<『学びの共同体』と協同的な学びについて>
私は通告にしたがい、「『学びの共同体』と協同的な学びについて」質問させていただきます。
教育は古今東西、次代を担う若き人材を育む場として、非常に重要な問題として扱われてきました。また、義務教育をはじめとした教育制度の整備は近代国家成立の要件の一つとも言われます。特に、産業革命以後、各国が工業化を競い、世界全体が発展途上の段階にあった頃は、若い人材に大量の知識をいかに効率よく習得させていくかということは国家的なプロジェクトでもありました。こうした知識習得中心の教育は、教育学でいうところの、「覚えること、できるようになること」に主眼をおいた、模倣的様式と呼ばれる考え方です。それに対し、自分自身の偏見を知り、ただ暗記するのではなく、「なぜそうなるのかを考え、分かるようになること」を柱に、個性と人格の形成を主眼に置く変容的様式という考えがあります。それぞれの教育様式に長所と短所があり、どちらがよりよいかということは、その様式を採用する社会の知的習熟度を無視して語ることはできないと言われています。しかし、統計的な傾向として指摘されるのは、多くの発展途上国や我が国を含むアジア諸国においては、知識習得重視の模倣的様式が主流であり、反対に、欧米の先進諸国においては、学ぶことの姿勢を問う変容的様式が多く採用されているという点です。
しかし、現在の日本の教育様式の実態は実はもう少し複雑で、一種のねじれ現象にあると言われています。つまり、我が国の文部科学省をはじめとした中央の関心はどちらかというと知識重視の模倣的様式に向いており、反対に、学校現場の教師たちは変容的様式の必要性を実感しているようです。国の関心の傾向は、先般発表された、授業の総時間数と学習内容の増加を盛り込んだ学習指導要領改正案などにも端的に見て取ることができます。PISA学習到達度調査の結果に一喜一憂しながらここ二、三十年間迷いながら「ゆとり」か授業増かと議論されてきた我が国の教育課題への取り組みには、これまでとは違った方法論の改革という視点の導入も検討されてしかるべきであろうと思われます。今までの、「ゆとり」か授業時間増か、愛国心か否か、総合学習か否かという議論や、猫の目のように変わる入試改革の議論など、これら全てに共通しているのは、その教育改革の切り口がみな授業内容の適否や時間的多寡の賛否を問題とする、いわば教育内容をめぐる目的論的アプローチであるという点です。これら目的論的な議論に意味がないというのでは毛頭ありません。知識習得を主眼とした模倣的な教育姿勢も軽視できないのと同様、教育内容を問う議論もこれまで同様必要なものです。しかし、残念ながら、熱心に交わされているこれら目的論のアプローチだけで、例えば、子どもたちの徘徊や居眠りなどの学級崩壊や、先生に相談することさえ躊躇している低学力の生徒たちの抱える悩みなどの問題を解決することはどう考えても困難です。内容レベルの上がった授業が単純に増えるだけであれば、これまでついていくことができなかった子どもにとっては、ますます物理的苦痛が増すだけです。目的論的な解決策は、すでに相対的にできる位置にある子どもたちにとっては有効でも、できない子どもにはほとんど機能しません。そこで、昨今、欧米のみならずアジア諸国を含めた世界各地で、そして日本全国で静かな広がりを見せている学校改革の取り組みの一つが、教育内容に着目するよりも、その授業のやり方と姿勢を変えていこうという方法論による改革です。これは「学びの共同体」と呼ばれ、対話、反省、互恵を重んじる協同的な学びの教室デザインがその大きな特徴です。従来の目的論的な教育改革が縦からの改革であるとしたら、この「学びの共同体」という方法論的な試みは現状の教育課題に対し横から攻めようという改革だと言えます。
もともと、「学びの共同体」は、教育哲学者ジョセフ・シュワブによって提唱されたものです。我が国では教育学者である佐藤学氏がその代表的な実践者ですが、この方法論的に学校改革を実践する「学びの共同体」の具体的な教室デザインや実施マニュアルは、佐藤氏自身が約三十年にわたり学校の中に実際に入り込み、教師や子どもたちと協同で取り組んできた二千にもおよぶ学校改革の経験と事例研究に裏打ちされてきたものです。氏は、学校改革に取り組み出した駆け出しの頃、幾多の失敗も経験し、少しずつ改良を加えながら、ようやく一九九〇年代に「学びの共同体」の具体的な授業デザインと実施方法を確立させました。神奈川県茅ヶ崎市立浜之郷小学校で「学びの共同体」のパイロット・スクールがスタートしたのが一九九八年。また静岡県富士市立岳陽中学校でスタートしたのが二〇〇〇年です。今ではそれぞれ、小学校では「浜之郷スタイル」、中学校では「岳陽スタイル」と呼ばれ、この十年の間に協同的な学びの成果が注目を浴び始め、二〇〇六年の「学びの共同体」実践校は全国の小学校で千五百校、中学校で三百校、そして何と一年後の二〇〇七年には小学校で数千校、中学校でも約千校にも及ぶと言われています。まさに燎原の火のような勢いで広まっています。江戸川区においても、二年前より、二之江中学校において「岳陽スタイル」を範に全校的な取り組みが図られています。全国において、毎年、このように三倍近い勢いで、「学びの共同体」実践校が増えているというのは、それ相応の説得力がなければありえないことです。
