EVERGREEN : 常盤の守護精

第三章 みどりの笛吹き(2)




『あれから、時間間隔を失ってしまった。どのくらいたったのか。ついさっきのことだったようにも思えるし、遠い昔だったようにも思えるんだ』
 マーロン氏はテーブルに視線を落としたまま、話しだした。
『あの日、私は今年になって初めて、森に行ったんだ。材料がほとんどなくなりかけていたし、やっと雪も消えてきたから。ジェイとニックも、いつものように連れて行った。私たちは一緒にお昼を食べ、それからもう一度、私は森の奥に入っていった。戻ってきた時、ジェイはいなかった。しばらく待っていれば戻ってくると思っていたのだが、二時間待っても戻ってこなくて、日も傾きかけてきたので、探しに行った。でも見つからず、暗くなってきたので、私は森を出てそのまま警察に行き、息子が迷子になったと訴えた。それで、その夜から探してくれたんだが……』
『同じ場所ですか? わたしが夏にご一緒した時と?』
『そうだね。あそこに行く時には、いつもあの場所を拠点としているんだよ。場所を変えると、道に迷ったりする可能性も考えて、同じにしているんだ。警察からは、八歳の子供を――しかも軽い発達障害のある子を、一人で森の中で待たせておくのは、保護者として考えなしではないか。義務怠慢に問われる可能性があると、さんざん言われたが――たしかに普通に考えれば、そうなのかもしれない。でも私は、ここへ来てから何度もあの子を森に連れて行ったが、迷子になったことはなかったんだ。ジェイは土地勘というか、方向感覚は鋭いものがあってね、しばらく目の届かないところへ行くことはあっても、必ず帰ってきた。だから、最初は私も心配はしていなかったくらいなのだよ』
 氏は大きなため息を吐きだし、顔を上げてありさを見た。その眼が真っ赤に血走り、黒ずんだ皮膚に縁どられていることに、改めてありさは軽く衝撃を受けた。きっと事件から、ろくに寝ていないに違いない。
 桃香がいなくなった時の、継母の様子を思い出した。あの時の瑤子は、マーロン氏の数倍は取り乱していただろうが、気持ちはきっとそれほど違いはなかっただろう。
『それで、レンジャーの人たちが探し始めてくれて……そうだな、一日くらいたった頃、ニックが見つかったんだ。奥の……小川の源流あたりでうずくまっていたらしい。元気はなかったが、獣医に見せたところでは、特に異常はないらしく、一日預けて様子を見てもらってから、うちに戻したんだ。だがまあ……あんな調子だよ』
 マーロン氏は、床の上にじっと伏せている白い犬に目を向けた。
『探してくれた人たちは、ニックがいるなら、ジェイもその近辺にいるに違いないと、そのあたりを念入りに調べてくれたそうだ。私もできる限り、探しに行った。警察に呼ばれて、何回か話を聞かれている合間に。でも、まったく見つからないままだった。その間に、何度か冷たい雨が降り、夜は冷え込んだ。私はあの子がこの冷たい闇の中、どこでどうしているのか、考えるだけで気が狂いそうだった。ニックに話ができたら、聞いてみたいところだった。いったい何があったんだ。おまえはなぜ、あそこに一人でいたんだ。ジェイはどこに行ったんだ、と。その気持ちが伝わって、余計にあいつを落ち込ませてしまったのかもしれないな』
 ありさも犬に目をやり、ついで立ち上がって、そのそばに行った。手を伸ばして頭と背中を撫でると、こっちに目を向けてくる。悲しみとうつろな思いが入り混じった視線のように感じた。たしかに――もしこの犬が言葉を話せたら、語ってくれるだろうか。小さなご主人が、どこへ行ったのかを。いつものように、忠実に跡をついていったの違いないのだから。
 去年の夏のことを、改めて思い出す。ジェイは小川の源流をたどりたいと言っていたっけ。でも、時間が足りないと、残念そうだったことも。そこに行けば、“彼”に会える――弟はそう語っていた。その源流で、ニックだけが取り残されていた。それは、どうしてだろうか。この犬は知っているのかもしれない。でも、語ることはできないのだ。
