EVERGREEN : 常盤の守護精

第三章 みどりの笛吹き(4)




 緑の葉の上に、柔らかな水が降り注ぐ。陽の光が、その小さな無数の水粒に反射して、微かな金色に輝く。その様子を、庭の石に腰かけて眺めていた。
「しばらく雨が降らないかったから、みんなのどが渇いていたのでしょうね」
 水撒き用のホースを止め、片づけてから、ゆきのが隣に座った。
「木も草もお花も、よろこんでいるのかなあ」
 ありさは水滴の光るバラの茂みを眺め、ついでスノーポールの鉢に目を移す。
「そうよ。ああ、お水だ。うれしいって」
「どうやって、うれしいって思ってるって、わかるの?」
 動物たちなら、感情があると理解できるのだが。幼稚園で飼育しているウサギや、時々迷い込んでくる猫を見ていても。でも、木や草花には、わかりやすい表情はないように思えた。枯れて元気がなくなると、それははっきりわかるが。植物は、自分からは動かない。ただ植えられたその場所で、だんだんと大きくなっていくだけ。やがて花が咲いて、種ができて、草花はそのまま枯れてしまうことも多い。ひまわりも、朝顔も、ポピーも、チューリップも。でもバラやサクラソウのように、枯れないものもある。木はもっと長い時間をかけて育っていく。それはありさにもわかっているが、でもどの植物も、風が吹いたり、何かが引っ張ったりして揺れることはあるけれど、自分からは動けないし、目に見える表情というものもない。祖母が言うように、もし植物が何かを感じているとしても、それを自分から表すことができないなら、不自由ではないかしら――そんなふうにも思えた。
「幼稚園はどう? ありさちゃん」
「うん……あんまり楽しくない」
「そうなの。もう言葉は、不自由しないでしょう? それでも?」
「うん。でもちょっと、遅かったみたい」
「そう。残念ね」祖母の笑みは、慰めるように見えた。
「でも、大丈夫よ、ありさちゃん。いつかはきっと、楽しくなる時が来るわ」
「そうかなぁ」
「そうよ。時間はかかるかもしれない。でもきっと、自分の居場所を見つけることができると思うの」
「自分の居場所って?」
「ここにいると、落ち着くなぁと思える場所よ」
「ああ、それならある!」ありさはにっこり笑った。
「どこ?」
「このお庭、お祖母ちゃんのそば」
「まあ」ゆきのは嬉しそうな笑顔になった。
「ありがとうね、ありさちゃん。じゃあ、じょうろで水撒きを手伝ってくれる?」
「うん」
 陽だまりと、飛び散る水。柔らかい緑――。

 場面が転換した。ここは森の中だ。何度も夢に見た、あの森。ジ・アザーサイド・フォーレスト。広場の、湧き水のそば。その横に、男の子が座っていた。緑の服に緑の眼、金髪――抱いている人形が、現実になったような。その子は、緑色の眼でありさを見た。一回、二回と瞬きをした。
「こんにちは」ありさは驚いたが、そう言葉をかけた。
 その子は表情を動かすことなく、ただじっと見てくるだけだった。
「あなたは、だあれ?」
 それでも、ありさは問いかけた。
「あなたも、ここで迷子になったの?」
 その子は相変わらず、何も言わない。瞬きだけしている。
「ねえ――」
 少し焦れてきて、その方向に踏み出そうとした時、周りの風景が揺れた。広場の周りに生えている木々が、まるで意思を持ったように大きく振り動くような気がした。足元の草も、渦を巻いているような感じだ。濃い緑と、草色と、茶色の渦――。

