ここに記載したのは白河市教育委員会文化課のページ『白河の歴史』戊辰白河口の戦いに掲載されている手記を原文に沿いながら時系列を分かり易くし、更に意訳を施したものです。
参考までに後に原文ママを載せておきますが…こりゃ読む気失せるなぁ。(´▽`*)アハハ
あとついでに上記リンクのコメント中 「被害者からの当時の〜」とありますが、なんとなく違和感があります。被災者、受難者といった言葉がよりふさわしいかなと。ごにょごにょ。
内容を読むと小峰城についての記述が一箇所のみ。焼失落城に至っては記述が見当たらない為、作者は郭内からは程遠い場所にいた人物と思われます。
ではどこかというと、本沼だったり小田川だったり合戦坂だったり棚倉だったりと。白河の情報を縦横無尽に集めているのですが、なぜ、中央だけ抜けるの???

<戻る>

二本松様、三春様、仙台様、安藤様、森孫三朗様、白河にて 会津様にて追い出され、鉄砲撃ちかけられ
閏4月14日の戦い、その時会津の首田町にて二本松が取り逃げ、その時白河城会津様乗っ取り
閏4月25日小丸山にて官軍勢にて戦い、その時官軍勢の首13取り、大手先に晒し、会津の首も取られ候、怪我人70人ばかり有。その時又々仙台1000人 釜子、二本松、棚倉、会津、四頭にて番している処へ、官軍勢200人先に押し込み
5月1日の戦いにて怪我人200人余り、手負いの者100人余り有。往来通り、遠村にてもとおり(十人?)人足使われ候。本の沼村(本沼)に常盤彦之助と申す人、官軍様より御用を仰せ付けられ、早速罷り出で候処、すぐさま逃げ出し、後より即に切り掛けられ候。頭腹部一太刀、小鬢を一太刀 端まで切り通り、三太刀目に首取られ、その上晒され候。
辰5月6日より7日迄晒し首、
辰5月9日朝より、鶏を追い昼に参り候、皆鶏を取られ候。
辰5月19日に、本沼は仙台兵7,8人参りて、鶏取りの者ニ人生け捕り候。縄を掛けてその上、鶏後ろに背負わせ、矢吹へ帰り候、泉崎を通り候。
辰5月21日小田川より泉田の中にて戦い有、官軍に倒れ切られる二人ばかり有、手負人5.6人有。
辰5月25日大田川上より東裏にて官軍勢 岩崎東裏にて仙台様戦い、奥方二つ坂の辺にて破り、又官軍勢は、押し返され候。官勢2,3人、岩崎東裏谷地へ入り、その戦いの節、岩崎新宅より、火をかけ候。又々大田川まで皆一度にかけ候、その内5軒ばかり残り候。
辰5月25日に是より南本沼より火は付き候、庄屋より新宅2軒 戦いの内にて、又そのほか、比石に火をかけ候。
棚倉阿部様、二本松口戦い辰5月25日より26日迄戦い仕り候 久田野へ寄りあの辺にて戦い仕り候、その上、日の暮れるまで戦い致し候。
辰5月27日迄、根田より大谷地へ寄り27日の戦い日の暮れるまで大砲、小砲の音致し、30人ばかり官軍勢をやされ(追い出され?)候。
又明けて28日の朝会津様に切り殴り候、その朝小田川へ引き下がり、くるくるくるまのしかけ(?)、辰5月27日より28日迄休み候。
辰5月29日より31日迄焼け候。
辰6月1日小田川南七曲上にて戦い、官ぞくども逃げ去り候、根田上迄追い詰め候、その上大将の首取り候。大砲、小砲の戦い也。この大将の首取るには、鉄砲を打ち投げ、太刀にて切り込み候。官軍も首取られるより早く逃げ去り候。
辰5月20日人足20人詰め候。新城迄5人ばかり引き連れられ候。小田川宿へ人足10人ずつ、
辰6月1日より大和田村へ人足8人ずつ詰め候。
