4 比企丘陵の古墳遺跡


  

(1)比企丘陵周辺の古墳遺跡と渡来人・渡来文化


比企丘陵(男衾地域を含む)は、北武蔵のなかでも古墳遺跡の多いところで、北埼玉や児玉地方とともに古墳時代には北武蔵のなかでも古くから発達した地域であった。古墳時代、「比企政権」ともいうべき強力な地域政権がつくられていた可能性も考えられている。

6世紀末から7世紀初頭−西暦600年前後から、比企丘陵一帯の古墳に、胴張りのある横穴式石室と横穴墓が出現し、北武蔵の古墳形成に大きな変化がおとずれた。その背景には、横渟屯倉(よこぬみやけ)の設置と渡来人・壬生吉士集団の移住という、歴史的事件があったことが考えられている。

胴張りのある横穴式石室は、玄室と側壁に胴張りがあって、側壁が丸みをおびている。このような石室は、7世紀に入ってから急速に比企地方に広がり、この時期の古墳の石室の主流となっている。

こうした特徴を前提に、比企地域の古墳遺跡と渡来人・渡来文化について考えて見ることにしよう。



(2)吉見町吉見丘陵=山の根古墳と久米田古墳群・御所古墳群


吉見丘陵の山の根古墳は、前方後方墳。全長約65m、後方部の高さ約5・5m。前方後方墳という古墳形式は、古墳時代の早い時期のもので、4世紀代につくられたものといわれ、比企地方ではもっとも早い時期に出現した古墳。

山の根古墳がつくられた近くの久米田古墳群は、6世紀以後の終末期の古墳群で胴張りのある横穴式石室があった。この近くには、埴輪をつくっていた和名埴輪窯跡がある。

御所古墳群の横見神社(式内社)の本殿は、見たところ古墳のうえに建てられているようだ。また、横見神社の左手にも円墳があって、ここにも小さい社が置かれている。(写真は二枚とも横見神社。後の本殿は古墳の上に建っている)















(3)東松山市高坂台地=諏訪山古墳


吉見丘陵の古墳形成とおなじ時期、高坂台地にも古墳が築かれ始めた。諏訪山古墳は、東松山市の高坂台地につくられた全長69m、後円部の高さ約8・5m。墳丘部の前方が低い古い時代の古墳の形式だといわれている。諏訪山古墳群は、東武東上線高坂駅の近くにあり、前方後方墳3基を含め37の古墳が確認されている。

諏訪山古墳の西側にある「諏訪山29号墳」は、諏訪山古墳と同じくらいの古墳だが、4世紀半ばにつくられたものだといわれていて、諏訪山古墳群は、4世紀代につくられたものといわれている。

諏訪山古墳の近くの東松山市高坂には、6世紀のはじめに生産が開始されたと推定される桜山埴輪窯跡群があり、この地域の古墳築造と埴輪の生産の関係がよくわかる。



(4)東松山市松山台地=野本将軍塚古墳・おくま山古墳(古凍古墳群)


野本将軍塚古墳は、松山台地の先端につくられた古墳で、全長115m、後円部の高さ15m、前方部の高さ8m。武蔵國でも最大の埼玉古墳群(行田市)の二子山古墳に匹敵する大きさである。

野本将軍塚古墳の築造時期は、5世紀後半といわれている。5世紀末から6世紀はじめにかけて比企地方では前方後円墳の築造が急速に進んだが、野本将軍塚古墳はその巨大なつくりからも、この地域の支配者としての古墳ではなかったかと想定されている。

古凍古墳群は、国道245線の古凍交差点の近くにある。おくま山古墳は、全長62m、後円部の径が41・5mの前方後円墳で、6世紀前半の築造と判明している。(写真は古凍古墳群のおこま山古墳)



(5)東松山市大谷丘陵=雷電山古墳と三千塚古群墳


雷電山古墳は東松山市の北部、大谷の丘陵(森林公園の北側)につくられた前方後方墳だが、前方部の張り出しが短い、いわゆる帆立貝式と呼ばれる形式の古墳で、全長76m、高さ7m。

雷電山古墳が築かれた時代は、5世紀の前半と推定され、この時期にはすでに東松山市とその周辺には、五領遺跡などにみられる大規模な集落がつくられていて、一つの統一した地方政権が出現していたとみられている。

大谷の丘陵には、雷電山古墳が築かれてあと、弁天塚古墳、秋塚古墳、長塚古墳などの前方後方墳がつくられ、その周辺には多くの円墳が築かれ三千塚古墳群が形成された。約250基の円墳群があったといわれている。


(6)大里郡大里村=冑山古墳


冑山古墳は大里村になっているが、比企丘陵の東北端、東松山市と大里郡のさかいにあるにある。(近くにとうかん山古墳もある)

冑山古墳は大里村冑山にあり、直径90mの円墳で、年代は6世紀に推定されている。直径90mという円墳は全国的にもめずらしく、もっとも大きい円墳はさきたま古墳群の丸墓古墳で、直径120mである。冑山古墳は丸墓古墳に匹敵する大きさで、ちょっと見た目では「大きな山に神社がある」という感じである。拝殿から石段のぼって頂上までは結構きつい階段で、のぼりながら「どんな人がつくったのかな−」と考えさせられる古墳である。(写真は冑山古墳。この写真ではわからないが、この上に本殿がある)



(7)大里郡江南町=野原古墳群・塩古墳群


塩古墳群は江南町の塩にある古墳で、全長38mの前方後方墳1基と16基の方墳・円墳がある。いずれも古墳時代前期の4世紀につくられたもの。4世紀、北武蔵の古墳のなかでも最初の時期、山の根古墳(吉見町)、諏訪山29号古墳(東松山市)とならぶ古い時代の古墳群である。

野原古墳群は江南町の野原にある古墳で、踊る埴輪が出土したことで有名な古墳。前方後円墳を含む20基以上の古墳群で、6世紀末から8世紀前半に推定されている。この地域の開発中に発見されたことからも、塩古墳群のようにきちんと保存されていない。(踊る埴輪は上野の東京国立博物館に展示されている)






(8)比企郡滑川町=月輪古墳群


滑川町の月輪にある古墳群で、関越道の両脇に帆立貝式古墳2基、あとはすべて円墳。現在、直径20m〜30mの円墳が44基あるといわれている。年代は5世紀前半から6世紀末にかけて築造されたもの。


(9)比企郡嵐山町=稲荷塚古墳


稲荷塚古墳は嵐山町の菅谷にある古墳で、高さ4m、長径36m、短径27mの円墳。築造された年代は、7世紀後半といわれている。石室を覗くことができるが、比企地域に多いといわれる、胴張りのある横穴式石室である。側壁がふくらんでカーブしているのが特徴だ。渡来人・壬生吉士集団の北武蔵移住によって急速に広がったという古墳形式である。


(10)比企郡小川町=穴八幡古墳


穴八幡古墳は小川町の増尾にある古墳で、一辺が31・4mの方墳。築造されたのは、7世紀初めから半ばに推定されている。よく整備して保存されているので方墳の形がよくわかる。石室は緑泥片岩でつくられた横穴式で長さ8・5m、入り口から覗いて見ることができる。(写真は穴八幡古墳の正面、石室入り口)







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