Chapter.19_2「マニュアルを生かす技術、死なせる使い方」

  マク○ナルドで何万枚のハンバーグを焼いても、料理人になれるわけではありません。
  同じ事はケンタッ○ーフライドチキンでもいえます。


   これはマク○ナルドを馬鹿にしているのではありません。あくまでマニュアルとの関係です。
あのいつでも「さわやかな笑顔」や「お気をつけてお帰りくださーい」はつくりものなわけで、ほかの場面でもああいう「さわやかな態度」ができるわけではありません。 彼らは料理をしているのでもなければ、他人の帰り道を心配しているわけではないからです。 「マニュアルに従って動いている」だけなのです。(そういえば「世界一の作り笑い…」どこかで聞いたなー)と、これが「最も効率的かつ極端なマニュアル化」といえるのでしょうが…。

 マニュアルと組織の盛衰について考えてみると、マニュアルというのは「過去のさまざまな失敗をもとにうまくいく方法を誰にでもわかりやすくしめしたもの」、といえます。

ある時期組織にとって(個人にとっても)は絶対に必要なものです。必要ですがそれで十分ではありません。
 これをごちゃごちゃに考えてしまうところが「マニュアル派」の落とし穴となっています。


19-2-1 「マニュアル」は何を目指す?

  「マニュアルが目的になってしまった」
 :いつのころからか(マニュアルが厚くなりすぎたこともあるのでしょうが)、
 マニュアルの理解が(一生の?)目的になってしまった、ようなところがあります。
 作るほうも「つくること」自体が目的になったりしています。
マニュアルの本来の目的はそんなことではありません。以下マニュアルの目的です。

1)操作支援(操作を指示する表現はどうすべきか)
2)参照支援(情報を探しやすくする)
3)理解支援(わかりやすくする)
4)動機づけ支援(読んでみたいと思わせる)
5)学習・記憶支援(覚えるべきことを覚えやすくする)

マニュアルの5つの支援機能:海保博之:これはパソコンのマニュアルを想定して書かれたもののようです)

19-2-2 マニュアルは厚くなる?薄くなる?

   もっと単純に(その)マニュアルの目的(性格)を考える必要があります。
何のために?誰が、いつ読むことを想定して?と。
 また、マニュアルは「AからBへの最短距離をわかりやすくしめしているだけ」、という原則はいつも頭に置いておくことが必要です。
そうでなければ(私もそうなりがちですが)、マニュアル作成者の心理として、書き出すと、「親切心」と「完璧心」から、あれもこれもとどんどん追加していきがちです。 また、あとから「あれは書いてないじゃないか」という批判も受けたくないので、「殆どないよ」みたいな細かいことまで「知っていることを全部書きたいような心理
[1]」になります。

その結果、立派な、誰も読まない、棚を飾るマニュアルが出来上がります。作成者だけが時々それを眺めて安心・満足、というわけです。

で、「マニュアル」の性格ですが、

研修のテキストなのか、
職場のリファレンスなのか、
トラブルシューティングなのか、
思い出すためのメモなのか、
また
規則」なのか
SOP(Standard Operating Procedures:標準業務手順)」なのか、
といったところです。

 マニュアルの作成を通じて作成者自身が仕事や職場を見直すことによる成長を目的とすることも考えられます。
あれもこれもは駄目です。

 多くの場合目的が不明?無方針なところが一番問題です。
例えば、人工呼吸器にぶら下がっているシートはトラブルシューティングかメモです。
あれをコピーして自宅にもってかえって呼吸器を学ぼうと考えた人がいたらそれは大きな間違いです。

 またその組織における「知識・技術の必要度」?をランクづけることも必要かもしれません。

 SRKモデル(第12章参照)で言うと、
スキルベースで「身に付いていなければならない」知識や技術なのか、
ルールベースで決まったことが出来るようにすることが必要なのか、
ナレッジベースで考えながらする事が出来ればいいことか、というランク付けです。

 私自身は、例えば

新人に渡すべきもの仕事にでる前に(あるいは3ヶ月以内に)覚えておく必要がある必須のこと」
経験のある人向け思い出したり、再確認したりするためのもの」
誰でも、いつでも覚えておかなくてもいいが調べるときにどこにあるかわかっていればいい」もの
(テキスト・辞典みたいなもの)

