EVERGREEN : 常盤の守護精

第二章 ジ・アザーサイド・フォーレスト(1)




『本当に久しぶりね、エリッサ。すっかり大きくなって』
 ベリンダ伯母は笑みを浮かべながら、コーヒーカップをテーブルに置いた。ありさの前に一つ、もう一つは自分の方に。真ん中に置かれた、少し深めの皿にビスケットがいくつか乗っている。手作りではなく、スーパーで売っているものだ。ありさもここへ来てから、一、二度購入して食べたことがあった。
『会えてうれしいわ、エリッサ。よく来てくれたわね、本当に』
 伯母は笑みを浮かべたまま続けた。少したるんだ瞼の中のハシバミ色の眼には、同じように笑いが感じられる。その表情は、本当に自分に会えてうれしい、懐かしい――そう語っているように思え、ありさも微かに笑みを浮かべて伯母を見た。肉付きのいいその身体を水色地に白と黄色の大きな花柄のワンピースに包み、明るい茶色の髪には三割くらい、銀色が混じっている。鼻はいくぶん大きく、先端が垂れ下がっていて、唇は薄い。頬にはそばかすが飛んでいて、少したるんでいる。時々変わる表情とともに、その眼はくりくりとよく動いた。
 ありさは伯母の顔を見ても、古い記憶を手繰り寄せることはできなかった。まるで初めて会った人のように感じた。でも向こうは自分を知っているらしい。懐かしそうにじっと見つめた後、『ああ、昔の面影が残っているわ』と、呟いていた。伯母は姪のことを日本語の「ありさ」ではなく、英語読みの『エリッサ』と呼んだ。たぶん四歳で日本に来るまで、ずっとそう呼ばれていたのだろう――そんな気がした。大学で知り合った友人たちも、ルームメイトも同じように呼ぶ。
 ありさは高校を卒業した後、半年間語学学校に通い、カナダの大学への入試を仲介してくれる業者を通じて無事試験に合格し、八月の終わりにバンクーバーへと渡った。入学試験や手続きの仲介業者は、父の弟である健の妻、美幸が手配してくれた。彼女は私立の高校で、ずっと英語教師として働いている。交換留学の手続きなどにもかかわっていたゆえの、コネクションだった。時々彼女に相談しながら、ありさは自分でできるかぎり必要な書類を揃え、入学の手続きをし、入寮の申請を書き、必要な諸費用を父にメールで知らせた。飛行機とホテルの手配も、インターネットを使って自分でやった。その費用は父から預かっているクレジットカードを使った。
 八月終わりの暑い日、ありさはキャスター付きの小さなトランク一つを持って、家を出た。すべての窓と玄関を施錠し、その鍵は義理の叔母、美幸に預けた。叔母は空港まで、車で送ってくれるという。
「今日はお休みを取ったのよ。まだ学校も夏休みだしね」
 美幸は微かに笑みを浮かべながら、鍵を受け取った。その眼が薄いピンクのキャリーバッグに停まると、少し驚いたような声を上げる。
「ありさ、そんな小さな荷物で大丈夫なの? 向こうには少なくとも四年、いるんでしょう?」
「うん、大丈夫よ。美幸叔母さん。必要なものは、向こうで買えるから。送ってくれて、ありがとう」
 ありさは車の後部座席に乗り込み、バッグを引き入れた。中に入っているのは数組の着替えと携帯用洗面道具、それに祖母が住んでいた離れに入っていた緑の箱の中身――古い写真と人形。それをまとめて、薄緑の布袋に入れた。祖母と妹の写真も一緒に。叔母にも告げたように、現地に着いてから、必要なものは買えばいい。父がありさの口座に振り込んでくれたお金と、インドネシアに赴任する時に置いていったクレジットカードで。心配は感じなかった。

