EVERGREEN : 常盤の守護精

 第一章 追憶(3)




 五時になって、連絡を受けた父が会社から戻ってきた。継母は捜索願を出したのだろう、前後して警察がやってきた。
「桃香ちゃんはバスに乗って帰ると言ったのですね? 桃香ちゃんは電車通学ですけれど、バスは定期外だから、普段小銭は持っているのですか?」
 やってきた中年の警察官が、そう問いかけた。
「いいえ……学校では、通学途中の買い物を禁じているので。ああ、でもあの日は学校の売店でノートを買うからということで、そのお金は持たせました」
「それは聖邦でも、許可されているのですね。学用品を売店で買う時だけは」
「はい」
「桃香ちゃんには、GPS付きの携帯電話や防犯ブザーなどは持たせていますか?」
「いいえ。本当はそうしたかったところなのですが、学校には携帯電話持ち込みは禁止なのです。でも、駅から学校までの道は他にも大勢生徒さんたちがいるし、駅まではわたしが送り迎えしていました」
「桃香ちゃんがどこへ行ったのか、心当たりはありますか?」
「いいえ、まったくありません!」
「ふむ」警察官は考え込むような顔をした。
「まだ事件性があるともわかりませんので、もう少し様子を見てみましょう。夜になっても帰らなければ、またご連絡ください」
 そう言って、警官はいったん帰っていった。
「桃香を探しに行こう」父が立ち上がった。
「私も行きます!」瑤子も衝かれたように腰を上げる。
「いや、おまえはここにいろ。もし桃香が家に帰ってきた時、入れ違いになると困る」
「わたしも探しに行くわ」ありさもそう申し出た。
「そうか……でも」
 父は継母に目を移した。一人で置いておくのに不安を感じたのだろう。
「それならお父さん、お父さんはお継母さんと家にいて。わたしが行ってくる」

 ありさは家を出、駅まで歩いて、そこからバスに乗った。いつか妹と二人で乗った路線である。桃香の学校の最寄り駅まで、まずはずっと乗ってみた。窓の外を注意深く見ながら。ありさは降り際に、バスの運転手に携帯電話の中の桃香の写真を見せ、一時半ごろこの子が乗ったかを聞いてみた。運転手は首を振り、「いや、その時間、自分は向こうの駅にいたな」と答えた。礼を言い、聖邦学園側の駅の周りを、同じく写真を見せながら聞いて回ったが、たいして収穫は得られず、もう一度同じ路線のバスに乗る前、運転手に聞いた。
「ああ、そう言えば、見たな、この子」その運転手は答えた。
「定期じゃないから、通学ルートじゃないのかなと思った。『淵が森』に行きますか? って聞いてきたんだ」
 妹はそこで降りたという。やはりそうなのだ――予感はあったが、本当に行ってしまった。中で道に迷ったのだろうか。それなら、早く探さなければ――ありさはバスに乗り、同じバス停で降りて、森に踏み入った。風が鳴る音がする。木々がこすれあう音も。だが、もう七時半を回り、日はとっぷりと暮れて、森は暗かった。深く中に入れば、真の闇だ。懐中電灯を持ってこなかったし、携帯電話の灯りで探すのも、バッテリー切れの恐れもある。彼女一人でこの中で探すのは無理だ――妹の行き先ははっきりわかったのだから、それを告げれば大人たちが探してくれるだろう。懐中電灯を持ってこられたら、自分で探してもいい。ありさは携帯電話で家に連絡し、電話に出た父に、得られた情報を話した。
「どうしてそんなところへ?!」と、父は緊迫と驚きに満ちた声で問い返してきたが、ありさは思わず「わからない」と、答えてしまった。
「そうか。まあ、行先はわかったんだ。とりあえず、おまえは帰って来なさい、ありさ」
 父はそう告げ、ありさはそれに従って、次に来たバスに乗って家に帰った。