『元気を出してね、ニック』 
 ありさは犬のあごの下を撫で、皿の上のドックフードを一粒手に乗せて、口元に持っていった。犬はその方向を見ようともせず、体勢も変えない。彼女はエサを皿に戻し、背中を撫でてから、椅子に戻った。
『わたしは友達が昨日ニュースで見たと、知らせてくれたんです。ジェイが行方不明だったなんて、知りませんでした』
『君に知らせようとは思ったんだ。でも、見つかっていない状態では、余計な心配をかけるだけだと思った。どうなるにせよ、結果が出てから葉書で知らせるつもりだった』
 氏はのろのろと首を振った。
『まあ、遅いけれどね。昨日、君には葉書を出したのだが、たぶん今日の夕方にでも、ついたころだろう』
 マーロン氏は大きくため息をつくと、再び視線を落とした。
『いつのことか……そうなんだろうな、たぶん一昨日だ。昼頃だ。捜索に行っていたレンジャー隊から連絡があったのは。ニックを見つけた場所のすぐ近くに、ジェイらしい男の子がいたと。でも、心肺停止状態だと。冷たくなって、固まっていたと。おかしいじゃないか。ニックが見つかった時には、ジェイはいなかったんだ。それから何度も何度もその付近を、いや、森のかなり広範囲を念入りに調べたのに、あの子はいなかったんだ。それが何日か経って、急に出てきたというのは、どういうことなんだ。あの子はその間、ずっと森をさまよっていたのか? それならなぜ、発見されなかった――運が悪かったのか? 誰か教えてくれ!』
 ありさは言葉を探しながら、氏を見ていた。再び桃香のことが、思い出されてきた。あの時には一週間という長い時間ではなかったが、それまでに何度も探していなかった場所で、唐突に発見された。妹も弟も、同じような状況で――?
『ジェイのことは、本当にわたしも悲しいです』
 やっとそう言った。我知らず、涙が一筋こぼれた。
『わたしは八年前、同じように妹を亡くしています。弟もまた、こんなことになるなんて』
『妹さん……? そうか。君のお父さんの子だね』
『ええ。父が日本で結婚して生まれた子です。わたしの異母妹です』
『ああ、聞いたことがあるような気がする。ベリンダが話していたっけな。君がこっちへ来るようになった理由として。その子も?』
『ええ』ありさは頷き、妹の死の状況を簡単に語った。
『なんてことだ……本当に、なんて悲しい偶然なんだ』
 氏の声には同情と悲しみが感じられた。彼は両手を顔に当てていた。
『偶然だとしたら……本当に悲しいです』
 ありさは涙をぬぐうために、一瞬黙った。
『でも、不思議な気もします。まったく同じような状況なんて。妹はたぶん、誰かに会いに行ったのだと思っています。ジェイも言っていました。去年の夏、一緒に森に行った時に。いつか小川のもとをたどってみたいって。そこには“彼”がいるって。もしかしたらあの子も、その“彼”に会いに行ったのかもと、そんな気もして……』
『彼?』
『ええ。ジェイが話したことはありませんか?』
『“彼”か……』
 マーロン氏は視線を天井に向けた。しばらく、沈黙が流れた。やがて氏は何かを思いついたような表情を浮かべて立ち上がり、窓際の棚に並んだ本の一冊を取り出した。スケッチブックのようだった。氏はしばらくページをめくって戻し、次を取り出す。再びページをめくった後、手を止めてその絵を見せた。
『これかな?』
 それはジェイが描いたものらしい。クレヨン画で、その年の子供にしては、明らかに上手だ。緑の木々を背景にして立っているのは、白い馬のような生物だった。が、頭に角があり、背中には翼がある。そのたてがみは、鮮やかな緑色をしていた。
『これは?』
『去年の秋に、ジェイが描いていた絵だ。夕食の後だった。私は興味を覚えて問いかけたんだ。それはユニコーンか、ペガサスか?と。そうしたら、ジェイは首を振って答えた。違うよ。“彼”だって』
 ありさは少し当惑を覚えて、その絵を見つめた。なんとなく“人”をイメージしていたのだ。妹の言っていた“みどりちゃん”も。しかし、それは人ではなかったのか?
