EVERGREEN : 常盤の守護精

第三章 みどりの笛吹き(3)




『ありがとう。君たちに見送ってもらって、ジェイも喜んでいるだろう』
 家の中に戻ってきたマーロン氏は、ありさとエドワードに向き直り、告げた。しわがれたような声だった。
『わたしも、来られて良かったです』
 ありさも目を潤ませたまま、答えた。
『でも、叔父さん。アリソン叔母さんのお墓とは違う場所にしたんですね。この家の敷地で、樹木墓というのは』
 エドワードがそう問いかける。
『ああ。ジェイが言っていたんだ。去年の秋だったかな。もしぼくが死んだら、この庭に埋めて、その上に木を植えて、と。私は笑って答えたんだがな。縁起でもない。私におまえの弔いをさせる気か。おまえこそ、私を看取ってくれないと困ると』
 マーロン氏は言葉を止め、天井を仰いでしばらく黙った。
『ジェイは普通の子供ではないから、私の命ある限り見守って、私が逝った後も生きていけるように、いろいろと教えていくつもりだった……』
 沈黙が流れた。ありさは言葉が見つからなかったし、エドワードもそうなのだろう。マーロン氏は大きく鼻をすすり上げ、袖でぐいっと目をぬぐうと、続けた。
『でも、あの子の表情は、真剣だった。あの子はいつも、本気でしかものを言わない。だから私は答えた。そうだな、人生に絶対はないから、もしそんなことがあったら困るけれど、仮にそうなったら、きっとそうしてやる。でも、おまえはお母さんのそばにいなくていいのか? と。そうしたら、ジェイは答えた。うん、あそこにママの身体は眠っているけれど、身体だけだから。ぼくはここが好きなんだ、と。それで私は言った。わかった。何の木がいい? そうしたらあの子はしばらく考えて、答えていた。ハシバミがいいと』
 再び長い沈黙の後、マーロン氏は二人にうつろな眼差しを向けた。
『来てくれて、ありがとう』
『ええ、来られて良かったです。僕はもう、帰りますね。あ、そうだ、エリッサ。君はいつ帰るんだい?』
『わたしは、まだ決めていないけれど……』
 大学はまだ学期中で、昨日今日と講義を休んできている。できれば早いうちに戻りたいが、マーロン氏と、そして犬のニックも含めて、このままの状態で残しておいて大丈夫だろうか――。
『これから、私が君を大学まで送っていこう。君もそう長い間、休んでいるわけにはいかないだろうから』
 マーロン氏は微かに首を振り、そう告げた。
『ありがとうございます。でも大丈夫ですか?』
 思わず、そう言葉が出た。
『ありがとう、心配してくれて。だが、我々のことは、もう気にしてくれなくても平気だよ。アリソンもおらず、ジェイもいなくなった今、私は君にとって、もう他人だ』
『でも、母と縁のあった方です、あなたは』
 ありさは首を振った。『お願いですから、これからはご自分のために生きてください。ご自分を労わってあげてください。ジェイもそう願っているはずです。ニックもね……』
 ありさは犬のところに行って腕を回し、その毛皮に顔を押し付けた。
『お願いだから、元気を出して。ごはんを食べて、生きてね』
 マーロン氏がありさの継母瑤子のように精神を病み、やつれてしまうことも、忠実なニックがエサも食べず、悲しみのあまり死んでしまうことも、恐ろしかった。涙が流れた。
 ニックが首をもたげ、ありさの頬をなめた。ありさはその頭を撫でた。
『僕も彼女と同じ意見です、叔父さん。今は辛いかもしれませんが……と、月並みなことしか言えないですが』
 エドワードも静かな口調で、そう言い足している。
『……ありがとう』
 マーロン氏の眼に、かすかな感謝の色が浮かんだ。
『じゃあ、僕は帰ります。そうだ、エリッサ。牧師さんが見えて、そのままになっていたけれど――もし君が気になるのなら、あの時言ったように、僕の家に来ないかい。僕も君の話を聞いて興味を覚えたから、彼女に詳しい話を聞いてみたいんだ。君も良かったら、一緒に』
『ありがとう。もしよかったら、伺いたいです』
