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本文へジャンプ 2005年 6月21日 

 

    霊瑞山(れいずいざん)
    光松寺
(こうしょうじ)
 
    宗 派  西山浄土宗(本山 総本山光明寺)
    御本尊  阿弥陀如来(脇士 観音菩薩・勢至菩薩)
    所在地  大阪府高槻市大手町2番47号
          (阪急高槻市駅南へ徒歩3分)


   
         
本堂(正面より)          山門


     由緒   
       
      伝え書きによると
      “元良元ノ結ビシ草庵ナリト言フモ記録詳ナラズ”
      とあるのですが、年号表を調べても不明です。
      (詳しい方、教えてください。)
      ただ、永禄年間(1558年〜)、
      高山右近の高槻城築城の歳に
      今の地を“代地”として賜り移転、
      とも記されております。
      その折りに、総本山光明寺の法主猊下・
      顕空登順上人を開山上人として迎え、
      西山浄土宗の寺院として教義を喧傳(宣傳?)された
      ということです。
      (このページの最後に載せた資料を、
       わかりやすい文章に直してみました。)


    
         
教育委員会【高札】      鐘楼(鐘突き堂)


       
また、高槻市教育委員会の【高札】には、

         光松寺は、霊瑞山深入院と号して西山浄土宗に属し、
         阿弥陀仏を本尊とする。
         寺伝によると、創建の時期等は定かではないが、
         往時には高槻城内にあり、元和年間(江戸時代初期)に
         行われた高槻城の修築・拡張工事に伴って、
         現在地へ移転したという。
         この門前は、城下唯一の寺町地区であり、
         周辺は新川之町と呼ばれた。
         道の中央に、都市排水を兼ねた川が東西に流れ、
         文字通り『川の街』であった。
         閑静な境内には、本堂や庫裏、鐘楼などがあり
         落ち着いたたたずまいから古き時代が感じられる。

        
と、記載されています。

         また、阪神大震災による被災で大屋根が傷み、
         平成8年より修復工事に着工した際、本堂の屋根裏から
        
『正徳3年(1713)再建本堂五間四面』
         第十二世一空・第十三世全空

         という板札が見つかりました。

         平成元年に、先代の暢空上人が発願された平成の大修理は、
         平成十年の大屋根修理完工を持って一応の区切りをつけ、
         同年四月二十九日、志半ばで平成五年に遷化(逝去)した
         父(先代)の跡を継ぐ私の晋山式も兼ねて、
         落成慶讃法要が厳修されました。

    
     庭より本堂を望む        庭より山門を望む


    
檀家総代様よりいただいた資料の原文。

      光松寺は大字高槻字船型にあり、霊瑞山深入院と號し、
      浄土宗西山派光明寺末にして、阿彌陀佛を本尊となす

      
當寺はもと良元の結びし草庵なりと謂えども、
      詳かならざるなり。
      始め城内にありしが、正親町天皇の永禄年間、
      高山右近友祥高槻城を築くに際し、経営區域地となりて、
      現在の所に代地を賜り、移転する時恰も、
      山城國乙訓郡粟生総本山光明寺の住持顯空登順上人
     (等順に作る)錫を移して、西山派の教義を宣傳したれば、
      四方信徒の帰依日に日に加はり、喜捨浄財自ら集りて、
      殿堂建立し、歴代住持益々発展して庫裡、観音堂、鐘楼堂、
      客殿、玄関、土蔵などを慚次増築して現在に至る。



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