――ふと、夢の残像が脳裏をよぎった。緑の瞳、緑色の服――あの人形の記憶から、人間のイメージを思い浮かべたのだろうか。
『あなたは見たことがありますか? この絵の動物……』
『あるわけはないさ』
 マーロン氏は微かな苦笑いのような表情を浮かべた。
『ジェイの想像だと思っていた。あの子は、想像の世界を持っているようだったから』
『そうですね……』
 ありさは絵を見つめながら、あいまいに頷いた。
『ジェイも君が来てくれて、喜んでいることだろう』
 氏は再び大きなため息をつくと、スケッチブックを棚に戻した。
『明日埋葬をするから、最後に顔を見てやってくれ。私は……見れないが』
 ありさは頷き、小さな棺のそばに行った。傍らにうずくまっていたニックが、小さく頭を上げて見る。犬を撫でてやってから、ありさは棺のふたを持ち上げた。少し、手の震えを感じた。
 去年の夏の記憶そのままの弟が、白い花に囲まれて、まるで眠っているように横たわっていた。楽しい夢を見ているかのように、微かな微笑みを浮かべて。その表情に、もう一つの面影が重なった。桃香。あの子も同じような表情で、眠っていた。
 視界がぼやけた。ありさは弟の頬に手を伸ばそうとしたが、できなかった。ニックが悲し気な声を上げた。ありさはふたを閉め、その上に突っ伏した。

 その夜は、去年二週間を過ごした屋根裏の部屋で過ごした。あまり眠れないまま、重い頭を抱えて階下に降りると、マーロン氏がテーブルの上に顔を伏せた格好で眠っていた。氏はここのところ、自分のベッドで寝たのだろうか――かつてジェイとともに寝ていた大きなベッドは、カバーがかかったままだ。小さな棺の傍らには、相変わらず白い犬がうずくまっている。ありさがそばに座ると、頭を上げて見るが、すぐにまたもとの姿勢に返ってしまう。皿の上のドッグフードも減っていない。
 そう言えば、昨夜は夕飯を食べていなかった。食欲は感じないが、何か食べた方が良いのかもしれない。ありさは冷蔵庫を開けてみた。牛乳と卵とベーコン、ほうれん草とカブ、入っているのはそれだけだが、野菜は明らかに鮮度が落ちている。もしかしたら、ここ一週間以上、そのままになっているのかもしれない。食料ボックスには玉ねぎとジャガイモ、ニンジン、そして小麦粉とパスタが入っていた。ありさはスープを作り、パンケーキを焼いた。そして目を覚ましたマーロン氏に、ともかく何か口に入れるように促した。氏は感謝のまなざしを投げ、スープを半分ほど飲んだが、パンケーキには手をつけなかった。ニックにもパンケーキの切れ端をやったが、ちらっと見るだけで食べようとはしない。ありさ自身もあまり食欲を覚えなかったので、スープだけ飲んだ。

 十時前ごろ、庭に車が入ってくる気配がし、やがてドアがノックされた。ジェイの埋葬は十一時からと聞いていたが、そのために誰か来たのだろうか。
 マーロン氏が立ち上がり、のろのろとドアを開けた。
『やあ、君だったか。見送りに来てくれたのか。ありがとう』
『僕にとっても、従弟ですからね。送りに来たんです』
 若い男の声がして、誰かが入ってきた。背が高く、迷彩柄の帽子とズボンをつけ、カーキ色の長袖シャツに黄色いダウンベスト姿だ。
『ジェイを探してくれた、森林レンジャーさんの一人だ。ずっと一週間、探してくれていた。ベリンダの息子さんでもあるんだよ』
 男が帽子を取ると、少し金色がかった茶色い巻き毛が、首筋に垂れ下がった。その顔に、微かに面影がある。髪の色は、子供の頃より少し濃くなっているようだが。
『エディー!』
 ありさは思わず声を上げた。ベリンダ伯母の息子。いつか会った従姉ミリセントの兄、エドワードだ。ありさにとっては、母方の従兄に当たる。伯母を通して会いたいと要望した時、ミリセントは応じたが、エドワードからは音沙汰がなかった。まさか、ここで出会うとは。そう言えば伯母を訪ねた時、彼は森林レンジャーをしていると、話していたっけ。
 相手も驚いたように目を開き、じっと見つめてきた。しばらくのち、声を上げる。
『まさか、エリッサかい?』
『ええ』
『なんてことだ。久しぶりだな!』
 従兄は大股に近づいててきて、その手を取った。その眼には、以前感じたような冷たい光はないように思われた。
『そうか。まあ、君にとっては半兄弟だしなあ』
