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海のあなたの空遠く
テレビがどこかの温泉を映していた。お笑い芸人が二人湯に入っていく。お尻が丸出しだ。
「じいちゃんの裸なんか見たかないんだけど」と、横でいつものように寝転んで本を読んでいる久美子に言う。久美子はウンでもスンでもない。
「最近は、風呂に入るの男ばっかりだもんなあ。昔は水戸黄門だって由美かおるがいっつも風呂入ってたのに。世の中御禁制ばっかりだ」
「そお」
これがいけ面なら目が輝くのだろうけど、爺ちゃんの裸では触手は動かないようだ。
「別荘なら、温泉があるところがいいな」
「別荘持つなら、そのお金でいろんなとこ行った方がいいわよ」と今度は返事が返ってきた。
「別荘にするんじゃなくて、この前言ってた鉾田の別荘の話」
「ああ、あれ」
つい先日、久美子が、「バブルのころ鉾田の海のそばに、たくさん別荘が建ったんだって。それが、税金を払うだけで仕方がないから、30万とか50万とかで売ってるのを、お爺さんが買って、直し直し住み着いてるんだって。そんなお爺さんが4,50人いるって」と言っていたのを思い出した。
「買ったら」と言うのを、「やだ、爺ちゃんと、ヨロヨロ、ヨロヨロ散歩するの」と笑った。自分も、もうヨロくらいには足を踏み込んでいるのに。
「なんでお爺さんばっかりなんだろう。婆さんはいないの」
「そうみたい。みんな一人住まいみたいよ。どうしてわざわざそんなところに住むの」
なんだかとってもわびしそうな感じだ。
「50万てったら、都会の半年分の家賃にもならないからじゃない。悠々自適の一人住まいってわけじゃないんじゃない」
「そうね」
なるほどと納得したようだ。
「前テレビでやってたけど、高速のパーキングで車住まいをしている人の中のお爺さんが『75だから部屋貸してもらえない』って言ってた。孤独死したら後始末大変だし、その後部屋の借り手がなくなるから貸せないって、不動産屋に断られるって言ってた。部屋代は払えても、年齢制限があるみたいだよ。そんな爺さんが買ってんじゃない」
「そうかもしれないわね」
「婆さんはどうしてるんだろ。公民館だって、老人ホームだって婆さんばかりで爺さんはあんまりいないよ」
「そうよね」
「退職したら田舎住まいなんて旦那が言いだしたら、奥さんは『嫌よ田舎なんて』、って、自分は都会に残って、爺さんだけ田舎におっぽり出すのかな」
「そうかもよ。都会の人から見ると、田舎なんてなんにもなくて、人との付き合いばっかりわずらわしいだけって感じでしょ」
「女の人はそうかもな。男は、仕事辞めたら知り合いはだあれもいないもんな。近所づきあいもないし。だから、ここに住まなくちゃって未練はないのかも」
田舎に住んでいながら、図書館で「田舎暮らし」なんて雑誌を見たりしている私は言う。でも、その雑誌があるということはそれを読んでいる人がほかにもたくさんいるということだ。田舎なのにやはり田舎を憧れる人はいるようだ。
「奥さんの方だって、嫌がってるって昔よくテレビでやってた。旦那はいつも会社に行ってて昼間は一人で自由に居れたのに、定年で昼間から家にいるもんだからうんざりなんて。団塊の世代が次々定年になってた時代かな。自由を返して、って叫んでたな。」
「そうかもよ」
久美子は満面の笑みだ。でも言い返さない。退職後、昼間っから家でごろごろしているから、なにを言ってもごまめの歯ぎしりになるから。で、
「伊豆あたりなら、温泉もあるし、いいんじゃないかな」と言う。
「伊豆」
伊豆は無理でしょ、っていう顔だ。
「ずっと前、みちこさんが、姉さんが、伊豆の別荘いらない、って言ってたからもらわないって俺に言ってたよ。税金ばかりかかるので、ただでもいいからもらってくれる人探してるんだって。震災直後だったから、海のすぐそばの物件は売れないって不動産屋に断られたみたい。伊豆にもいっぱいあるんだよ」
「行ってみたら」久美子は言う。どうせ口ばっかりだからって顔だ。目はもう本に戻っている。
ただひたすら働いてきて、やっとそれが終わった。腕を磨き、誇りを持つために努力を重ねてきた。恥ずかしくない仕事をするためにすべてをそれに注いできた。地位や名誉や、金や、とにかくやらなきゃ家族もろとも奈落の底だ。でも、もう、できない仕事を必死でこなさなくてもいい。子供は独立した。三途の川までなんとか行き着く金はある。やっと好きなことだけやってていいことになった。ところが女房がいる。世のしがらみと共に女房を捨て、独りのんびり海を眺めて暮らしたいと思ったのだろう。実現するには金が足りない。頑張って二束三文の別荘くらいが関の山だ。うらやましい。
適当に生きてきた怠け者の私だって自由にあこがれることもある。遠いどこか知らない所で暮らしたらどうなんだろうと考えることもある。新しい人と出会って、新しい恋をして、なんて、はかない幻想を抱くことだってある。
熟年離婚を望むのは女性ばかりの特権じゃない。爺ちゃんだってまだまだ隅に置けないんだ。とこっそり久美子を見る。頬杖ついて本を読んでる。ま、しゃあないか。どこに行っても同じようなもんだ。
「どうしてため息ついてるの」と久美子が言う。
「ついてなんかいないよ」
私はあわてて言う。
「そうお」
オットットだ。何でも聞こえるんだから。