交通量の多い道路沿いにひっそりと佇みます。
戊辰役
戰死之碑
裏面には建立の経緯が刻まれています。
戊辰戦死之碑(八竜神地内)
 この碑は、藤沢、土武塚、八竜神等に散葬されていた東軍戦死者四十二名の合葬にその御霊を祀るため地元有志の手により大正元年十月に建立されたものである。
昭和六十三戊辰年六月 白河観光協会
裏側には大きく昭和九年五月一日建之とあるので、案内板通りの経緯ではなさそうです。

座禅を組むお地蔵様。
戦魂供養搭
明治四?辰年
五月??石??
こちらが元々の供養搭のようです。
小さい!

戊辰戦死之碑 
住所 福島県白河市藤沢山14周辺
戊辰白河口戦争記

正面に立つ大きな慰霊碑が目立ちます。
が、裏面の経緯を見るとこれは昭和に入って新たに作られたもののようです。
敷地内右奥にちょこんと置いてあるような小さな石が元々大正元年に立てられた慰霊碑です。
関川寺の慰霊碑と同等若しくは小さいくらいのもの。
関川寺の案内板で述べられていた北裏地区とは恐らくこの場所を指したのだと思われます。
 解決ヽ(´ー`)ノワーイ
戊辰白河口戦争記での住所とこの慰霊碑の住所が一致していません。恐らく一度移設が有ったのだろうと予想されます。 裏面記述
建碑の趣意
爰に明治維新?大業を顧れば国家振張発展の基礎となり建国の偉業を奏し萬?の?敬国
となり国勢は年毎に増進し文物の整備は刻一刻に回目を?むる盛観に至りたる共?真
相は?に明治戊辰戦役にて国家進軍の原動力と謂はさし可らず。
??同戦役は今を遡る数十年の久しきに??年月経過去来して今日国家の歴史に記載
せらるに至る?然して其の戦争は官賊に途?以って?せらん、東北軍の如きは朝敵
の汚名を被せたるものは単に外形に過ぎずして其の忠を皇室に效さんとするの志て?
十?畏くも、明治大帝の御聖庵神聖なる大徳六合に治く寛大の御聖旨を浄發せら
ん四民皆齋しく官賊の?を除去せらん至誠長へに朽ちさるに至る。戦死者笑て地下に含
むや必せり 我白河町は奥羽の関領にして激戦地たりしは皆人の知る所一?随に戦死者
も多数にして其遺骸を埋葬せし所数箇所にあり雖も多くは仮埋葬の姿にて今日に至る
迄完全なる墓碑の存するなし 忠死の霊を土芥視すんば実に遺憾に堪さる所なり 依りて
??之?発起人となり有志の寄進を得て字寺小路、字蛇石、字文殊山、字八龍神、字藤
澤等、各所に散在せる四十七名を戦死忠魂の遺骸を集め字寺小路字八龍神??
に合葬して墓碑を建設し永遠に追悼して死者の冥福を祈らんと欲し大正元年十月落??
見るに至???然るに近???周囲?王垣六破すつも顧る者なし 依りて今日また字?三一
三(途中不明)之改修を成し以って英霊を慰め旦其の由緒
後?に伝えんと欲し(以下不明)
 昭和九年五月一日建之

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