 そこで、ありさは目覚めた。ベッドの上に起き上がる。となりには、夫がまだ寝ている。反対の壁際に寄せた二段ベッドで寝ている子供たちの、柔らかい寝息も聞こえる。ゴールデンウィークが明けたばかりの、五月の陽が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
 カナダで異父弟ジェイを見送ってから、十一年がたっていた。あの時以来、母の夫であるスティーヴ・マーロン氏の家を訪れたことはないが、年に数回、手紙のやり取りが続いている。従兄のエドワードとも、それからは会っていないが、彼ともまた年に数回、メールをやり取りしていた。
「俺、来週日本に戻るんだ」
 弟を失ってから二か月後の六月、ありさは御森陽斗からそう告げられた。
「そうなの?」
 ありさは小さな驚きと、寂しさを覚えた。そうだ。陽斗は交換留学生だから、ここにいるのは一年。最初にそう言っていたことを思い出した。
「常盤さんは、来年卒業?」
「ええ」
「卒業したら、どうするんだい? こっちで仕事を見つけて働く? それとも、日本に帰る?」
「まだ決めてないわ」
 卒業後の進路は、まだ白紙だった。継母はもういないのだから、日本に戻って就職してもいいのだが、日本の大学を出ていないから、帰ったら一から求職を始めなければならない。ここでずっと暮らすことも、また選択肢の一つではある。
「常盤さん……いや、ありさ!」
 陽斗は顔を朱に染め、両手を伸ばしてありさの手を取った。
「もう一回言うよ。俺は、君が好きだ。だから、このままにはしたくない。いつまでも友達なんて、いやだ。ここを卒業したら、日本に戻ってくれ。それが無理なら、俺が大学を出てから、こっちに来て働く。どっちにしても……俺と付き合ってくれ! ちゃんと恋人として」
 このころには、彼のことを頼もしい友人とみなすようになっていた。異父弟の騒動の間、つかず離れず寄り添ってくれた陽斗に、慰められてもいた。恋愛感情がどういうものなのか、あまり考えたこともなかったが、この時、ありさは戸惑いと同時に嬉しさの感情も覚えた。我知らず、頬が染まった。
「いいわ」
 ありさはしばらく沈黙してから、頷いた。
「わお!」
 陽斗の声は、歓喜に満ちていた。彼は両手で抱きしめてきた。そして二人は、キスを交わした。キャンパスの隅の方ではあるが、他の人がいないわけではない。しかし、こちらではそれほど珍しくはない光景なのだろう。
「でも、どっちにしても、しばらくは遠距離ね」
 しばらくのち、ありさはそう切り出した。
「そうだなあ。一年か、二年か。君がこっちに残るなら二年、来てくれるなら一年――でも、負けないぞ。会いに行くのはきついけど、ビデオチャットもあるし」
「そうね。今は便利になっているものね。マーロンさんみたいに浮世離れするなら、別だけれど」ありさはくすっと笑った。
「でも、待つのはできるだけ短い方が良いから、来年ここを出たら、日本に戻るわ。向こうで仕事を見つけることにする」
 北米の文化の方が自分の気質に合っているような気はするものの、しかしここでも完全に根をおろし切れていない自分を感じていた。日本人の父と、カナダ人の母を持った自分の、どっちにも完全には振り切れない定めなのかもしれない。それでも、こうして陽斗と付き合うと決めたからには、父のルーツ側に一歩踏み込んでみよう。
「本当!?」
 陽斗は再び、歓喜の表情で声を上げていた。

 それから一年間、二人はビデオチャットやメールを交わし、翌年の夏、大学を卒業したありさは、カナダをあとにした。四年ぶりの日本だった。幸い、仕事はすぐに見つかった。契約社員だが、外資系の企業で働きはじめて二年が過ぎた頃、陽斗と結婚した。結婚後もフルタイムで働き、最初の子供を身ごもって半年後、いったん専業主婦となった。
 長女瑠璃を生んだ一年半後から、ありさは在宅で翻訳の仕事を始めた。以前いた会社からのオファーで、育児の合間にも無理なくできる量にしてもらった。その分、もらえるお金もさほど多くなく、陽斗の扶養範囲内で収まる程度ではあるが、少しだけ金銭的余裕が持てた。瑠璃が生まれた三年半後に次女陽葵(ひなた)が生まれ、ますます忙しくなったが、それは幸福な日々だった。
 
 ありさはベッドから起き出し、身支度を済ませると、洗濯機を回しながら、朝食の準備を始めた。まず夫を起こし、その三十分後に子供たちを起こす。夫が出勤し、この四月から小学生になった瑠璃を集団登校の集合場所まで送り、ついで幼稚園の年少さんとして入園したばかりの陽葵を、幼稚園の送迎バスに乗せる。送迎場所では他の子の母親たちが、固まっておしゃべりしているが、ありさはいつも軽く挨拶をするだけで、その場をあとにする。それは、上の娘である瑠璃が幼稚園に通っていた時から、そうだった。「御森さんはお高く留まっている」「孤高の人ね」などと陰で言われていることは薄々察してはいるが、気にしないように努めていた。自宅のあるマンションのエレベータを上がり、掃除機をかける。洗濯物と朝食の後片付けは、夫と子供たちの支度の合間にすませてあった。そして食卓の上にパソコンを置き、作業を始めた。陽葵がようやく幼稚園に上がってくれたので、まとまって作業ができそうだ――。