10日ばかり経った6月12日の合戦、南は田島辺より搦目、桜岡より後ろ口、根田鳥の子辺より根田上、石切場辺より白河西山根口辺より、八方一度に大砲又小砲を撃ち、追い詰め候。富士見山辺まで追い詰め候。南は鹿島辺まで上り候、その上又追い戻され候。奥方には、即死、怪我人を生ずる40人ばかり有。官軍勢には即死、怪我人確かに有とも、こちらにては知れず。
この辰6月12日に桜岡に3,4軒火をかけられ候、それより南に3箇所ばかり火をかけられ候。白河西には2村大焼に見受けられ候。白河町にて官軍勢は野菜、をつけの実を食い尽くす。奥方は小田川にて3000人ばかり大人数居り候。皆野菜取り尽くしその上泉崎迄 段々取りに参られ候。
辰6月24日合戦坂口官軍勢繰り出し、金山口破り候、棚倉へ押しかけて棚倉阿部様、手前にて御城へ追いかけ候(?)町方も一度に火をかけ候。その上逃げ去り候。官軍勢は少々の人々に引け候、と話有候。米蔵、薬蔵へも火をかけ候。川原田辺へ陣を取りて、それより東口へ、官軍勢は回り候、と話有候。
辰6月25日釜子村火をかけられ候、25日より27日迄焼け候。
辰6月29日川原田、二子塚にて阿部様、川より東に官軍勢は、少々の人数にて戦い、29日の朝5つ時の戦い、川原田二子塚 2村へ火をかけ候、逃げ去り候。
辰6月29日関和久村へ、下外れいにて1軒焼け候
辰6月29日より奥州方逃げ去り候。その夕呼びて須賀川迄人足引き連れられ候
辰7月1日の日までかかり帰りに、人足共腹はひもじくなり候。何処へ寄りても食べ物欠く 大腹減り候、夜にうちへ帰り候。
辰6月29日の夕8つ時より7月1日頃迄矢吹にて火をかけられ候、世に上、下にて7,8軒残り候、皆一度に焼け候、官軍追っかけずに奥州方は火をかけ候、尤も矢吹宿へ毎々何程の金銭を取り候、その御礼と聞こえ候。
辰7月1日にて白河西にて山根口の戦い有候、官軍勢と会津の戦いと聞こえ候、そのほか2,3村と見受け候火の煙が上がり候。
辰7月1日にて小田川宿へ官軍勢検めに参り奥州方の米ぶん取り候、その宿人足共白河迄送り候、心で大いに案じられ候、それ程の事で無き候、昼をくれられ候、大いに安堵致し候。
辰7月3日より白河官様へ人足96人引き寄せられ候、又その内勘弁になり、41人使われ候、兵糧はお上より下され候、又10人勘弁になり候、又ほか人足30人馬10頭引き上げられ候、この者へは賄い無、自分の米持ち候鍋を借り候。
辰7月14日夕、須賀川辺より奥州方は小田川より七曲辺迄繰り出し、その辺にて大戦、官軍にても大垣の大将即死と話が有候、30人ばかり陣を敷き候 又それでも官軍勢は久田野辺より山越しに裏側に回り、小田川八幡前まで押しかけ、その辺より西裏にて大戦い有候、奥州方に即死11人ばかり有候、東口には泉崎より関和久辺 中畑より三城ノ目辺より繰り出し、大方1000人さきの人数一向に戦い無く、陣を敷き候。
辰7月15日頃迄に引き去り候、小田川辺も同15日に引き去り候、その時奥方に、口より耳の下へ弾は抜け候、その者泉崎に参り候、役元へ着き候、庭に血が浮かび候、松倉迄送り候、それより三城ノ目村へ陣を敷き候、又街道筋には泉田より根田間に、生首即死が有候。
辰7月16日浅川辺より釜子間に大戦い有候、大砲、小砲の音が致し、その時も両方にて陣を敷き候。
又18日にその辺に戦い有候。
又20日にその辺にて大戦いの音が致し候。
又22日に川原田と向う側にて大戦い有候。その時川原田2軒ばかり焼け候
辰7月25日白河より官軍勢は小田川より岩崎辺迄1000人ばかり繰り出し何事も無くその日に白河まで又陣候。