 日本を出る前の夏、父からは何度もメールが入っていたが、その中にこんなものがあった。【おまえのお母さんの連絡先は、今は知らないが、伯母さん――姉に当たる人の住所は、今でも有効らしい。手紙を書いたら返事が来た。向こうのメールアドレスを教えてくれたので、書いておく。落ち着いたら、連絡してみたらどうだろう】。
 渡加してからしばらくは、なかなか余裕がなかった。学校に行って最終手続きを済ませ、九月から入寮。同時に授業が始まった。すべて英語での授業と、大学生活や寮生活、特にルームメイトになじむのに、一か月ほどかかり、九月の終わりに、ようやく伯母にメールした。返事はすぐに返ってきた。一度会いに来ないか、という誘いだった。ありさはすぐに承知し、次の土曜日の午後、会うことになった。
 伯母の家の住所が書かれていたので、スマートフォンのマップを頼りに探し当てた。郊外地区にある、一戸建て。そんなに広くはない庭には、芝生と、秋の花が植えられた花壇がある。手入れ具合は、ありさ一人で見ていたころの常盤家の庭と(定期的に植木職人が来てくれたが)、あまり変わらなさそうだ。オフホワイトに塗られた壁に、木製の玄関ドア。そこへ至るまでに、二、三段のステップがある。玄関の横には大きな貝殻が置いてあり、そこにも観葉植物が植えられていた。家の大きさも、周りにあるほかの家と変わらない。
 門のところにあるチャイムを押すと、ややあって玄関の扉が開き、ありさより少し大きな背丈で、幅は倍くらいある中年女性が出てきた。彼女は足早にこちらに近づき、門を開けると、ありさをまじまじと見つめた。それから両手を広げ、ぎゅっとハグしてきた。
『エリッサ! エリッサね! わかるわよ、わかったわよ!』と。

