2 壬生吉士と渡来人・渡来文化(横渟屯倉の設置から男衾郡、比企地方へ


(1) 平安時代−北武蔵に巨大な財力をもった支配者の出現


二人の息子の生涯の税金を前納

9世紀−平安時代に、比企地方にはとてつもない人物が現れた。それは壬生吉士福正(ふくしょう)という人である。今の時代には考えることもできないが、二人の息子の生涯の税金を前もって親が払うといってそれが認められ、一方では焼失した武蔵国分寺の再建を名乗り出て許され、みごと建て直したというのである。

この壬生吉士福正は、8世紀のはじめに男衾郡の太領(郡司)をしていた。『続日本後紀』(845年=承和12年4月の条)に「前男衾郡太領外従八位上壬生吉士福正」とある。

埼玉県史や寄居町史、その他によると『類聚三代格』(法令集)の太政官符に次の記録があるという。


 
<太政官符>  応総収 百姓二人身分調庸事
               壬生吉士継成(成年十九)
                 調庸料布四十端二丈一尺
                 中男作物紙八十張
               壬生吉士真成(成年十三)
                 調庸料布四十端二丈一尺
                 中男作物紙百六十張
              並男衾郡榎津郷戸主外従八位上壬生吉士福正之男


とあって、続いて、「……私は何時死ぬかわからない、死んだあとに息子達(
継成と真成)に調庸が課せられるが……二人の息子が将来にわたって収める義務のある調庸を一括して収めたい」(大要)と、郡司を通じて武蔵国に申請したことが述べられている。

当時の税制度は、農民に土地を与える代わりに(公地公民)、租・庸・調の過酷な税を取り立てた。庸・調は18歳〜64歳までの男子に課税された。庸は年に10日間労役に服するものだが、代わりに布や紙などを納めることもできた。調は地方の特産物を納めるもので、布・紙・綿・紅花・茜(あかね)など決められていた。
 
18歳〜21歳の男子(小丁)が毎年紙40張、22歳〜59歳の男子(正丁)が毎年調布2丈8尺と庸布1丈4尺の合計4丈2尺(1端)、60歳〜64歳の男子(老丁)が毎年半端(2丈1尺)を負担することになっていた。さきの壬生吉士兄弟の生涯納めるべき庸・調は、この基準で計算すると太政官符に記録されたような内容になる。


壬生吉士福正は、男衾郡の太領(郡司)として、生涯の税金は免除されていたが、その息子2人の将来を案じて自ら税金の前納を願い出たものである。


武蔵国分寺の再建

また、『続日本後紀』(845年=承和12年4月の条)に、「前男衾郡太領外従八位上壬生吉士福正」が、835年(承和2年)に焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を願い出て、許可されて造営したという記事がある。

武蔵国分寺の七重塔の再建となると、今日の価額にすると数十億円にもなる。これまた莫大な財力と労力があって初めてできることである。
(写真は武蔵国分寺跡模型=東京都国分寺市資料館)





(2) 壬生吉士氏族と国分寺瓦・須恵器、紙の生産


南比企窯跡群の発展と壬生吉士集団

7世紀から8世紀にかけて、奈良・平安時代に、武蔵國では、須恵器と国分寺瓦の生産拠点として、四つの古代窯跡群が発見されている。このうち、南比企窯跡群は最大規模を誇っているが、この生産を支配していたのが渡来人集団・壬生吉士福正でなかったかと考えられる。

登り窯を使った須恵器生産の技術は朝鮮半島から渡来したもので、その技術と生産の仕組みは北武蔵に移住した壬生吉士集団が一手に支配していたのであろう。(写真は鳩山町農村公園にある赤沼古代瓦窯跡)



小川町の紙と壬生吉士集団

わが国の製紙技術は、この当時さまざまな文化・技術と同じく、朝鮮半島渡来人によるものといわれている。大化改新をへて律令時代に入り紙の需要が高まってくるが、紙を税金として納めることが一つの大きな柱になっていた。先の壬生吉士福正の記録にあるように、小丁(18歳〜21歳の男子)が納める中男作物は、一人年紙40張となっていた。

小川町の和紙は江戸時代に大きく栄えたといわれていて、武蔵國ではこの地域に渡来人が伝えた製紙技術によって紙の生産が発達し、今日に伝えられていると思われる。




(3) 男衾郡の太領(郡司)・壬生吉士福正(男衾郡榎津郷=江南町・川本町か)


『続日本後紀』に「前男衾郡太領外従八位上壬生吉士福正」とあるように、壬生吉士福正は9世紀はじめ(平安時代)、男衾郡の郡司であった。そして、息子2人の税金の前払いを申し出た当時は、壬生吉士福正は「男衾郡榎津郷戸主外従八位上」と記載されているので、男衾郡の榎津郷に居住していた。

男衾郡の榎津郷については、現在該当する地域がはっきりしていない。埼玉県史などでは、寄居町周辺に比定しているが、踊る埴輪の出土した江南町、または鹿島古墳群のある川本町など古くから発達した地域をあてるのが適当ではないだろうか。


(4)壬生吉士と横渟屯倉(横見郡=吉見町)


9世紀になって、これだけの富と権力を備えた豪族が、突然現れるということは考えられない。その歴史には、埼玉県史や各自治体史、学者・研究者の一致した考え方として、西暦600前後、吉見丘陵周辺(現吉見町)に置かれた横渟屯倉とその管掌者として壬生吉士集団の移住にあると推定している。

この時期、北武蔵の古墳形成も大きく変化し、6世紀末から7世紀はじめにかけて、朝鮮半島の強い影響のある胴張りのある横穴式石室をもつ古墳が、この地域に急速にふえている。さらに、吉見丘陵には吉見百穴や黒岩横穴墓群など横穴墓がつくられるようになった。

「吉士」は「コニキシ」「コキシ」(百済や高句麗の王を示す)と同じで、早くから渡来した渡来系氏族であるという。もとは難波吉士として、今の大坂難波地方を中心に活躍していたが、各地に分散し、壬生吉士・飛鳥部吉士・日下部吉士など名乗り、屯倉の管掌にたずさわるなどの役割をもっていたといわれている。横渟屯倉の設置と壬生吉士の北武蔵への移住を証明する資料はないが、「男衾郡太領」の壬生吉士福正は、6世紀半ばに設置された横渟屯倉の管掌者・壬生吉士の子孫だと考えられているのである。

奈良県明日香村(飛鳥)の板葺宮跡から出土した木簡に、「横見評」(よこみのこほり)と記載されたものがある。「評」は後に律令政治のもとで「郡」ななったが(評は渡来人・秦氏の一族が地域を分けたときに使った言葉)、この木簡によっても横見郡が置かれたことが証明されている。(写真は奈良県明日香村の伝板葺宮遺跡)

古代武蔵國の横見郡があったと推定される吉見町は、埼玉県比企郡にあり、東松山市によって東西に分断された比企郡の東部の北半を占めるところにある。比企丘陵の東端にあたる丘陵地で吉見丘陵と呼ばれている。標高は30mから80mで、地質は凝灰岩で、吉見百穴や黒岩横穴墓群などの横穴墓群が広がり、丘陵のあちこちには枝状の谷が発達しし、古くから人々が生活したあとがうかがえる。

吉見町は小さいところだが、「延喜式」神名帳に記載される横見郡三座の横見神社・高負比古神社・伊波比神社がある。壬生吉士は、渟屯倉の設置のあとに、屯倉の管掌者として吉見丘陵周辺に移住したと想定される。(『吉見町史』)


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