 家には誰もいなかった。灯りはついていて、鍵もかかっていなかったが。食堂のテーブルに父の筆跡で、警察の人とともに森へ探しに行ってくるから、家で待っているようにというメモが置いてあった。
 ありさはダイニングセットの椅子に腰かけた。もう夜の八時をとうに過ぎていたが、空腹は覚えなかった。父や継母のために、夕食を用意した方が良いだろうか――桃香が見つかった時のためにも。とりあえず食パンに野菜とチーズ、ハムを挟んでサンドイッチを作った。でも自分では食べる気はせず、ラップをかけておいたまま、待っていた。
 父が憔悴しきった顔で帰ってきたのは、日付が切り替わるころだった。『桃ちゃんは見つかった?!』と問いかけると、父は黙って首を振った。
「明日もう一度、警察が人数を増やして付近を捜索してくれるそうだ」
「お継母さんは?」
「どうしても帰ろうとしないんで、置いてきた」
 父は大きなため息とともに答えた。
「桃香が見つかるまで、一人でも探すんだと言って。とても家でじっと待っていられないと。仕方なしに警察の人が一人、付き添っているよ」
 父は首を振り、ありさの作ったサンドイッチをつまんで、寝室へ引き取っていった。ありさも寝室へ行ったが、眠れないのでリビングへ出て、ソファに座って待った。やがて、夜が明けた。

 朝、警察から電話があり、継母が倒れてしまったので、引き取りに来てくれと言ってきた。一晩中桃香を探し回った疲れと、心配が極限まで彼女を追い詰めたのだろう。父が車を出し、継母を連れてきて寝室に寝かせ、一家は再び警察からの連絡を待った。その日は五、六人で森とその付近を捜索してくれているはずだ。
 昼の十一時近くになって、最初に家に来た警官が再び訪れた。
「桃香ちゃんらしい女の子を発見しました。聖邦学園初等部の制服を着て、ランドセルの中や学用品に書かれていた名前も一致しますので、本人と思われますが、ご確認をお願いします。とりあえず病院に搬送しましたので」
「桃ちゃんは、ケガをしたの?!」
 その時には再びリビングに出てきていた継母が、狂おしく叫んだ。
「いえ、お気の毒ですが、心肺停止状態でした。森の中の池に浮いていたのです」
 継母は獣が咆哮するような声を上げ、その場に頽れた。気を失ってしまったらしい。

 それから先の時間は、さらに悪夢のようだった。病院であらためて死亡宣告された妹は、しかし何か楽しげな顔で、笑みさえ浮かべていた。検視のために解剖され、その後小さなお棺に入れられて、家に帰ってきた時も。
「死因は溺死ですが、水に入る前から気を失っていたようで、肺の水は少なかったです。ほとんど苦しまなかったと思いますよ。身体に外傷はないし、事故だとは思うのですが、事件の可能性も完全には否定できないので、みなさんに事情を詳しく聞かせてもらいたいのです」
 県警の刑事という人が家に来て、そう告げた。
 話を聞くのは一人ずつだったので、ありさはそこですべてを話した。
「ははあ、なるほど。桃香ちゃんがあんな場所へ行ったのは、前に一度お姉さんと行ったことがあるからだったんですね」
 刑事は頷き、ひたと彼女を見つめてきた。
「その『お友達』のことについて、具体的には何か聞きましたか?」
 ありさは首を振った。
「わたしも最初は思ったんです。妹は変な人に声をかけられたのかしらって。でも、わたしは誰も見ませんでした。それに、信州でも同じようなことがあったんです」
「妹さんは、空想力豊かなお子さんでしたか?」
 話を聞き終わると、刑事はそう問いかけてきた。ありさは首を振った。
「作り話はしない子でした。空想のお友達とかも、聞いたことはないです。その『みどりちゃん』のほかは」
「そうですか……」刑事は手にした鉛筆で鼻筋をなでた。

