高田敞

 おや、と思って耳を指で押さえる。耳を押さえても音の大きさは変わらない。音が変わらなければ耳鳴り、変われば蝉の鳴き声。

「蝉がいなくなったので、静かになったな」

そばで寝転んで、新聞を読んでいる久美子に話しかけた。久美子は新聞も好きだ。寝転ぶのも好きだ。新聞は父親譲り、寝転ぶのは母親の遺伝なのだろう。とにかく、1時間でも2時間でも気のすむまで読んでいる。新聞もきっと本望だろう。

「そう」久美子はめんどうくさそうに答える。

「うん」

「分からない。耳鳴りが大きいから」

 ここ数年、二人でどちらの耳鳴りが大きいか競争している。

「そうか」と言ったとたんに蝉が鳴きだした。

「あれ、聞こえたのかな」

「聞こえたのよ」

 久美子は新聞から目を離さずに言う。そして、

「あれ、ツクツクシヨウツクツクシヨウって鳴いてるんでしょ」と久美子が言う。

 オットット、と慌てて、

「まあ、そやろな」と、思わず故郷言葉が出てしまう。

「雌来るの」

「来るんちゃう」

「見たことない」

「ほんまそやわ、見たことあれへんなあ。赤とんぼは秋になるといっつもつながってるのに、蝉はいつもひとりやわ」

 この前まで、すぐ前の桜の幹に、いっつも止まって鳴いていたアブラゼミを思い出す。2,3匹いるときでも互いに離れたところに止まって、ジイジイ鳴いていた。そばに雌がいるのを見たことがない。まあ、雄雌の区別は遠くからはつかないが、2匹でそばにいるのを見たことはない。まして、赤とんぼのようにつながっているのは論外だ。

そのアブラゼミはもう鳴いていない。聞こえているのはツクツクホウシだ。それも1匹だけでどこかあちらの方で鳴いている。ツクツクホウシは涼しいのが好きなのか、夏も盛りを過ぎたころからこの辺りでは鳴きだす。長袖の季節になっても鳴いていたりする。

「みんなでおいでおいでってがんばってるから雌ゼミはどこに行っていいかわからなくなるのかも」久美子は言う。

「雌だっていっぱいいるから、早い者勝ちってなりそうな気がするけどな」

「雌は恥ずかしがり屋なのよ。人が見てるところではデートしないのよ」

「あ、のぞいてる、よしとこ、てわけ」と私は笑う。

「昼間話しつけといて、夜こっそり会ってるんじゃない」

「そうかも」

「7日しか生きないんだから、鳴いてるうちにどんどんお爺さんになって、やっと雌がきたと思ったらもう駄目ってポトッと落ちたりして。一番悲劇よね」

「そいつはかわいそうだわ。7日だもんな。思いを遂げずに昇天するセミはいっぱいいるかもな」

「でも、土の中で7年暮らしているんでしょ」

「うん、たぶん」

「そしたら、そっちの暮らしの方が本当の人生だから、きっとそっちで楽しく暮らしてるのよ。ごそごそ土を押し分けて、こんにちはおじゃましますなんてやってるのよ」

「そうかも。どっちなんだろうね。『しようしよう』と、鳴き続ける7日のために7年土の中にいたのか、それとも、のんびりと過ごした7年間の幸福を次に譲るためのつけたしの7日なのか」

「そうね。蝉しか知らないわよ」

「蝉にわかるかな」

「わかってるわよ。人間の言葉を話さないだけで」


 前のしだれ桜の枝が揺れる。風が開けたサッシから吹き込んできた。ひんやりとした風だ。8月ももう少しで終わる。桜の葉の上で踊っている光もすっかり弱くなっている。

「秋だね」

「涼しくなったわね」久美子が答える。

「紅茶飲む」

「うん」

 久美子は立ち上がって台所に行く。

私ももう67年生きてきた。7日、7年、70年。過ぎてしまえば大差はないのかもしれない。

黒いあげは蝶が、ふわりと庭に飛び込んでくると、少し踊って、それからあわただしく風に乗って飛び去っていった。