位に分類すればいいと思っていますが。

 また、マニュアルは薄くなってもいいのですが、そのことと、前に書いたように正しいSOPが「改善」と称して省略されてしまうことを取り違えていることが問題です。

いずれにしても「know howよりknow why教育」が叫ばれる所以です。

19-2-3 マニュアルとその後

  (後日追加予定)


19-2-4 マニュアルの思い出

   実は当院でのマニュアル化推進のはしりはこの連載筆者(現在「マニュアル限定容認」派)の一人なのです。

 当時、ICUを拡大して救急患者の受け入れが多かった頃、看護婦さんがICUで使用する基礎的・具体的な知識をまとめたもの(集中治療や救急に関する医者のマニュアルもなかった)は 市販されていませんでした。

 患者が入るたびに医者に怒鳴られ、上の看護婦におこられ、婦長はピーピーするし、中間以下の看護婦は「わたしたちどうすりゃいいの?」状態でした。
ま、昔ながらの「身体で覚えろ」「習うより慣れ」という発想でした。


 ある年の新人教育グループに「新人用手引き」を作成することを提案しました。そのとき、
  「マニュアルというのは仕事をはじめるときの最低の知識であるべきこと(お勉強の資料ではないこと)」
  「言葉をはっきりとかくこと」
  「作成は(自分達の知識の整理もかねて)全員で(分担して)作成したほうがいい」
  「毎年、改定していくこと」
  「新人にそれを覚えさせるのに(病院全体の研修と別にカンヅメで)一週間研修(講義は各担当グループ)させること」
を提案しました。
そしてとりあえず、その通りにやったのです。

 ゼロからのマニュアル作りは大騒ぎでした。なにしろ市販のものがないのですから。
「写す」のでなく「普通の本」から自分達の組織にあったようにまとめなければならないのです。
「習慣」でやってきた(「うちではこうなのよ」と教えられてきた)手順が客観的にどうなのか?も検証されました。かなりの訂正・修正がなされたはずです。

 出来上がったものはもちろん手書きでコピー、(いまのようにワープロ・パソコンはほとんどなかったので)薄いファイル一冊ぶんでした (ファイルすら買ってもらえずメーカーから、一部に広告の入ったものを分けてもらいました)。

 しかし、作成過程にほぼ全員が参加したこと、そしてそれを研修期間中に担当個所を講義という形で教えこまなければならないことで、マニュアルをもらったほう(新人)よりも、 スタッフの成長は目を見張るものでした。

 なにせ新人に(聞かれて答えられなくてはこまるという、見栄もあり)新人への研修の前に(担当個所以外も)勉強をくりかえしていたのですから。 スタッフの一体感も上がっていたように感じました。このマニュアルは記念品としてとってあります。

 いまになって(失敗学の)畑村教授の「成長期の組織」(第8章-2内「組織とコンフリクト」参照) という表現はこういうことを言うのかなー、とわかるような気がします。 スマートにまとまっていない、みんなが口をはさむ、わいわいがやがやしている…。
おまけに上(婦長など)からの命令でやったのではなく、自発的に、勝手に始めたのでした。

*


 数年間は毎年改定が加えられていきました。
 「マニュアル化」は翌年から5階病棟でも作成され、それから院内へ広がりました。
そして「臨床に出る前にたたきこむ」という教育も同じように…。

 ところが担当者が次々かわった事もあり数年たつと「マニュアルだけ」で「教育」された世代が「係り」として 「教育担当」になってしまったのです。これは明らかにマネージメントの間違いですね。
 はっきりいうとどういうランクのスタッフをどこに配置するか、というのはその組織の価値観そのものです。
「教育担当」と「宴会係」が同じでいいのでしょうか。少し上になると「私は管理業務」然、とした組織体制になっていきました。

 やがて「間違って教育担当」になってしまった(本当は宴会係のほうがあっていた)仮名Tは「マニュアルがあると新人が勉強をしない」(?)と マニュアルをわたさない教育に切り替えてしまいました。
 ところが本当は自分の知識が「マニュアル以下」な事を隠し見栄を張るためのものだったのです。
それでもまだ少し上の知識のあるメンバーが残っていましたので日常の仕事はなんとかなっていました。


