EVERGREEN : 常盤の守護精

第二章 アザーサイド・フォーレスト(2)




 それからも、日々は続いていった。カナダの冬は厳しかったが、『西海岸はまだまし』と、学生たちは言う。その冬が過ぎ、ようやく遅い春の兆しがさしてきたその日、授業が終わると、ありさは町へ買い出しに出かけた。
 大学の寮はキャンパス内外に十棟ほどあるが、ありさが入っているのは、キャンパスの外れに建つ三階建ての女子寮で、七十人前後の学生が、そこで暮らしている。一階には食堂、台所、洗濯室、娯楽室、自習室がある。四人ほどの寮母さんが交代で学生たちの面倒を見ているが、掃除、洗濯は学生たちが各自で分担し、食事も夕食しか出ない。朝は各自で、昼は学校のある日は学食で、それ以外は自炊が原則だ。夕食が不要の場合は、その日の朝までに申し出る必要があった。
 学生たちの朝は、簡単な場合が多い。時間がなかったり、朝は食欲がないという理由で取らない人も一定数いるし、授業の始まりが遅い場合は、外のファーストフード店に食べに行ったりする人もいる。寮の食堂で取る場合は、牛乳をかけたシリアルや、ハム、チーズ、野菜などを挟んだパン、果物などを、自分で用意する。その食材は各自で街に買い物に行き、各自袋に大きく名前を書いて、台所に備え付けの大きな冷蔵庫や戸棚にしまっていた。時々、自分で思っていた以上に早くなくなることもあったが、『まあ、そういうこともあるわ。考え違いかもしれないし、誰か困った人が拝借したのかもしれないわね。あんまり極端じゃなかったら、気にしない方が良いわよ』というルームメイトの言葉に従っている。
『もうパンもシリアルも野菜もないから、買ってこないといけないわね』
 そのルームメイト、ジェニー・カニンガムスが、冷蔵庫の中を覗いて、声を上げていた。
『そうね』
 様々に名前を書かれたビニール袋の中から自分の取り上げ、中身を確認しながら、ありさも頷く。あるのは半カートンほどの牛乳とリンゴがふたつだけだ。
『リズやボニー、キャスにも、声かけてみるわ。車を出してもらえたら、夕方買い物に行きましょ』
 ジェニーは良く行動を共にしている、寮の友人たちの名を上げる。ありさも頷いた。二人とも車は持っていないが、リズ、ことエリザベス・ウービンは持っている。小さな中古車だが、父親に買ってもらったらしい。街への買い物にはたいてい彼女の車で、仲間五人で行き、車を出してもらったお礼として、それぞれ一品ずつリズの買い物の代金を払う。それが取り決めだった。
 ルームメイトのジェニーは父方の祖父がアフリカ系アメリカ人、母親はメキシコ人らしい。リズは中華系の移民三世で、ボニーはインドからの留学生、キャスはネイティヴ・アメリカンとギリシャ人のハーフという、移民の国らしい雑多さだ。その中では、ありさも多様性の中の一人でしかない。この集団はいつも一緒に行動しているわけではなく、それぞれ個人の用が優先され、五人そろわないことも普通だ。この日も車の持ち主、リズは『あたしは特に買い物がないから、いいわ。でも車は使っていいわよ』と、キーを投げてきた。『車のお礼は何が良い?』と問い返すキャスに、『お茶買ってきて。それだけでいいわ』と言う。
 そうして彼女たち四人は、キャスの運転で街のスーパーマーケットに買い物に行き、それぞれ必要なものと、リズへのお礼の中国茶を買ったのだった。ありさはふと目についた、小さな鉢植えのハーブもいくつか買った。気候も良くなったし、サラダに入れたり、休日のパスタに使ったりするために、部屋の窓際で育ててみようと。
『花よりは実用的ね。花の方がきれいだけれど』キャスが笑いながら言い、
『あたしも花を育ててみたいわ。でも、ダメ。あたしが面倒を見ると、みんな枯れるの』
