日暮らし
著者 田 敞
「カナカナが鳴いてる」
久美子が言う。開けた窓のすぐそばでひぐらしの声がする。
「まだ下手ね。とぎれとぎれでかすれてる」
「よく鳴いてるけど。久美子の耳がとぎれとぎれなんだよ」
「ほほ、そうね」と笑う。
今年の梅雨は長い。しかもしっかり梅雨だ。いつもは気象庁が梅雨入り宣言をしたとたんに晴が続くのだが、今年はそのまま雨になった。それっきりもう2ヶ月くらいになるのに、お天道様を見かけない。こんな律儀な梅雨は久しぶりだ。だから、昼間なのにひぐらしが鳴いた。夕方と勘違いしたのだろう。いや、短い命、雨がやんだのでここぞとばかり鳴いたのだろう。
雨の合間の散歩で、ひぐらしが杉林で鳴いているのが聞こえたのはもうだいぶ前だ。ニイニイゼミが庭でか細く鳴きだしたのももうだいぶ前になる。だからもう暑い夏が始まってもおかしくないのだが一向にお天道様は顔を見せない。
今年の春は、黒いアゲハ蝶が姿を見せなかった。ナミアゲハばかりがいっぱい飛んでいた。それがこのところ、数は少ないのだけれど、ちらほら姿を現している。アゲハ蝶は蝶道をつくるというから、1匹の蝶がぐるっと回ってきているだけなのかもしれない。なじみになった赤星ゴマダラチョウは今年も姿を見せている。ひらひらふらふら庭を飛んでいるのですぐ見つかる。でも、どうも嫌われ者らしい。外来種だからということだ。キャベツを食べるわけではない。トマトを食べるわけでもない。榎という、ほとんど何にも利用しない木の葉をちょっとかじるだけだ。同じように幼虫が榎の葉を食べるゴマダラチョウや、国蝶のオオムラサキはほとんど見かけないのに、この蝶はいたるところで見かける。目立つから余計嫌われる。でもこの蝶がいたからといってだれも何の害も受けないのだから嫌うこともないと思うのだが。ツマグロヒョウモンも、本来はこのあたりの蝶ではなく、ちょっと南の方にいる蝶だ。私がここに住み始めたころは見かけなかった。それが温暖化でこのあたりまで進出してきて今は普通に飛んでいる。やはり、同じように幼虫が菫を食べる他の豹紋蝶はほとんど見かけない。新天地に進出したものの強みなのだろうか。
ところが、そのツマグロヒョウモンを今年はほとんど見かけない。原因は私にあるのかも。
春の花を夏の花に植え替えをしようとしてプランターをひっくり返したら、土の中から根切虫が何匹か出てきた。コガネムシの幼虫で、カブトムシの幼虫をそっくり小型にした形をしている。名前の通りこの虫は植物の根を食べる。だから、これが土の中にいると、植物が育たない。去年、勢いが悪くなった松の盆栽の鉢の中にも、この根切虫が数匹いた。そのために根が食べられてぐらぐらしていたようだ。それで、盆栽にも、花のプランターにも、浸透移行性の殺虫剤を撒いた。あまりよく手入れをしていないので、野生の菫が生えている盆栽の鉢で育っていたツマグロヒョウモンの幼虫が死んでしまったのだろう。今年はまだ2匹しか見かけていない。
野生の菫はなぜか盆栽の鉢にかってに生えてよく育つ。周りの地面には何故か余り生えない。だから、鉢を消毒すると、それに頼っていたツマグロヒョウモンが死に絶えたのだろう。
そればかりではない。いつも、花があと少しで咲く頃になるとバタバタ倒れてがっかりさせられていた百合にもその殺虫剤を撒いた。そのおかげか、みんな倒れずに見事に咲いた。それはいいのだが、その花に来て花粉を食べていたハナムグリが次の日花の中で死んでいた。薬を撒いてからほぼ2カ月たつのにまだ殺虫効果はしっかり残っていたのだ。その後も、ハナムグリの死は続いた。ということは、プランターに咲いている花の蜜を吸いに来る蜂や蝶も死んでいるのかもしれない。すぐに死なないから、どこかに飛んでいって落ちるのだろう。
蜂や蝶はとても少なくなっている。趣味の園芸でもそうなのだから、日本中に広がる田んぼや畑の農薬の影響は大きなものがあるだろう。でも田んぼも畑も農薬なしではやっていけないし。この町の田んぼはほとんど毎年ラジコンのヘリコプターで薬を撒いている。だから、どこの田んぼにも普通にいた蛍は1匹もいなくなった。うじゃうじゃいたイナゴもいない、空を埋め尽くしていた赤とんぼも数えるくらいだ。ここに住みだしたころは家の中まで鬼ヤンマが入ってきていたのに、今は見かけることもない。
夏の夜は窓ガラスに大きいのから小さいのまでいろんな虫がいっぱいやってきたのに、今はまるでいない。築40年を過ぎて現れたヤモリも、ごくたまに、サッシのガラスの向こうをススっと走るけれど、捕まえる虫などどこにも見えない。あれでは飢え死にしてしまうだろうと心配になる。
最近、テレビで、池の水を全部抜くとかいう番組をやっている。その中で、外来生物が生態系を破壊すると言って、いろんな生き物を悪者扱いして駆除している。けれど、日本の在来生物を絶滅に追い込んでいるのはそれらの外来生物ではなく在来の日本人なのだ。いや、2500年ほど前に大陸から渡ってきた弥生人は外来種か。それ以前の縄文人も、大陸から渡ってきたようだし。
外来とか在来とかは生きものには関係ないことなのだ。人間以外の生き物には国境など存在しない。国境が必要なのは欲の深い人間だけだ。
今、歴史上最大の大量絶滅が起こっているという学者もいる。その原因は地球温暖化だという。それが本当だとしても、このあたりの蛍や、イナゴや、赤とんぼがいなくなったのはたぶん農薬だ。少なくとも、気温が上がったり、外来生物が来たためではない。
でも、田んぼや畑に罪をなすりつけて澄ましてはいられない。私も農薬で生きものを殺しているその一人なのだ。
「いつだったっけ、8月になっても雨ばっかりのときがあったよな」
「新島行った時よ。昨日まで雨ばっかりだったのよ。お客さんよかったわ、って言われたの覚えてる」久美子が言う。
「あの子らもまだ小さかった」
「大きな水ぶくれ作って」
そう、あまりに日差しが強くて久美子は足におおきな水ぶくれを作った。
「昔だな」
久美子の耳も遠くなり、私の目も片方がかすみだした。ひぐらしは鳴きやまない。
初めてひぐらしの声を聞いたのは浪人の時だ。同じ浪人の友達に虫取りに誘われて郊外まで網を持って出かけた。でもなにも獲れなかった。帰り、日暮れて、とぼとぼ林の道を歩いているとひぐらしが鳴いた。
「昔はもっとわびしい声だった気がするな」
「そう」
「うん」