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本文へジャンプ 2005年 6月15日 

 



   長岡京市 粟生(あお)

    総本山 光明寺



       創建は建久9年(1198年)。

       光明寺の前身『念仏三昧院(ねんぶつざんまいいん)』は、
       一ノ谷の合戦で名をはせた熊谷次郎直実(熊谷蓮生法師)が、
       法然上人の弟子となり、
       堅田浮御堂より阿弥陀如来像を御本尊として迎え、
       法然上人を開山と仰ぎ、自らを第二世として誕生した。

       法然上人入滅(建暦二年・1212年)後、
       太秦に移された上人の石棺から光明が放たれ、
       粟生の地を照らすという不思議な出来事が起こり、
       遺弟(ゆいてい)たちは御遺骸を粟生の地へ移し、
       火葬の後、御芳骨を納めて御遺廟を建てた。

       この奇瑞(きずい)によって、四条天皇から【光明寺】の寺額を賜り、
       『念仏三昧院』より『光明寺』と改められた。
       また、後年、正親町(おおぎまち)天皇より、

       【法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門ノ根元之地ト謂(い)イツベシ】

       との倫旨(りんじ)も賜ることになった。

       境内1万7千坪。建物32棟。
       総門を入ると、通称女人坂(にょにんざか)と呼ばれる表参道が続く。
       登り切ると、正面に、
       法然上人の母君からの手紙を貼り合わせて作られた
       『張り子の御影(みえ)』を祀る【御影堂(本堂)】。
       隣には熊谷蓮生法師がお迎えした『阿弥陀如来像』を祀る
       【阿弥陀堂】などがあり、
       御影堂の裏手には法然上人の御芳骨を祀る【御本廟】がある。
       
       また、通称『もみじのトンネル』もみじ参道を登ると、
       法然上人の御遺骸を火葬した【御火葬跡】や、
       頬(ほお)に火傷(やけど)の跡のある『頬焼けの釈迦如来像』を祀った
       【釈迦堂】などを散策することも出来る。

       春の【桜】初夏の【新緑】、また、秋の【もみじ】と、
       一年を通じて美しい自然と触れ合うことの出来る閑静なお寺である。

       とくに、紅葉の名所として近年とみに有名になり、、
       平成14年には30万人を越える参拝者でにぎわったという。


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