 ジェニーが肩をすくめる。
『それは(炎の指)だわね、ジェン。あなたは(みどりの人)じゃないわけよ』
『どう言うこと、キャス?』
『パパから聞いたことがあるの。植物を育てるのに適した人と、そうでない人。あなたは後者よ。エリッサはどう?』
『わたしはよくわからないけれど、日本にいた頃、祖母や妹と一緒に、よく庭を手入れしていたわ』
『それでお庭の状態が健全なら、あなたは(みどりの人)ね、エリッサ。まあ、あなたのお祖母さんか妹さんが、そうなのかもしれないけれど。それをお部屋で育てるなら、ジェニーには触らせたらダメよ』
『さらわないわよ! あたしのせいで枯れたなんていったら、いやだもん。あ、上手く行ったらイタリアンパセリとバジル分けてね、エリッサ』
『もちろんよ』
 頷きながら、ありさの脳裏に祖母と妹の姿が浮かんだ。(みどりの人)か――たしかに二人はそうかもしれない。植物に話しかけ、庭を慈しんでいた祖母、そして妹。今もこみ上げてくる感情の塊を、ありさは飲み下した。

 その夜も、また夢を見た。(森の中で迷う夢)――ただ、母の墓参に行った夜に見たような従姉たちとの会話シーンも、最後の妹の姿もない。その場面は、あの時だけだ。ただ、幼いころから何度も繰り返し見ている夢だが、それ以来、少しだけ変化している。彼女自身に『なぜここにいるか。どんな目的で』という自覚があり、呼ぶ名前もはっきりと従姉たちの名前になっていた。
『エディーとミリーって、誰?』
 翌朝、一緒に朝食をとっている時、ジェニーが聞いてきた。
 ありさは一瞬どきっとして、ルームメイトの顔を見た。
『どうして知っているの、ジェン?』
『叫んでいるんだもの。あたし、それで二度ほど目が覚めたわ』
『ごめんなさい』
 ありさは思わず頬を赤らめた。実際に声に出ていたのか。
『なあに、それ?』
 同じくテーブルを共にしていたリズとボニーが、少し興味をそそられたような顔で聞いてくる。キャスは、今日は食欲がないからまだ寝ていると言って、部屋にいるらしい。
 ありさは少しためらった後、みなに話した。子供のころから繰り返し見る、(森の中で迷う夢)のことを。
『めんどくさい夢ね。あたしだったら、いやになるわ。よくうんざりしないわね』
 ジェニーは苦笑交じりに肩をすくめていた。
『何度も繰り返し見る夢は、意識の中のコンプレックスなんですって。それが解決されない限り、同じ夢を見続けるのよ』
 ボニーが思案気な顔で言う。彼女の専門は心理学らしい。
『夢はだいたい、無意識の産物なのよね。でも過去の記憶がそのまんま出ることは、あまりないっていう話よ。エリッサのそれは、どこまでが事実で、どこからが記憶の産物なのかしら』これはリズの言葉だ。彼女も同じような専攻らしい。
『思い出せないの?』
 ジェニーの問いかけに、ありさは首を振る。
『と言うか、思い出せないから潜在意識なのよ。でも意識の底には、眠っているはずなの。それを思い出せば、きっと解決するのじゃないかしら』
 リズはパンにレトルトのエビチリを挟んだものを食べ終わると、指を振った。
『どうやったら、思い出せるかしら?』ありさは問いかけた。
『それは……わからないけれど』
『リズ、頼りないなあ。臨床カウンセラー目指してるんでしょ?』
 ジェニーが苦笑いをし、シリアルをほおばって飲み下した後、思いついたように続けた。
『そうだ。その従兄姉さんって、実在してるんでしょ? 会って確かめてみたら?』
『そうね……』
 ありさは頷いた。従兄姉たちに会う――考えていなかったことだが、本当は意識の下で思っていたことかもしれない。夢の印象からも、伯母の家で見た写真からも、あまり好意的な感じを受けなかった従兄姉たちだから、会うのが怖かったのかもしれない。が、本当にリズやボニーの言うように、繰り返し見る夢が心理のコンプレックスで、それが解決されない限り同じ夢を見続けるなら、行動を起こしてもいいかもしれない。

