意味がない気がした。
 彼女は夜空を見つめ、今までのことを思い出そうとしてみた。しかし出てくるのはミディアルで、この一行が見守る中、気づいてからのことばかりで、それ以前の記憶は、まるですっぱりとなにかで切り取られたように、なくなっていた。時折何かの拍子に、水面下で動くものを感じるのだが、それは形にならず、つながらない。
 自分には忘却の術がかけられ、それまでの記憶をなくしていると、かつてディーが言っていたのは、本当なのだろう。彼はその時、半年くらい過ぎたら術が解けて、思い出すだろうと言っていた。彼女がここに来てから、四十日近くが過ぎた。ここのカレンダーは、たぶんかつて自分が知っていたものとは全く違うだろうと感じていてはいたが、レイニから教わったここのカレンダーにのっとれば、一年は三百三十五日という。半年ということは、百七十日に少し足りないくらい――あと、百三十日近く。その後、自分は何を思い出すのだろうか。そのころ彼女は何をして、どこにいるのだろうか――。
 
 やがて時を図る装置の上の液体が、再び三分の二ほど落ちたころ、アンバーは手にした細い棒のようなもので、ポンとその装置を叩き、その棒を装置の中にしまうと、再びそれを袋に戻し、小さく息をついた。
「よし、今日はこれで終わりにしよう……」
「それは、なんですか?」
 そのタイミングを見て、サンディはそっと聞いてみた。
「これは僕の父さんが、僕たちに残していったものなんだ」
「アンバーさんの、お父さんの?」
「そう。父さんは風と光のディルトだったんだ。でも僕が十歳の時、ユヴァリスに帰っていった。もともと彼は、そっちの人だったから。お祖母さんが光で、そっちで家庭を持っていて。お父さんはお祖母さんが結婚する前に、風の人と恋愛して生まれた子らしいけれど、でもお祖母さんの新しい家族と一緒に暮らしていたんだって。父さんは十八の時、自分の本当のお父さんに会いたくて、エウリスに来たらしいんだ。そこで母さんと出会って、そのままエウリスにいたんだけれど、お祖母さんの家で何かあったらしくて、またユヴァリスに戻っていった。すまない。どうしても帰らなければならない、って」
「そうなんですか……」
「それで、父さんが帰る時、これを僕たちに渡して言ったんだ。本当の事情を今言うことはできないが、この装置に手掛かりと答えを残した。何が起きたのか。どうすれば、自分がもう一度エウリスに帰れるのかが、って。自分に会いたければ、これを最後まで解いてくれ、そうすればわかる。そう言ったんだ。何を勝手な、って僕は思ったよ。姉さんと弟もそう思ったみたいだったし、母さんもそうだったみたいだ。帰るなら、勝手に帰れ。僕らはここで生きていくからって。だからそれから四年間は、ずっとそのままだったんだけどね」
「そうなんですか……でも、なぜ今は……?」
「うん。僕が十四の時、母さんも姉さんも弟も、死んでしまったから。僕の残った家族は父さんだけになってしまったから、これを解いてみようって思っただけなんだ。他にすることもなかったしね。でもまだ、やっと三分の二くらいしかできていないんだ」
 その口調には何も感情を映していなかったが、普段元気な若者の思いがけない影に、サンディは少なからず驚いていた。アンバーはたしか、来年のザンディエの節に十八歳になると、聞いたことがある。そしてディーたちの一行に加わって三年目ということは、その間一年足らずで、何が彼にあって、ミディアルに来ることになったのだろうか――それを聞いてみたかったが、そこまで突っ込んで聞くのは不作法だと思いなおし、サンディはそれ以上の質問を控えた。そして思い出していた。アーセタイルに着いた時、リセラが語った彼女の生い立ちを。「みんな、それぞれに事情があって、ミディアルに来ている」と言っていたことを。それはリセラやアンバーだけでなく、ディーも、ペブルもブランも、ブルーとフレイも、レイニ、ロージアも、みな背負っているものは違えど、同じようなものなのだろう。そして自分は――?