 その後、父とありさの前で刑事は説明した。継母は寝込んでしまって、同席していなかったが。前日の夜捜索した時には、さらに継母とともに徹夜で探した警官の話でも、その池も見たけれど、桃香はいなかった。森自体それほど広くなく、三時間もあれば精査できる場所のため、夜とはいえライトもあり、いれば発見できたはずなのだが、と。桃香の死亡推定時刻は、明け方らしいいう報告も受けた。
「そうするとねえ、事件の可能性も考えられるんですがね。桃香ちゃんが誰かに拉致されて、明け方殺され、池に捨てられたという線も考えたのです。でも桃香ちゃんの肺の水は、池の水と同じでしたし、抵抗した跡も何も、外傷が何一つないのです。それに、顔の表情もね、恐怖がないんです。そういう状況で殺されたなら、あることが非常に多いんですよ。でも桃香ちゃんは、とても楽しそうにさえ見える。ですからね、森でずっと迷っていて、いえ、眠っていたか何かして、我々が夜見落としてしまったのか――それで明け方目を覚まし、家に帰ろうとして池に落ちたのか。それとも――いや、お姉さんの言う『お友達』というのが本当にいて、その子の家にでも泊り、帰りにまた森に来たのか。うーん、とりあえず、事故と事件の両方の可能性を視野に入れて、捜査をしてみます」
 あまり気を落とさないように――そう言って、刑事は帰っていった。
 ありさはしかし、『お姉さんの言うお友達』という言葉を聞いて、背筋が凍るのを感じた。継母には内緒で来た、ということは話したはずなのに――継母はここにいなかったのが、せめてもの救いだが。
 やはり父にはその言葉が気になったのだろう。警官が帰った後、『どういうことか?』と聞かれた。ありさは父にすべてを話した。「お継母さんには黙っていて」と付け加えて。
「まあ……瑤子も心配しすぎる面があるからな、桃香のことに関しては」
 父は話を聞くと、難しい顔をしてうなった。
「わたしが連れて行ってあげられていたら……」
 ありさは肩を震わせ、うつむいた。涙がこぼれた。
「そんなに桃香は思いつめていたんだろうか。どうしても行きたいと……」
 父も上を向いた。その声は少し震えていた。
――でも、なぜなのだろう。何をして、桃香をその切望に駆り立てたのだろう。『お友達』とは、いったい誰なのだろう。
 ありさの心によぎった疑問は、おそらく父の心にも去来しているだろう。しかし、その答えがわかることがあるのだろうか、とも。



 教室に着くと、ありさは窓際の自席に座り、頬杖をついて外を見ていた。周りには男女入り乱れた、楽しそうな声がする。しかしクラスメートたちは、彼女にとっては影のようなものに感じられた。
 もともと、ありさは女友達との付き合いが苦手だった。『なんでも一緒に行動し、考える』ことにも、『仲良し』という名の閉じた無関心な集団たちにも、なんとなく違和感を覚え、独りのほうが気楽だと感じていたゆえもある。ただそれでも、中等科の頃には、時々言葉を交わしあう友人はいた。少し窮屈な気がして、『仲良し』の輪に入ったことはなかったが。今のように、周りを取り巻く人たちが完全に引いてしまったのは、継母のせいだ。たぶん最初のきっかけは。

 三年前の秋、桃香を失ってから、継母は少しずつ正気をなくしていったように見えた。最初の一か月は、瑤子は寝室にこもって食事もとらず、ただ泣き続けていた。トイレやお風呂に行ったのも、ありさは見たことがなかった。もっとも継母の方で顔を合わせないように行ったのかもしれないが。いや、前者はともかく、後者は本当になかったのかもしれない。あまりに衰弱したので、父は彼女を病院に入れた。
 二週間の入院後、戻ってきた瑤子は、今度は娘の死を受け入れることを拒否しているように見えた。『桃ちゃんはまだ生きている。どこかにさらわれているのよ。探して!』と口走って、外に飛び出しそうになる。実際飛び出して、あの森の近くの家に押し入りそうになり、警察に保護された。そののち、今度は精神科に措置入院となった。
「一過性のものでしょうから、いずれ落ち着くと思いますが」と、医師は告げた。
 二か月ほど、投薬とグリーフ・カウンセリングを受けて退院してきた継母はいくぶん落ち着きを取り戻したようだった。だが、『ありささんの存在が気になってしまう。私の娘は死んだのに、と思うと苦しさと悔しさがこみ上げてしまって』という訴えに、継母がさらに落ち着くまで、ということで、ありさは三か月ほど父の弟、健の家に世話になった。