 エドワードは手を離すと、椅子に弾みをつけて座った。
『わお、上手そうなパンケーキがある』
『あ、食べてください、良かったら。冷めてますけど。今、お茶を入れますから』
 ありさは思わず、かすかな笑みを浮かべた。
『ありがたい! じゃあ、いただきます。朝、食べる暇がなかったんだ』
『でも、あなたはわたしに会いたくないと思っていました』
 パンケーキをほおばる従兄にお茶を出しながら、ありさはつとめて軽い調子で言ってみた。
『ん、どうして?』
『二年くらい前、あなたとミリセントに聞いてみたいことがあって、伯母さんにメールで頼んでもらったんですが、あなたから返事が来なかったので。それとも、お仕事が忙しかったのか、とも思ったんですが』
『ああ』エドワードはお茶を飲むと、顔を上げた。
『たぶんそのメール、僕は読んでないと思う』
『え?』
『いつ、母に頼んだんだっけ?』
『たしか、二年前の秋に』
『間違いない。読んでないよ』
『え、そうなんですか?』
『ああ、僕はそのころ、実家ともめててね。メールは全部無視してたから。開きもせずにごみ箱に放り込んでいたころだ』
『え、そうなんですか?』
 何となく、拍子抜けしたような気分を感じた。
『結果的に君を無視したような形になったのなら、申し訳ない。まあ、君に積極的に会ったかな、というと、正直あの時期に応じられたかどうかは、わからないけどね』
 エドワードはパンケーキを食べ終え、『ごちそうさま。おいしかったよ』と、ありさに皿を返した。そのまま視線を、床の上にうずくまる犬に注ぐ。
『あいかわらず、あいつは食べないんだな』
 そして視線をめぐらせて、マーロン氏を見た。
『スティーヴ叔父さんも、やつれてしまっているし。まあ、無理はないけれど』
『わたしの妹が死んだときも、義母は一か月くらい飲まず食わずになってしまって、病院に行ってしまったから――マーロンさんのことは、心配なんだけれど』
 ありさも母の夫を見た。マーロン氏は弱々し気な微笑を浮かべるだけだ。
『君の妹?』
『ええ』従兄はたぶん、知らないのだろう――そう思い至ったありさは、再び簡単に桃香のことを話した。
『わぉ』エドワードは小さな声を上げた。
『なんて巡り合わせだ。君もつくづく……不運だね』
『不運なのは、わたしではないと思うわ』ありさは小さく首を振る。
『たしかにそうだ』
 従兄は少し考えこむような表情になった後、問いかけてきた。
『それで、二年前に、僕に会って聞きたかったことって、何?』
『ええ』
 ありさはちらっとマーロン氏の顔を見た。エドワードも同じように見る。
 氏は再び弱々しい笑みを浮かべた。
『かまわないよ。私を気にしないで、話すといい』
 ありさは小さく頷き、話し始めた。『わたしが母と、あなたたち一家のキャンプに行って、迷子になった時のことをききたかったの』
『ああ、あの時ね。あれも大騒動になったなあ。あの後、怒られたのなんのって』
『ごめんなさい』ありさは頭を下げた。
『まあ、いいさ。君を邪魔者扱いして、ついてくるかなんて気にしなかった僕たちが悪いんだからさ。あの時は、そうは思えなかったけれど』
『あなたもやっぱり、わたしが嫌いだった?』
『嫌い、だったかもな、あの頃は。でも、“も”ってことは、他にもいるのかい』
『ええ。わたし、ミリセントには話を聞くことができたから』
『ああ! まあ、ミリーなら不思議じゃないな』
 エドワードは頭を振り、肩をすくめた。
『ええ、うっとおしかったし、楽しい旅行に、わたしがついてくるのが嫌だったって。少しレイシスト的なことも言われたわ』
『まあ、僕もその時には、近い気持ちがあったことは否定しない。世間知らずだし、がきだったんだよ、僕たちも。ミリーは今も、そうかもしれないが』
 エドワードは言葉を着ると、ありさを正面から見つめてきた。
『で、ミリーに会って、だいたい君の疑問はわかったのかい?』
『ええ。ただ――』ありさは言葉を切った。
『ただ、“願いの泉”の話は本当なのか、それはあなたに聞いてみないとわからないな、とは思ったの。ミリセントは、あなたの出まかせでしょって言っていたけれど』
『ああ……』従兄は眉を寄せ、天井に視線をやった。
『今はたぶんそんなものはないってわかるけど、あの時は結構信じていたかもしれないな』