 昨夜見た夢を思い出したのは、子供たちを寝かしつけた後、陽斗とともにテレビを見ている時だった。夜のドキュメンタリー番組で、砂漠化が進みつつある世界、というテーマだ。かつて緑豊かな地だった場所が、今や不毛の砂漠と化している――そんな場所が、世界でいくつも出現しているという。
――物言わぬ植物たちの反乱――ふとそんな思いが脳裏をかすめた。いや、彼らは人間に蹂躙され続けた結果、力を失ったのかもしれない。そんなことを考えた時、十年前の話が再び思い出された。『みどりの力が弱まった時、守護精はその失われていく力を補うために、“みどりの人”の力を借りようとする』――でも、これだけひどく失われていく力では、いったいどれだけの補充を必要とするのだろう。そう考えた時、背筋に悪寒に似たものが走った。
 彼らの住まいはマンションだから、ベランダに育てている花やハーブの鉢くらいしか、植物はない。瑠璃も陽葵も喜んで水撒きをし、何度も覗いているが、それは幼稚園でいろいろな草花を育てているためだろう。今年瑠璃が入学した小学校でも、生活科や理科の授業の一環として、畑や花壇があるという。「わたし、花壇係になったの!」と、四月に瑠璃が嬉しそうに言っていたっけ。
「どうしたの?」
 思わずため息が漏れたのだろう。陽斗が顔を向け、そう問いかけてきた。
「ううん。なんでもない」
 ありさは微かに笑顔を作り、首を振った。
「そう」陽斗は缶チューハイを一口飲むと、テレビに目をやり、言葉を継いだ。
「緑豊かな土地がなくなった、ってので、思い出したな。常盤の家」
「そうね。砂漠にはなっていないけれど」
 ありさは答えながら、小さな痛みを覚えた。常盤の実家は、今はない。インドネシアから中国を経て、六年前にようやく帰国した父が、売り払ってしまったからだ。父は赴任先で結婚し、新しい妻と二人で住むために、都心に近いマンションへ引っ越した。家を売って得た金は、一部はそのマンションに、三分の一は叔父夫妻に渡った。祖母が亡くなった時、土地の五分の二を健が相続していたためだ。
 祖母や桃香が愛した庭の木々は、もうない。花壇の花も、バラの茂みもなくなってしまった。「まだ生きている人の木を切るのは、反対だな」健叔父は父にそう言ったらしいが、父は「いや、そんなのは迷信さ。第一、植え替える場所がないじゃないか」と、譲らなかったらしい。それでも健叔父は父と市に交渉し、ありさと桃香の木だけは、近くにある公園の隅に移植されることになった。今もその二本の木は、そこで生きているという。そのことに、ありさは限りなくほっとし、叔父に感謝していた。自分の木はともかく、桃香の木がまだ生きていることに、大きな救いを感じた。
 今、常盤の家があった場所は、六件分のタウンハウスになっている。その小さな庭には、住民たちが置いた鉢植えが、かろうじてあるばかりだ。かつて父が「森のようだ」と言っていた先祖代々の木々たちは、なくなってしまった。
 去年父が亡くなった時、かつて家に来てくれていた植木師の下村さんの言葉が、頭をかすめたことがある。「ある程度育った木を切る時には、それなりの敬意が必要だ。酒と塩でお清めして、感謝とお詫びを伝えないと、祟ることがあると、師匠に聞いたもんだ。まあ、迷信なんだろうがね」――父は夜中に心臓発作を起こして倒れ、気づいた現在の妻が救急車を呼んだが、病院に着いてすぐに息を引き取ったという。自らの象徴を切ってしまったせいだろうか――バカげているとは思っても、そんな思いが掠めるのを止められなかった。葬儀に参列した健叔父に、思わずそのことを漏らし、「叔父さんは大丈夫か、気になる」と、言ってしまったりもした。叔父は寂し気な笑みを漏らし、答えたものだ。
「大丈夫だと思うな。俺は一応、お清めとお別れをしたから」
 もともと父が再婚してからは、父の現在の妻に遠慮を感じて、その家に遊びに行ったことはなかった。二回ほど、外で父と一緒に食事をしただけだ。その父が亡くなった後、彼の妻は住んでいる家を売り、国に帰ったようだ。
“実家”と言う概念は、ありさが結婚した時からすでにほとんどなかったけれど、今家も父もなくなって、完全に消失したように思える。お清めが効いたのか、健叔父夫妻は今も健在だが、会う機会は多くない。子供たちへのお祝いをいつも贈ってくれるので、礼状に写真を添えて、その都度送っているが。