「記憶って、時には厄介だから……君もアミカが解けた時、何を思い出すんだろうな。それが君にとって辛いものじゃなかったらいいなって、僕も思うよ」
 アンバーは前も見たまま、言った。サンディも「ありがとうございます」と言ったきり、黙った。今は空白の記憶が戻ってきた時――でも彼女は元の世界に戻れる可能性は、あるのだろうか。今は漠然とした思いしかないが、きっと記憶とともに、その思いも戻ってくるのだろう。帰りたい、と。
 やがて、緑の液体はすべて下に落ち切った。二人は次の見張り当番にあたっているペブルとブルーを起こすと、毛布の空いた場所を見つけ、眠った。サンディはしばらく、さっき感じた思いを反芻しようとしたが、眠気は強く、すぐに眠りに落ちていった。

 夜が明けると、一行は起きだし、毛布をたたみ、全員少しの水を飲んでから、再び出発した。その日も晴れた日だった。昨日と同じ光景だ。道のはじをぴょんぴょんと飛んでいくナンタム、追いかけるように進むサガディたち、その駆動生物たちが引く荷車に乗った一行十二人。しかし一カーロン半ほど過ぎたころ、光景に変化が現れた。
 行く手の草原の中で、なにかがたくさん、飛び跳ねていた。緑色の、小さなふわふわした玉のようなものが。
「ナンタムだ。すごくたくさんいる!」
 アンバーが前方を見ながら、声を上げた。
「あの小さい、緑の玉のようなものが? ――そう見えなくもないけれど」
 リセラが身を乗り出すようにその方角を見る。
「あれはいったい、何をしているんですか?」
 サンディもその玉の正体を見ようとしながら、問いかけた。
「ナンタムは群れで生活しているのだけれど、誰か一匹でもはぐれると、行動に統制が取れなくなると、聞いたことがあるけれど……」
 レイニもその方向に目をやりながら、答えた。
「そうだ。そのようだな。とすると、あれがこいつのはぐれた群れなんだろうか」
 ディーが道の端を進んでいく緑の生き物を見、ついで草原で飛び跳ねている玉のようなものを見て言う。
 と、今までずっと進み続けていたナンタムが止まった。指示席のナナンも「止まれ」と駆動生物たちを止まらせ、車は止まった。小さなナンタムは一行を振り返り、そして車に戻ってきた。駆動生物たちの頭の上に乗り、そこからナナンの膝へと。サガディたちはナンタムが踏切台のように頭に乗って、跳んでいっても、まったく気にしていないようだった。
 ナナンの膝の上に乗ったナンタムは、二、三度ぴょんぴょんと跳ねた。そしてさらにその後ろの人々を見、もう一度跳ねてから、プルプルと身を震わせ、さらに頷くような動作を数回した。
「ありがとうって言ってるよ」
 ナナンが荷車に乗っている一行にそう告げ、
「良かったわ。元気でね、って伝えて」と、リセラが明るく答える。
 その言葉を再びナナンが伝えると、ナンタムはもう一度頷くような動作をした。そして再び道路に飛び降り、草原の中へと走っていった。
 それが近づくと、気配を感じたのか、飛び跳ねていたたくさんの、薄緑の球体たちが、跳ねるように一斉に、その方向に動き出した。草の緑より少し薄い、無数のふわふわしたボールのような生き物が、大きな波を描くように草原を走り、渦を巻くような動きをした後、新たに合流した仲間を取り巻くように、集まってくる。そしてざわめき立っていた草原が、静かになった。
「よかった。仲間のところへ帰れたんだね。ぼくはちょっと寂しいけど」
 ナナンの声は、安堵と寂しさが入り混じったように響いた。
「本当ね。でも良かったわ」と、リセラが頷いた。
「ああ。仲間たちも、ようやく平静に戻れたみたいだしな」
 フレイも草原に目を注ぎ、そして一行のリーダーに問いかけた。
「ところで、ディー。ナンタムの後についていったわけだが、ここが終着点、なんだよな」
「そうだな。ナンタムは群れ移動もするが、どうやらあいつらは向こうの森へ移動しているようだからな。車では追えないだろう」
 ディーは草原に目をやりながら答えた。今では穏やかになった薄緑の群れが、草の中の無数の斑点のように波打って、ゆっくりと遠ざかろうとしていた。
「では、どうするの?」ロージアが問いかけ、
「とりあえずこの道を進んで、最初に行きつく村か町に行こう」
 一行のリーダーは答えた。これまでの道のりでも、三、四回ほど町や村への分岐標識は見ていた。次のそれを目指そう、と。
「どのくらいで行き着くかは、運任せだな」
「いや、ブルー。今まで通り過ぎた標識で、だいたい私は見当がついたよ。どの道を進んで、どこに向かってきたのか。あと三、四カーロンくらいで、チャレアの町に着くだろう」

