EVERGREEN : 常盤の守護精

第一章 追憶 (2)




「わぁ!」
 丘の頂上に着くと、妹は歓声を上げていた。五才の桃香の足でも、一時間もかからずに登れるほどの高さではあったが、町がよく見晴らせる。頂上付近には大きな楠が二本生えているだけで、短い草が茂る広場のようになっていた。
「いい眺めでしょう? わたしはここから町を見るのが好きなのよ」
 ありさはビニールシートを広げ、妹に笑いかけた。
「疲れたでしょう、桃ちゃん。ここでお昼にしましょう」
「うん。くたびれちゃった。ちょっとね」桃香はシートの上に座りこんだ。
「ああ、座っても、良く見える! それに、お空が近くなったみたい」
「そうね、ちょっとだけね」
 ありさは微笑し、空を見上げてから、傍らに座っている妹を見やった。桃香は髪の毛を二つに分けてピンクのリボンで結び、ピンクギンガムのワンピースを着ている。丘を上っている間中、妹が服を潅木に引っ掛けて破いたりしないか、スカートに泥をはねたりしないか、内心心配しながら登ってきたのだった。さすがに靴だけは継母がはかせた茶色の革靴では、山登りは無理だと最初からわかっていたので、ありさはこっそり桃香がいつも庭ではいている運動靴を、持ち出していた。
 二人が公園に行きたいと言った時、継母は最初自分もついていくと主張した。『大丈夫』と、何度言ってもきかなかった。どうしようか、無理かな、と妹と顔を見合わせたものだが(実際、それで流れた二人の秘密の計画も、かなりあった)、しかし幸いなことに、この時には当日、瑤子に用事ができたのだった。彼女の高校時代からの友達が集まって、ランチをするらしい。
 継母はその日の朝、二人にランチボックスを持たせた。「本当に頼むわよ」と、ありさに念を押しながら。バスケットにつめたサンドイッチ、フライドチキン、スティックサラダ、皮をむいたりんご。水筒に入れた麦茶。継母の作ったそのお弁当を、濃いピンクチェックのレジャーシートの上に広げた。
「あれが、あたしたちのお家?」
 桃香がサンドイッチを食べながら、うれしそうに指をさした。
「そう。わりと大きいし、木が多いから、目立つでしょう?」
「うん。お池と、おねえちゃんとあたしの木も見える」
 桃香はお弁当を食べ終わると、首を傾げて言い出した。
「ねえ、あたし、お庭にある健おじちゃんの樅の木に、今度のクリスマス、飾ってみようかなって、ちょっと考えたの」
「ああ、クリスマス・ツリーにね。そうね。もちろん──あのままででしょ?」
「うん。お庭にツリーが、生きてる本物のツリーがあったらすてきだなって、思ったんだ。でも、さっき思ったの。木は、いやかなぁって。ライトとか、熱いかもしれないし、飾りだって、重いでしょ」
「うーん、そうねえ。木にとってみれば、邪魔かもしれないわね」
「そうよね。だから、やめた」
 桃香はランチを食べ終えると、ウェットティッシュで手をふいた。ありさはバスケットを片付け始めた。
「ねえ、おねえちゃん」
「なあに、桃ちゃん?」
「向こう側は、何が見えるの?」
「えっ?」
「お山のこっち側じゃなくて、向こう側」
「ああ、反対側ね。そうね──わたしは見ていないけれど、隣の村じゃないかしら」
「そっち側も、みてみたいな」
「じゃあ、行ってみる?」
 二人はシートをたたむと、楠を回って、反対側へと出た。そこは、町の側より少し狭い広場のようになっている。その下には、また別の風景が広がっていた。収穫の終わった水田は、一面の茶色と黄金色の絨毯のようで、その間を縫うような灰色の道と、点在する民家の屋根。丘のふもと付近は、ひときわ緑の濃い森のようだった。
「あっち側へ、行ってみたいな」桃香が言い出した。
「無理よ。向こう側へなんて行ったら、帰るのにまたここを登って降りなければならいないじゃない。遅くなってしまうし、第一桃ちゃんの足じゃ、無理だわ」
「え〜っ」
「それに、向こうへ行っても、おもしろそうなものなんてないわよ。田んぼと森だけ」
「あの森へ、行って見たいの」桃香はふもとを指差した。