 さらにもう一つ、緑が消えた場所がある。“淵が森”だ。桃香が命を落としたその森は、今は切り払われて、マンションが建っている。森の中にあったという祠は、工事をしてみたら発見されなかったらしいが、数件の死亡事故が相次いだため、マンションの屋上に小さな神社を立てているという。これは三年前、仕事でたまたまその付近に来た陽斗が、足を伸ばして訪れてみての、発見だった。その話を夫から聞いた時、実家がなくなった時とは違う、畏怖に似た痛みを感じたものだ。
「これ見て、ふと思ったんだけどさ」
 陽斗は缶チューハイを口に運んだ後、テーブルの上に置いて言葉を継いだ。
「ありさの弟さんがカナダで亡くなった時に、従兄の奥さんって人から聞いたって話」
「え?」ありさは驚いて、夫の顔を見た。
「“みどりの守り人”の話?」
「そう、それ。あれがもし本当なら、こんだけ自然がガンガンなくなってく今は、相当の数の助けがいるんだろうなって」
「そうね……ちょうどわたしも、同じことを思っていたわ」
「そうなんだ……でもさ」
「なに?」
「“みどりの人”って、そう数いないだろうから、止めきれないんじゃないかなって思う。それで、みどりを愛する人は助けに使われて、いなくなって、残るのは、どうでもいいと思ってるか、そんなこと知るか、ってやつばかりになったら、本格的に地球がやばいことになるかもしれないなって」
「怖いわね」ありさは思わず身震いをした。
「なんかそう考えると、あれかな。胡散臭い宗教とかで言われる、空中携挙――聞いたころ、ある?」
「ああ、大学時代に信じている人がいるとかなんかで、少しだけ話題になったことがあったわ。たしか、滅びの中から、神が良き人だけを救い上げるという話でしょう?」
「そう。あれ自体は、選民思想がきつくて、俺は嫌いだけどさ。でもその“みどりの人”がいなくなった後、地球が滅びたら――まあ、災害とかでさ。実際、いろいろ異常気象とか起きてるわけだし――その人たちは、そこから救い出された人ってことになったするのかな、って、チラッと思ったんだ」
 陽斗は少し、きまり悪そうな苦笑を浮かべた。
「ああ、しょうもない考えさ。なんでこんなことを思ったのか、わからないくらいだ。それに、その守護精伝説とやらも、本当に迷信か、都市伝説の類だろうけどさ」
 陽斗はチューハイを飲み干し、再び苦笑した。
「でも、君は気にしてるんじゃないか、ありさ。ここに決めるのも、近所に森のない場所って、すごくこだわってたし」
「根拠のない話だってことは、わかってはいてもね。それこそ父の、“木の祟り”と同じで。でも、なんとなく怖かったのよ」
 彼らの住まいは、かつて住んでいた埼玉から東京を挟んで離れた神奈川の、比較的都市部にある。周りに森がないところを選んだのは、漠然とした恐れを感じていたからだ。
『みどりの血筋は遺伝するから、気をつけて』――従兄エドワードの妻、マルセリーナが言っていた言葉が、頭の中から消せなかった。もし子供が生まれて、その子が桃香やジェイと同じ道をたどってしまったら――その恐れは、実際に瑠璃と陽葵が生まれて、耐えがたい現実的な恐怖となっている。そうかもしれない。そうでないかもしれない。どっちにしろ根拠はない話だし――そうは思っても、二人の娘たちを愛しく思うほどに、心配も大きくなっていくのだ。
 一年前、従兄エドワードからメールが来た。
“Grace Anne is gone”――彼はそう伝えてきていた。
 従兄夫妻には、三人の子供がいた。あの時お腹にいた、長子マリア・ローザ、第二子グレース・アン、末っ子のマーティン・レオン。三年前に上の二人が迷子になり、上の子と下の子で、異なる反応を見せた。彼らは下の娘、グレース・アンが“選ばれて”しまったと知り、都市部に引っ越しを試みたらしい。森には子供たちを近づかせないようにし、それから一年ほどは平穏に過ぎていたが、朝起きてみたら、娘がいなくなっていたという。彼女の遺体は三日後、公園の木の下で発見されたらしい。死因は低体温症――ジェイの時と同じだ。しかし、彼の場合と同じように、それまでに何度その場所を探しても、彼女はいなかったという。死後二四時間以上はたっている状態で、しかし八時間前の目撃情報でも何もなかったという場所で見つかったのは、事件性があるかもしれない――桃香の時の同じように、向こうの警察も動いたようだが、結局何も発見できず、“事件性はなし”ということで収まったらしい。
 従兄が書いてきたその顛末を読みながら、ありさは身体が震えてくるのを止められなかった。夫にその話をすると、陽斗も一瞬顔を曇らせ、「うーん」とうなったが、すぐに気を取り直したように言ったものだ。
「まあ、今のところ瑠璃もひなも無事だし、気にしすぎても仕方のないな。従兄さんは気の毒だったけど」
「そうね」とありさは頷き、祈ることしかできなかったが。
 