 今、ありさはテーブルをはさんで、伯母と向かい合っている。初めて会う感じだが、そうではない。ずっと昔に会っているはずの人だ。
『夫は昨日から、北の方へ釣りに行っているわ。帰ってくるのは明後日ね。息子は独立して、今は一人暮らしをしているの。森林レンジャーをやっているのよ。娘は大学の寮にいるわ』
『どこの大学ですか?』
 伯母が告げた大学名は、ありさの学校ではなかった。そこまで世間は狭くないのだろう――そんな思いが少しだけ湧いて、小さな笑いを漏らす。
 伯母はコーヒーに砂糖を二つ入れ、ミルクもたっぷり入れて飲むと、ビスケットをつまんだ。ありさもミルクだけ入れて、ビスケットを一つ食べた後、カップを傾けた。
 時々コーヒーを口に含みながら、ありさは日本にいたころのことを伯母に話した。英語を話すのは、かなり上達したが、日本語ほど細かいニュアンスはまだこめられない。それゆえ、細かいところはかなり省いて。伯母は微かに眉根を寄せ、こちらに視線を据えて、聞いているようだった。ありさが話し終わると、ベリンダ伯母は小さく息をついた。
『まあ。大変だったわね、それは』
 そしてコーヒーカップの中身を飲み干すと、もう一度小さく息を吐き、続けた。
『でもね、この国に来ようと決心したことは、正解だと思うわよ』
 伯母は顔全体で笑顔を作り、姪を見守るような視線を投げたあと、続けた。
『アリソンが生きているうちに、会わせたかったわね。あなたのことを気にかけていたから』
『アリソンさんって?』
『私の妹。あなたの母親ね』
 ありさは息を呑んだ。生きているうちに会わせたかった、ということは、母はもうこの世にいないのだ。ベリンダ伯母は自分を見つめている。そのまなざしには同情のような思いが込められているように感じた。
『あなたはアリソンのことを、どこまで覚えている、エリッサ?』
『ほとんど何も』ありさはかぶりを振った。
『ヒロム――あなたのお父さんからは、何か聞いた?』
『いいえ』
『そうなのね……』
 母の姉はテーブルに手を組み、その上に視線を落とした後、眼を上げた。
『それなら、最初から話した方が良いかしら。あなたのお父さんヒロムは、二十年近く前にバンクーバーに来たの。仕事でね。アリソンは彼の職場近くのレストランで働いていて、そこに彼が良く食事に来ていたから知り合った。私はそう聞いているわ』
『そうなんですか』
『そのうちに、二人は恋に落ちた。一年と九か月がたって、あなたが生まれた。二人は結婚も考えていたみたいだけれど、あなたが生まれた二か月後、ヒロムは帰国しなければならなくなった。会社の命令で。でも、アリソンは彼を愛していたけれど、見知らぬ異国へ行って暮らすのは、ためらっていた。ヒロムの方も、会社を辞めてこっちで仕事を探す気にはなれなかったみたい。それで二人は別れることになったの。あなたはアリソンが引き取って育てることになり、ヒロムはその時彼が持っていたお金のほとんどを、彼女に渡した。子供を育てるために、自分にできることはこれしかないと言って』
『そうなんですか……でも、なぜ父が後になって、わたしを引き取ることになったんでしょう?』
『アリソンが病気になったのよ』伯母の表情が少しだけ険しくなった。
『脳腫瘍。それで、手術が必要になったの。ちょうどそのころ私たちの父が亡くなって、両親の家屋敷を相続したから――母はその二年ほど前に他界していて――それを売って、費用を作った。でも手術の成功率は半々くらいで、死んでしまったり、重い後遺症が残ったりする危険もあった。だからあなたを育てるのは、無理かもしれないと思ったの。私たちがあなたを引き取るという選択肢もあったけれど、相続した土地を売ったお金が、私たちの手元には残らず、夫が不機嫌になったうえに、それほど家計に余裕がなかった。そのころうちの子たちとあなたは、あまり仲良くなかったこともあってね。少し考えてしまったのよ。それで私はヒロムに手紙を書いて、あなたを引き取ってくれないかと頼んだのよ。もちろんだめなら、私たちで面倒を見るつもりだったんだけれど』
 少し居心地悪げな表情の、どことなくぎこちない笑顔に向かって、ありさは微かに笑みを浮かべた。(気にしていない)そう伝えるように。伯母の顔が、少しだけ緩んだ。
『アリソンの手術は幸いにも成功して、半年ほどで彼女は仕事に戻ることができたわ。それから二年たって、彼女は結婚したの。相手はアーティスト、というか彫刻家で、この町の北の郊外に住んで、工芸品なんかを売って暮らしを立てていた。三年後には、男の子も生まれたわ』
 それならその子は、自分の弟ということだ。父親違いの――桃香は母親違いだが、愛しい妹だった。その妹を失って、ありさの世界はすっかり変わった。でももし父親違いだが、自分に弟がいるなら――その子は、どんな子だろう。四歳の時別れた母が、それから五年半後に産んだ子なら、自分とは十歳違いくらい。今八、九歳くらいか。桃香が生きていたら、十一歳だったから、それよりも年の離れた弟。妹を失って空いた胸の空洞に、少しだけ温かさが戻ったような気がした。その子に会う機会があるのかどうか、わからないが。
