公 州 (コンジュ)


 韓国の中央部に位置する「公州」は、高句麗によって漢城(ソウル)を追われた百済が、扶余に移るまで、475年から63年間、百済の都として栄えた街です。
 ここには、百済を立て直した武寧王の陵墓や百済王朝の公山城跡など百済を物語る遺跡が残っています。
 公州最大の史跡、武寧王陵を含め7つの墳墓が存在する「宋山里古墳群」を訪れましたのでご紹介します。




宋山里古墳群

「古墳群の案内図と説明書」

 古墳群入口の傍に建つ「古墳群の案内図と説明書」です。

「古墳群案内図」

 案内図の右上・上の丸く見えるところに1号墳から4号墳があり、その手前の丸く見えるところに5号墳、6号墳、7号墳(武寧王陵)の7つの古墳があります。

「入場料金所」

 宋山里古墳群の「入場料金所」です。
 ちなみに、大人の入場料は1,500ウォン(約150円)です。

「石造り案内説明」  古墳群内の石造りの「案内説明」です。
「宋山里 6号墳」

 「宋山里 6号墳」です。
 1932年に偶然発見された古墳で、武寧王陵と同じく煉瓦で築造された磚築墳で、その規模は、東西の幅224cm、南北長さ370cmで、壁面には青龍・白虎・朱雀・玄武の四神図が描かれています。
 なお、保存のため玄室は、観覧できません。

「宋山里 5号墳」

 「宋山里 5号墳」です。
 1932年に偶然発見された古墳で、宋山里6号墳の東に接している墓ですが、6号墳と異なり石で造った横穴式石室墓で、その規模は東西幅326cm、南北長さ345cmで正四角形に近いものです。
 武寧王陵と接していて、475年〜538年の百済の王や王族の墓と推定されているが、誰のものかは確認されていないようです。
 6号墳同様、玄室は観覧できません。





武寧王陵

「武寧王陵」

 「武寧王陵」です。
 百済を再建した第25代の武寧王(在位501〜523)と王妃の合葬陵です。
 1971年に5号墳と6号墳の排水工事中に偶然発見された、宋山里古墳群の中で盗掘されていない唯一の古墳で、玄室からは、約1500年間眠っていた王と王妃の棺のほか、金製冠飾、装飾具など108種類、2906点にも及ぶ遺物が出土されています。

 武寧王陵も保存のため、観覧できません。

「武寧王陵」  「武寧王陵」は、煉瓦造りの磚築墳で、玄室は、南北の長さ420cm、東西の幅272cm、高さ314cmの長方形にトンネル型の天井を有していて、煉瓦には、蓮花文、斜格子文などの多様な文様が刻まれています。
「武寧王陵の説明書」

 武寧王陵の脇の「説明書き」で、ハングル、英語、日本語の3カ国語で記載されています。





宋山里古墳群模型館

「宋山里古墳群模型館」

 2003年5月にオープンした「宋山里古墳群模型館」です。
 武寧王陵と5・6号墳は、保存ため実物を観覧できませんが、近くにあるこの模型館でそれぞれの内部が観覧できます。

「宋山里古墳群模型館の入口」

 「宋山里古墳群模型館」入口です。
 模型館では、精巧なレプリカによる玄室の内部や副葬品などが展示されています。

「武寧王陵の断面」

 「武寧王の陵墓」の断面です。

「武寧王か王妃の棺?」

 武寧王か王妃の木製の「棺」。

「墓誌石」  韓国の国宝に指定されている「墓誌石」です。
 王陵に入る蒼ケの中央に、王妃の誌石とともに置かれており、これにより墓の主が武寧王と王妃であることが判明したとのことです。
「墓誌石の説明書き」

 墓誌石などの「説明書き」で、最左側は、武寧王の墓誌石、最右側は王妃の墓誌石で、この墓誌石によると、王は523年5月7日に亡くなり、525年の8月12日に王陵に埋葬され、王妃は526年12月に亡くなり、529年2月12日に王陵に埋葬されたと記録されているとのことです。

「武寧王陵」

 「武寧王陵」です。
 玄室は、全て、蓮の模様の煉瓦で刺繍を施したように美しく積み上げられています。

「6号墳」

 「6号墳」です。
 壁面には、青龍、白虎、朱雀、玄武の四神図が描かれています。

「5号墳」

 「5号墳」です。
 煉瓦形の石を加工して築造されています。

「王陵築造過程の模型」  武寧王陵の築造過程の模型化の一つです。



2008年11月28日

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