 ありさは頷いた。ネイティヴ・アメリカンの血を引くというエドワードの妻が、ジェイの話を聞いて言っていたこと『その子は呼ばれたのね』――その言葉はかつて弟が、妹の失踪と死について言っていたものと同じだったことが、気にかかっていたのはたしかだったからだ。弟が知っていた何かを、もしかしたら従兄の妻も知っているのかも――そう思えた。
『それなら、今から家に来るかい? その方が楽だ。リーナは――ああ、妻だけれど――驚くだろうけれど、歓待してくれるだろう』
『ええ。でも今から行くと、帰りは夕方にかかってしまいそうだけど、御迷惑じゃないですか?』
『それなら……私もぜひ一緒に行かせてくれ』
 マーロン氏が、そこでそう言い出した。『君の奥さんには負担かもしれないが、私も聞いてみたい。ジェイが逝ってしまった真相が、少しでもわかるなら……』
『うーん、彼女が真相を知っているわけじゃないと思いますが』
 エドワードは少し当惑したような表情になった。『妻が言うのは、古い伝承なんだと思いますよ。だからその真偽も含めて、あまり真剣にとらえられると、困るんですが』
『それは、わかっているつもりだよ。ただ、エリッサが君の家に行くなら、私も一緒に行って、帰りは私の車でここに戻ってきたらいい、そう考えたんだ。そうすれば、君もエリッサを送る心配はないし、彼女にはもう一晩ここで泊まってもらって、明日の朝、私が大学へ送っていけばいい。午後からの講義には、間に合うだろう』
『ああ、それはそうですね』
『すみません、ありがとうございます』
 ありさは二人に感謝のまなざしを向けた。

 従兄エドワードの家は、かつて彼ら一家と一緒に行ったキャンプ地の近くにある、小さな村にあった。マーロン氏が住んでいる場所よりはにぎやかだが、村の住人は千人もいないだろう。三ベッドルームの、比較的こじんまりした家だった。
 従兄の妻マルセリーナ・リチャードソンは比較的小柄で痩せていて、肌の色は浅黒く、長い黒髪を赤い紐で後ろに束ねていた。白いニットに赤い花柄のスカート、エプロンをつけているが、そのお腹は丸く膨らんでいる。
『おめでたなんですね』
 従兄に紹介され、お互いに挨拶を交わし、急に来たことを詫びた後、ありさは聞いた。
『五月に生まれる予定なんです』
 従兄の妻は、微かに顔をほころばせる。
『おめでとうございます』
 ありさは言い、マーロン氏も同じ言葉を繰り返していた。
 逝く命と来る命――不思議な思いがしたが、それはきっと氏も同じだろう。いや、彼にとっては、ほろ苦いかもしれない。そう言えば、桃香を亡くした後、継母が『妊婦を見るのがつらい。憎らしい!』と、父に訴えていたことを思い出した。ありさは廊下で、その言葉を漏れ聞いただけだが。同じように彼女はその義理の娘に対しても、呪詛の言葉を幾度となく繰り返していた。自分の娘が死んだのに、他の子は無事で生きているというその事実に、耐えられなかったのだろう。
 
 従兄の家のリビングで、従兄の妻がいれてくれたお茶を飲みながら、いくつもの慣例的な言葉が繰り返された。ジェイへの鎮魂の言葉、氏への慰め、こちらからは、急に来てしまったことへの詫びなど。そしてエドワードが切り出した。
『実はさ、リーナ。二人がここへ来たのは、ほら、僕が従弟の事件について君に話した時、君が言っていたことなんだ。“その子は呼ばれた”って。それをエリッサに話したら、ジェイも同じことを言っていたって聞いて――君はあの時、言っていたよね。子供のころ、お祖母ちゃんから聞いた話だって。君の母方のお祖母さんは、さらにそのお祖父さんから聞いたとかいう――僕もあの時聞いてみようかと思っていたけれど、疲れていたし眠かったから、そのままになってしまった。それで、それは何なのかなって、彼らも興味を持ったようなんだ』
『ああ』
 従兄の妻は微笑み、小さく首を振った後、ありさとマーロン氏に目を向けた。
『わたしも完全に理解しているわけではないし、よくある民間伝承の一つだと思いますが、興味がおありになるなら』
 彼女の平たく赤い唇から洩れる声は、深みがあって低い。流れる小川のせせらぎを思い起こさせるような声だった。彼女は細い指で紅茶のカップを持ち上げ、一口飲むと、再びテーブルに置いて話し始めた。