『でもアリソンは去年、病気が再発してね。今年の初めに亡くなってしまったのよ』
 伯母の声には、惜別の思いが感じられた。目がわずかにうるんでいる。
 ありさは少し身体が沈んでいくような感じを覚えた。伯母の言葉から、母がもうこの世にはいないとわかったが、それはかなり最近なのだ。今年の初めまで母が生きていたのなら、もう少し早く来られたら、会えたかもしれない。いや、母にも家庭があるのだから、難しいのかもしれないが、この伯母を仲介して、きっと機会を作れただろう。
『今度の日曜日に、アリソンのお墓参りに行こうと思うの。あなたも来る?』
 伯母はそう問いかけてきた。ありさは黙ってうなずいた。
『アルバムを見る?』伯母はそう続け、ありさは再び頷いた。
 ベリンダ伯母は部屋を出て行き、しばらくのち緑色が少し色あせたような表紙の、それほど厚くはない本を持ってきた。テーブルの上のカップやビスケットの皿をどけ、ありさの前に置く。ありさはそれを一ページずつめくっていった。ベリンダ伯母の若いころと思われる写真、その夫と子供たち。父が持っていたのと同じ面影の女性――これは母だろう。赤ん坊の頃や幼い時の自分もいた。
 真ん中くらいのページに、キャンプ場らしい写真があった。伯母一家と、母と自分。みな楽しそうに笑っているが、幼いころのありさだけは、少し硬い笑顔だ。
『ああ、これはね……そうね、あなたが日本に行く二週間くらい前の写真ね。アリソンが、もう少しであなたと別れなければならないから、その前に思い出を作りたいって言って、それで、私たちがそのころ毎年行っていたキャンプに、二人を招いたのよ』
『そうなんですか』
 ありさは胸がきゅっと締められるような感覚を覚えながら、写真を見つめた。若いころの伯母夫妻。男の子と女の子は、伯母の子供たち。ありさにとっては従姉兄だ。あまり仲は良くなかったと伯母は言うが、従姉兄たちとの記憶は、ありさの中にはない。
『十四年。いえ、十五年前ね。エドワードが九歳で、ミリセントが六歳の時。あなたは四歳になったばかりで』
 森林レンジャーをしているという従兄は、エドワードという名前なのか。栗色の髪の、いたずらっ子そうな表情で笑っている少年を見ながら、ありさは考えた。自分は十九歳になったばかりだから、五歳年上のこの従兄は、二十四歳。相変わらず、何も記憶は出てこないが。ありさは視線を、その隣の少女に移した。金髪と褐色の中間くらいの髪色で、にこにこと笑っているその子は、顔こそ違え、幼稚園でよく自分に意地悪を仕掛けてきた、女の子を思い出させた。この子がミリセント。別の大学に通っている、自分より二つ年上のその子は、二十一歳。大学三、四年くらいか――。
『そうそう、この時あなたは、森で迷子になってね』
 伯母は思い出したように、言葉を継いでいた。
『子供たち三人で、森に虫取りに行くって。遠くには行かないようにって言い聞かせたのに、エディーとミリー、二人だけで戻ってきたの。いつのまにか、あなたがいなくなったって言って。大騒ぎになったわよ』
「え?」思わず日本語で、声が出てしまった。
『あの森はね、途中までは小道がついているの。少し広くなった場所があって、真ん中に湧き水があってね。でも、その向こうは道がなくて、ずっと山のふもとまで続いているから、そこを超えてはだめだと、うちの子たちには何度も言ってきて、二人とも言いつけは守っていたのだけれど。でも帰ってくる途中で、あなたとはぐれたみたい。迷うような道じゃないから、勝手にどこかに行ったみたいだって。あなたは覚えていない?』
『いいえ』ありさはかぶりを振った。
『アリソンも私も行けるところまでは行ってみたけれど、あなたは見つからなくて、レンジャーの人にお願いしたの。それで、やってきたレンジャーさんと森に入ったら、森の湧き水のほとりに、あなたがちょこんと座っていてね』
『まあ』
『だから助かったのだけれど、レンジャーさんを呼んだ手前、少し決まりが悪かったわ。(まあ、見つかってよかったですね)って、その方は笑いながら帰っていったけれど、呼んだ代金はかかったし、夫は少し不機嫌になっていたわ。アリソンはとてもすまながっていて、あなたを叱って、どうしてそんなことをしたのかと問い詰めたのだけれど、あなたは何も言わなかった。ただ泣くだけだった。それで彼女も、叱るのをやめたのよ』
『そうだったんですか……』
 頷きながら、思った。それでは昔から繰り返し見る「森の中で迷う夢」は、この時の記憶なのだろうか。忘れ去られた、幼いころの記憶。それがいくども夢に出てきて、彼女を森の中に迷わせるのだろうか。