 ブランの言葉通り、太陽が中天を過ぎたころ、一行は新しい町に着いた。そして町の宿屋を探して、その小屋に駆動生物たちと車を預け、街を歩いてみた。港町バジレよりは大きいが、ティルカナよりは規模の小さいその町は、他の二つと同じように平和で、道行く人々の反応も、あまり変わりはしなかった。町の情報や働き手などを募集していることもある、中央広場の掲示板にも行ってみたが、条件に合う働き口はないようだった。
「わりと期待外れだな」
 ブルーが相変わらずむっつりした口調で言ったが、他のみなの心境も同じだっただろう。
 一行は湯屋で湯あみをし、宿屋に引き取り、ポプルと水の夕食をすませた。
「で、これからどうするよ、ディー」フレイが問いかけた。
「そうだな……」
 ディーは言葉を切り、町の商店で買ってきた地図を広げて、見ていた。彼はしばらく何かを考えているように、じっと見ていたが、やがて頭を上げた。
「ここにいても、あまり収穫はなさそうだ。次へ行こう」
「次はどこへ?」そう問いかけたリセラに、ディーは答えた。
「次はラーダイマイトだ」
「え?」ナナンが驚いたように頭を上げ、小さく叫んだ。
「ラーダイマイトって、ナナンくんが来た町でしょう?」
 リセラがやはり少し驚いたように、問いかけている。
「ああ。ここからそう遠くない。ここから内陸に向かう道を行って、途中分岐を曲がれば、明日中には着ける。四カーロンくらいの道のりだろう」
「そこへ行って、どうするんだ?」
「ナナンくんを送っていくんだ。最初に約束した通り」
 フレイの問いかけに、ディーは緑髪の少年を見やり、答えた。
「ああ……そうだったな」
 フレイとブルーが納得したように頷いている。
「ぼくは……帰らなければ、ならないの?」
 ナナンは驚きと戸惑いが入り混じったような表情を浮かべていた。
「あなたは帰りたくないの、ナナンくん?」
 リセラが優しい口調で、問いかける。
「うん。ぼくは……このまま行けたらいいなって、思ってたんだ。家に帰るより。みんなと旅してて、とても楽しかったから……このまま、ずっといたいなって」
 少年は激しく首を振った。「ぼくは……いやだ。うちには帰りたくない。ねえ、もうちょっと……せめてみんながアーセタイルにいるうちは、一緒にいたい。ダメですか?!」
「そう言ってくれるのは、ありがたいが……残念だが、君は家に帰った方がいい」
「いいんじゃないの、ディー。あたしたちは、新しい仲間は歓迎……」
 言いかけたリセラを遮って、ディーは首を振った。
「それは、だめだ」と。
「どうして? かわいそうじゃない……」
「俺たちと一緒に来させる方が、かわいそうだ。おまえはどうも考えなしだな、リル。よく考えろ。俺たちはみな、帰るところのない、はぐれものだ。ミディアルを追われてここへ来たが、将来的な生活のめども、何も立っていない。幸い今までは順調に行けたけれど、これからもそうだという保証はない。いや、たぶんこのままいけば、全員最後は行き倒れる可能性も、全くないとは言えないだろう。そんな俺たちと一緒に行くより、家に帰った方がいい。ナナンくんは俺たちとは違う。帰る家があるんだ」
「まあ……それはそうだけれど、せめてアーセタイルにいる間だけでも……」
「俺たちがいつアーセタイルを出るのか、それもわからないんだぞ。先行きどうなるか、わからないんだ。ならば今、ラーダイマイトの近くまで来た時に送り届けてやるのが、一番いいと思うんだ」
「まあ……ディーの言うことは一理あるな」と、フレイがそこで頷き
「正論ね」と、ロージアも短く言う。
「でも、ぼくが帰っても……」
 そう口ごもるナナンに、ディーは口調を和らげて問いかけていた。
「君の家は、君にとって居心地が悪いのか? 家の連中は、君に意地悪をしたり、邪魔者扱いしたりするのか」
「ううん……意地悪はされてない。弟や妹とは……仲は悪くない。母さんは、母さんだし」
 少年は少し考えるように黙った後、首を振ってそう答えた。
「では君の新しい父親は、君につらく当たるのか?」
「そんなことは……ないよ。むしろ、仲良くしてくれようと、していると思う」
「それなら君はどうして、家に帰りたくないんだ?」
「でもぼくは、いない方がいいと思うから」
「どうしてなの?」
 リセラがそこで、やはり優しい口調で問いかけた。
「ぼくがいなければ、うちは純粋な土の家族だもの。同じ父さんと母さんの子で、他のエレメントなくて入っていなくて……」
「お父さんやお母さんがそう言ったの? 兄弟たちも?」
「言わないよ、そんなこと」
「じゃあ、そう思っているのは君だけかもしれないな、ナナンくん」