 ありさが家に戻って一か月ほどは、何とか平穏に過ぎたが、ある日学校から帰ってみると、継母が真っ青な顔をしてリビングのソファに座っていた。
「どうして黙っていたの?!」
 ありさが部屋に入るや否や、そんな言葉が激しい勢いで飛んできた。
「どうして桃ちゃんを、あんなところへ連れて行ったの?! なぜ、あの子があそこへもう一度行きたいと言った時、止めなかったの?! あの子がいなくなった時、どうしてすぐに行ってくれなかったの?! どうして?!」
「お継母さん……」
 ありさはすぐには言葉が出なかった。血の気が引くのを感じた。
「どうして……わかったの?」
「昼間、刑事さんが見えて、桃ちゃんのことは事故だって……事件性はないという判断になったって。そこで、『お姉さんの言うお友達、というのが気になって、いろいろと調査をしてみたのですが、どうやら存在しないようで』と。どういうことですか、と聞いたら、話してくださったのよ」
 継母は青ざめた顔で、ありさの前に立った。
「どうしてなのよ! 説明しなさいよ! あなたはあの子が邪魔だったの?! 自分が可愛がられなくなるから!?」
「そんなはずない!」ありさは思わず声を上げて反駁していた。
「わたしも桃ちゃんが大好きだった! 本当に愛しい妹だったわ!」
「嘘よ! だったらどうして、あの子をあんなところに連れだしたのよ! どうしてそそのかしたのよ!」
「桃香が行きたがったのよ!」
 ありさはこみ上げるものを押さえきれず、叫んだ。
「あの子は、学校裏の山へ行きたいって言った。だから連れて行ってあげたの。とっても喜んでたわ。それで、ふもとの森へも行きたいって言って――お継母さんは何でも、ダメダメ言いすぎるのよ! 桃ちゃんが本当にやりたいことを、一つも許してくれない。だからわたしたちは、こっそり行かなければならなかった。おまけに二人で出かけるのも許してくれなくなったから、学校帰りに一人で行くしかなくなってしまったのよ! もしちゃんと許可してくれたなら、わたしが連れていってあげられたのに!」
 継母は真っ蒼な顔でぶるぶると大きく震え出した。
「私が悪いと言いたいの?! いい加減にしてよ! あなたが……あなたが……」
 瑤子はつかみかかってきた。ありさは抵抗し、身をかわして突き放すと、追いかけてくる。ありさは玄関に向かい、靴を履いて飛び出した。学校帰りで財布はポケットに入っていたため、駅へ向かい、電車に乗った。あの家で父が返ってくるまで継母の二人でいるのは耐えられないし、身の危険すら感じた。
 気がついたら、健叔父の家の玄関に立っていた。健は妻の美幸と二人暮らしで、子供はいない。二人ともに仕事を持っているので、家には誰もいなかった。ありさは玄関ポーチにうずくまり、待っている間に父の会社にメールを打った。