辰7月25日の夕奥州方は1000人ばかり泉崎より本沼辺迄少々人数参り泉崎にて少々兵糧を炊き、26日夕5つ時にて又繰り込み候。その夕の内に何事も無く皆陣を敷き候。
25日夕泉崎村人足10人鏡沼よりその夕五本松迄人足引き連れられ候 又須賀川辺より帰りたる者も有候 郡山迄5人引き連れられ候。その内1人又4里ばかり先へも引き連れられ候。大いに難儀を致し候、4人の者郡山より逃げ帰り、29日の日に戻り候。
辰7月28日にて白河西口に戦い有候。三箇所に煙が見え候。遠手にあればよく知れず。

<戻る>

続いて原文ママ
二本松様、三春様、仙台様、あんとふ(安藤)さま、もりまごさぶろ(森孫三郎)さま白川ニ而 あいづ(会津)さまニ而おいだされ、てぼう(鉄砲)うちかけられ閏四月十四日のたたかい、 そのときあいづのくび田町ニ而二本松がとりね(逃)げ、そのとき白川しろあいづさまねりとり、 閏四月二十五日こまり(小丸)山ニ而かんごんぜ(官軍勢)ニ而たたかい、そのとき かんごんぜのくび十三とり、おおてさき(大手先)ニさらし、あいづのくびもとられ候、 けがにん七十人ばかりあり、そのときまたまた仙台千人かまのこ(釜子)、二本松、 たなくら(棚倉)、あいづ、よかしら(四頭)ニ而ばん(番)しおりところい、かんごんぜふハ ニ百人ざきおしこみ五月一日のたたかいニ而けが人弐百人あまり、ておい(手負)のもの百人 あまりあり、おふらいとおり(往来通)、とおむら(遠村)ニ而もとおり人足つかハれ候、 本の沼村ニときわひこの助(常盤彦之助)と申人、かごん(官軍)さまより御用もをふせつけられ、 さっそくまかりいで候処、そくさまねげだし(逃げ出し)、あとよりそくにきりかけられ候、 どふくぼひとたち、こびん(小鬢)をひとたちはちまできりとおり、三たちめにくびとられ、 そのうい(上)さらされ候、
辰五月六日より七日迄さらしくび、辰五月九日かたより、にわとり(鶏)とりにをいをい日に日に まいり候、みなとりをとられ候、辰五月十九日に、本ノ沼村ハ仙台方七八人まいりて、とり(鳥) とりのもの弐人のものいきとり(生け捕り)とり候、なわをかけてそのうい、にわとりうしろに 庄わせ(背負わせ)、やふき(矢吹)いかいり候、いづみさき(泉崎)をとおり候
辰五月二十一日小田川より泉田ノ中ニ而たたかいあり、かんごん(官軍)にたをれきり弐人ばかり あり、ておいにん(手負人)五六人あり
辰五月二十五日二大田川かみより東うらニ而かんごんぜ(官軍勢)岩崎東うらニ仙台様たたかい、 をくかたふたつさか(二つ坂)のへんいてやぶり、又かんごんぜ(官軍勢)わ、をしかいされ候、 かんぜわ(官勢)ニ・三人、岩崎東うらやちいはいり、そのたたかいノせつ、岩崎しんたくより 火をかけ候、又々大田川までみないちどにかけ候、その内五間(軒)ばかりのこり候、又その 日ノ内に下宿ニ而大つつ(大砲)、小つつ(小砲)をうちはなし候、 辰五月二十五日ニこれより南本ノ沼村よりひわつき(火は付き)候、庄屋より新たく二間(軒) たたかいノ内ニ而、又そノ外 双石村ニひをかけ候、たなくら(棚倉)あべ(阿部)様、 二本松□□たたかい辰五月二十五日より二十六日迄たたかい仕候、くたノ(久田野) へにょりあのへんニ而たたかい仕候、そのうい、ひノくれるまでたたかいいたし候、 辰五月二十七日迄子田(根田)より大谷地へにょり二十七日のたたかいひノくれまで大つつ (大砲)、小つつ(小砲)ノうと(音)いたし、三拾人ばかりかんごんぜい(官軍勢) わ(は)をやされ候、又明二十八日の朝あいづさまにきりなぐり候、その朝小田川い(へ) ひきしゃり(引き下がり)、くるくるくるまノしかけ、辰五月二十七日より八日迄やすみ候
