若く見えるわねえ
田 敞
「若く見えるわねえ」
おばさんが言う。年は分からないけど中学生の子供がいるというので、たぶんおばさんだと思う。この歳になると若い人の年齢は皆目見当がつかない。
私は5分間の自転車こぎをしている。おばさんはそれを見守っているのだ。ここにリハビリに通いだして半年になるから、仲良しなのだ。
それで、私が、昨日誕生日で76歳になったと言ったら、そういう返答だ。
「いや今どきの年寄りは若く見える人はいっぱいいるよ」
「そう」
「栄養が良いから。昔は50で死んでたけど、今は85だから。みんな長生きする分年取るのも遅いんだよ」
「そうかもね」
「いつもここでかかってる歌、15でねえやあは嫁に行き、って。今は40でも結婚しないみたいだから。寿命に合わせて何もかもゆっくりになったんだよ。その分年取るのもゆっくり」
「そうよね。80って言っても元気な人いっぱいだものね」
「おれの知ってる80の人なんか、女の人口説き回ってたよ」
ちょっと鯖読んだけど75は過ぎてたと思う。
「へええ。すごいわね」
おばさんは笑う。
「それが成就するんだからすごいよ」
「ほんとに」
おばさんは驚いている。そりゃそうだろう。80のお爺さんが女性を追っかけるだけでなく、成就までするなんて想像もできないのだろう。
「ほんと。おれもまさか成就してるとは思ってなかったけど、そうなんだって。20も30も下の人だよ。それも複数だよ」
「うそお」
おばさんはその人に会ってみたそうな顔をしている。
「みんな旦那がいるんだよ。ふんとまあだよね」
「それって不倫よね」
「そう。男は独り者だけど、女性は不倫だよな」
「そうなんだ」
あこがれの目だ。
「なんで分かったかというと、その人と俺との共通の友達が、なんかの時に話したんだ」
「噂話」
「そう噂話だけど本人から直接聞いたって言ってた。自慢話だな、たぶん。俺に話した男もおしゃべりだから他でも話してるよ。」
「それって。旦那さんの耳に入ったら大変なことになるでしょ」
「だよなあ。まあ、名前は言わなかったから、知らない人には誰だかわからないとは思うけど」
と言って私も話している。人の口に戸は立てられないのだ。特に、この手の話は誰も好きなのだ。
「その中に俺の昔からの知り合いもいたから驚き。彼が仲良くしてたの知ってたから間違いないと思う。普通の人だよ。結構まじめそうな人だから、ほんとまさかと思ったけど。ま、世の中普通の人がほとんどだから、そういうものなんだな」
何がそういうものだか分からないけど、ちょっぴりひがみっぽくなってるのかも。私もちょっと狙っていたのにとはいえなかったけど。
「他の人に自慢するなんてルール違反よ。そういうことって絶対内緒にするってことが暗黙の了解でしょ」
彼女は話したことにこだわっている。
「ほんとルール違反だよな。それくらいできる男がもてるのかも。やりたいことを遠慮なく押し切る男がもてるんだろうな。現役のころは仕事もバリバリこなしてたようだし。中心になって人を引っ張っていくタイプだったからそういう男っぽいところが魅力だったのかも」
不倫の方がルール違反はではないのかと思ったが、それは黙っていた。
「それで食い荒らして、どこか神奈川の方の介護付き高級老人マンションにさっさと移って行ったわ」
「お金持ちなんだ」
「そうみたい」
「うらやましいんでしょ」
「ほんとあやかりたいよ。このからだじゃな。元々その腕はないか」
「それでいいのよ。そんなことしたって仕方ないでしょ。大変なだけよ」
「だよな。腕も甲斐性もないのがそんなことしたら痛い目あうのが関の山だから」
「そうよ、変なこと考えない方がいいのよ」
「だよな。身の程をわきまえなくっちゃ」
「でもそれくらい夢見てた方がリハビリ頑張れるかもよ」
「あれ、お許しが出ちゃった。そうだよな、夢見て頑張らなくっちゃ」
と私は笑う。
小さくブザーが鳴る。
「はい終わり」
おばさんが言う。私は大きく息を吐く。
よろよろと自転車漕ぎの装置から降りる。
「まだ時間があるから話していったら」
おばさんが言う。
「もうだめ、ふらふら、帰って炬燵でひっくり返ってる」
上着を着て帰り支度を始める。おばさんはすぐわきに立っている。仲良しだから傍にいたいのだ、と私は思っている。倒れそうになったらすぐ支えられるように傍にいるのが仕事の一部だなんて考えないのだ。これ好日なのだ。