では、「学びの共同体」というのは、いったいどのような学校改革の方法論であり、またどのような改革が実践されるのでしょうか。私自身、この半年間、佐藤氏の勉強会に十数回、参加し、「学びの共同体」がいかなる取り組みで、どのような成果がその実践校において生み出されているのかについて学んできました。私の拙い見聞も踏まえ、協同的な学びの方法論とその効果について簡単に整理してみたいと思います。
まず、「学びの共同体」の目的は、教師による優れた授業を行なうことにあるのではありません。そうではなく、教師と生徒、生徒と生徒、教師と教師、さらに保護者や地域も含めた広い相互対話できる学校環境をデザインし、できる子もできない子も一人残らず学ぶ権利を実現し、子どもたちがより高いレベルの学びに挑戦する機会を提供することにあります。どんなに優秀な教師であっても、一度に三十人から四十人の生徒を満遍なくフォローしながら教えていく、つまり学ぶ機会を実現していくことは、もうそれ自体が不可能なことです。まずはこの単純な気付きから、一人の先生対多数の生徒という伝統的な授業の発想を転換します。先生一人が必死になって頑張ろうとすればするほど、いつの間にか先生自身が授業の主人公になってしまい、生徒はますます教育の対象となってしまいます。しかし、あくまでも先生は子どもたちの学びと成長を支援する推進役であり、素材提供者であり、まず、一人一人の生徒が学校の主人公であるという大前提を忘れてはいけません。
第一に、一人の先生が黒板を背に多数の生徒に向かって時間いっぱい語りかける講義形式のいわゆる一斉授業という授業のかたちを変えます。対先生との関係構築を最優先に組まれた、教壇に向かって一斉に生徒の机を並べてきた従来の教室デザインを、四人の男女混成グループからなる班をランダムに決め、その四つの机を向き合わせ、四人が対話学習できる正方形に近い島を編成し、さらにその島を教室全体にコの字に並べるというデザインに変更します。コの字の口の空いたところに教壇は位置します。これで、生徒が一人の先生ばかりを向いていた教室の構造は、対先生のみならず、生徒同士での対話学習が可能なデザインへと変わります。男女混成の四人グループという考えは、佐藤氏らが取り組んできた二千校に及ぶ学校改革事例の経験と研究から得られたものですが、この四人グループでの協同的な学び、対話的な学びにより、お互いが質問し合い、教え合う環境が育まれます。友人との対話性と関係性が増す配置から、居眠りする子どもも、退屈さから教室を抜け出し徘徊する子どもも激減します。一斉授業に比べ、できない子も学習に参加する機会を格段に手にすることができるからです。挙手をして基本的な質問をするのをためらってきた子どもたちは、このグループ編成によって大きな学びのチャンスを手にします。隣の、そして向かいの友人が先生になりうるからです。できる子は友人に教え、手助けすることの喜びと素直な優しさを体感します。これまで一人で全ての生徒を必死にフォローしようとしていた先生にとっても、このグループ編成は大きな助っ人となります。極端に言えば、教室には三十人または四十人の生徒と三十一人、四十一人の先生がいるようなイメージです。こうしたグループ学習を基本に、問いやヒントを出すタイミングを見ながら、適宜、先生が道筋を示す全体学習を織り交ぜていきます。これが協同的な学びの姿であり、「学びの共同体」の教室デザインです。
これは従来の班学習に似たところもありますが、両者には大きな違いがあります。班学習では通常、六人前後で構成される班のまとまりを重視し、班での調査や議論を経てまとまった意見を代表者が発表するといった方策がとられます。しかし、「学びの共同体」では、一人一人異なるであろう意見を無理にまとめることはしません。協同的であるということは、自らの偏見を見つめ、個性と多様性を尊重することが必要だからです。
さて、教室デザインをまとめたら、次に、こうした協同的学びを実践するための他の準備作業が同時進行的に必要となってきます。まず、一斉授業に馴染んできた先生方の意識改革です。何でも自分で教え、自分で生徒の質問に答えようとするスタイルを変えなければ、いくら教室のデザインをコの字型にしても、実質的な内容は何も変わらず、何の変化も起こりません。先生は全て教えたい欲求を抑え、授業の素材提供者、支援者、推進役に徹することが必要です。この先生方の意識改革を確かなものとするためには、先生同士が相互の授業を参観し、ビデオ等で記録された授業事例を復習しながら、先生方同士もまた協同的に事例から学び合う二時間あまりの検討会・研究会が推奨されます。この授業の事例研究は最低でも五十回は経験することが必要とされ、それまでは「学びの共同体」におけるふさわしい先生役はこなせないかもしれないと指摘されています。数ヵ月で先生の意識改革を完成させるのは難しいかもしれません。「ねぇ、先生、ここどうするの?」と生徒から問われたとき、先生は、その問いに答えてしまいたい欲求を抑え、「さぁ、どうだろう? 友達と考えてみようよ」とすぐに言えるようにならなければなりません。