 アルバムを見せてもらった後、ありさは伯母の家を出た。バスに乗り、地下鉄に乗り、またバスに乗って、大学の寮に帰った。車を持っている学生もかなりいるし、日本で語学学校に通っている間に、同時に免許も取ったが、まだ国際免許が取れるほどの期間は過ぎていない。国籍はあることだし、ここで取り直してもいいが、父に「車を買って」と言うのもためらわれたので、できるだけ公共の交通機関を使っている。来週、伯母が母の墓参りに連れて行ってくれる予定だが、最寄りの地下鉄駅前で待ち合わせをしていた。そこからは、伯母が車で市民墓地に連れて行ってくれると。

 次の日曜日、ありさは母の墓前を訪れた。伯母が持ってきた白い百合とカーネーションの花束に、ありさが花屋で買ってきた、薄桃色のカーネーションを添えて、墓の左側に添えられた花瓶に入れる。少し灰色がった墓標に書かれた文字は、こう読めた。
【アリソン・ローラ・バートランド・マーロン  二〇一×・一・十八  四十歳】
 墓碑の前に、写真が飾ってあった。雨水が入らないよう、継ぎ目がきっちりシールされた透明な写真立ての中の女性は、面影はたしかに以前写真で見た母だが、それよりも十歳以上は年をとっている。濃い金色の髪は短く切られ、少しやせて、その眼はこちらを見返してくる。何か言いたげに。
『ママ……ありさです。帰ってきました』
 もう少し早く帰ってきて、生きているあなたに会いたかった――その言葉を心の中で付け加えると、瞼が少し熱くなった。
『エリッサは立派な娘になったわよ。あなたも安心できるわね』
 ベリンダ伯母も妹の写真を見据えながら、声をかけている。少しかすれたような声だ。
『この写真、伯母さんが置いたのですか』
 しばらくの沈黙ののち、ありさはそう問いかけた。
『いえ、私じゃないわ。きっとスティーヴね』
『スティーヴさんって?』
『アリソンの夫。彫刻家で工芸家の。あの人は今、もう少し北の町に息子と住んでいるんだけれど、ここへはよく来ているようね。ほら、これも』
 伯母は写真の横に置かれた、小さな木の置物を指さした。手のひらより少し小さめくらいの大きさで、彩色はされていない木で作った犬と、その横に座っている子供。
『これも、スティーヴが作ったのだと思うわ。あの人の家で飼われている犬と、それから子供はたぶんジェイ――ジェイムズ・マーロンね。アリソンとスティーヴの子供よ』
 その彫刻の小さな子供は床に座ったような姿勢で、自分より大きな犬に向かって手を差し伸べていた。
『ジェイはとてもいい子だけれど、少し変わっていてね。軽い知的障害と自閉症を持っているみたいなの』
「まあ」再び、思わず日本語で声が出た。
『だからアリソンも最初は少し悩んだようなのだけれど、スティーヴともども、それを受け入れて、子供のいいところを伸ばして、育てようとしていたみたいね。私にそう言っていたし。妹が亡くなった後も、スティーヴは一人で育てているみたいだわ。あの人もまあ……いい人なんだけれど、少し変わったところもあるわね。芸術家気質なのかしら』
『そうなんですか』
 アリソンは母の写真と彫像を見つめた後、眼を上げて墓碑を見た。そして両手を合わせ、眼を閉じた。母に対する記憶はほとんどない。それでもやはり目頭が熱くなり、胸からのどにかけて、飲み込めない塊がつき上げてくるのを感じた。


『あーあ、たいして虫はいなかったなあ』
 少年が、栗色の巻き毛を振りながら、手にした網を勢いよく回した。
『やめてよ、エディー。網を振り回すの』
 金褐色の髪を両側に結わえた少女が、不満げに抗議する。二人の顔には、見覚えがあった。以前ベリンダ伯母を訪ねた時、写真で見せてもらった伯母の息子と娘。従兄のエドワードとミリセントだ。
 自分は切り株に座って、二人を見ていた。背景は森だが、ここは少し広い空間ができている。地面には下草やシダが茂り、真ん中には小さな池がある。水は澄み切っていて、冷たそうだ。
『帰るか』少年が詰まらなさそうに言い、
『そうね』と、少女も頷いている。
『一度この森の向こう側へ、行ってみたいんだけどなあ』
『やめたら? だって、絶対迷子になるもん』
『まあね。でも前に聞いたことがあるんだ。この中に、(願いの泉)があるって』
『なにそれ?』
『その泉の水を飲んで願いをかければ、何でも叶うっていうんだ』
『うそぉ。そんなおとぎ話みたいなこと、ないわよ』
 少女の方は、懐疑的な表情だった。
『本当なの?』ありさはそこで立ちあがり、従兄姉たちに問いかけた。
 二人は少し驚いたような顔で振り返った。従兄の少し緑がかった灰色の眼にも、その妹の淡い茶色の眼にも、どことなく疎んじるような、軽蔑したような光があった。
『話に聞いただけさ』
 エドワードの方が、どことなく投げつけるような口調で応えた。
『だから、どうだって言うのよ。帰るわよ』
 ミリセントは物憂そうにそう促す。
 二人の従兄姉たちは、背を向けて歩き出した。ありさは立ち上がったが、その後は追わなかった。踵を返し、背後の森の中に入っていった。従兄姉たちは彼女がついてこないことに、気づいていないようだ。
 願い事が叶う泉があるなら、それを見つけてみたい。お願いしてみたい。ママといつまでも一緒にいられますようにと。
 ここに来る途中、二人の従兄姉たちから言われたのだ。このキャンプに母とありさが参加したのは、お別れの記念なのだと。
『月末に、おまえは日本に帰るんだってさ』
 エドワードが口元をゆがめて、まるでからかうように言ったのだった。
『日本?』
『そう。おまえのお父さんの国さ。そこに引き取られるらしいよ』
『ママは?』
『アリソン叔母さんは、ここに残るってさ』
『あんたの世話しなくてすんで、ほっとしてるんじゃない?』
 ミリセントは髪を振りやり、笑っていた。
 ありさは衝撃を受けた。大好きな母親と別れたくない。だから、だから――探さなくては。願いの泉を。