*          *


 その後マニュアルはもっと現場から離れたものになっていきました。
 マニュアルの制作・管理が病院全体の「○○委員会」になったのです。
現場で必要から作られたものが後追いの何とか委員会で「会議-会議-会議」の結果作られるようになり、立派なファイルの中に収まってしまいました。棚を飾っています。

 たしかにマニュアルのあり方として「何かあったときに調べる本」という機能はありますし、そういうものも必要でしょう。

 しかし当院での作成の経過を考えるときに「意味の違ったものになってしまった」という感は否めません。

 あのボロボロになったマニュアルをいつも持ち歩いていた新人看護婦たち、なぜか自分たちのマニュアルもくたくたになっていたスタッフ看護婦がいた時代を マニュアルのあり方や組織の年齢と結びつけて懐かしむのは単なるノスタルジーでしょうか。


*         *         *



 マニュアルすら?・・・と考えるとき「個人マニュアルや新人への教育」をなくしたことが悪いのか、「マニュアル化そのものの限界」なのかは解りません。
いまや、「マニュアルレベルに達していない」事こそが問題なのかもしれません。
「立派なマニュアル」はそろっている、何とか委員会は沢山ある、テリトリーもはっきりしている、 だから他人の分野に口を出すといやがられる、…、というのは(失敗学で言う)「衰退期の組織」の特徴そのものではないでしょうか。 (第10章内『「ゆるやかなクロスチェック」が行われている組織』をみて下さい)

まとめると…

 
1) マニュアルは(過去の失敗をもとに)「AからBへの最短距離をわかりやすくしめしたもの」である。
2) SOPを示したマニュアルは必要であるが、それで十分ではない。
3) 何への、誰のための、どんな場面の、何を目的とした…といった
  マニュアルの性格、目的をはっきりしたものにすることが必要。
4) 改訂は必要だが全体像を把握している者が実施しなければ危ない。「Know howよりknow why」教育。
5) HFからマニュアルやSOPを見ることがエラーや事故の防止につながる。


19-2-5 「マニュアル問題」の結論ではないですが
 
 ところで、「おまえ(たち)の担当している事故のマニュアルはどうなんだ!」という疑問・反論が当然あるでしょうが、本当に必要でしょうか?

 「正しいことを正しい手順で間違えないでやる」ということ以外ないでしょう(それはSOPです)。
「なぜまちがえるか?」という問題になるとそれはこの連載で主張していることです。 必要なことはSOPに正しい手順の一つとして組み込む、SOPそれ自身を見なおす、ことこそが必要です。

 改めてそのことだけにマニュアルを作る必要がないと考えていますし、もしつくっても膨大すぎて誰も読まないでしょう。あなたは読みますか?

必要なのは何度も言いますが「マニュアル」やSOPをHFからみなおす眼です。

 日常業務をHFの眼で見よう。そして「危険を予測したり」「エラーを誘発しそうなスレットやSOPを発見」し予防安全を考え(エラーの影響をチームとして対処しそれを軽減し) 「生き生き仕事をしよう」ようというのがヒューマンファクターエンジニアリングです。
 そしてこの「ヒューマンファクター事始v.3」を通じて私達が訴えていることでもあります。

 その「日常」のなかには、もちろん各種のマニュアルや慣習も含まれます。
 これはいわゆる合理化や生産性向上のための「改善」「kaizen」活動とは違います。

 いかがでしょうか?この連載に苦情、ご批判、ご意見を御願いいたします。
また、こんなことなら俺が(私が)書いたほうがいい、と思われた方はリレー連載を御願いします。

ご連絡はhuman_factor@excite.co.jpまで。

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[1] 逆に自分が知らない(不得意)ことは「必要ない」と思い込みたくなりがちです。避けてしまう傾向があります。
新人の後輩から何か尋ねられたとき、「そんなことは知らなくていいの」とか「自分で調べたら」なんて苦し紛れに(本気でそう思っていたらもっと大変だ)答えたことはないですか? 新人や後輩に「わからない事はわからないと言わせる教育」が必要なことはあちこちで言われていますが、先輩である我々にとっても同じです。 「俺も(わたしも)わからないから一緒に調べよう」といえるかどうかです。その後のコミュニケーションとしても重要です。
 
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