『誰かに聞いた話なの? それとも、どこかで読んだ話?』
『うーん』
 エドワードは頭に手をやり、小さくかきむしった後、視線を向けてきた。
『小さいころにさ、夢で見たんだ』
『夢?』
『ああ。いつ頃からだか覚えていないが、時々森にいる夢を見ていたんだ。周りは結構木が茂ってるんだけれど、広場みたいに、空が丸く抜けてて、ぽっかりした空間にいて、上から光が降り注いでくる。真ん中に、白い岩があって、そこから水があふれだしていた。僕はたぶん、ウサギを追いかけてそこに来ているんだな、って自覚があって、そいつが目の前にいるんだ。薄緑色のウサギ』
『変わった色ね』
『まあ、そうだな。おまけにそのウサギがしゃべるんだ。何を言っているかはわからないけれど――でも僕は、ああこれはきっと願いの泉なんだなって、納得してる。で、たぶん場所は時々キャンプに行く場所、アザーサイド・フォーレストなんだろうって。そんな夢を時々見てたから、もし行けたら本当にあるのか見てみたい、って思っていたんだ。でも間違いなく迷うだろうから、やめたんだけどね』
『そうなのね』
『でもさ、その夢には落ちがあったんだ。君の迷子騒動があった次の日、夢を見たんだ。同じ夢なんだけど、そのウサギが言った言葉が、今度は聞き取れた。違う、これは命の泉だ、って。それ以来、その夢を見なくなった』
『そうなの――不思議ね』
『ああ。それで後から気になって、ハイスクールの頃、母に聞いてみたことがあるんだ。僕は小さいころ、森で迷子になったことがあるかって。もしかしたら、その時の記憶が夢に出てきたんじゃないかって気がしてさ』
『そう――それで?』
『ある、って言われた。僕が三歳くらいの頃に。初めてあの森にキャンプに行った時、父と僕と、叔父――父の弟けれど、と三人で森に散歩に行ったらしい。母はミリーがまだ赤ん坊だったから、テントにいたらしいけれど。で、二人が目を離した間に、僕がひょっこりいなくなって、あちこち探して、やっと見つかったらしい。でも、まったく覚えていなんだなあ』
『そうなの――』ありさは頷き、そして続けた。
『そうしたら、わたしと同じようなのね。わたしも子供のころから、時々森で迷う夢を見たの。あなたやミリセントに聞いてみたかったことも、そのことだった。その夢は、本当の記憶に基づいたものなのかしら、って。彼女に会って話を聞いて、ほぼ事実なんだってわかって、納得したのよ』
『そうなのか。まあ、トラウマだったんだろうな、お互いに』
 エドワードは、ひょいと唇の端をゆがめて笑った。
『でも僕は、森に悪い印象はなかったんだ。いや、好きだった。だから、こんな仕事についたんだしね』
『そしてあなたがジェイの捜索をすることになったなんて、偶然ね』
『この辺りも、うちの基地の範囲内だしね。スティーヴ叔父さんのことも間接的に知っていたから、ジェイのことも、まあ、会ったことはないけど、従弟だし。志願して、班に入れてもらったんだ。それにしても……本当に不思議だったな』
 従兄は頭を振り、視線を犬の上にやった。
『あのニックという犬を見つけたのは、仲間の一人だったけれど、最初は一緒だと思ったらしいんだ。ほら、一緒にいなくなったわけだし、子供に寄り添って暖を取って、凍死を免れるとか、時々ある話だから。うずくまっている犬の下にいるのかと思って、退かそうとしてみたけれど、なかなか動かせなくて、仲間と三人がかりで吊り上げたけれど、何もなかった。その周りも、もちろんくまなく探したけれど、何も出てこなくて。でもそれからきっかり五日たって、犬が見つかったまったく同じ場所に、子供が倒れていたんだ。それまでに何回となくそこを見て、何もなかった場所に。スティーヴ叔父さんは、ジェイが長い間さまよったんだろうかって嘆いていたけど、うちの班長が――ああ、遭難救助では、結構ベテランなんだ――さまよったのなら木や石の切り傷とか、雨に濡れた形跡や汚れがあるはずなんだけれど、まったくないから、そんなはずはないって言うんだ。印象的には、犬と子供が同じ場所にいて、五日間の時間をおいて別々に出てきた、そんな感じだって。まあ、そんなはずはないだろうって言っていたけどね』
『そうね……』
 ありさは頷きながら、再び桃香のことを考え、だぶらせていた。
『誰かに連れ去られたということは、ないんだろうか』