 そこで目が覚めた。真夜中だった。母の墓参をしてから一か月と少し経ち、周りには秋から冬に移り変わる気配が、かなり色濃くなってきたころだ。大学の寮にも、朝晩には暖房が入り始めている。でも夜中は止まっているので、部屋の空気はかなり冷たい。隣のベッドではルームメイトのジェニーが、軽い寝息を立てている。
 ありさはベッドの上に起き上がった。肌寒い陽気なのに、少し汗ばんでいた。大きく息をつくと、再び横になる。
 あれは忘れていた、古い記憶なのだろうか――伯母に聞いた話と、従姉たちの写真がきっかけとなって掘り起こされた。四歳の頃の自分が森の中で迷うことになったのは、そのため――従兄の言葉で知った「願いをかなえてくれる泉』を見つけるためだったのだろうか。それともそれは自分の潜在意識の中で組み立てた、事実ではないストーリーなのだろうか。わからない。

 ありさは寝返りを打ち、眼を閉じた。再び眠りに落ちるまで少し時間がかかったが、寝入った後、また同じ夢を見た。子供のころから繰り返し見る、「森の中で迷う夢」
 でも、以前とは、少し違っていた。夢の中の自分は、なぜこうしているのか知っていた。「願いの泉を探したい」というはっきりとした意思を持っていた。そこにどうやってもたどり着かず、帰り道もわからない困惑と不安とともに。そしていつも名前を叫ぶ、しかし誰の名前かわからない声にならないその叫びは、今はたしかな名前になった。
『エディー、ミリー!』
 自分は従兄姉たちの名前を呼んでいたのだ。自分に明らかに好意的ではない二人だが、声を聞きつけたら、もしかしたら来てくれるのではないかという、わずかな望みをかけて。
 やがていつもと同じように、銀色の光が現れた。そう、ここでいつも夢が終わる。でも今は、終わりではなかった。光の中から人が現れた。小さな子供。
「桃ちゃん!!」
 思わず叫んだ。妹だった。髪をたらし、白いブラウスに緑色のスカートをつけた、あどけない姿のまま、にっこり笑っている。その小さな口が開いた。
「おねえちゃん。ごめんね。でも、大丈夫」

 ありさは再び目を開けた。部屋はすっかり明るくなっていて、ルームメイトのジェニーが起きだしている。彼女は一級上の二年生だ。
『どうしたの、エリッサ。少しうなされていたわよ』
『夢を見たの。大丈夫』
 少し浅黒い顔のルームメイトの、黒い瞳に向かって、ありさは笑いかけた。
『じゃあ、支度してね。あたし、先に食堂に行っているから』
『ええ』
 ありさは起き上がり、機械的な動作でパジャマから普段着に着替えた。顔を洗い、髪をとかした後、食堂に向かう。でも心の中では、懐かしさと畏怖にも似た思いを感じていた。




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