 その後、ありさは再び伯父夫妻の家に二か月ほど世話になった。その間に継母は復讐のような行動を起こした。ありさの学校の廊下や教室に、『人殺し』『三年C組の常盤ありさは、妹を邪魔に思って殺した』というようなビラが頻々と貼られ、それでなくとも普段から『あの子はお高く留まっている』と、一部のクラスメートたちの反感を買っていたありさを学校で孤立させるのに、充分すぎる効果を発揮した。さらには校舎の裏で男子たち四人に襲われ、あわや暴行されそうになった。見かけた誰かからの通報で担任が駆けつけ、間一髪のところを救われたが。その時、その加害生徒たちが『襲ってくれと頼まれた。それぞれに二万円もらった』と告白した。写真を見せて判明した、その依頼者は瑤子。中傷ビラを貼ったのも、継母の仕業だった。
 警察からその事実を聞かされて、さすがに父も、再び継母を入院させるしかなかったようだった。以来瑤子は、彼女の姉である博子の夫の親戚が経営している病院に、入退院を繰り返している。三か月入院して一か月間は系列の療養型施設に移し、また病院に戻る。そうやって二年が過ぎていった。半年前に父は仕事の関係でインドネシアに赴任し、ありさはこの家に一人残った。あと二年半は、父は帰ってこないだろう。電話やメールで話すことは可能だが。


 ありさは学校の机に置いたままの紙を、取り出して眺めた。進路希望用紙――明日が提出期限だが、そこには何も書かれていない。わたしは何がしたいのだろう。いずれ、やりたいことは見つかるのだろうか。それまでとりあえず他のみなのように大学へ行き、学生生活を送るのだろうか。中高一貫で、継母の中傷に毒された今の学校と違い、大学へ行けば彼女を知らない人も多いだろうが――でも、同じ学校の人が一人でもいれば噂は広がってしまう可能性があるし、そうでなくとも、なんとなく『仲良しの輪』になじめない自分の性格では、さほど変わらない日々が続くのだろう。

 学校が終わると、ありさは隣接する山に登った。ここの頂上から、町を見下ろすのが好きだった。一度は、せがまれて妹を連れて行った。でも、桃香が死んでから、ありさはここに登るのをやめていた。あの時はしゃいでいた桃香の姿を思い出すから、その後探検に行った麓の森、その中で妹が命を落としたことも、その悲しみも、喪失感も、さらには理不尽な継母の怒りや家族がつきとされた混乱も、すべて思い出してしまうから。
 でも今は、登りたいような気がした。自転車を麓に止めて、山道を歩き出す。一人暮らしのありさには、多少帰りが遅くなっても、心配してくれる人はいないだろう。少し速足で登り、三十分ほどで山頂に着くと、石の上に腰かけて下の景色を見た。
 ありさの住んでいる町が眼下に見える。自分たちの家も。あの時とほとんど同じ眺めだ。駅前にできた大きなマンション以外は。悲しみの小さな塊がのどの奥に着き上げてきて、ありさは立ち上がった。いや、ここじゃない――灌木と小さな道を超え、反対側に出る。眼下にあの森が見える。『淵が森』
『あの森には鎮守様の祠を祭っていると聞いたことがあります。古い言い伝えですが。でも今は、その祠はないんですよ。淵が森という名前は、その祠のそばにこの世の淵――割れ目があるという意味だとか。まあ、今まで神隠しとか迷子とか、起こったことはないんですがね、あの森では』
 桃香が失踪した時、捜査してくれた警官の一人、もうすぐ退職という年配の巡査が、父とありさにそう語っていたのを思い出した。
『祠はない……それなら、ご神木もないですか?』
 ありさはそう問い返した。
『ご神木?』
『注連縄を蒔いた大きな木が、森の中ほどにあったんですが』
『いや……聞いたことはないですな』
 桃香を探しに中に入った警官たちも、誰一人として見たとこはないという。それなら、自分が見たのは何だったのだろうか。桃香は午後森の中に入ってから、翌日の明け方に命を落とすまで、どこにいたんだろう。妹が言っていたお友達、『みどりちゃん』とは、いったい何だったのだろう。まさか本当にあの森にはどこか違う世界へ続く裂け目があり、妹はそこを超えていったのだろうか――。
 ありさは立ち上がり、山を下って森の中に入っていった。本当にあのご神木が中心に立っている広場がなかったかどうか、探してみたい。多少遅くなってもかまわない。日が暮れるまでは。どのみち今の彼女に、心配してくれる人などいないのだから。
 探して探したが、どうしてもそこにたどり着くことはできなかった。妹の命を奪った池を見るのもつらかった。木漏れ日が、微かに火の色を帯びている。夕方になってきた。ありさは空を仰いだ。濃い木々の緑の間に、オレンジ色がかった光が舞う。ふっと、記憶に今朝の夢がよみがえってきた。子供のころから何度も見る、『森の中で迷う夢』
 あの夢はいつも、広場にあふれる光で終わる。あれは『聖域』なのだろうか――あれは古い記憶なのだろうか。それとも、想像の中の世界なのだろうか。