 六月の休日、二人の娘たちを遊園地に連れて行った後、夕食を取っていたファミリーレストランで、陽斗は切り出した。
「今年の夏休みは、どこへ行きたい? 海? それとも……」
「山がいいなぁ」瑠璃が、そう切り出した。
「山、はどうだろうなぁ。ひなが登るの、大変じゃないかな」
「平気だもん」陽葵は不満そうに頬を膨らませている。
「でもね、やっぱりやめておきましょ、山は。まだ早いわ」
 ありさは内心ひやりとするものを感じながら、首を振った。
「えー」瑠璃は納得いかなげに、声を上げている。
「なんで山が良いんだい、瑠璃は?」
「木が、たくさんあるところがいいの。それに、星が見たい」
「ひなは?」
「同じ」妹の方も、スプーンを口にくわえながら頷いている。
 陽葵は瑠璃の言うことに、ほぼ無条件に従っているのが常だから、姉につられているだけだろうが――木が見たい、それは以前、桃香が言っていたことと同じだ。もちろん、娘が妹と同じ運命をたどると、決まっているわけじゃない。瑠璃や陽葵が“みどりの人”であるかどうか、わからない。第一、その“守護精伝説”が本当かどうかなんて、わからないことだ。妹も弟も、従兄の子も、単なる偶然が重なっただけかもしれない。
 瑠璃が小さいころから、ささやかな夏休み旅行に、毎年行っていた。でも行先は海やリゾートパークばかりで、意図的に木の多いところは避けてきた。心の中に潜む、その恐れのために。
「よし、今年はじゃあ、高原のペンションへ行こう」
 陽斗が意を決したように、そう告げた。娘たちが、歓声を上げる。
「ちょっと待って……」思わず、そう抗議の声が出た。
「そこまで気にしたって、しょうがないよ。いずれ小学校で、森林公園への遠足や林間学校もあるだろうし……それも休ませるつもり、君は?」
 たしかにそう言われると、返す言葉がない。それは得体のしれない、迷信じみた恐れにすぎないのだ。それで学校行事を休ませるのは、愚かな母と言えるかもしれない。自分も瑤子を笑えはしない。とんだ過保護だ。
「それに、もしなにもなかったら、安心できるだろう? 僕らも気をつけて、迷子にさせなければいいんだ」
「そうね」
 ありさは頷いた。確かに陽斗の言うことは正しいだろう。自分は根拠のない恐れを、必要以上に気にしているのかもしれない――。

