3 比企丘陵と南比企窯跡群=須恵器と国分寺瓦の生産(比企郡・鳩山町)


(1)南比企窯跡群-武蔵國四大窯跡群のなかで最大規模


武蔵國には、南から「南多摩窯跡群」(東京都八王子)、「東金子窯跡群」(埼玉県入間郡)、「南比企窯跡群」(埼玉県比企郡)、「末野窯跡群」(埼玉県大里郡)の四大窯跡群があり、このうち三つが北武蔵・埼玉県にある。とくに、比企地方の窯跡群は、古墳時代から渡来人・渡来文化が持ち込んだ「窯業技術」が発展し、埴輪・須恵器を生産した、初期窯跡がまとまって存在しており、他の地域では見なれない貴重な遺跡が残されている。

比企地域には、西暦600年前後、6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっていた。8世紀になると、南比企丘陵−鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。

古代寺院は、比企地域とその周辺では7世紀前半に寺谷廃寺(滑川町)に現れ、その後、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺(寄居町)、西別府廃寺(熊谷市)、勝呂廃寺(坂戸市)、小用廃寺(鳩山町)などが造営され、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。そして、この時期になると、大谷瓦窯跡(東松山市)や赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始している。

奈良・平安時代になると、古代寺院や国分寺の瓦と須恵器の生産が行われ、北武蔵の中でも一大窯業地帯となった。南比企窯跡群で生産されたと須恵器は、武蔵國内をはじめ相模國・上野国・下総国まで供給された。



(2)比企丘陵の南比企窯跡群


埼玉県比企郡鳩山町を中心に、嵐山町、玉川町にかかる南比企窯跡群は、その数、数百基といわれ、古代東国一の大窯跡群である。さらに、古墳時代の窯跡が東松山市、吉見町一帯に広がり、この地方が古墳時代から奈良・平安時代にかけて北武蔵の中心地であったことが想定される。

鳩山町を中心にしたこの地域は、比企丘陵を樹枝丈に伸びる多くの谷(谷津・谷地)を中心に、鳩山町から北の笛吹峠にかけて、大別して七つの窯跡が発見されている。年代は、8〜9世紀にかけて創業されたが中心は奈良時代である。

窯跡は、地中にトンネルを掘った地下式登り窯で、長さが平均7〜8m、幅は最大幅で2〜2・5m、天井は1〜1・5mの大きさになる。窯床は、20度前後の勾配がついていて、1,200度以上の高温で、割れにくい丈夫な器・須恵器が生産されたいた。(写真は「登り窯」の模型。右側が窯の入り口、断面になっているところが窯の中。見ずらいが人や馬など埴輪が見える)

須恵器や国分寺瓦の生産にたずさわっていた人々(工人)の住居跡も多数発見されているが、ほとんどが竪穴住居で窯跡と地続きの丘陵斜面につくられていた。大量の須恵器や国分寺瓦の生産のため、各地の土師氏の工人達がこの地域に集められたものと思われる。鳩山町の鳩山中学校校庭にある雷遺跡には、瓦工人の集落跡が残されている。




(3) 国分寺瓦と須恵器生産の一大工業地帯


南比企窯跡群の始まりは、7世紀後半に建立された勝呂廃寺(坂戸市)や小用廃寺(鳩山町)など古代寺院の瓦の生産から始ったと推定されている。その後、武蔵国分寺の創建期から8世紀後半にかけて窯跡群が広がっていった。

武蔵国分寺製造窯跡としては、赤沼窯跡、山田窯跡、泉井窯跡などがある。「赤沼古代瓦窯跡」は、武蔵国分寺創建よりも半世紀ほど古い瓦窯跡といわれている。赤沼窯跡近くの「石田国分寺瓦窯跡」は、1994年(平成6年)の試掘調査で、新たな国分寺瓦を製造した窯跡であったことがわかった。

8〜9世紀になると、鳩山町一帯に広がり、北武蔵を代表する一大窯業地帯となったのである。確認されている窯跡群は、59支群約247基にのぼるといわれている。
  今ではのどかな丘陵地帯として想像もつかないことだが、奈良時代から平安時代にかけて、山間のあちこちから須恵器窯の煙がのぼり、ろくろで器をつくる人、山から燃料になる木を切る人、窯から恵器窯や瓦を運び出す人、そして武蔵国分寺と行き交う人であふれていたのではないだろうか。