 ディーは苦笑しながら、首を振った。
「君は、考えすぎているのかもしれない。ディルトなのを、気にしすぎているようだ。君の周りの人たちは、ディルトだからと君をさげすむのか?」
「そういう人も、中にはいる……」
「だが、全部ではないわけだろう?」
「そうだね……普通に接してくれる人もいるよ。でも心の中では、どう思っているかわからないし……」
「だからそういうのが、考えすぎているのかもしれない、と言うんだ」
 ディーは頭を振り、少年に向かって告げた。
「あなたがミディアルへ行きたいと言った時に、家族のみなは喜んだの?」
 レイニが穏やかな口調で、横からそう問いかける。
「……わからない。でも、しかたがないわね……って、母さんはそう言ったっけ」
「それは君の、実の父親と暮らしたいという気持ちを、尊重しただけじゃないかな」
 ブランがそこで、意見を述べた。
「とりあえず、帰った方がいいだろう。君はご家族に連絡もしていないわけだし、心配しているかもしれない。ミディアルがマディットの支配下に入ったということは、アーセタイルでも知られているだろうから」
 ディーが首を振りながら、きっぱりとした口調で結論づけた。
「そして家で落ち着いて、君がもう少し大きくなったら、考えたらいい。君の人生を。今はまだ、君は独り立ちができる年齢ではないし、庇護してくれる家族もいるわけだ。もう少し、それに甘えたらいい。だが、君が大人になったらミディアルに渡って、君のお父さんと一緒に働くという選択肢は、あまり賛成はしたくないな。もうミディアルは、以前とは違う。君の父親が神殿奴隷の一年を生き延び、解放されてミディアルに戻されたとしても、マディットの傘下では、扱いは奴隷と変わらない。厳しい成果を求められ、禁止事項も増えるだろう。君が行っても、暮らしにくいだけだと思う」
「うん……」ナナンは少し涙ぐんでいるようだった。
「そうだ! いいことを考えたわ。あたしたち、あなたに手紙を出すわね。あなたの家がわかったら、出すことができるから。それに返信してくれれば、あたしたちが移動していても、あなたの手紙も届くから。だから時々、あなたのことを知らせてね」
 リセラが快活な調子で言い、少年の背中をなでた。
「うん」ナナンはほっとしたような表情になった。
「そしてあなたが大人になるころ、もしあたしたちが、もし新しいミディアルを作れていたら、気が向いたら遊びに来てね」
「新しいミディアル?」
「そうよ。あたしたちは最終的には、そこを目指しているの。ここにいるミレア王女を新しい女王様にして、もう一度ディルトたちの自由な天地を作るっていうね。実現できるかどうか、わからないけれど、それがあたしたちの夢だし、目標なのよ」
「そうなんだ……すごいね」
 ナナンの顔に、憧れるような表情が浮かんだ、
「わたしが女王に……?」
 ミレア王女が少し驚いたように顔を上げ、
「だって、それが王様の遺言ですものね」と、リセラは微笑みかけていた。
「だがそれは、あくまで目標で、夢だからな。仮に実現できても、そこまでの道のりは遠いだろうし、険しいだろう。君につき合わせる義理はないな、ナナンくん。リルが言ったように、できるとすれば君が大人になったころだろうから、その時に遊びに来たかったら、いつでも来てくれていい。それが君と俺たちとの、究極の目標だな」
 ディーは表情をやわらげて、言葉を継いだ。
「君には感謝している。君はリルとサンディの命を救い、ナンタムを群れに返すのにも、とても重要な働きをしてくれた。せめてものお礼に、なにか渡せればいいんだが」
「いいや……いらないよ。ぼくも、楽しかったし」
 ナナンは涙ぐんでいるようで、服の袖で目を拭いていた。
「あなたのお家で、幸せになれるといいですね」
 サンディはそっと、その腕に触れた。
「帰るおうちがあるのは……羨ましいです」
 ミレア王女が、ぽつりと呟く。
「そうだったね。君の家は……」
 ナナンは改めて、薄い茶色の巻髪にピンクのドレスの少女を見た。
「考えてみたら、ミディアルが滅ぶまでは、君は相当に素晴らしい暮らしをしていたんだろうね。王女様なんだから。でも今は、一緒に旅をする仲間がいて、ぼくにはそれも少し羨ましいな、っていうか、良かったねって思う」
 王女は少し目を潤ませて、こくっと頷いた。
「わたし、生きていてよかったとは、まだ言えないけれど……それでも……エリアラのおかげです……それと、みなさんの」
「あの女官さんも、無事だといいけれど」