 ありさはその夜、伯母にメールを送った。ベリンダ伯母とは、去年の秋に再会してから時々メールをやり取りしていたが、それ以降家に訪ねていったことはなく、ここ一、二か月ほどは、メールも来なかった。長い間会っていなかった姪への懐かしさも、一度会ってしまったら、満たされたのかもしれない。自分の方も慣れ親しんだとはとても言い難い、遠く離れた存在だった伯母に、これ以上親密な付き合いは、求めない方が良いのだろう。そんな思いだったが、今は用事ができた。
【二人に連絡して、あなたのメールアドレスを教えて置いたわ】
 数日後、伯母からの返信が届いた。丁寧に礼を述べたメールを送ってから、ありさは待った。しかし、なかなか従兄姉たちからの連絡は来なかった。メールチェックをするたびに、ありさの脳裏にはいつか夢で見た、不機嫌な少年少女の面影がよぎっていった。だんだんとその不快の表情を増して。

 一か月待って返事が来なかったら、向こうは自分には会いたくないのだという意思表示だと、思ったほうがいいのだろうか。従兄エドワードの所在はわからないが、少なくとも叔母の話から、従姉ミリセントの方は通っている大学がわかっている。バンクーバー市の北、市外区にあるというその大学は、西の郊外地区にあるありさの大学からは、一度市内を通り、バスを乗り継がなければならないが、行かれないことはない。しかし、その中から幼いころの写真しか知らない従姉を探すのはほとんど無理だろうし、仮に会えたとしても、何かを自分に話してくれるかもわからない。そんな焦れた思いを抱きながら毎日チェックを続けていたありさに、やっと一通のメールが来た。
【ハイ、エリッサ。久しぶり。こっちに来たのね。来週なら会えると思うから、都合のいい日を知らせて】
 差出人はミリセント・リチャードソン、従姉だった。ありさの全身から、安どの思いが沸き上がるのを感じた。

 従姉が指定してきた場所は、彼女が通っている大学のそばにあるコーヒーチェーン店だった。日本でも人気があるそのチェーンは、バンクーバー市内でも至る所にある。コーヒーとスコーンを挟んで向き合った従姉の顔は、以前叔母の家で見せてもらった写真の面影が、たしかにあった。ただ、いくぶん今はふっくらとしていて、化粧をしている。髪の毛は写真のような金褐色ではなく、ブロンドになっていた。根元が少し濃くなっているから、きっと脱色したのだろう。その髪を後ろにポニーテールのようにまとめ、赤いリボン飾りのようなアクセサリーをつけている。淡褐色の眼で見つめてくるその様子は、夢の中で見たような冷淡な色ではないが、あまり熱情は感じていないようにも見えた。
『久しぶりよね。たぶんあたし、道であなたに会っても、わからなかったと思うわ』
 ミリセントはそう口を開いた。
『わたしも、きっとそうね』
 ありさはかすかに微笑みを浮かべて答える。
『あなたがこっちに来た理由は、この間家に帰った時、ママが話してくれたけど』
 ミリセントはコーヒーを飲み、スコーンを二口ほどかじってから、言葉を継いだ。
『あたしに会いたいっていうのは、懐かしさから? それとも、別の理由?』
『懐かしいとは、わたしにはほとんどこっちの記憶がないから言えないけれど、従姉妹同士ではあるから、というのも理由の一端よ。でも、無理に再会を願おうとは思わなかった』
『無理にって?』
『いえ……』
 突っ込まれて、ありさは思わず口ごもった。自分に対してあまりよい感情を持っていないように思えた、とはさすがに面と向かって言うのはためらわれたのだ。