「どうして?」
「あそこの真中に、大きな木があるでしょ?」
 妹の指差す方を見ると、たしかに森の真ん中付近に、ひときわ高くそびえる、太い木があった。森のほかの木々にくらべ、倍くらいの高さがありそうな巨木だ。
「ええ、でもあれがどうしたの?」
「あれ、トロロの木かもしれないよ」
「トロロ? ああ、アニメのね」
 ありさは頷いた。桃香のお気に入りのアニメだ。
「でも、あれはお話でしょう? あそこには、いないんじゃないかな」
「おねえちゃんには、見えないかもね。もう大きいもん」
「うん。ちょっとつらいかな。まだ大人じゃないけれど、子どもとも言えないものね」
 十三才とは半端な年だと思いながら、当時のありさは苦笑して頷いたものだ。
「ねえ、おねえちゃん、お願い!」
「うーん‥‥」
 桃香に再三せがまれ、ありさは考えながら時計を見た。もうすぐ一時。たしか丘の向こう側からこっちの町まで、一本大きな道が通っていて、バスも走っている。もう少し、冒険してみるのも、悪くないかもしれない――ありさ自身も今まで行ったことのない丘の反対側、隣の町とふもとの森に興味をかきたてられていた。
「じゃ、行ってみようか!」
「うん!」桃香はうれしそうに頷き、ありさの手をつかんだ。
「早く行こうよ、おねえちゃん!」

 丘を降り、勾配が平らになると、細い道が森へと続いていった。中は思ったより木々が生い茂り、薄暗い感じがした。重なり合った葉っぱの間から覗く青い空、金色の糸のような木漏れ日──
 あの夢の感触が、よみがえってきた。子供のころから今まで時々見る、森の中で迷う夢。空気は違う。木も違う。でも森の匂いと木漏れ日、少し湿った落ち葉の感触は、良く似ている。
「あっ!」
 不意に桃香が小さな声を上げて、立ち止まった。じっと森のある一点を、見つめている。何かいるのだろうかと思って、ありさもそっちの方向を見たが、木と木の間に少し広めの空間があるだけで、草と木の他には何も見えなかった。が、妹はそこの一点を見つめ、そちらに一歩踏み出して、何か言いかけている。
「どうしたの、桃ちゃん?」
 問いかけてみたけれど、返事もしない。ただ、じっと前を見ていた。そして不意に声を上げた。
「あっ、ねえ、待って──」
 桃香は突然、今までつないでいた姉の手を離して、走り出した。
「あっ、ちょっと!」
 ありさは一瞬その場に立ちすくみ、ついで妹の後を追いかけた。桃香は道からそれ、潅木の茂みの中を、どんどん入っていく。立ち木の枝にワンピースが引っ掛かり、バリっと音を立てて裂けた。それでも、桃香は走っていく。ありさの脳裏に、継母の顔がちらついた。ああ、家へ帰ったら、なんて言い訳しよう。道をはずれると、思ったより走りにくい。
「きゃっ!」
 潅木の根に足を取られ、ありさは地面に手をついた。ジーンズの膝が引っかかって破け、皮膚も破れたようだ。血がにじんできた。手にも少々擦り傷がついたようだ。しかし、妹は姉が転んだことにも気づかないようで、どんどん走っていってしまう。ありさはすぐに立ちあがり、手をはたく暇も省略して、再び後を追った。見失ってはならない。こんなところで、妹を迷子にしたら──それにしても、妹は何を追いかけているのだろう。あんなに夢中になって。ウサギか何かだろうか。それとも、本当に大人の目には見えない、この世のものならぬ何かが、彼女には見えたのだろうか。
 木々の向こうに、妹の姿は消えていった。ありさは一瞬ひやりとした冷たいものを感じ、だがそれでも妹が走っていったあたりをめがけて、足を速めた。
 突然、目の前が明るくなった。そこは小さな広場のような空間になっていて、真ん中あたりに、丘の頂上からも見えた巨木が立っていた。杉の木のようだったが、幹の太さは人が二人腕を広げてやっと抱えられるくらいであり、木のてっぺんは、下からでは見ることができないほどだった。幹の下のほうに、神縄がついていた。古いもののようだが、やはりこれは御神木だったのだろうか。