『どこから話したらいいか、わからないけれど――わたしの母は、双子だったんです。母の家族はアメリカ、ワイオミングの北部で育って、二人は野原や林の中で、いつも一緒に遊んでいたそうです。クマやヒョウなども出るので、決して森の中には入ってはいけないと言われていたらしいですが、四歳と六歳年上の、二人の兄が監督役になって。それで、母たちが六歳の頃、二人は林の中で半日ほど、迷子になってしまったらしいんです』
『迷子だらけだな』エドワードはそう呟いた後、苦笑して三人を見た。
『すまない。つい、言ってしまったよ』
『いいのよ』その妻は小さく肩をすくめると、話を続けた。
『二人は発見された後、今までどこにいたのかと問う祖父母に告げたそうです。母の方は、よく覚えていない。迷っていた記憶と、何か鹿のような生き物に出会った記憶がある、と。でも母の姉は言っていたらしいです。違う、鹿じゃない。あれは妖精。それに呼ばれて、引き寄せられてしまった。でもそれ以上は言えない、と。祖母は顔色を変えて、母の双子の姉に告げたそうです。今度呼ばれても、決して行ってはいけない。あなたは選ばれてしまった、と』
『選ばれた?』ありさは思わず反復した。
 マルセリーナは頷き、再び紅茶を一口飲むと、話し始めた。
『母の姉はそれから一年後、いつものように林でみなと遊んでいる時に、突然失踪してしまいました。そして三日後、林に続く奥の森の中で、遺体で見つかりました。その身体に傷はなくて、もちろん獣に食われたような痕跡もなく、きれいだったそうです。死因は低体温症と言われて――ジェイ君と同じですね。その時、祖母は涙を流しながら、言ったそうです。守護精様(エヴァ―グリーン)に呼ばれたら、逃れられないのね、と』
『エヴァ―グリーン……?』
 三人ともが、そう反復した。
『母はその時不思議に思ったそうですが、なにぶん小さかったし、姉の死に衝撃も受けていたので、その時にはそれが何なのか、聞かなかったそうです。その後、母の一家はカナダのこの地方に来て、母はイタリア系住民である父と結婚し、二人の兄が生まれ、わたしが生まれました。そしてわたしは七歳の時、ハイキングに行った先で迷子になったんです。その時の経験を母に話したら、母は青くなり、わたしを連れて、祖母の家に行きました。それで彼女に、あの時の話の、詳しいことを教えてほしい。この子は大丈夫なのか、と訴えたのです』
 従兄の妻はふっと息をつき、少し黙った後、再び話し始めた。
『祖母はわたしに聞きました。おまえはどのくらい覚えている? と。わたしは、あまり覚えていませんでした。光のようなものと、そして緑の小鹿のような生き物がいたような気がする、それだけしか言えませんでした。祖母はほっとしたような顔をして、告げました。大丈夫。おまえは選ばれていない、と。母もほっとしたようで、そして改めて聞いていたんです。その選ばれるとか、選ばれないとか、どういうことなのか、と。そうしたら、祖母が話してくれたんです。それは祖母のお祖父さんから聞いた、たぶん代々伝わっている古い伝承だと。伝承なので、本当かどうかはわからないですが、祖母は信じていたようです』
 そしてマルセリーナは小さく笑った。
『この現代に、神話の類のような迷信だと、きっとほとんどの人は言うでしょうけれど。でも祖母が言うには、この自然界のすべてのものには、それを守る精霊のようなものがいる。大地の力、火の力、風の力、水の力、そして植物の力も。この地球上に植物が伸びて育っていく力を守る精霊、それがエヴァ―グリーン――永遠の緑と呼ばれるもの。でも近年、少しずつ植物の生命力は弱くなっていき、精霊様は失われていく力を補うために、“みどりの人”の持つ力を借りようとする』
『みどりの人――?』
 ありさは思わず反復した。そうだ、いつか友人たちが――キャスだっけ、ボニーだっけ――言っていた。植物を育てるのが上手い人を、“みどりの人”と呼ぶと。祖母も、妹も、そして弟ジェイも“みどりの人”だったと思ったことも。
 従兄の妻はありさに目を向け、その表情から心を読み取ったように、頷いた。
