墓地の向側にある慰霊用の施設です。階段上ります。

柵の役目をしていた石柱が全て崩れました。

特異な文字で読めません。

国報躬捐 
住所 福島県白河市本町北裏30
施設名 長寿院
戊辰白河口戦争記

明治天皇白河訪問以降、建立された碑です。
方丈さんより内容を記録した複写を頂きましたので、以下うp
国報躬捐
戊辰中興之元年春六師東征首収江戸城徳川氏恭順謝罪而餘賊尚拠東叡山不降乃撃殲之先是分軍
轉戰両總常野之間進徇奥羽奥羽諸藩合從方命曾津仙台実爲之盟主幕府逋竄之徒又往投之共抗王
師於白河城域當奥羽咽吭地勢険要賊極力拒守官軍進戰不利退次芦野五月朔縦兵自三道往襲之鋒
其鋭斃會津仙台二本松棚倉等兵六百八十餘人賊不能支棄城遁官軍乃入爲根壕蓄鋭議進取賊察我
寡兵大擧來圍衆数千人而官軍不過六百餘人備兵白坂駅使賊勿断我軍後爾來砲戰累費夜大小数十
合毎戰輙有利既而官軍日盆至賊勢日愈蹙退保其城砦六月官軍別隊由海路達平潟攻平城抜之將以
應白河軍也二十四日発薩長土大垣佐土原館林黒羽七藩兵千餘人撃賊於関山乘勢下棚倉城於是海
陸諸軍悉會於二本松城下倶攻抜其城乃分爲二軍一由天狗角觝山一由猿ー井保成本道而三別遣一
軍由三度己屋進共討會津竟能得奏蕩平之功焉是役也前後陣亡甚多而座屍白河長壽院者凡一百十
五人墓上惟刻其姓名未及録其事跡於是七藩旧主及當時関其役者慨然會財以圖其不朽徴文於余鳴
呼戊辰之変天下治乱之所判而勤王諸藩率先敵誌博m亦皆捐躬報國以賛襄鴻業此雖国家隆運之所
致而其烈亦可謂卓偉非常哉今二十五年矣海内又安庶民謳歌追懷當時恍如隔世而百年之後物換星
移艱難遺跡或將帰乎湮滅是此擧之所以不可已也銘曰
有蔚佳城 白河之原 煌煌烈士 爰留其魂 遺勲銘石 山岳倶存
明治二十五年壬辰十一月
從四位勲四等文学博士重野安繹撰
辨理公使從四位子爵 秋元興朝書
以上恐らく表面
 
以下恐らく裏面
  発起人
正二位勲一等 公爵 毛利元徳
  正二位勲一等 公爵 嶋津忠義
       侯爵 山内豊景
從二位勲一等 伯爵 大山 巌
正三位勲一等 伯爵 川村統義
從三位    伯爵 板垣退助
從三位勲三等 伯爵 戸田氏共
正四位    伯爵 嶋津忠亮
從二位勲一等 子爵 谷 于城
從四位勲四等 子爵 大関増勤
從四位    子爵 秋元興朝
正四位勲三等 大沼 渉
正四位勲三等 有地品之允
從四位勲四等 鳥居断三
從四位勲三等 別役成義
從四位勲三等 川村景明
正五位勲三等 兒玉年國
從五位勲三等 河野 通
正六位勲四等 吉田公宗
從六位勲四等 田村景賢
正七位勲四等 今村長賀
正八位勲六等 樺山久舒
石工白河町 三國半七


とりあえず現在のとこ、ここまでで慰霊碑紹介はストップです。資料が揃い次第、別の写真もうpしていく予定です。
最後まで目を通してくださった皆様、ありがとうございました。

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