 巨木の向こうに、池があった。あまり大きくはなく、うっそうとした木にかこまれていたので、上からはよく見えなかった。水はすんでいるが、光があまりさしこまないため、全体は薄暗い。だが木漏れ日が入ってくるので、水面に細い金色の光がちらちらと反射して、なにか幻想的な雰囲気を感じさせた。
 桃香は、どこに行ったのだろう──ありさは見まわした。まさか、池に──? 背筋が凍りそうな予感を覚えて、ありさは近づき、どきどきしながら水面を覗きこんだ。水は底まで見える透明さで、小さな魚や水草が揺れているのが見える。しかし、水面はしんと静まり返り、さざなみ一つない。もちろん、妹の姿も見えなかった。
 ありさはほっとしてきびすを返し、もう一度木の中へ踏み出した。森自体は、さほど広いものではない。妹の名前を呼びながら、三十分ほど森の中をさまよったあと、ありさは再び御神木のある小さな広場へと戻ってきた。
 桃香がそこにいた。巨木のふもとに立って、少し怪訝そうな表情であたりを見ている。髪の毛は片一方のリボンがほどけて肩に振りかかり、もう片方も半分くらい緩んで、髪の半ばほどにぶら下がっている。右の頬には潅木の枝でかすったらしい傷があり、ワンピースも右袖の中ほどと、スカートの裾が大きく破れていた。運動靴は泥だらけで、白い靴下にはいくつもの泥はねが上がっている。
 桃香は振り返って池を見、木を仰ぎ見ていた。そして、ありさと目があった。
「あっ、おねえちゃん」
「桃ちゃん!!」ありさは夢中で、妹のもとに走りよった。
「どこへ行っていたのよ! 一人で行っちゃうなんて! 探したわよ! ああ、ああ──でも、良かった! 見つかって!」
 ありさは妹を抱きしめ、安堵のあまり涙がでそうになった。今度こそしっかりと手をつなぎ、姉妹は森を抜けた。歩きながら、ありさは訪ねた。
「でも、どうして急に走って行っちゃったの? まさか、本当にトロロに会ったの?」
「ううん。トロロじゃなくてね」
 桃香はかぶりを振り、次いでにっこりとして答えた。
「あのね、あたし、お友達ができたの」
「お友達?」
「うん」
「どんな子? 森で会ったの?」
「それは、ヒ、ミ、ツ」
 桃香の眼には、少し照れたような、いたずらっぽいような、そんな光が浮かんでいた。「見えない人には話さないでって、言われたんだもん」
「え?」ありさは当惑と同時に、微かな胸騒ぎを感じた。もしや妹は変な人に声をかけられたのではないか、と。しかしあの時桃香が見ていた先にも、追っていった先にも、人らしいものは見えなかった。
「知らない人についていっちゃ、ダメよ」
 思わずありさはそう声をかけてしまった。
「ママもそう言うけど、それって、大人でしょ?」
「うーん、まあ、そうかもしれないけれど、それだけでもないと思うのよ」
 最近は自分と同じような年代の子でも、罪を犯すことがあるから――そんなことを思ったが、口には出さなかった。それではすべての人間に対して、信用ならないと妹に言うようなものだから。継母はたしかに、それに近いことを言っているが。
 森を抜けて幹線道路に出るころ、桃香は今出てきた場所を振り返った。
「みどりちゃんは、泣いているのかなあ……?」
「え?」ありさは思わず森を振り返り、そして妹の顔を見た。
「みどりちゃんって……なあに? お友達の名前?」
「んふ」桃香は再びあの、少しいたずらっぽそうな笑みを浮かべただけだった。
「その……みどりちゃんはわからないけれど、桃香のそのありさまを見たら、お継母さんは泣きそうね。わたしも泣きたい気分だわ。公園に行くって言ったのに、そんなに汚れたら、嘘がばれそうよ」
 改めて明るい光の中で見た妹の惨状に、思わずそんな言葉が出た。
「うーん」桃香は取れかけたリボンをほどき、髪の毛を完全に肩に垂らすと、手にしたピンク色のリボンを少し恨めしそうに眺めていた。
「片っぽ、たぶん、木に引っかかって、取れちゃったの。これ、好きだったんだけど──」
「服もビリビリよ。これもお気に入りだったんじゃないの?」
「うん。ホントはおねえちゃんみたいなカッコで来たかったのにな」