『そう。植物と心を通じ合わせることができる人――その力を、精霊様は欲しがるそうです。それで、自然の好きな子供たちを森に引き込んで、試していく。その子が十分な力を持っているかどうか。祖母の話が本当ならば、わたしたちはみな、試されたのかもしれません。そんな風にも感じます。母も、母の双子の姉も、わたしも、エディーも、ありささんも、ありささんの妹さんも、ジェイ君も』
 彼女、マルセリーナはありさのことをエリッサと呼ばず、日本語的な発音でありさと呼んだ。そのことも含めて、その言葉に、ありさは小さな衝撃を感じた。
『それで、君の母と君と僕とエリッサがはずれで、君の母のお姉さんとエリッサの妹さんとジェイが、当たり――てことかい?』
 問いかけた夫に目を向け、マルセリーナは微かに頷いた。
『祖母が言うには、その記憶を持っているかどうか、知っているけれど語らない感じか、何も知らないか、そして“それ”が何に見えるか――色は緑を帯びて見えるから、それはともかく、小動物や普通の人に見えたら大丈夫。でも、この世のものではないものに見えたら、それは“選ばれた”ということ――祖母は、そう言っていたわ。あなたはウサギ、わたしは小鹿、母も鹿。でも母の双子の姉は妖精と言っていた。ジェイ君には何に見えたのかは――』
『ユニコーンだ。翼の生えた――』
 そこで、マーロン氏が息を吐き出すように告げた。ありさもスケッチブックに描かれた絵を思い出した。それでは、わたしはいったい、あそこで何を見たのだろう――?
 脳裏に夢がよみがえってきた。そうだ――男の子だ。緑の眼に緑の服の、男の子。人形との印象がダブったのか、そのままの男の子だ。金髪で、その背に翼はない、普通の子。
『君は何に見えたんだい、エリッサ。ああ、覚えていないんだっけ』
 問いかけた従兄に対し、ありさは首を振って答えた。
『いいえ、今思い出したわ。男の子。普通の』
『そう言えばアリソンも、昔森の中で迷ったと言っていたな。でも彼女が何を見たのか、聞くことはなかった。彼女は助かったのだから、普通のものだったのだろうか』
 マーロン氏がうめくように言い、首を振った。
――桃香は、何を見たのだろう。彼女の言う“みどりちゃん”は。それをきくことはできなかったが、なんとなくそれはやはり自分と同じ人で、ただ翼が生えていたりしたのかもしれない、そう思えた。何の根拠もないが。
『わたしが覚えているのは、これだけです。ああ、でももう一つ、祖母が言っていたことがあります。その“みどり”の血筋は伝承する傾向があるから、気をつけなさいと。わたしの母方の血、エディーやアリソンさんの血筋――ジェイ君やありささんもそうだけれど、ありささんの妹さんは――』
『わたしの祖母かもしれません。彼女も、植物が大好きな人でした』
 ありさはゆきのの姿を思い浮かべていた。日中よく庭で過ごし、植物に語りかけ、手入れしていた祖母。彼女もたしかに“みどりの人”だった。祖母の小さい頃の話など、聞いたことはなかったが、彼女も“試された”ことがあるのだろうか。それで、“選ばれなかった”のだろうか。それとも、行かなかったのだろうか。
『怖いなあ。僕たちの子供は大丈夫だろうか』
 エドワードが心配げな顔で、妻を見やった。妻の方は夫を見、お腹に手を当てる。
『そうね。二重に血を引いているわけだから』
 彼女は微笑んだが、そこには隠せない不安の影があった。
『大丈夫。わたしも二重に血を受けているけれど、選ばれなかったですから』
 ありさは思わず、そう告げていた。二人の表情も、微かに緩んだ。
『それにまあ、あくまでこれは言い伝えみたいなものだしね。本当にそうかはわからない』
 エドワードが気を取り直したように言って、首を振った。
『そう。迷信のようなものだと思ってください』
 彼の妻もかすかに微笑んで、そう言いたす。
『そうだな……でも、ありがとう、話してくれて。そう……呼ばれるものが何であれ、そこには我々には計り知れない、理由があるんだ。そう思うと、少しだけ気が楽になったような気がする』
 マーロン氏はテーブルの上で両手を合わせ、二人に感謝のまなざしを投げていた。
『身重なのに急に押しかけて、話をさせて悪かったね。でも、ありがとう。子供が生まれたら、ぜひお祝いをさせてくれ』
『ありがとうございます。体調は悪くないので、大丈夫です』
