雀が消えた
田 敞
いつだったっけ。秋の終わりか、冬のさなかか定かでないが、いつも家の前の道を散歩しているお婆さんが、「雀かわいいですね」と話しかけてきた。
1年ほど前から、いつも、お爺さんと二人で毛がふさふさした中型の犬を連れて我が家の前を通って畔道に入っていって帰ってくる。それまで見かけない二人だから、少し離れたところの分譲住宅に引っ越してきたのか、あるいは、子供たちに呼ばれてきたのかしたのだろう。もう80の半ばを過ぎていると思われるから、田舎暮らしに憧れて来たとしても大決断だっただろう。
で、毎日、二人で散歩している。
最初に出会ったときは、私がウォーキングをしていたときに向こうから歩いてきた。で、犬が遠慮がちに吠えた。私がいつものように腕を上げたりおろしたりして歩いていたから、犬がびっくりしたようだ。まだ大分離れていたから大丈夫だと思ったのだが、犬も慣れない所だから、びくびくしていたのだろう。それとも、お爺さんとお婆さんを守る気だったのかもしれない。
で、近づいたとき、おばあさんが「すみません。あなたが体操したので、びっくりしたのよ」と言って謝った。
「大丈夫ですよ」そして「元気だねえ」と犬にも声をかけた。これからもいつも吠えられたらお互いに気まずいからだ。それ以来、何度も遭ったがもう犬は吠えなかった。1回で私のことを覚えたようだ。
何年か前、若者が、夕方この犬にそっくりな犬を連れて散歩しているのによく出会った。その犬は良く吠えた。だから連れている人は、遠くから私を見つけると脇の道に退避して私が通り過ぎるのを待っていた。そのたびに、「大丈夫だよ怖くないよ」と声をかけていたが、なかなか吠えるのを止めなかった。でもひと月ほどすると、覚えたのか、知らんふりしてすれ違えるようになった。最近はその若者も犬も見かけない。ひょっとしたら、遠くに就職していなくなったのかもしれない。それともこの犬が若者に連れられていた犬なのかもしれない?なら2人を守ろうとしていたのだ。
犬というのは飼い主を良く見ている。お婆さんとお爺さんが、力も弱くそんなに速く歩けないのも知っているのだろう。ちょろちょろ走り回ったり、強く引っ張ったりしないで、私が守っているんだぞとでも言わんばかりの顔をして静かに二人に歩調を合わせて歩いている。
以前、やはり、引っ越してきたお婆さんと歩いていた犬がいた。10年ほどは毎日我が家の前を朝夕歩いていた。最初は挨拶しても知らんふりしていたけれど、そのうち諦めたのか挨拶するようになった。なんせ私はもう年金じいさんをやっていたから、よく庭に出て、花の手入れや、草取りをしていたから、通ると顔を合わせるしかなかった。で、「あったかくなりましたね」とか、「暑いですね」とか時候の挨拶も言うようになった。その時連れていた犬も、お婆さんに合わせてゆっくりゆっくり歩いていた。「あれじゃ運動にならないね」と久美子に言ったりしていた。小さな犬だったけれど丸々肥えていた。去年、しばらく見ないので、よくその人と一緒に歩いていた近所のおばあさんが通りかかったとき聞いたら、「犬が亡くなったので、出なくなったら、歩けなくなったのですって」と言っていた。
来てから数年後にお爺さんを亡くし、今度は犬も亡くしたのだ。
「犬がいたらもっと歩けたのに」と答えた。
我が家の庭の木に群れて騒いでいる雀を見上げながら「餌上げてるの」とお婆さんが聞いた。お爺さんと犬はわれ関せずだ。
「ううん別に。勝手に来てるんだわ」
「そうなの」とニコニコ言って、犬を間に挟んでお爺さんと一緒に歩いて行った。
餌はやらないけれど、水だけは置いてやってる。でもそれは言わなかった。
以前餌をやっていたときもやはり雀はやってきて庭の木瓜の込みあった細い枝の間にとまっていた。「雀なり」と久美子が言っていた。今年は、前の田んぼが休耕田になって、犬稗がはびこって、その落ちた実を食べに来ていた。立ち枯れた犬稗の間に一斉に潜り込んでいく。そばを通ると、一斉に飛び立ったりしていた。その雀が、庭の木瓜の枝にとまりに来ていた。よほど止まりやすいのだろう。
それが、あるとき、春の大嵐で犬稗がみんな倒れてしまった。草の実もその下になったのだろう、田んぼには降りなくなった。ほかのところに餌を探しに行くのか、いろいろなところに飛び立っていくようになった。一時は60羽を越えていたのが、半分ほどになったけれどしばらくは庭の木にとまりに来ていた。暇だから庭の木瓜にとまっているのを数えたりしたのだ。
木瓜に葉が出て緑になると、すっかり来なくなった。
「雀来ないわね」と久美子が言った。
「たぶん子育てで、夫婦で行動してるんじゃないかな」
「どこに巣をつくってるのかしら」
「どこかなあ。昔は瓦の隙間に巣があったんだけど。今は隙間がないっていってたからな」
雀はいなくなったけれど、ヒヨドリはいっぱいやってくる。毎日置くバナナは1時間ほどで皮だけになる。でもそれ以上はやらない。あと一月もすれば北に向かって旅立つんだから。そうすれば自分で生きていくしかないんだから。
雀を見かけなくなってお婆さんはがっかりしているだろうか。ここしばらく会わない。理由は、私が足を痛めて歩かなくなったからだと思う。外に出ても、庭の遠くで、椅子に座って盆栽いじりをしているから、顔を合わせることもなくなったからだと思う。きっとそうだと思う。
盆栽の紅葉の芽を摘んでいるとすぐ上で鶯が鳴いた。ボタンザクラも花びらを散らし始め、強くなった日差しの中でパンジーはまだまだ盛りだ。