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光松寺(こうしょうじ) 宗 派 西山浄土宗(本山 総本山光明寺) 御本尊 阿弥陀如来(脇士 観音菩薩・勢至菩薩) 所在地 大阪府高槻市大手町2番47号 (阪急高槻市駅南へ徒歩3分) ![]() ![]() 本堂(正面より) 山門 由緒 伝え書きによると “元良元ノ結ビシ草庵ナリト言フモ記録詳ナラズ” とあるのですが、年号表を調べても不明です。 (詳しい方、教えてください。) ただ、永禄年間(1558年〜)、 高山右近の高槻城築城の歳に 今の地を“代地”として賜り移転、 とも記されております。 その折りに、総本山光明寺の法主猊下・ 顕空登順上人を開山上人として迎え、 西山浄土宗の寺院として教義を喧傳(宣傳?)された ということです。 (このページの最後に載せた資料を、 わかりやすい文章に直してみました。) ![]() ![]() 教育委員会【高札】 鐘楼(鐘突き堂) また、高槻市教育委員会の【高札】には、 光松寺は、霊瑞山深入院と号して西山浄土宗に属し、 阿弥陀仏を本尊とする。 寺伝によると、創建の時期等は定かではないが、 往時には高槻城内にあり、元和年間(江戸時代初期)に 行われた高槻城の修築・拡張工事に伴って、 現在地へ移転したという。 この門前は、城下唯一の寺町地区であり、 周辺は新川之町と呼ばれた。 道の中央に、都市排水を兼ねた川が東西に流れ、 文字通り『川の街』であった。 閑静な境内には、本堂や庫裏、鐘楼などがあり 落ち着いたたたずまいから古き時代が感じられる。 と、記載されています。 また、阪神大震災による被災で大屋根が傷み、 平成8年より修復工事に着工した際、本堂の屋根裏から 『正徳3年(1713)再建本堂五間四面』 第十二世一空・第十三世全空 という板札が見つかりました。 平成元年に、先代の暢空上人が発願された平成の大修理は、 平成十年の大屋根修理完工を持って一応の区切りをつけ、 同年四月二十九日、志半ばで平成五年に遷化(逝去)した 父(先代)の跡を継ぐ私の晋山式も兼ねて、 落成慶讃法要が厳修されました。 ![]() ![]() 庭より本堂を望む 庭より山門を望む 檀家総代様よりいただいた資料の原文。 光松寺は大字高槻字船型にあり、霊瑞山深入院と號し、 浄土宗西山派光明寺末にして、阿彌陀佛を本尊となす 當寺はもと良元の結びし草庵なりと謂えども、 詳かならざるなり。 始め城内にありしが、正親町天皇の永禄年間、 高山右近友祥高槻城を築くに際し、経営區域地となりて、 現在の所に代地を賜り、移転する時恰も、 山城國乙訓郡粟生総本山光明寺の住持顯空登順上人 (等順に作る)錫を移して、西山派の教義を宣傳したれば、 四方信徒の帰依日に日に加はり、喜捨浄財自ら集りて、 殿堂建立し、歴代住持益々発展して庫裡、観音堂、鐘楼堂、 客殿、玄関、土蔵などを慚次増築して現在に至る。 【総本山光明寺】紹介のページへ トップページへ |
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