『本当に、ありがとうございました』
 ありさも従兄の妻に感謝を述べ、その手を握った。
 その後ありさはマーロン氏の車で彼の家に戻り、パスタを入れたスープを作って食べた。氏は相変わらず食欲はないようで、犬のニックもドッグフードに手を付けないままだが。ありさは彼らを気にかけながら、屋根裏部屋の小さな客用寝室で眠った。

 ありさは夢を見ていた。森の中にいるが、いつも見る“迷う夢”ではない。ここは、かつてマーロン氏とジェイとともに行った森の広場に、似ているような気がする。周りに、木々の葉が揺れている。
 ありさは少し疲れを覚えて、倒木の上に腰を下ろした。すぐそばを、透明な小川が流れている。その小川の上を、誰かが渡ってきた。顔を上げると、そこには弟がいた。小川の流れの上に立っているのだが、その足は水に触れていない。水面の少し上にいるかのように見えた。彼はにっこり笑った。
『ありがとう、エリッサ』
『ジェイ!』ありさは弟に呼びかけた。
『そこにいるの? あなたなの? あなたは“呼ばれた”の?』
 弟は微かに頷いたように見えた。そして、霞に溶けるように消えた。あとには圧倒的な、安らぎの感情のようなものが残った。

 そこで目が覚めた。まだ外は薄暗いようだ。時計を確かめると、五時を過ぎたところだった。家の中は、静寂が支配しているようだ。ありさはいつしか、また眠った。
 再び目が覚めた時には、部屋はすっかり明るくなっていた。階下から、物音がする。スープの匂いも漂ってくる。着替えて降りていくと、マーロン氏が台所で朝食を作っていた。
『起きたのかい? 家には驚くほど何もなくなっていたから、パンケーキくらいしか作れないが。でも、昨日君が作っておいてくれたスープがあるから、一緒に食べてくれ。今、コーヒーもいれるよ』
『ありがとうございます』
 ありさは驚きを感じながら、椅子に座った。マーロン氏の顔は相変わらずやつれているが、その眼には少し生気が戻ってきたように思えた。
『少し元気になられたようで、嬉しいです』
『私がここで自暴自棄になっても、あの子は喜ばない』
 マーロン氏はスープのカップとパンケーキの皿をありさの前に置き、自分の分も同様に並べた。インスタントだが、コーヒーもいれてくれた。そして椅子に座り、続けた。
『昨夜、ジェイの夢を見たんだ』
『マーロンさんもですか?』思わずそう返した。
『君もかい?』
『ええ』
『あの子は、なんて言っていた?』
『ありがとうって』
『そうか――』マーロン氏の眼は潤んだ。
『私には、こう言ったんだ。パパ、ごめん。でもぼくはずっと、そばにいるよ』
 氏はそう言うと、どこか機械的な動作で、パンケーキとスープを口に運んだ。
『あの子に、心配させるわけにはいかない。私たちは、これからも生きていかなければならないんだ。ジェイはもういないが、あの子の木がある。たしかにあの子は、そうして私たちのそばにいてくれるのかもしれない』
『そうですね――』
 ありさは頷いた。氏が継母と同じ道をたどらなかったことに、心からほっとしていた。リビングスペースの方で物音が聞こえたので振り向くと、ニックが起き上がり、皿の上のドッグフードを食べている。
『いい子ね!』
 思わず声を出して近づき、そっとその毛に触れると、ニックはしっぽを振った。その眼にも、光が戻ってきたように感じる。犬も夢を見るなら、ジェイはニックのところにもいったのだろうか――そんな思いを感じた。

 再び大学に戻るために庭に出ると、庭の隅に植えられた小さなハシバミの木が目に入ってきた。ジェイの墓の上に植えられた木。あの子の木――今は小さな若木だけれど、これから弟の身体を糧にして、大きく育っていくのだろう。ありさの脳裏に、立派な大木に成長した木の姿が浮かんだ。風に葉をそよがせ、青い空を背景に立つ木が。
 常盤家の庭に植えてある、楓の木を思い出した。あれは、ありさの木だ。彼女が常盤家に引き取られた時、祖母ゆきのが植えてくれた。「本当なら、生まれた時に植えるものだけれど」祖母はそう言っていた。妹が生まれた時には、桃の木が植えられた。父や叔父や、祖父たちのものもある。