「仕方ないわね。公園にピクニックということだったから」
「あたし、オーバーオール着たいって言ったのに」桃香は口を尖らせた。
「お外ではトイレが大変だからって、お継母さん言っていたわね」
 ありさもかすかに苦笑を浮かべた。
 大通りに出ると、すぐにバス停があった。幸いなことに、それは家から歩いて十分ほどの駅に向かうバスの停留所だった。あまり本数は多くなさそうだが、十五分ほど待てばそのバスが来ると知り、二人は道の縁石にこしかけて待った。そして泥だらけになった妹の運動靴を脱がせ、最初に家を出る時に履いていた茶色の革靴に替えさせた。汚れた靴はビニール袋に入れ、バッグの下の方に突っ込む。あとでこっそり洗おう。
「おなか、すいちゃった」と言う桃香に、ありさはおやつにと持ってきた、継母手作りのカップケーキを出して、麦茶の残りをコップに注いだ。食べ終わる頃には、バスがきた。町へ向かうバスの中で、ありさは提案した。
「じゃあね、桃ちゃん。公園で転んだっていうことにしておきましょうよ。転んで植え込みの中に突っ込んでしまった、ということで、どう?」
「うん!」桃香はほっとしたように頷く。
 しかしそれでも──やはり継母は怒るだろう。ありさはいくぶん憂鬱な気分で、そう思ったものだった。公園へ行ったという嘘は見破られないかもしれないが、桃香をケガさせたということと、服を台無しにしたことで、ありさを責めるに違いない。言葉では皮肉たっぷりに二言、三言。それから長い間の、非難の眼差し──これから桃香をどこかへ連れ出すというのも、良い顔をしなくなるかもしれない。
 ありさは、ため息をつきたい思いをこらえていた。
 
 案の定、桃香の様子を見た瑤子は顔色を変え、「桃ちゃん! その恰好は、どうしたの?!」と、広い庭を超えて周りにも響きそうな声を上げていた。公園で転んで灌木に突っ込んだ、という嘘は疑われなかったようだが、ありさは有言無言の叱責を受けた。『桃ちゃんを走らせたのね。そうでなければ、転んで灌木になんて突っ込まないわ』『あなたはもう少しちゃんと見てくれると思っていたのに』『あなたを信用していた私がバカだったわ』――そして向けられる、非難を込めた眼差し。それ以来、継母は二人だけでの外出を許してくれなくなった。桃香はそれに対し、がっかりしたような、どことなくイライラしたような態度をしばらく垣間見せていたが、一か月ほどたった頃から、落ち着いてきたようだった。そして日常は続いていった。
 
 翌年、桃香は聖邦学園初等科の試験に合格し、四月から学校に通い始めた。瑤子は毎朝娘のために、早起きしてお弁当を作っていた。ありさのお弁当も、以前から作ってくれていたが(『継母だから冷たいなんて、言われるのは嫌ですからね』と、言っていたことがある)、桃香用のそれは、比較にならないほど手が込んだ、きれいなお弁当だった。そして瑤子は『初めて電車通学をするのよ。心配だわ』と、学校の最寄り駅まで、いつも一緒に行っていた。そこから学校への一本道を歩いていく娘の後ろ姿を見守り、そして帰っていく。帰りも学校が終わる時間に合わせて、駅まで迎えに行っていた。桃香には間もなく友達ができたようで、理沙ちゃんとれいなちゃんというその二人と一緒に、駅からの道を歩いていっているようだった。
『ママがいつも来ているの、恥ずかしいから、来ないで』と、五月の連休が明けた後、桃香が言いだし、『おまえも、いい加減過保護すぎるぞ』と弘にも注意されたこともあって、学校側の駅改札を一緒に抜けるようなことはせず、改札を出て行って友達に合流する娘を、改札の内側から見守っていたようだったが。

 その年の夏休み、珍しく弘にまとまって一週間の休みが取れた。
「桃香も小学校に上がったことだし、初めての夏休みだ。家族でどこかに遊びに行こう」
「そうね。夏休みの宿題に絵日記があることだし、何か思い出を作らせたいわ」
 瑤子は嬉しそうに表情を輝かせ、そう同意していた。
「どこがいい、桃ちゃん? どこに行きたい? 遊園地? 海? 山? それとも思い切ってハワイなんかもいいかもしれないわ」