 マーロン氏がそこで、激しい調子で二人の間に入ってきた。
『それも考えていたんだ。誰かが――誰かがジェイを連れ去って、ニックだけを置き去りにして逃げたということは、ないだろうか。警察にも一度訴えてみたが、取り合ってもらえなかった』
『うーん、でもたしかに警察もその可能性も一応考えて、調べてみたらしいですけれど』
 エドワードは頬をかきながら、義理の叔父に目をやっていた。
『でも、ジェイに抵抗したような跡は一切なかったらしいし、誰かほかの人を見かけたという目撃情報も、なかったらしいんです。それにあの犬もね、もし小さな主人が連れ去られようとしたら、守ろうとすると思うんですよね。でも、それも形跡がないっていうことで。僕よりもたぶん警察の方がそのあたりは詳しいと思うから、また警察に呼ばれたら、その話をもう少し突っ込んで説明してもらうといいですよ。でもその可能性は、本当にあまりないらしいです』
『そうだな……ありがとう』
 マーロン氏の眼から、一瞬だけ現われた激した色が消えたように思えた。氏は再びテーブルに目を落とした。
『でも……』
 エドワードは何かを言いかけ、ためらったようなそぶりを見せた後、言葉を続けた。
『これは本当に関係ないのかもしれないけれど……ジェイの経緯と納得がいかないことを、僕の妻に話した時、彼女が言っていたんだ。(その子は呼ばれたのかも)って』
 まったく同じことを、ジェイが言っていた。桃香のことを話した時に。ありさの背に、軽い戦慄めいたものが走った。そのことを従兄に告げた後、聞いた。
『あなたの奥さんが、そう言っていたの? あなたは結婚しているの?』
『ああ。結婚して二年目になるよ』エドワードは頷いたのち、話し始めた。
『大学で知り合ったんだ。彼女はネイティヴ・アメリカンの血を引いていて、だから結婚するという話になった時、親ともめた。うちの親も、なんだかんだレイシスト気味だからね。アリスン叔母さんだけでたくさん、なんてことも言われた。それで頭に来て、しばらく絶縁していたんだ。母のメールを無視していたのは、この時期だね』
『そうなのね』
 ありさはかすかに微笑んだ。その妹と違って、異なる人種の血に従兄が嫌悪を示さなくなったのは、彼自身その異なる血の女性を、妻に選んだからなのだろうか。いや、もともと彼にはその偏見が薄かったから、そういう結果になったのかもしれないが。
 従兄の妻が言ったという言葉と、ジェイのそれがこだまのように同じであることをエドワードに告げると、彼は眉根を寄せ、何か言いかけた。その時、再びドアがノックされた。扉の向こうには、法服を着た司祭が立っていた。
『埋葬の時間か』エドワードも立ち上がり、ありさを見た。
『話は後にしよう。そうだ。一度、うちに来ないか? 妻にも話してみたいんだ』
『ええ。あなたたちが良ければ』
 ありさは頷き、立ち上がった。そして再び従兄に問うた。
『伯父さん伯母さんたちは、埋葬にはいらっしゃるの?』
『いや、そもそも近親者は来なくていいって、スティーヴ叔父さんが言うしね。僕は捜索にかかわったから、親戚代表、兼、レンジャー代表で来ているんだけれど。それと、君か。半分だけだけれど、血のつながった姉だね』
『今、親戚の連中に、あれこれ言われたくはないんだよ』
 マーロン氏がぼんやりとした調子で、呟くように言った。

 簡単な祈りと儀式の後、ジェイを入れた小さな棺は、庭の片隅に埋められた。その上に墓標代わりに、ハシバミの苗が植えられた。立ち会ったのはマーロン氏、ありさとエドワード、この教区の司祭と、木の苗を持ってきてくれた、一家と付き合いがあるという農夫の五人だけだった。そして、白いむく犬と。ニックも棺が運び出された時、起き上がってついてきたのだ。
 司祭と農夫が帰ってしまった後も、マーロン氏は墓前に座り込み、そこに植えられた木の芽を見つめているようだった。ありさとエドワードが中に入るよう促そうと近づいても、その場を動かなかった。やがて氏は地面を両手で叩き、そして突っ伏した。怒号のような号泣が響き渡った。そして、ニックの悲しげな遠吠えと。
 ありさは再び言葉を失い、ただその場に立って見つめていた。




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