 その夏、車で二時間ほどの高原のペンションに、一家で出かけた。御森家に自家用車はないが、カーシェアリングを利用している。陽斗の運転で、二泊三日の小旅行だ。ペンションで体験教室に参加したり、牧場で遊んだりしたが、ハイキングには行かなかった。ペンションの周りには林が多かったが、瑠璃も陽葵も迷子になることなく、大いに楽しんだようだ。帰りの車の中で、ありさはほっと安堵の息をついた。陽斗は「ほら、大丈夫だったろ?」と、笑っていた。

 翌年の夏も、娘たちの強い希望で、同じペンションに出かけた。今年は思い切って、短い距離のハイキングにも行った。娘たちは迷子になることもなく、一日目、二日目は去年と同じように、楽しく、何事もなく過ぎた。しかし三日目の朝、ありさは娘たちのベッドが空っぽなことに気づき、全身の血が凍るのを感じた。
「陽斗! 瑠璃とひながいない!」
 思わず大声を上げて、夫を揺り起こした。
「え?」
 陽斗も起き上がり、部屋を見回している。
「外へ出たのかもしれない。君は中を見て。食堂やホールを。俺は外を見てみる」
 しかし娘たちは見つからず、家の中に入ってきた陽斗にありさが合流し、オーナーに子供たちがいなくなったと告げた。
「そりゃ、大変だ!」オーナーは声を上げた後、続けた。
「でも、子供たちが早起きして、この辺で遊んでいることは、割と珍しくないですよ。男の子たちは、虫とりなんてしていてね。お嬢ちゃんたちも、早く目が覚めたんで、遊びに行ったんじゃないですか?」
「この辺は、探したんですが……」
「じゃあ、ちょっと遠くへ行ってしまったんでしょうかね。探して見ましょうか」
 そう言って窓の外に目をやったオーナーは、笑顔を浮かべていた。
「いや、お嬢ちゃんたち、そこにいますよ」
「え?」
 食堂の大きな窓の向こうは、広場のようなスペースになっていて、昼間は子供たちが遊んでいたりする場所だ。そこに一本だけ生えている大きな木の下に、瑠璃と陽葵が座り込んでいた。
 声にならない声を上げ、ありさは食堂の窓を開けようとした。
「ちょっと、そこから出ないでください、奥さん」
 オーナーに笑いながら注意され、ありさはペンションの玄関を抜けて、広場に回り込んだ。陽斗も、後から続いてくる。
「瑠璃、ひな! どこへ行ってたの!?」
 娘たちのもとへ駆け寄り、声を上げるありさを、瑠璃も陽葵もどこか焦点があっていないような眼で見た。一瞬で、その眼に光が戻った。
「ごめんなさい、ママ、パパ」
 瑠璃が肩まで伸ばした、少し茶色がかった髪を振り、口を開いた。
「ごめんなさい、ママ、パパ」
 陽葵も大きな茶色の目をくりくりさせて、姉と同じ言葉を口にする。この子の髪も、姉と同じような長さと色だ。二人とも普段、ありさが髪を結んでやるのだが、今はまだ肩にたらし、その髪が朝日を浴びて、少し金色がかった輝きを放っている。パジャマの上からおそろいで買ったピンクのパーカーを羽織り、二人とも、素足の上に靴を履いていた。
「どこへ行っていたの、二人とも」
「朝のお散歩」瑠璃がそう答え、
「うん」と、陽葵も頷く。
「わたしたちが起きてから、行ってよ。勝手に行かないで」
 思わずそう言った後、ありさは瑠璃の表情を見、背中に冷たい悪寒が走った。娘は、妹と同じ表情を浮かべている。「みどりちゃんって、誰?」と聞いた時の、桃香の顔。
「正直に言って、瑠璃! 本当に、お散歩に行っていただけなの? 林の中に入っていって、迷子になったりしてないの?!」
 ありさは思わず娘の両腕を取り、揺さぶっていた。
「ママ、すごい!」
 しかし、そう声を上げたのは、陽葵だ。瑠璃は妹を見て、「しっ」と小さく言い、母に取られていた腕を折り曲げて、唇の前に人差し指を立てた。陽葵も、「あ、そうか」と笑っている。
「やめてよ!」
 思わず、そう声が出た。全身の力が、抜けるのを感じた。二人とも“選ばれた”?――そんなはずはない。単なる偶然だ。本当に二人とも、朝早く目が覚めたので、内緒の冒険に出ただけだ。怒られるのが嫌だから、秘密、と言っているだけだ――そう必死に、自らに言い聞かせるしかなかった。
 みどりの笛吹きよ――お願いだから、娘たちを連れて行かないで。陽斗が言ったように、たとえ世界中の“みどりの人”の力を借りても、残った人の方が圧倒的に多いなら、やはりその力は失われていくだろう。お願いだから、娘たちを生贄にしないで――。
 陽斗も、ありさの思いを悟ったのだろう。彼は妻のそばに膝をつき、声をかけた。
「気にするなよ、偶然だ――」
「そう思いたいわ、本当に――」
 ありさはそう答えるしかなかった。
「あと、気をつけよう。できるだけ」
「そうね」
 ありさは頷く。そうだ、それしかできない。もう、ここへは来ない。山にも、高原にも、森にも、娘たちを近づけない――。
 風が吹いて、頭上の木が揺れた。こすれあう葉の音が、まるで小さな笑い声のように響いた。それは桃香の、ジェイの声――? 呼ばないで、お願いだから――。
 葉っぱが二枚、ひらりとありさの膝の上に落ちてきた。瑠璃が手を伸ばし、二枚ともとって、一枚を妹に渡す。二人は顔を見合わせ、笑みを浮かべた。それは、桃香の笑みだ。
 吹き抜ける風の音が、笛の音に聞こえた。


【 完 】




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