「うーんとねえ」桃香も嬉しそうな表情で天井を見上げ、そして答えた。
「木がいっぱいあるところが良いな。あと、お花畑や野原なんかがいい」
「ありさは?」父はこちらに目を向け、穏やかに問いかけてくる。
「星がきれいなところがいいわ」
 ありさはそう答えた。この家に来てから、家族旅行に行ったことは今までにない。これが初めてだ。その期待と嬉しさに、彼女の胸もまた弾んでいた。
「じゃあ、高原のリゾートなんかはどうだ?」弘はそう提案し、
「それも悪くはないわね。そうしましょう。ただ、ペンションとかではなく、いいホテルに行きたいわね」瑤子もそう同意していた。

 一家は八月の頭に、信州の高原リゾートホテルに五日ほど滞在した。牧場や花畑、遊園地、ファミリー公園などを訪れ、翌日は埼玉の家に帰るというその日には、近くの山にハイキングに出かけた。冬場にはスキー場に使われるそこに途中までリフトで上がり、ロッジで昼食をとった後、全長で一時間ほどかかるハイキング道を歩いていく。道は整備されてはいるがコンクリートではなく土で、道端には草が茂り、ところどころ花が咲いている。周りには木が多く、近くには渓流が流れ、手すりのついた木の橋がかかっている。空は青く、両側から茂る木の緑は輝いて見えた。
 桃香は母に手を引かれ、嬉しそうにその道を歩いていた。が、行程の三分の二くらいまで来たところで、彼女は急に立ち止まった。
「どうしての、桃ちゃん?」瑤子が怪訝そうに問いかける。
 しかし桃香は返事をせず、ただ道の脇に茂る木々をじっと眺めていた。その表情に、ありさは見覚えがあった。山向こうの森に二人で行った時、妹はこうして立ち止まって見ていた――
 アッと思う間もなく、桃香は母の手を振り離して、木々の中へと飛び込んでいってしまった。呆気に取られていたであろう父母よりも早く、ありさは行動を起こした。
「待って、桃ちゃん!」
 そう叫んで、妹の後を追いかけようとした。整備された道と違い、脇にそれると木と下草、背の低い灌木が入り乱れ、歩きにくい。後ろから継母が、そして父が追いかけてきているようだ。同じように叫びながら。
 あの時と同じように、木々の枝が頬をかすめ、石や草が足を躓かせた。妹の姿はその先にかすかに見えていたが、やがてまた見えなくなった。ありさは立ち止まり、後から来た弘と瑤子に告げた。見失ってしまったと。
 瑤子は恐慌状態になった。言葉にならない言葉を発し、さらに奥へ入っていこうとする。それを弘が制した。
「待ちなさい。あまり深入りすると、私たちも迷子になる」
「何を言っているのよ! 桃ちゃんがどこかへ行ってしまったのよ! 迷子になっているのよ! 探さなければ!」
「わたしが探してくるわ」
 ありさは奥に踏み出しかけたが、やはり父に止められた。
「おまえもだ、ありさ。とりあえず来た道を引き返して、元のハイキング道に出よう。そしてここの管理者に連絡して、桃香を探してもらうんだ」
「そんな悠長なことを!」
 すっかり取り乱した様子の継母の手首を握り、父は強い口調で言った。
「こういう場では冷静にならなくてはいけない。それが最善なんだ。大丈夫。ここはそんなに危ない地形じゃないはずだ。地元の人なら、きっと桃香を見つけてくれる」
「……桃ちゃんに何かあったら、一生あなたを恨みますからね」
 瑤子はぽつりと言ったが、その口調にありさは背筋に寒いものが走るのを感じた。

 それからの二時間はとてつもなく長く感じられたが、幸い探しに行った施設のレンジャーさんたちによって、桃香は無事に発見された。木が少しまばらなエリアの倒木の上に、少し困ったような顔で腰を下ろしていたという。
「ちょっと灌木でこすった傷はありますけれど、元気ですよ」
 そんな言葉とともに桃香が連れてこられた時、ありさは心の底から安どのため息をついた。瑤子は飛びつかんばかりにして娘を抱きしめ、叫んでいた。
「どうしたの、どうしたの、桃ちゃん! どうして勝手に道をそれて行ってしまうの! どんなに心配したか、知れやしないわ!!」