辰五月二十九日より三十一日迄やけ候、辰六月一日小田川南七まがり(七曲)上ニ而たたかい、 かんぞくどもねげさり(逃げ去り)候、根田上までおいつめ候、その上太庄(大将)のくびとり候、 大つつ、小つつのたたかい也、この太庄(大将)のくびとるニわ、てぼ(鉄砲)をうちなげ、 大たちにニ而きりこみ候、かこん(官軍)もくびとられるよりはやくねげさり(逃げ去り)候、 矢吹宿へ人足辰五月二十日ニ十人つめ候、新城迄五人ばかりひきつれられ候、小田川宿へ 人足拾人つつ、辰六月一日より大わ田村へ人足拾八人つつつめ候、十日ばかり、辰六月十二日の かせん(合戦)、南ハ田嶋へんよりからめ(搦目)、さくらおか(桜岡)よりうしろくち、 根田とりの子山へんより根田上、いしきり場(石切場)へんより白川西やまねくちへんより 八ぼ(八方)いちどに大ぼ(大砲)又小つつ(小砲)をうち、おいつめ候、ふちみ山(富士見山) へんまでをいつめ候、南ハかしま(鹿島)へんまでのぼり候、その上又をいもどされ候、 をくかた(奥方)ニわ、そくし(即死)、けがにんを小(生)ず四拾人ばかりあり、 かんこんぜ(官軍勢)ニわそくし、けがにんたしかニありとも、こちにて(当方)わしれず、 この辰六月十二日ニ 桜岡ニ 三・四間(軒)ひをかけられ候、それより南ニ三か所ばかりひを かけられ候、白川西ニわ二か村たいやけ(大焼)ニみうけ候、白川町 ニ而かんごんせ (官軍勢)わ、やさい(野菜)、をつけ(味噌汁)のみ(具)をくいつくす、おくかたわ小田川 ニ而三千人ばかり五人数(御人数)をり候、みなやさいとりつくしそのうい(上)泉崎まで だんだんとりにまいられ候、辰六月二十四日香せんざか(合戦坂)口かんこんぜ(官軍勢) くりだし、金山口やぶり候、田倉(棚倉)へおしかけて田倉あべさま(阿部様)、てまいにておしろ (御城)いひおかけ候、町かたもいちどにひおかけ候、その上ぬげさり(逃げ去り)候、 かんごんぜ(官軍勢)わ所々の人々にひけ(引け)候、とはなしあり候、米倉、 くすり倉いもひお かけ候、かわ田(川原田)へんい、ぢん(陣)おとりて、それより東口い、 かごんぜ(官軍勢)わまわり候、とはなしあり候、辰六月二十五日かまのこ(釜子)村火おかけら候、 二十五日より二十七日迄やけ候
辰六月二十九日かわ田、二子城(塚) ニ而あべさま、川より東ニ かんごんぜ(官軍勢)わ、 所々(少々)御人ずふにてたたかい、二十九日ノ朝五つときのたたかひ、かわ田・二子城(塚) 二カ村い火おかけ候、ねげさり候、辰六月二十九日関和久村へ、下はづれいニ而壱間(軒) やけ候、辰六月二十九日より奥州方ぬげさり候、その夕よびて須賀川迄人足ひきつれられ候、 辰七月一日ノ日迄がかりかいりに、はり(腹)わ人足共ひもぢくなり候、どれい(どこに) よりてもたべものかく(欠く)大はらへり候、よ(夜)にうちいかいり候
辰六月二十九日ノ夕八つときより七月一日頃迄矢吹 ニ而火おかけられ候、よに上・下 ニ而七八間 (軒)のこり候、みないちどにやけ候、かんこん(官軍)おかづけに奥州方わ火おかけ候、 もっとも矢吹宿へまいまい(毎々)なにほどの金銭わとり候、そのおんれいときこい候、
