我が家のお隣さん。子供の頃からの遊び場長寿院です
夏の時期にはトンボ、セミ、蝶がいっぱいヽ(´ー`)ノ

頭頂部が吹き飛んでいます。
当日は墓石が塀を跳び越えた箇所も有り、
相当に危険な状況でした。
慶応戊辰殉国者墳墓(長寿院)
この墳墓は長州、大垣、館林、佐土原各藩の白河方面における戦死者また会津等にて負傷し 白河で没した戦病没者をこの長寿院に祀った。
 墓は 百十六墓あり(薩摩二十九名、長州三十名 土佐十八名 大垣十三名、館林七名、佐土原十九名)このうち薩摩藩は鎮護神山に改葬された。
 墓碑は一人ごとに建てられ姓名 卒年月日、行年が刻まれており 十六才から二十才前後の勤王の志をいだく青年武士団であった。
 土佐藩 辻精馬二十二才の墓碑には次の歌が刻まれている。
 都由跡知流 伊笑智母奈謄香 遠羊蹄加良武 蚊称而佐佐宣之 和我美登於毛倍婆
 つゆとちる いのちはなとか おしからむ かねてささげし わがみとおもへば
現在この看板は撤去されています。
??六月??東幸利通奉?
途経白河驛諸戊辰之
??之墳墓尤其燈臺一
???云
五月?八日  大久保利通
左側の灯篭、風化激しス。
明治九年丙子???
龍駕東巡扈従????以吊戊辰
戦死諸子之???岩倉具視 木戸孝允建立
右側の灯篭です。

このような墓列が長短含めて6〜7列あります
案内板にある辻精馬友猛の墓です。
唄は反対側にあるのかな?
手前から 官軍土藩田中煌之進重行墓 
慰忠魂
官軍土藩黒岩兼之助光吉墓
慰忠魂、土佐藩士墓石と灯篭です。
大垣藩
松井於菟蔵源義方
川井徳太郎藤原直光
鳥居勘右衛門藤原政方
山田七蔵藤原宗則
稲葉永蔵源義喜
坂唯蔵藤原喬信
大垣藩士の墓石です。
長藩 官軍先鋒
櫻井仙蔵源正義
山崎万壽輔源?義
三好熊蔵藤原幸信
長州藩士の墓石です。
官軍館林藩 高山清記平繁履行年二十?
永田伴次郎源正紀行年??
館林藩士の墓石です。
日○佐土原 官軍新納八郎次久暢
佐土原藩士の墓石です。

佐土原藩士の墓石がズラっと並びます。
慶應戊辰殉國者墳墓
長寿院参堂入口に建てられている石柱です。

長寿院 
住所 福島県白河市本町北裏30
戊辰白河口戦争記

戊辰戦争関連墓石の数では市内最大を誇るお寺です。
長州、大垣、佐土原、館林の4藩の藩士たちが眠ります。
ちょいと取材してきましたのです。お隣さんですからちょいと気恥しかった(´▽`*)。
お墓の正門正面に見える二台の灯篭は右が若干大きいのです。
これは右の灯篭を建立した人物が左の人物よりも位が高いから。
その人物の名というのは、岩倉具視 木戸孝允の二人です。Σ(・Д・ノ)ノ アウッ驚き
対して左搭の建立者は、、、大久保利通っと。Σ(゚Д゚;エーッ!
方丈さんの説明だと、明治天皇が白河に戊辰戦争慰霊巡業に来るに当って、先発隊として大久保利通がこの地を訪れ、下見をし、後日明治天皇と共に岩倉具視、木戸孝允が来白したと。
当時の明治天皇慰霊巡業にあわせ、国の音楽隊編成されてたそうで、その当時は何千人もの人間がここ長寿院に集まったそうです。
付け加えるとその明治天皇巡業が無ければ、ここまで墓石が整備されることも無く、盛り土だけのお墓になっていたかもということでした。
余談として稲荷山の戦いでは板垣退助も白河に参上しています。
明治天皇を始め、明治維新の立役者達がなにかしらの形で白河に訪れているのは、戊辰戦争において白河が重要な場所であった事の証なんでしょうね。

これらの墓石一つ一つの名前と略歴を記録している強者さんがいます。
頭が下がる驚きのページはこちら↓
http://boshinsoutairoku.client.jp/chojuin01.html

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