「ごめんなさい、ママ」
 桃香は神妙な様子で謝っていた。その頬には木でこすったようなひっかき傷があり、手にも擦り傷があったが、さすがにハイキングコースを歩くため、長そでの白いチュニックとピンクのズボン姿だったから、腕や足に傷はないようだ。チュニックはかなり汚れていて、ズボンの膝も擦ったような跡があったが。
「なんだか、珍しい動物を見たような気がして、追いかけた、とお嬢ちゃんは言っていますよ」桃香を見つけてくれたレンジャーの人が、慰め顔でそう言葉をかけていた。
「小さい子には、あるんですよね。興味を引かれたものを追いかけてしまう」
「ありがとうございました。本当にご迷惑をおかけしました」
 父は施設の人々に頭を下げ、謝礼に「みなさんで飲んでください」と、「酒代」と記した封筒を渡していた。
 その夕方、ホテルの食堂で食事を待っている間に、瑤子は娘に怖い顔を作り、「もう本当にこんなことはしないでね。生きた心地もしなかったわ」と低い声で言った。桃香も神妙な顔をして、「うん。もう絶対しません」と頷いていた。
「まあ、桃香が無事でよかった。ところで、いったいどんな動物をおまえは追いかけようとしたんだい?」弘は苦笑いを浮かべながら、問いかけていた。
「うん」桃香は答える前に、ちょっと黙った。その表情を見て、ありさは気づいた。妹のその表情、それは山向こうの森で妹を見つけ、『どうして行っちゃったの?』と問いかけた時、妹が見せたその顔だったのだ。
「野うさぎ。だと思う」そう答えて、桃香はちらっと上目遣いに、ありさを見た。姉の胸の中によぎった思いを気付いているかのように。
「たとえどんな珍しいものを見たとしても、たとえゴクラクチョウやユニコーンが現れたとしても、いい、もう二度と勝手にどこかへ行ってはいけませんよ。ましてや、野うさぎだなんて」瑤子は再び深いため息をついてそう諫め、
「うん、ごめんなさい。もうしません」と、桃香は繰り返していた。

 家に帰って一週間がたった頃、朝、一緒に庭で水撒きをしながら、ありさは妹に問いかけた。
「ねえ、桃ちゃん。信州で勝手にどこかへ行った時――」
「うん、みどりちゃんが見えたの」
 桃香は姉の言おうとしていることをわかっているように、頷いた。
「みどりちゃんはあの森にいるのじゃないの? なぜ信州に?」
「わからない。でも、夢でも見たのよ」
「みどりちゃんって、誰?」
 その問いを、ありさはもう一度問いかけた。
「それは、ヒミツ」
 妹の答えは、同じだった。そして再びあのいたずらっぽいような表情で、ありさを見た。
「おねえちゃんにも見えたら、教えてあげる。あっ」
 桃香は目を輝かせ、目の前のバラの茂みを見た。
「お花が咲いてるよ!」
「あら、本当ね。このバラの茂みはお祖母ちゃんが死んでから、ずっと花が咲かなかったのに。桃ちゃん、ずっとお花を咲かせてねって話かけた。良かったわね、本当に」
 ありさも目を向けた。濃淡ピンクの、少し小ぶりなその花が、三年ぶりに開いたのだ。いくつかの小さなつぼみも見える。祖母の死後、一時期枯れかけていたレモンの木も、一年ほど前に勢いを取り戻し、今年は五つほど実をつけていた。
「下村さんも驚いていたわね。このお庭は普段わたしたち二人で手入れをしているだけなのに――こうして水やりをしたり、草をむしったり――今はお祖母ちゃんが生きていたころのように、木も花もみな元気になっているっって。だからうちに手入れに来るたびに、びっくりするって言っていたわよ」
 夏の日差しは強く、日の光に水がきらめいて見えた。ありさの好きなその光景は、また妹も愛しているようだった。
「夏は日差しが強いから、庭木がみな咽喉を乾かしているんだよって、昔お祖母ちゃんが言っていたわ。だから、水をやると喜んでいるようだって」
「うん。喜んでいるよね」桃香もにっこり笑っていた。
 リビングの窓から見ている瑤子の視線は、できるだけ意識しないようにした。継母はいつも娘たちが水撒きをしている時、リビングの窓に立って見ているのだ。二、三度振り返って目が合った時のその視線は、驚くほど険しかった。姉妹が仲良くすることを、継母はあまり好まないのだろうか――漠然とありさは、そんなことを考えたものだ。