――母の国へ行ってみよう。そんな思いが、ありさの心の中に落ちてきた。そうだ――わたしもこの国を離れたら、何か見えてくるのかもしれない。心の奥に潜む記憶と、夢と、そして妹の死の真相も。そんな思いを強く感じた。高校を出たら、母の国へ留学できないだろうか? そうだ。ありさはまだ二つの国籍を持っている。日本と、カナダと。留学生ではなく、普通に向こうの大学に進学することは、可能ではないだろうか。
 ありさは学校の英語の成績は、それほど飛び抜けて優秀ではない。特に文法とスペリングは苦手だ。リーディングもそんなに得意ではない。だが、話すことと聞くことは、生まれてから四年間に染み付いた、本能なのだろうか。クラスの他の生徒たちより、はるかに楽にできるようだ。高校を卒業したら半年語学学校に通い、九月に現地の大学に進学する。それは十分可能かもしれない。ありさが日本を離れれば、継母ももう少しは落ち着くのかもしれない。家に帰って憎いまま娘と鉢合わせしなくても済むなら、心の安定にはプラスだろう。それも理由の一端ではあるが、でももう一つの自分のルーツを知ってみたい、心に巣くう夢の真実を解き明かしたい。その思いの方が強かった。

 家に帰ると父にメールし、自分の考えを伝えた。夜、寝る間際になって、父から返信が来た。
『おまえの好きなようにするといい。費用の心配はいらない。私もいま日本を離れているので、手続きなどはできないが、おまえ一人でやれるのなら。学校の先生とも相談して、そのためにどうしたらいいのか、何が必要なのかを聞いておきなさい』
 こんなメッセージも、追加で入ってきた。
『お祖母ちゃんが住んでいた離れの押し入れの中に、緑の箱がある。おまえがバンクーバーからここに来た時、持ってきたものだ。見てみるといい』
 もうパジャマ姿になっていたが、ありさは懐中電灯を手に母屋を出て、祖母が住んでいた離れに向かった。離れは祖母が亡くなった後もそのままになっていて、電気も通っている。ありさは電灯をつけ、二間続きの和室の奥にある、押入れを開けた。かび臭いような、ほこりっぽいにおいがした。祖母のものだった古い道具たちの奥に、たしかに平たい緑の箱がある。ありさはそれを取り出し、開けてみた。そしてあっと小さく声を上げた。
 そこには何枚かの写真と、古ぼけた人形が入っていた。黄色の毛糸でできた髪に、フェルトの緑帽子。緑の服を着ている。夢の中で抱いていた人形だ。古い写真の中に、この人形を抱いている幼い自分の姿があった。その隣の、色の濃い金髪を首の後ろで束ね、折り返して頭に留めつけたスタイルで、笑みを浮かべる女性。その写真の面影が、おぼろげな記憶の彼方からやってきて、重なった。
「ママ」
 思わず呟きが漏れた。のどの奥から名状しがたい思いがこみ上げ、涙が一筋こぼれた。半分の空白が、少しだけ埋まったような気がした。
 ありさは人形を手に取り、じっと見つめた。その人形の顔は、夢の中からいつも自分を見返していた顔だ。言葉がひとりでにあふれるように、唇から洩れてきた。
「みどりちゃん……」




BACK    NEXT    Index    Novel Top