辰七月一日 ニ而白川西 ニ而やまね口にたたかいあり候、かんごんぜふ(官軍勢)とあいず (会津)のたたかいときこい候、その外二・三か村とみうけ候ひのけむりがあがり候 辰七月一日 ニ而小田川宿へかんごんぜふ(官軍勢)あらため(改め)にまいり奥州方ノ米文んとり (分取り)候、その宿人足共白川迄おくり候、こころ(心)でおき(大き)にあんじられ候 それほどのことでなき候、ひるをくれられ候、おきにあんど(安堵)いたし候 辰七月三日より白川かん様へ人足九拾六人ひきよせられ候、又そのうちかんべん(勘弁)になり、 四十一人つかわれ候、兵ろ(兵糧)わかみよりくだされ候、又十人かんべんになり候、又 外人足三十人馬拾疋ひきあげられ候、このものいわまかない(賄い)なし、ぢぶん(自分) の米もち候なべ(鍋)をかり候
辰七月十四日夕、須賀川へんより奥州方わ小田川よりななまがり(七曲)へんまでくりだし、 そのへんにて大たたかい、かんごん(官軍)にても大かき(大垣)の大しやう(大将) そくし(即死)とはなしがあり候、三拾人ばかりぢん(陣)をひき候、又それでもかんごんぜ (官軍勢)わ、くたの(久田野)へんより山ごしにうらきりにまわり、小田川八幡前までをしかけ、 そのへんより西うらにて大たたかいあり候、奥州方にそくし(即死)十一人ばかりあり候、 東口にわ泉崎より関和久へん中畑より三城ノ目へんよりくりだし大方千人さきの御人中いっこうに たたかいなくぢんをひき候辰七月十五日頃迄にひきざり(引き去り)候、小田川へんも同十五日に ひきさり候、そのときおくかた(奥方)に、くちよりみみ(耳)のしたいたまわぬけ候、そのもの 泉崎にまいり候、役元いつき(着)候、にわ(庭)にち(血)がうかび候、松倉までをくり (送り)候、それより三城ノ目村いぢん(陣)をひき候、又かいどうすぢ(街道筋)にわ泉田より 根田あいだに、なまくび(生首)そくし(即死)かあり候
辰七月十六日あさ川(浅川)へんよりかまのこ(釜子)のあいだに大たたかいあり候、大つつ、 小つつのをとがいたし、そのときも両ほ(両方)にてぢん(陣)をひき候、又十八日 ニそのへんに たたかいあり候、又二十日 ニそのへんにて大たたかいのうと(音)がいたし候、又二十二日 ニかわら 田(川原田)とむこふかわ(向側)にて大たたかいあり候、そのときにかわら田(川原田)村弐間 (軒)ばかりやけ候
辰七月二十五日白川よりかん吾ぜ(官軍勢)わ小田川より岩崎へん迄千人ばかりくりだしなに ごともなくそのひ ニ白川迄又ぢん(陣)候
辰七月二十五日の夕奥州がたわ千人ばかり泉崎より本ノ沼へん迄所々御人中まいり泉崎 ニ而所々兵ろ (兵糧)をたき、二十六日の頃迄 ニのこらずぢんをひき、又二十六日夕五つ時 ニ而又くりこみ候、 その夕のうちになにごともなくみなぢんをひき候、二十五日夕泉崎村人足十人かがみの沼(鏡沼) よりその夕五本松迄人足ひきつれられ候又須ケ川へんよりかいりたるものもあり候、こをり山 (郡山)迄五人ひきつれられ双老、そのうち壱人又四り(四里)ばかりさきもひきつれられ候、 をふき(大き)になんぎをいたし候、四人のものこをり山(郡山)よりねげかいり(逃げ帰り)、 二十九日ノ日にもどり候
辰七月二十八日 ニ而白川西口 ニたたかいあり候、三カ所にけむりがみい候、とをて(遠手) ニあればよくしれず

どうにも意味不明な箇所、重複箇所があるんです。私の力不足という事もあると思うのでこっそりと下の方で愚痴ります。
とりとりのもの いきとりとり候 くるくるくるまノしかけ
あぁ何がなんだかw

<戻る>