大樹に守られる市内最大規模の慰霊碑です。

門が閉ざされ立ち入り禁止になりました。
慶應四年戊辰年
戦死墓
五月?日 新町
圧倒される大きな字です

倒壊寸前です。

銷魂碑。脇役に見えますがこれが本元です。
軸が大分ずれています。
戊辰の役古戦場
 市内の九番町の西端、ここ松並にあり、南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を慶應四年(一八六八)奥羽諸藩鎮定のために、薩長大垣等の西軍が大挙して三方から白河を攻めた。東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃った。この地は白河口での激戦地で、閏四月二十五日、会津兵は一旦西軍を退けたが、五月一日、再び来襲したので、西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、戦死者数知れず遂に敗退のやむなきに至り小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。
 戦後両軍は、各々戦死者の碑を建て、霊を慰めた。
この白河街道の左曲する南側に、長州藩三名大垣藩三名の墓、北側に会津藩戦死者の墓と会津藩主松平容保の題字の銷魂碑がある。
白河市教育委員会なんとも理解しづらい案内板。字数制限でもあったかな?
横山主税は当地で戦死。西郷頼母は明治半頃会津にて亡くなっています。
会津藩戦死者、会津藩銷魂碑(松並)
 この地内は戊辰の役白河口の戦いの中でも最大の激戦地であった。 この碑には会津藩若年寄横山主税、海老名衛門等三百四名の戦没藩士の名が刻まれている。
 この碑は、地元高橋金五郎をはじめとする地元住民ならびに会津藩関係者の手によって建立された。 毎年六月第一日曜日には慰霊祭が行われている。
平成十三年 白河観光協会
ちょっと曇ってた日だったようで薄暗いナリ

表面には戦死者名が刻まれています。

稲荷山 
住所 福島県白河市松並14近辺
戊辰白河口戦争記

市内で最も有名な慰霊碑の一つです。
この慰霊地の背後の丘が稲荷山と呼ばれる丘陵です。
現在この山間には民家や工場が立ち並び、またちょっとした抜け道にもなっています。
白河戊辰を語る際、700名以上という最大の戦死者を出した場所として、また、西軍、東軍の慰霊碑が隣接する稀有な場所として必ず紹介される場所です。
敵味方問わず霊を弔う白河人の懐の深さを語るシンボルにもなっています。

実際のトコロ、白河は激戦の舞台とはなっていますが、大部分を占める農民達にとっては迷惑な話だったのではと。
田植えの忙しい4月後半、人足に徴用されるは、火を付けられるは、をつけの実を食い尽くされるはでは肝心の農作業が一向に進みません。
当時の状況では江戸の出来事が白河に伝わるまで最低3日、京の都ならば一週間以上かかってようやくという情報インフラ。
現代人でもなかなか理解が追いつかない幕末の変遷を、こんな片田舎の農民達がどこまで理解していたか。
ふとした疑問が。。戊辰戦争手記では西軍、及び薩長藩といった名称は一切用いられず、全てひっくるめて"官軍勢"と記されています。
錦の御旗を掲げる官軍勢、対する奥羽諸藩。もしかしたら奥羽諸藩は現地人から賊軍と見做されていたのでは?
「官軍さま(帝さま)が怒ってるってことは、奥羽のお偉いさん方が、なんかしでかしたんだっぺ」といった具合に。
原文中にももしかしたら賊軍という表現があったのではないかと勘ぐってしまいます。というのも出展が不明。文中に不規則な現代語訳を挿入等々、原文改竄があっても知る術がありません。
というのもちょと気にかかる点がありまして。手記に見られる"かんぞくどもねげさり"という表記。もちろん官軍と言えば対する賊軍。"官賊共逃げ去り"としようとしたんですが、さて、他に賊という表現は無いかと探しても、この一文のみ。
これだけ頻繁に官軍という表現が出てて対する賊軍という表現がたった一箇所???不自然極まりない。別の訳しがあるのかな?
なんとなく意図的に奥州列藩=賊軍という表現を避けているような気がするのです。←きっと考えすぎだぁよ。
敵味方問わず埋葬したと称えられる白河人。ですが本音として正義はどちらにあったと考えていたんでしょう?美化されることの無い真実を知る為にも戊辰白河口戦争記を読めばきっと何かが見えてくる・・・かな?
読んでみました。白河の人達は奥羽寄りでしたネ。西軍の近代戦術には圧倒されることしきりだったようです。

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