雑談目次
日暮らし
雀が消えた


田 敞


桃が満開だ。白とピンクに咲き分けて、田んぼと小川の間の草原に二本、大きく花の枝を広げている。

 以前そこはお花畑だった。東京で暮らしていた女の人が年を取って帰ってきて、少しずつ花を植え広げていった。小川の両側の農道の土手にも萩を並べて植えた。いつ通っても花の世話をしていた。春の盛りも、炎天下の夏も一人でこごまって草取りをしていた。花畑は除草剤も撒けないし、刈り払い機も使えない。鎌と手で取るしかない。花を育てるのは草を抜くということなのだ。

 そのころは、私もまだ電動ではなく普通の自転車で犬を連れて走っていた。だから毎日走っていた。といっても普段は仕事が終わってからだから、そのお婆さんはいない。見かけるのは土日に走るときだけだ。

小川といっても、1間ほどの川幅にコンクリートの垂直の壁になっている川だから、風情というものはない。それでも、夏が過ぎると川を挟んで並んだ萩が咲きそろっているときはなかなかのものだった。

 うちの前にあるごみ集積所にその人がごみを置きに来るときに、たまに顔を合わせると、「きれいですね、楽しませてもらってます」と私の育てている花を褒めてくれた。

家で倒れているのを親戚の人が見つけたときにはもう亡くなっていたとか。その人が亡くなってもうずいぶんになる。花畑は彼女が来る前の草原に戻っている。残っているのは二本の桃と、1本の栗ぐらいになった。そう川の向こう側だけだが萩もまだ残っている。しっかり濃い緑の若芽を茂らせている。草も春の草だから、まだ高く伸び出してはいない。

電動自転車はもうさっそうとは走らない。最近はほとんど乗らなくなった。昼の弁当を買いにコンビニに行くときと、たまに行く図書館くらいにしか乗らない。だから、一度充電すると、いつまでも持つ。すっかり飽きてしまったのだ。知能が発達したから猿から別れて人間になったのではなく、二本足で歩くようになったから人間になった、というのを本で読んで、やっぱり歩こうと、真っすぐ速足で歩くことにした。だから自転車は乗らなくなった。なにも両方やればいいのだろうが、その体力がない。あんまりやると、庭仕事ができなくなる。

 今日は、コンビニに弁当を買いに走った帰りだ。だいたい日に3食を作るのは大変なのだ。だから、昼はときどきコンビニ弁当になる。行っても何にするかいつも迷う。どれもすっかり飽きてしまっている。自分で作るのは、料理というより食い物に近いのだが、それでも自分で作った方が口に合う。コンビニ弁当は味が濃いのだ。

コンビニには県道を行くとはるかに近いのだが、県道は車が多いから遠回りの農道を走る。少しでも、運動になるからというのもあるが。それなら、少しは運動すればいいのだろうが、それはやらない。最近はすぐそこまでのまっすぐ速足もできなくなった。たまに勢いよく歩きだしても、少し行くと膝が痛くなってすごすご引き返してくる。それに、コロナで、長くやっていた公民館のエアロビが去年の春から中止になった。ダンスも今年の1月から中止になったりしたこともあって、家でごろごろしていた。それもあってか、去年の暮れごろからめっきり弱くなった。畳から立ち上がるのも、両手で支えて、ヨッコラショドッコイショと頑張らなくてはならなくなった。なにかが狂ったのだ。

 15年ほど前は毎日1時間ほど犬を連れて散歩していた。犬が死んでからは、それでも、毎日30分ほどは散歩していた。それがだんだん短くなり、去年は5分ほどになり、今年はほぼ0になった。これでは寝たきりが目の前だ。だからせめて1時間に一回は外に出るようにしている。情けないことだ。

少し行くと、道沿いに菜の花が盛りだ。この菜の花は、先日亡くなった、やはり長く一人住まいをしていたおばあさんが育てていた。やはり花好きのお婆さんで、いつも庭中花だらけにしていた。その庭にピンクの桃が咲き、チューリップや遅咲きの水仙が咲き競っている。主を亡くしても健気なものだ。

ゆく川の流れは・・・、えっとなんだっけと、小川の橋を渡る。腹をすかせて弁当を待つ久美子に向けてペダルを踏み込む。ゆるい登りだけれど、電動アシスト自転車はまだまだ健在だ。