 リセラは天井に目をやっていた。サンディも、そしてその場にいたみなもおそらく、思い出していただろう。ミディアルの首都エルアナフがマディット・ディル軍の放った鳥たちに襲われていた時、王女を連れて逃げてくれと一行に頼んだ、あの女官の青ざめた、悲壮な表情を。 
「さあ、とりあえず今日は寝よう。宿屋だから、昨日のように交代で見張りをする必要はないな。みんな、ぐっすり眠れるぞ」
 ディーは首を振り、そう宣言した。木張りの床に、端切れで編まれたじゅうたんが敷かれたその部屋は、あまり広くはない。宿に用意されている就寝用の厚い敷物を敷き、十二人が寝るといっぱいだったが、今はできるだけ節約しなければならないのだ。それにもともと一行はミディアルでも、ずっとこういった就寝スタイルだった。ミレア王女は別だが。

 翌日の朝、再び一行は出発した。ナナンが指示席に座るのは、この日が最後だ。少年は地図に従って、駆動生物たちに故郷へと向かわせた。そして昨日と同じように、日が中天を過ぎたころ、一行はラーダイマイトに着いた。
 ラーダイマイトはポプルと、そしてもう一つ、服や敷物の材料になるパディムという植物の栽培と、その植物を紡いで糸にする工場、その三つが主な町の生業だった。ミディアルでは、繊維の原料はコティという白いふわふわした実だが、アーセタイルではパディムという、少し緑か茶色がかった、同じようにふわふわとした実から作っているのだと、ブランが説明してくれた。
「コティと違って白くないから、その色の糸しかできないんだ。花から作る染料も、緑か茶色、良くて茶色がかった黄色かオレンジくらいだね。ミディアルのコティは、いろいろな花の染料で、いろいろな色に染められたけれど。ただ繊維の質は、パディムの方がはるかにいいよ。土のレラが豊富だからね」とも。
「うちもパディム農園なんだよ」ナナンが言った。
「パディムの畑と、緑の染料のもとになる、バムという花を作ってるんだ。だから、父さんがミディアルで農園をやっているって聞いて、それならぼくも手伝えるかな、って思ったんだ。ポプルじゃなくて、コティならもっとよかったんだけど」
「あなたの町では、収穫の時期に人を頼んだりしないの?」
 リセラがそう聞いた。
「頼むこともあるよ。収穫は早くしないといけないから。でも今年の一回目の収穫はもう終わっちゃったし、あとはディエナの節まで摘めないよ」
「そうなの、残念。ポプルの方も?」
「ポプルはなった分だけ毎日とってるみたいだから、人を頼むことはあまりないみたい」
「そう。アーセタイルでは土のレラが豊富だから、ポプルは常に実り続けているんだ。ミディアルでは一度に実って、五日くらいで実が落ちてしまうけれど、ここではね、実は落ちないんだよ。だからそう急ぐ必要もないんだ」
 ナナンの答えに、ブランがそう言いたしていた。そして彼は服のポケットを探り、なにかを取り出して、少年に手渡した。
「我々の旅の記念と、君への感謝のしるしにね」と。
 それは大きめの緑の稀石と、小さいオレンジの稀石がついた腕輪だった。細い銀の鎖の先端には丸い二つの環が組み合って、留めるようになっている。
「これは……?」
 目を丸くしてそれを見つめていたナナンは、驚いたようにそう問いかけた。
「わたしたちは、あなたに何かお礼をしたいと思っていたのだけれど、それには稀石がいいのではないかと思ったの。いざという時には売れるし、持っていれば、あなたの力を高めてくれるわ」と、ロージアが答えた。
「ただ、石だけを渡すより、身に着けていられるように加工したほうがいいと思ってな、それでブランに頼んだんだ」ディーも頷いて、そう付け加える。
「そう。それで一昨日の夜の見張り番の時と、昨日の夜とで、それを作ったんだ。幸い、ミディアルの銀貨が少し残っていたからね。稀石は、君の四分の三の土と、四分の一の火だ。君は火が混じったことがいやだと言ったが、それは君の父親から受け継いだものだ。君と父親、エンガシアンさんとの間をつなぐものだ。だからその四分の一の小さな火も、大切にするといい」ブランは静かな口調で、そう告げる。
「あ……ありがとう」
 ナナンはむせぶような口調になり、手のひらの上のそれをじっと見つめていた。
「ブランは器用ね。さすがだわ」
 リセラは感嘆したように言い、そしてにっこりと少年に笑いかけた。
「つけてあげるわ、ナナンくん。どっちの腕に着ける?」
「ありがとう。じゃあ……左に」
 ナナンは手を伸ばした。そしてリセラにつけてもらうと、その緑とオレンジの輝きをじっと見、詰まったような口調で言った。
「ありがとう。ぼく……ずっとつけてるよ」




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