『はーん』
 しかし、ミリセントは何かを読み取ったような表情で、微かな薄笑いを浮かべた。
『あたしたちが、昔あなたに意地悪をしたから?』
『え?』
『あら、覚えていないの? 本当に?』
 ありさの表情から、従姉も気持ちを読み取ったらしい。
『あたし、あなたが嫌いだった』
 ミリセントは薄茶色の眼で見据えながら、何でもないような口調で言った。
『アリソン叔母さんは好きだったけれど、あなたのことは嫌いだったわ』
『どうして?』思わずありさは問い返していた。
 相手は薄笑いのような笑みをひっこめ、再びコーヒーを飲み、クリームをつけたスコーンを半分ほど食べてから、答えた。
『なんとなく気に食わない、っていうのはあるじゃない?』
 そして、声を落として続ける。
『それにね、あなたは純粋な白人じゃないっていうのが。そりゃ、この街にはいっぱいいろんな人種がいるしね、そんなこと口に出そうものなら、やれレイシストだって叩かれるから、みんな口には出していないけれど、心の中では思っているのよ。不愉快だって。それが自分の親戚、っていうのは嫌じゃない』
 率直な言葉に、ありさは思わず言葉を飲んだ。どう返事をすればいいのか、わからない。ミリセントは軽い笑い声を立て、そして続けた。
『でもね、まあ、過ぎたことは過ぎたことよ。今は嫌いじゃないわ。いえ、何とも思ってない、と言うのが正しいかしらね』
 再び、ありさは言葉に詰まった。従妹の眼の中には、なんとなくからかうような表情が浮かんでいるように感じられる。そう、この表情には覚えがある。微かな記憶の底から、そんな思いがもたげてきた。
『それで、話を元に戻すけれど、懐かしさのほかに理由は?』
『確かめたいことがあったの』
 ありさはあの夢の話を繰り返そうとしたが、友人たちに話す時と違って、小さな抵抗を覚えた。大事にしていたというには、この場合語弊があるが、小箱にしまっておいた昔の記憶の断片を、この従姉に見せる気にはなれなかったのだ。
『ママに関する記憶で、どうしても思い出せなくて、あいまいになったままだったから。そのままではもやもやするから、知っている人に聞いてみたいと思ったの』
『なんだ、そんなこと』相手は少し拍子抜けしたような声を出した。
『そんなことなら、あたしたちのママに聞けばいいじゃない』
『ベリンダ伯母さんには、お会いしたわ。いろいろとお話も聞かせてもらったし、アルバムも見せてもらった。それで、少し記憶がよみがえったのだけれど、どうしてもわからないことがあって』
『何が?』
『ママとわたしが、あなたたちの家のキャンプ旅行についていった時のことなの。わたしが四歳で、あなたが六歳の時』
『ああ、あれね』ミリセントの顔に、再び冷笑に近い表情が浮かんだ。
『あの時はエディーもあたしも、それは不機嫌だったわ。なんで楽しい旅行に、あなたがついてくるのかって。叔母さんはまだ良かったけれどね。それに、二人で何かしたくても、すぐに(エリッサも連れて行ってあげてね)なんて言って、あなたがくっついてくるのが、もううっとおしくって、いらいらして仕方なかったのは覚えているわ。挙句の果てに迷子になるし。ママには怒られたけれど、知らないわよ。あなたが勝手にどこかへ行ってしまったんだもの』
『森で? 虫とりに行って?』
『そう。帰ろうとして、あなたは後をついてくるだろうと思ったら、どこかに行っちゃったんですもの。大騒ぎになったし、バーベキューの予定も狂っちゃったし、本当に最悪。しかもあなたときたら、見つかってもあたしたちに謝りもしなかったし。あなたのせいで、どんなに大騒ぎになったか知れないのに』
『ごめんなさい』ありさは率直に詫びた。