 事件が起こったのは、十月初めのことだった。その日、いつものように瑤子に最寄り駅まで送られて学校に行った桃香は、帰る時間になっても、迎えに来た母の前に姿を現さなかった。学校の方針で、駅までの道は保護者なしで、自分で歩くよう定められているため、瑤子も駅までしかついていかれないのだが、普段は学校のお友達、葛城理沙と須郷れいなという二人の女の子と駅で合流し、歩いていく。帰りも同じだが、葛城理沙は駅まで母親が車で送迎に来るし、須郷れいなは駅前からバスに乗るため、二人とも駅舎には入らない。二人と別れた桃香が一人で駅構内に入ってきたところで、待ち構えていた瑤子が改札から出てきて娘を迎え、一緒に帰るのが常だ。
 学校の時間割も連絡プリントもくまなく目を通している瑤子は、娘の終業時間を把握していた。今日は四時間目までで、お弁当を食べて、お掃除をして帰るので、駅に着くのは一時四十分ごろ――だが、一時半に駅について、改札の向こうに目を凝らす瑤子の前に、桃香が現れることはなかった。二時になっても、二時半になっても。心配のあまりだろう、瑤子は学校に電話をかけた。
「一年雪組の常盤桃香ちゃんですか? 終業後、いつものようにお友達二人と帰りましたよ。校門であいさつをして」
 瑤子は、ついで友達二人の家に電話をかけた。
「桃ちゃんとは、いつものように駅で別れました」葛城理沙は無邪気な口調で言い、
「なんか桃ちゃん、今日はご用があるから、バスで帰るって言っていました」と、須郷れいなは答えたという。桃香がどのバスに乗ったのかはわからない、れいなは自分の乗るバス停に行ったから、と。だから、彼女と一緒のバスではないことは確かだけれど、と。
 自宅の最寄り駅から学校の最寄り駅を結ぶバス路線も、なくはない。かなり大回りだが。娘はそれに乗って帰ったのかもしれない――そう思ったのだろう。瑤子はすぐに家に帰ったが、桃香は戻っていないようだった。四時半前にありさが帰宅した時、彼女が目にしたのは、取り乱し、心配しきった継母の姿だった。夏休みに信州で、桃香がハイキングコースをそれて樹林地帯に迷い込んでしまった時と同じ、蒼白な顔をし、いらいらと落ち着かなげに歩き回り、時折狂おしい叫びを上げ、首を振り、頭を抱える。
「ありささん、桃ちゃんがまだ帰ってこないの! お友達の話だと、あの子はバスに乗って帰ると言ったらしいのだけれど、それでもとっくに帰り着いているはずなのに!」
 ありさは思わず、はっと息を呑んだ。つい三日前に、二人で朝水撒きをしている時、桃香はこう言っていたのだ。『ねえ、おねえちゃん。いつか行った森ね、帰りバスに乗ったでしょう? あのバスって、どこからどこに行くバスなの?』と。その時には自分もそれほど気にはしないで、『たしか○○駅(自宅の最寄り駅)行きだったわよね。ちょっと調べてみるわ』と答え、スマートフォンで検索した結果を妹に伝えたのだ。『あら、○○駅と△▽駅(桃香の学校の最寄り駅)を結んでいる路線だわ。偶然ね』と。
――もしかしたら妹はそのバスに乗り、あの森の近くの停留所で降りたのではないだろうか。もしかしたら、あの森に行ったのだろうか――そんな懸念が湧いた。あれから何度も『もう一度行きたいなぁ』と言っていたから。やはり二人で水撒きをしている時に。しかし、それを継母に告げるのは、ためらわれた。あの日公園ではなく、丘とその向こうの森に行ったことは、継母には秘密なのだ。それを継母に告げると、きっとひどい非難が飛んでくるに違いない。しかし妹がそこに行って今も帰ってこないとしたら、何かが起きているのかもしれない――知らないふりはできそうにない。妹のことが心配だ――。
 二つの気持ちの中に、ありさは引き裂かれそうな気がした。




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