学力

2015,2,15


高田敞

 先日、朝日新聞の記事に学力調査の結果が報道されていた。

 それによると、ゆとり教育時代に比べて、その後の、新指導要領による今の教育の方が子供の学力が上がっているとあった。そして、だから、ゆとり教育より今の方がいい教育だというようなニュアンスの報道だった。

 なるほどその通りかもしれない。しかしなんとなく引っかかる。手放しで、学力が上がった、やはり詰め込み教育はいい、ゆとりはだめだ、といえるだろうか。疑問に思ったので考えてみる。

 今の教育制度の方が学力が向上したということは検査結果から確かである。そこに問題があると考えたわけではない。問題と思うことは、だからそれがいい教育である、という結論になっているところである。

 今の教育の掲げている目的は、まず学力向上である。そのために勉強の時間を増やしたのだから、学力が上がるのは当たり前である。勉強をいっぱいしたら学力が上がるのは当然である。なにも検査しなくたってそれくらい分かる。

 ゆとり教育は目的が違う。目的はゆとりである。だから、勉強の時間を少なくして遊びの時間を入れた。当然学力は下がる。誰が考えたってわかる。

学力が下がるのがわかっていて、なぜゆとり教育などというのを始めたのだろうか。問題はそこにある。

 ゆとり教育ができたときは、学力学力と、子供たちを勉強に追いやって、それでいいのだろうか、というそれまでの学力中心主義の考え方に疑問が出された時期であった。子供たちをもっとのんびり過ごさせてやってもいいんじゃないか、と大人たちが考えだした。だから、勉強の時間を少なくして、遊びの時間をつくったりした。勉強時間を少なくして、遊ぶのだから学力は下がる。学力が下がっていいのだろうかという意見ももちろんでてきた。それに対して、今学校で習う学習は本当に必要なのだろうかという意見が文部大臣から出された。学力は学校の中では必要だが社会に出たらどうなのだろうと意見だ。関が原の戦いが何年にあったとか、三角関数とか、植木算とか、英作文とかを社会に出て使った人は何人いるだろうか。あなたは今まで何回英語で話したかと聞かれたら、ほとんどの人は数回と答えるだろう。2次関数の式など、一度も使ったことがないのではないだろうか。中学校までに習うことで、難しく苦労したものほど、社会に出てから使わない気がする人は多いと思う。そんなものを必死で勉強させて、二度と来ない子供時代を勉強一辺倒にしていいのだろうか、という考えだ。そこで、子供たちには、社会に出て本当に必要なことに学習内容を減らして、余った時間をのんびり過ごさせてやってもいいのではないだろうか。それが、大人の温情というものだろう、というわけだ。だから、学力が下がるのは織り込み済みだった。

 ほかにも理由があった。外部圧力である。

そのころは、日本がヨーロッパの経済を追い越し、ヨーロッパの人たちから、日本人は働きすぎだ、だから俺たちの経済を圧迫している、がむしゃらに働く日本人と競争して仕事仕事に追いやられるのはごめんだ、俺たちは人間らしく豊かに生きたいんだ、日本人はおれたちを圧迫しないように、働くのを控えろ、という圧力だ。それで、日本も、週休2日制とか、周40時間労働とかの法律ができた。その波が、学校にも及び、学校も周休2日制になり、ゆとり教育になった。

 それと、そのヨーロッパの人たちの考え方にも大きな影響を受けた。今まで、暮らしのために必死で働いてきた日本の人たちが、やっと豊かになり、経済的にゆとりができたので、経済以外にも目が向くようになった。そこに、ヨーロッパの、人生を楽しく暮らすという考え方が入ってきた。仕事は仕事、生活は生活。家族と過ごす時間や、自分の楽しみのための時間をたっぷりとり、人生を楽しんでいるヨーロッパの人の暮らし方や考え方だ。それまでの日本は、休日は仕事のために英気を養うためにある、とか、家庭は仕事に専念できるように夫を支える場である、とかいう考え方であった。人は、会社の稼ぎのための労働力にしかすぎなかった。

 おそらく、政治家も、経済では世界1,2を争うまでに成長した、今度は、国民の暮らしかたも一流国にしよう、と考える人が出てきたのだろう。そりゃ、経済は発展したかもしれない、しかし、暮らしは働きアリではないか、とヨーロッパの人から笑いものにされないように。その頃は政治家たちのなかにも夢のある人たちがいたのかもしれない。永井文部大臣のように。

 それがあるときまた学力教育に変わった。人生より学力になった。怠けるな、遊ぶな、がんばれ、生きがいを持て、目的に向かって一途にまい進しろ、それが生きる意味だ、というわけだ。役立つもの以外はすべて捨て去れというわけだ。

 大人世界がまずそうなった。競争原理とか、成果主義とか、のんびり過ごす終身雇用は悪だとか始まって、今は、正社員は派遣に切り替えよ、になってしまった。人が経済コストによって計算されるようになってしまった。教育が、人から、学力という数jに置き換えられてしまったのもそこからきている。

 これは、新自由主義という経済の考え方が、アメリカから導入されたことによる。その考え方の基本は、まず、特定の金持ちにすべての富を集中する。すると、そのおこぼれがすぐ下にこぼれてくる、そこからこぼれたのが、また下にこぼれる、それが順繰りに最下層まで行く、するとみんな潤う、という考え方だ。新、とついているが、これは、昔の日本の、地主と小作の関係と同じだ。小作が汗水たらして作った米を、まず地主が持っていく、そして、おこぼれを小作が押し戴く。地主は、いつも豊かだが、小作はいつまでも水飲みである。そして生かさず殺さずである。一所懸命に働けという。実るほど首を垂れる稲穂かなだよ。働かしてもらっている地主さんのために一生懸命働きいつも感謝するのだよ、というわけだ。新自由主義も同じだ。富を作るのは働いている人だ。それを株主が配当という形で持っていく。どこかにいる大株主が何十億円もの配当金を持っていく。寝る間もなく働いて利益を生んだ派遣社員は、やっとこさ暮らしていて、結婚もままならない。これが、すべての産業で行われている。アメリカなどの、ヘッジファンド、陰でハゲタカ産業といわれている人たちが、日本の働く人たちが汗水たらして作った富をかっさらっている。がんばれ逃げるな、努力は報われる、一生懸命働くことこそ素晴らしい人なのだよ。

むしゃらに働くことしかない時代になってしまった。

 だから、子供たちも、学力学力にされてしまった。勉強はほどほどにして、楽しく遊んだり、家族や友達と、いろいろなことをして、豊かな生活を送るなどという習慣を身につけてはならない。仕事仕事でがむしゃらに働いて、遊びや、趣味や、家族に、うつつを抜かすような大人は、経済効率が悪いから、子供の時代から、よそ見しない人間にしようということなのかもしれない。時代が変わった。新自由主義という名の、新奴隷主義の時代の良き担い手としての、教育に変わってしまった。

 学力が上がったから、それはいい教育であるとはいえないと思う。二度とない子供時代を楽しく過ごすことを犠牲にした学力は、楽しく豊かに暮らすことを犠牲にして、成果ばかりを追究させられて心身ともにすり減らす人生の始まりなのだということを考えなくてはならないと思う。

 子供時代は勉強に追いまくられ、大人になって仕事に追いまくられ、生涯、株主様のためにあくせく働くのがいい生き方と、えらい人が教え込んでいるのかも知れない。