『十四年? 十五年? それ越しの謝罪ね』
 従姉は微かに笑い、肩をすくめた。そして身を乗り出し、言葉を継ぐ。
『ねえ、もしあなたが覚えているなら、なぜそんなことをしたのか教えてくれない? あたしたちへのあてつけ? 嫌がらせ?』
『違うの。わたしもあまり覚えていないのだけれど……願いの泉に行きたかったのだと思うわ』
『願いの泉?』
 相手は意外そうに目を見張り、しばらく黙った後、続けた。
『あーあ、エディーが言ってたわねえ、そんなこと。あんなの、出まかせでしょ? あなた、まさか本気にしたの?』
『ええ、たぶんその時には。まだ子供だったし』
『それで、何をお願いしようとしたの?』
 ありさはためらった。この従姉に胸の内を打ち明けるのは、辛い気がした。
『ママと……ずっと一緒に暮らせるようにって』
『え?』
 ミリセントは目を見張り、そして笑いだした。ありさは胸の中に、熱い塊がつっかえるような思いを感じた。言わなければよかった。
『あら、ごめんね』
 ミリセントは笑うのをやめ、再びからかうような表情でありさを見た。
『それで、あなたは何をあたしに確かめたかったの?』
『いえ、ありがとう。だいたい知りたかったことは、わかったわ』
『あら、そう。それなら良かったわ』
『一つだけ、最後に教えて、その場所はどこ?』
『あたしも子供の頃だから、よく覚えていないわ。ママに聞いてよ』
 従姉はコーヒーとスコーンを食べてしまうと、立ち上がった。
『じゃ、あたしは学校に帰るわ。あ、ここはあなたが払ってね。あなたの用事ですもの』
『わかったわ。今日は来てくれてありがとう』
『あ、そうそう』ミリセントは帰り際、振り向いた。
『キャンプ場の場所はわからないけれど、森の名前は覚えているわ。ジ・アザーサイド・フォーレストって』
『もう一方の側の森……?』
『そう。変な名前だから覚えていたの』
 従姉は笑顔になった。冷たさやさげすんだ感じのない、純粋な笑み。そしてくるっと踵を返し、足早に店を出ながら言った。
『バイバイ、エリッサ。あたしも少しだけ、懐かしかったわ』
『ええ。来てくれて、ありがとう』
 ありさは最後にほんの少しだけ救われたような気持ちになって、従姉に手を上げた。振り返りはしなかったので、見えなかったようだが。

 寮に帰ると、ありさはベリンダ伯母にメールし、従姉に会えたことと、仲介してくれた礼を述べた。そしてキャンプ場の場所を聞いた。伯母からの返信では、市外から二百キロほど北東に位置するオートキャンプ場だということで、その名称も教えてくれた。ありさはスマートフォンで地図を広げ、場所を確認すると、伯母にお礼の返信をした。
 それからしばらくして、友人たちと一緒に学生食堂でランチを取っている時、従姉への訪問と事実の確認はどうなったのかと聞かれた。ありさは簡単に訪問の顛末を述べ(従姉の態度は省いて)、夢の中のシーンはほぼ事実だったと答えた。
『なかなか興味深いわね。夢にそのままの記憶が再生されるなんて。それはよほどのトラウマと言うか、コンプレックスなのね』
 リズが考え込むような口調で、そんな感想を述べてきた。
『まあ、ちっちゃい時に森の中で迷うなんて経験したら、トラウマになるのもわかるわよ』
 ジェニーが肩をすくめる。
『でも不思議なのは、どうやって戻ったかという記憶が出てこないということね』
 ボニーの言葉に、リズも頷く。
『そうよね。広場に戻っていたのを、レンジャーさんに発見されたわけでしょう? どうやって戻ったか、って。それはあなた以外、確かめられる人はいないんだし、エリッサ』
 一同の間に、少し沈黙が降りた。
『光よね。鍵は光』
