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姉妹
著者 田 敞
日は中天にかかり、真夏の庭は燃え盛っている。でも、広い縁側とサッシで庭に面した明るい部屋は、クーラーがしっかり冷やしている。
1年ぶりに訪ねてきたマツ子婆さんがニコニコ大きな声で話している。あと少しで90になるので、耳が少し遠いのだ。
「今トマトが盛りでな。毎日そりゃ忙しいわい。義男も遊ぶ暇もなくて、かわいそうじゃが、まあ、それが楽しみでやっているから。若いころから、遊びよりハウスにいた方が楽しいという子じゃったから。お父さんとは全然違ってた」
マツ子婆さんは代々の農家に嫁いでいった。それも、兼業ではなく専業農家だ。嫁にいってから、夫と共に、ずっとトマトや大根を作ってきたから、すっかり腰が曲がっている。それでも、去年来た時は独りで歩けたのだが、今日は車いすに座って、娘に押してもらって上がってきた。縁側には、この家の、松子婆さんの二つ違いの姉の知恵さんが、やはり歩けないので、出入りするための車いす用の移動式の簡易スロープがある。この家の娘の春子さんが設置したそのスロープを押してもらって上がってきた。
「そうかい。義男さんも元気かい。そりゃよかった」知恵さんがニコニコ言う。
「中国の人も、よく働く人で助かってるよ」
海外からの技能研修の人を2人雇っていると去年言っていた。農家もグローバル化のようだ。
「私も前のようには力がなくなってね。コンテナが持ち上がらないんだよ。年には勝てないねえ」マツ子婆さんが残念そうに言う。
「そうだよ。私なんかは、流しにつかまって、自分の使った茶碗を洗うのだけがやっとだよ。洗濯ものだって自分では干せないんだから。みんなやってもらって、作ってもらったのを食べるだけで、ありがたいことだよ」
知恵婆さんが言う。
「娘さんがそばにいるからいいよ。うちは男だからね。飯作ってやらなくちゃならないからな」
跡取りの義男さんは何の加減かいまだにひとり者だ。結婚して家を出た姉や妹がいろいろ世話したのだが、まとまらなかった。夫が数年前になくなったので、それ以来息子と二人暮らしだ。
「兄さんよくやってるわよ」
娘の登美子さんが言う。登美子さんは、時々、母親に会いにやってきては、気分転換にと連れ出したりしているという。
「うん、義男は良くやってる」とマツ子婆さんはニコニコ言う。
マツ子婆さんが溺愛しているので、縁談がなかなかうまくいかなかったという話もあるくらいに息子が大好きなのだ。
「そうだ」とちょっと考えてから、にこにこして、「トマト持ってきてやればよかったなあ」と言う。
「大丈夫だよ、私がちゃんと持ってきたよ」
登美子さんが言う。マツ子婆さんはトマト持ってきてあげればよかったともう3度言った。きれいに並べたトマトを二箱土産に持ってきたのだが、すっかり忘れているようだ。去年来た時も少し頓珍漢な事を言っていたが、今年はそれが進んでいるようだ。
マツ子婆さんは半年前から施設で暮らしている。一生懸命息子にご飯を作ろうとするのだが、黒焦げの鍋が増えるだけになった。義男さんに台所に入るのを禁じられていても、昼間、義男さんが農作業に出ている間に黒焦げの鍋を作ってしまう。とても危なくて施設に入れることにした。
「ここのお父さん見えないけど、今日はいないのかね」マツ子婆さんが言う。
「もう5年前に死んじゃったよ」知恵婆さんが言う。
「ああそうじゃったなあ」マツ子婆さんが答える。
「うちのもなあ、長く寝たっきりだったからなあ。生きてりゃのう、良かったのに」
「んだのう。冷凍してとっときゃよかった」知恵婆さんが答える。
「そうなあ。おしいことした」
「また、哲夫のとこ行きたいのう。楽しかったのう。ハル姉ちゃんと話せるし」マツ子婆さんが言う。
「姉さんももういないよ。2年前に死んじゃった」知恵婆さんが言う。
一緒に遊びに行ったのは去年のことだ、その時はもう晴子さんはいなかった。話したのは、息子の哲夫さん一家とだった。
「ああそうじゃった。晴子は唐きび作るの上手だった」
「哲夫さんが今やってるよ。この前いっぱい持ってきた」
「そうか。うちも義男がよくやるから助かってるよ。力仕事は男じゃのう。まだまだ負けんつもりでも、やっぱりかなわんなあ」
マツ子婆さんは、今も家でトマトを作っているように話す。老人ホームで暮らしていることは言わない。ここに来る間に忘れたのか、それとも、恥ずかしいと思っているのか、どちらだろうと知恵婆さんはチラッと思う。でも聞き正したりしない。
二人は積もった話に花を咲かせる。庭では、蝉たちが熱い空をかき回している。遠くでツクツクボウシの声がする。夏も盛りを過ぎて行く。