 生まれた時に植えられ、その成長とともに大きくなっていく樹。それは、自分の分身のようなものかもしれない。そして庭の桃の花が咲くたびに、妹の分身もまた生きているような気がしていた。それは、命の木。
 今この庭には、弟が世を去った時に植えられた木がある。これは“命を継ぐ木”なのかもしれない。本来は、弟自身が育つ代わりなのだと思うと、それは今の桃香の木にも似ているかもしれない。
 どうしてジェイはハシバミにしたのだろう。そう言えば、シンデレラの原作、魔法使いのおばあさんが出てこないお話では、お願いをするのはハシバミの木だった。母の墓の上に植えられた、小さな木の枝が育ったものだ。シンデレラの亡き母の依り代であり、天界と通じるもの――ジェイがシンデレラのもとの話を知っていたかは、わからないから、本当の理由は知ることができないのだろうが。
 弟の墓に手を合わせると、ありさはマーロン氏の車に乗り込んだ。隣りの座席には、白いむく犬が座っている。去年の夏と同じように。でも、弟はもういない。
 車の窓を開けると、流れ込んでくる三月の風は冷たかった。ありさは小さなハンドルを回して窓を閉め、小さくなっていく家を振り返った。もうここに来ることは、ほとんどないのかもしれない。マーロン氏はたしかに母と縁のあった人だが、その母も、弟もいない今では。一筋、涙が流れた。
 
 その年の夏、継母瑤子が死んだ。そのことを、ありさは叔父である健の手紙で知った。父はメールで知らせようとしたようだが、「こういうことをメールで済ませるのはどうかと思う。兄さんが書かないなら、俺が手紙を書いておく」と、叔父が父に言ったらしい。健叔父は一年ほど前に、単身赴任先の大阪から、埼玉の自宅に帰ってきていた。
 叔父の手紙によると、瑤子は入院先の、療養病棟のベッドの上で冷たくなっていたらしい。ここ数年はほとんど鎮静状態で、いつも半分まどろんでいるような感じだったらしいが、その朝巡回に来た看護婦によって、まったく動かなくなっているのが発見されたという。夜のうちに亡くなったらしく、死因を知るために解剖された結果、脳内出血によるものと診断されたという。
――継母は、この結末を望んでいたのだろうか。桃香を失って以来、彼女は生きる力をなくしたように見えた。ありさを憎むことで、ようやくその気力に火をつけていた状態だったのだろう。
 ジェイが夢に現れてマーロン氏やニックを元気づけたように、桃香は継母に“会いに”いかなかったのだろうか。いいや――あの子は、ありさには来てくれた。『お姉ちゃん、ごめんね。わたしは大丈夫』そんなことを、告げてくれた。桃香は、継母も母として慕っていた。『ママって、ちょっとうるさいけど、わたしのこと好きだからだよね』とも言っていたっけ。そう――あの子は、優しい子だった。本当に、純粋な心を持っていた。もう一人のありさの兄弟である、ジェイのように。
“純粋さ”――それが、“選ばれる”ことの基準なのだろうか。ふと、そんな思いがよぎった。だから“子供”しか、呼ばれないのかもしれない。選ばれなかった人は、きっとその思いの中に、少しでも雑念が入ってしまっていたから――悪いものではないが、“雑味”、微かな濁り、灰汁のようなもの。それは人間として、たぶん誰でも持っているものなのかもしれない。それを超越した子だけが、呼ばれていくのだろうか。
 同時に、別の思いも感じた。継母の絶望が深すぎて、桃香の思いが届かなかったのかもしれない。桃香は瑤子のすべてだったから。もし桃香が今も生きていたら、きっと継母も全く違う生活を送れていたはずだ。桃香は瑤子の干渉に抵抗はするだろうが、優しいあの子のことだから、きっと正面切って怒ることはないだろうし、瑤子も満足して家庭生活を送っていただろう。ありさも逃げるようにカナダに来ることは、なかっただろうが。あのまま日本にいたら、自分はどんな大学生活を送っていたのだろうか――
 継母も犠牲者なのだ。もっとも愛するものを、奪い去られたのだから。ありさは手紙をたたみ、机の引き出しに入れた。継母のための涙が、初めてその頬を滑り落ちていった。




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