 キャスが考え込むような口調で言いだした。彼女の専攻は伝承文学だが、『神話とか童話とかは、心理学にも根差しているから、少しかじっているわよ』と、以前言っていた。
『光?』
『そう。エリッサの夢は、最後に光に会って終わる。そこからの記憶はない。っていうことは、思い出すのさえ怖いような、もしかしたら畏れ多いような何かがあったのかもしれない、っていう感じじゃない?』
『ああ、そういうのって、あるわね。夢分析では、いろいろな形をとるけれど、触れられたくない記憶というのが――固く閉まった扉とか、どうしても入れない家とか、踏み込めない場所とかになって表れるって。光も、その変形なのかもしれないわ』リズも頷く。
『それにしても、もう一方の側の森(ジ・アザーサイド・フォーレスト)と言うのも、不思議な名前ね、たしかに。どういう所?』
 キャスの問いかけに、ありさはスマートフォンで地図を開いて見せた。
『伯母さんの話だと、ここだったわ。この森は後ろの山にずっと続いているから、こっちの側にしか出口はないっていう話だった』
『アザーサイドっていうより、ワンウェイよね、それじゃ』
 ジェニーが丸い肩をすくめて、そんなことを言う。
『反対側は、終わりがない――だからアザーサイド、異界への入り口みたいな発想なのかもね』
 キャスの言葉に、ありさは思わず「あっ」と小さく声を上げた。もう一つの森を思い出したのだ。淵が森――いつか妹と二人で行き、そして妹がその中へ迷い込んで、命を落とした場所。あそこには、古い祠のそばに、(この世の淵)があると言われていたという。それが、森の名前の由来だとも、妹を探してくれた年配の駐在さんが話していた。それは、やはり異界への入り口なのだろうか。あの時、自分と桃香にだけ見えた、注連縄を巻いた大木も――そんなものはない。古い祠は以前あったが、今はないと、駐在さんは言っていたが。ありさ自身も、その木を見たのは一度だけだった。
 ありさの反応に注意を向けたキャスとボニーが『どうしたの』と聞いてきたので、ありさは簡単に妹の話を語った。
『妹さんは気の毒だけれど、なんだかミステリアスね』
 ジェニーがそんな感想を漏らし、他の三人も頷いていた。
『森はね、いろいろイマジネーションを掻き立てる場所なのかもしれないわね。異界の入り口とか、終わらない森とか、森の精とか』
『森の精? 妖精みたいなもの?』
 キャスの言葉に、ありさは問い返す。
『妖精なんて、子供のファンタシーよね』
 そんなジェニーの言葉に、キャスは切り返す。
『ファンタシーを馬鹿にしてはいけないわよ。ものにはすべて(元型)があるのよ』
『アーキタイプ?』
『心理学用語ね、それ』
 ボニーとリズが小さく肩をすくめて、顔を見合わせていた。
『まあ、それはともかく……場所はわかったけど、行くつもり、エリッサ?』
 ジェニーが聞いてきた。ありさはかぶりを振った。
『いえ、遠いし……車を出してもらうのも、厳しいわ』
『往復四時間かぁ。まあ、お休みだったら付き合ってもいいけれど』
『ありがとう、リズ。でも大丈夫よ。行っても、夢の中と景色が同じか、というくらいしか確かめられないし、あまり中に踏み込んでいって、迷っても困るから』
『遭難なんかしたら、シャレにならないものね』と、ジェニーは肩をすくめ
『そうね。それに無理に踏み込まない方が良い場合もあるわよ。思い出せないっていうのは、何か心理のブレーキがかかっているということだから』と、リズが真顔で言う。
『ええ。ジェンにはまた寝言で迷惑をかけてしまうかもしれないけれど』
 ありさはルームメイトに笑顔を向け、
『あたしは慣れているから、平気よ』と相手は笑う。
 しかしその夜から、ありさはその夢を見なくなった。




BACK    NEXT    Index    Novel Top