韓国の中央部に位置する「公州」は、高句麗によって漢城(ソウル)を追われた百済が、扶余に移るまで、475年から63年間、百済の都として栄えた街です。
ここには、百済を立て直した武寧王の陵墓や百済王朝の公山城跡など百済を物語る遺跡が残っています。
公州最大の史跡、武寧王陵を含め7つの墳墓が存在する「宋山里古墳群」を訪れましたのでご紹介します。
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古墳群入口の傍に建つ「古墳群の案内図と説明書」です。 |
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案内図の右上・上の丸く見えるところに1号墳から4号墳があり、その手前の丸く見えるところに5号墳、6号墳、7号墳(武寧王陵)の7つの古墳があります。 |
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宋山里古墳群の「入場料金所」です。 |
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古墳群内の石造りの「案内説明」です。 | ||
「宋山里 6号墳」です。 |
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「宋山里 5号墳」です。 |
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「武寧王陵」です。 |
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「武寧王陵」は、煉瓦造りの磚築墳で、玄室は、南北の長さ420cm、東西の幅272cm、高さ314cmの長方形にトンネル型の天井を有していて、煉瓦には、蓮花文、斜格子文などの多様な文様が刻まれています。 | ||
武寧王陵の脇の「説明書き」で、ハングル、英語、日本語の3カ国語で記載されています。 |
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2003年5月にオープンした「宋山里古墳群模型館」です。 |
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「宋山里古墳群模型館」入口です。 |
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「武寧王の陵墓」の断面です。 |
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武寧王か王妃の木製の「棺」。 |
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韓国の国宝に指定されている「墓誌石」です。 王陵に入る蒼ケの中央に、王妃の誌石とともに置かれており、これにより墓の主が武寧王と王妃であることが判明したとのことです。 |
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墓誌石などの「説明書き」で、最左側は、武寧王の墓誌石、最右側は王妃の墓誌石で、この墓誌石によると、王は523年5月7日に亡くなり、525年の8月12日に王陵に埋葬され、王妃は526年12月に亡くなり、529年2月12日に王陵に埋葬されたと記録されているとのことです。 |
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「武寧王陵」です。 |
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「6号墳」です。 |
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「5号墳」です。 |
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武寧王陵の築造過程の模型化の一つです。 |
2008年11月28日