三番目に、授業レベルについてです。「学びの共同体」が、できる子できない子を含め全員に学びの権利を実現する授業デザインを目指すといっても、できない子に授業レベルを合わせ、程度を下げるということは全く意味しません。それでは、できる子が退屈し、彼らの学びの機会が逆に奪われてしまいます。実際は全く逆で、「学びの共同体」の実践においては一斉授業の時よりも若干レベルを上げて授業を行います。たとえそうしたとしても、協同的、対話的な学習が可能ならしめる利点、つまりできない子も容易に質問できる相手と環境がつくられるという利点が機能し、できない子でも授業内容のレベルアップをほとんど意識することなく、友人に質問しながら、自分自身の学ぶ機会を確保できるのです。先生方にとっては、授業内容のレベルが上がるという点と、単純な知識の伝達に終わらない授業、つまりプロジェクト型、問題解決型の授業を準備しなければならない、さらに日常的に公開形式がとられるという点で、従来の一斉授業に比べ、より一層の工夫が必要となります。
「学びの共同体」の教室デザインや実施マニュアルの全てをここに描写することは不可能ですが、以上が、協同的な学びのシステムの概観です。
こうした「学びの共同体」を学校改革の方法論として本区にて実践しているのが、区の教育課題実践推進校でもある二之江中学校です。二之江中では、二〇〇六年四月の導入来、岳陽中学校の元校長である佐藤雅彰氏から直接助言を受けながら、協同的な学びの実践を推進して二年目を迎えています。校長先生に直接うかがったところ、最初の一年目には、教師の意識改革が途上にあったり、新しい教室デザインの環境に慣れる前に卒業を迎えた三年生には目立った成果が見られなかったりなど、すぐに手に取るような結果は得られなかったものの、実践開始二年目を経て、明らかな改善点が現れ出したそうです。まず、業者テストに見る生徒の平均的な成績が偏差値にして四十から五十へとおよそ十近く上がったということ、第二に、取り組み以前に散見された居眠りや徘徊する生徒がもはや皆無になったということ、第三に、生徒の態度が落ち着き、生徒や先生同士の人間関係が深まったということ、などです。さらりと申し上げましたが、「学びの共同体」の実践前まで散見された生徒の居眠りや徘徊などが、取り組み二年にして皆無になったということは、それだけでも大変な事実です。もちろん、生活指導の充実化などその他の貢献要素もあるでしょう。しかし、二之江中は「学びの共同体」実践二年目にして、明らかな手応えを感じ始めているようです。それを裏づけるように、これまでパイロット校から学ぶ立場であった二之江中も、今では逆に、その評判を聞きつけた群馬県や千葉県の中学校から視察をすでに受け入れており、さらに来る三月には山形県、島根県の学校からの視察も予定されているなど、他校からの視察を受け入れる立場になり始めています。
もちろん、二之江中にとっても全てが順風満帆というわけではありません。学級崩壊はなくなっても、まだ学力的に最底辺でもがいている生徒のフォローの必要性は課題として認識されているようですし、また、一斉授業しか知らない新任の先生が転任してくる度にその先生自身の意識改革に苦労してしまうということなどの諸課題に悩まされているようです。
このように本区の二之江中においても積極的に取り組みが進んでいる「学びの共同体」ですが、これまで教育委員会の中でこの学校改革の試みを討議してきた何らかの実績はあるでしょうか。また、二之江中学校における取り組みとその成果を踏まえ、結論を出すにはまだ早い段階ではありますが、現状、「学びの共同体」に対し、どのようなとらえ方をしているでしょうか。教育長の考えをお聞かせ下さい。
教育問題の処方箋、学校改革の解決策に、唯一絶対の万能薬はないと思います。目的論的な縦の切り口も必要であれば、方法論的な横の切り口もまた必要でしょう。しかし、国の教育論議は内容の適否や多寡を問う目的論偏重であったと思います。中学校の授業時間数が約五百五十時間とOECD諸国の中においても最低レベルにあるフィンランドが、PISAの調査結果において世界トップの成績を収めているという事実を、目的論中心の解決を目指す専門家がどのように説明しているのか不思議なところです。学校改革について、方法論からのアプローチを広く考えてよい時期に来ていると思いますが、いかがお考えでしょうか。
以上で、私の第一回目の質問を終わります。