写真は、鳩山町の農村公園近くにある赤沼古代窯跡群。農村公園では田圃や広場があって散策できる。ヘラブナつりも楽しめる。















(4) 南比企窯跡群と男衾郡大領−壬生吉士福正


南比企窯跡群からは、新羅郡を除く武蔵國20郡中18郡の郡名瓦が出土している(このときにはまだ新羅郡は誕生していなかったと考えられる)。ちなみに、東金子窯跡群からは15郡、南多摩窯跡群からは12郡、末野窯跡群からは5郡となっている。末野窯跡群が少ないのは、武蔵国分寺から65kmも離れていることがその理由のようだ。逆に、今は神奈川県になっている橘樹郡・都筑郡・久良岐郡など横浜・鎌倉方面の瓦は、南多摩窯跡群や東金子窯跡群で生産されている。こうした国分寺瓦の出土状況をみても、南比企窯跡群が武蔵國のなかで果たしていた役割を見て取ることができる。

男衾郡太領壬生吉士福正が、835年(承和2年)に焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を願い出て、許可されて造営したという記録がある。武蔵国分寺の七重塔の再建となると、今日の価額にすると数十億円にもなる大工事で、そのためには莫大な財力と労力があって初めてできることである。
  7世紀に比企地方にやってきたと推定される渡来人・壬生吉士のグループは、比企地方の支配者として、武蔵國最大の須恵器と国分寺瓦の生産でも大きな力を発揮していたものと思われる。




(5)比企丘陵の古代窯跡


※比企丘陵の遺跡地図は、「比企丘陵の古墳遺跡」を参照


埴輪と須恵器の生産

比企地域には、西暦600年前後、6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっていた。8世紀になると、南比企丘陵−鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。

古代寺院は、比企地域とその周辺では7世紀前半に寺谷廃寺(滑川町)に現れ、その後、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺(寄居町)、西別府廃寺(熊谷市)、勝呂廃寺(坂戸市)、小用廃寺(鳩山町)などが造営され、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。そして、この時期になると、大谷瓦窯跡(東松山市)や赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始している。

そして、奈良・平安時代になると、南比企窯跡群として、この地域一帯が国分寺の瓦と須恵器の生産の一大窯業地帯となった。



和名埴輪窯跡群(吉見町)

1974年(昭和49年)の発掘調査で、4基の窯跡が発見され、埴輪片が出土した。いずれも、台地斜面につくられた登り窯で、この他にも多くの窯跡があるといわれている。

和名埴輪窯で生産された埴輪は、近くの久米田古墳群をはじめ、吉見丘陵につくられた多くの古墳に使われたものと思われる。



桜山埴輪窯跡群(東松山市)

東松山市高坂の物見山丘陵の南斜面にある。1977年(昭和52年)の発掘調査で、17基の埴輪窯跡と三ヵ所の住居跡(工房跡)が発掘された。窯跡から、円筒埴輪と人物や動物の埴輪が出土している。

桜山埴輪窯跡群は、出土した埴輪によって、6世紀のはじめに生産が開始され、6世紀の半ばから後半にかけて最盛期を迎えていたと推定されている。(写真は桜山埴輪窯跡)




五厘沼窯跡群(滑川町)

■ 五厘沼窯跡群は、滑川町羽尾にあり、北武蔵のなかでももっとも古い須恵器窯跡で埼玉県の史跡に指定されている。







大谷瓦窯跡(東松山市)

東松山市の東北の端に大谷地区があるが、その丘陵斜面に大谷瓦窯跡(国指定史跡)がある。1955年(昭和30年)に発掘調査が行われ、2基の窯跡が確認され、1号窯跡が保存されている。

築造は8世紀末の平安時代で、全長7・5m、幅1m、半地下式の登り窯である。大谷瓦窯跡は、出土したものから判断して、瓦専用の窯だったと想定され、この時代の古代寺院の瓦を専門に生産したものと思われる。






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