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切り株
田 敞
桜の木を切った。
「教室の雨どいの中すごかったの。草がいっぱい。取ったら、泥と枯れ葉がいっぱい詰まってて、きれいに取れたからよかったけど」と言う。
私は昼寝を覚まされて、寝ぼけ半分で、「取れたんだ」と生返事する。草の根が、しっかり絡まって塊になった様子が浮かぶ。
「桜の枝がかぶさってて、どうしょうもないのよ」
だいぶご立腹だ。暑い中、外で脚立に上って掃除しているのに、夫はのんきに昼寝してるんだから当たり前か。
以前久美子が塾をやってた建物の雨どいに桜の葉が降り積もったのだろう、何年も前から草が生えていたのは知っていた。年々その草が広がっていた。
「うちの雨どいも詰まっているし。暗いし。もう切っちゃわない」
「いいよ」
私も、以前から気になっていた。桜の木はかなり大きくなっていて、これからもっと大きくなるかと思うと憂鬱にはなっていた。
二人で庭に出て検討を始めた。
「切れるわよ」と久美子は言う。
「あの枝が無理だと思う」
家の屋根に大きくかぶさった枝を指す。
「大丈夫よ」
久美子は言い張る。何としても説得して切るつもりだ。たぶん私が渋っていると思っているのだろう。
「そのまま倒したら、必ず家の屋根壊れるよ」
枝といっても、元の方は二十センチくらいの太さがある。幹ごと切り倒したら、それが屋根を壊すのは目に見えている。
「あっちだって」と、教室の方に伸びてる枝を指す。
「自分では絶対無理だよ」
「じゃ、便利屋に頼も。今頼まなきゃまたずるずると延びてしまうでしょ」
「ああ」
私は、「便利屋。なんで。庭木を切るなら庭師か植木屋じゃないの」と思う。でも黙ってた。私のいうことなんか聞く訳ないのだ。
久美子は大急ぎで家に入って電話帳を取り出している。
予定の日は前日からの雨が続いていて、四日延ばしになった。「見おさめを泣いてるのかな」と窓から見ながらちょっとの間思った。
次の予定日は朝から快晴だった。男たちが四人来て、ワイワイ相談しながら、仕事にかかった。私が、あっちの方で盆栽の松の芽を一本一本切っているところに久美子が来て、「上に登って切ってるから見てみたら」と言った。私は、元塾の屋根越しに見える、桜の木のてっぺんを見た。葉の陰に、頭が動いているのが見える。
「いい」
私は、朝から続けている盆栽の松の芽を切るのに戻った。
それで今は切り株になってしまった。
「いっぱい楽しませてもらったからいいでしょ」
部屋から切り株を見ていたら言う。
「ああ」私は答える。
「明るくなったわね」
「ほんと明るくなった」
「最初はどれくらいだったの」
「割り箸くらい」
「え。そんなだった」
「そう。通販で買った苗だから。四十年たつと大きくなるもんだ」
「四十年楽しませてもらったじゃない」
「まあな」
ここに住み出してあと少しで四十年になる。最初に植えた木の一本だ。桜の向こうに黒い切り株が見える。姫しゃらの木だ。もうずいぶん前に私が切った。あまりに成長が速いので切った。うまく家と反対の方に倒れたからよかったが、考えていた方とはまるで違った方に倒れた。怖い思いをした。
なんだって過ぎて行く。ここに住みだしてからもたくさんの人と知り合った。もう会わない人がいっぱいいる。ヨサコイの人たちはどうしているだろう。ずいぶん仲良くしてくれた。一緒に、分からないエクセルを習ったおばさんたちはどうしているだろう。みちこさんの喫茶店で会った人たちはどうしているのだろう。みちこさんとももうずっと会わない。あんなにおしゃべりだったのに、人が来なくなって、どうしているだろう。
みんな電話をすれば会えるのだろうが、懐かしくなっても電話はしないだろう。
以前、四国遍路の途中、浪人の時住んでいた下宿を見に寄り道をした。なにもかもがすっかり変っていた。初めて飛んでいる蛍を見た小川はどこにもなかった。下宿もなかった。駅には学生さんがにぎやかだったが、駅舎はすっかりモダンになっていた。何もかもがすっかりなくなっていた。
「ひよ、とまるとこなくてびっくりするかな」と久美子が言う。
「だいじょうぶ。マグノリアにとまるよ」
毎年秋にバナナを食べにくるひよどりの話だ。
「百舌がとまるとこなくて困るかな。いっつもてっぺんにとまって鳴いてたらから」
私が死んでから百年たったら、このあたりの名物になるだろうか、と思っていたのだが、今は切り株だ。