雑談目次
理想の平和と現実の平和
若く見えるわねえ
昴
田 敞
「今日は七夕なんだ」
とテレビを見ながら久美子に声をかける。久美子はいつものように寝ころんで本を見ている。珍しくドラマに興味がないようだ。まあ、おとなしいドラマだから趣味に合わないのだろう。
「そうよ」久美子が本を見ながら答える。最近、私が体調を崩して、図書館の本を借りてこれなくなったので、家にある本を繰り返し読んでいる。まあ、本はいっぱいあるのだ。
「今日は曇ってるから、逢えないな」
「かわいそうね。年1回切りなのに」
「遠距離恋愛の辛さかな」
ところが、ドラマで、雲の上は晴れてるから、逢ってるって言ってる。それを言うと。
「それはそうね」
「下から見えないだけ喜んでるかな」
「そうかも」
「見られるのが趣味だったり」
「スターだもの、あるかも」
久美子は澄まして言う。
番組は、東京の空には星が見えないというドラマだ。映したのっぺりした暗い空には星はひとつもなかった。私の住むこんな田舎の空にも星は数えるほどになったのだから当然だろう。
ここに住み始めたころは天の川は普通に見えた。白鳥座も、おり姫、ひこぼしも探すまでもなく田んぼの上で輝いていた。天の川が見えなくなったのはいつのころからだろう。記憶にない。星空が薄くなって、見上げる意味がなくなったからだろうか。それとも、仕事に疲れたり、子どもが生まれて、星なんかどうでもよくなったからかもしれない。気が付いたら、天の川も、白鳥座も消えていた。
ドラマの主人公の名はすばるという。
むかし、むかし、もう70年も昔になるだろうか。そのころは都会に住んでいたのだが、それでも天の川はしっかり見えていた。母に連れられて銭湯に行った帰りに、よく母が、あれがひこぼし、とか、カシオペアとか星の名を教えてくれた。
「あれが昴。あそこ、かたまってる星。なんぼ見える。目がいいといっぱい見えるんよ」
何個見えたのか、覚えていない。でも、「たかちゃんは目がいいね」とほめられた気がする。
今考えると、先の戦争が終わって、おそらく10年もたたない頃だったのだろう。うちも周りも、田舎で食いっぱぐれて都会に出てきた人たちであふれていた。貧乏が普通だったころだ。都会といってもまだまだ電気も少なく、夜空は暗かったのだろう。
今、こんな田舎でも星がほとんど消えている。空が明るくなったからだ。家が増え、道が立派になり、街灯が増えていった。みんな豊かになったのだ。ありがたいことだ。
以前、流星群が見えるとか、新聞に出てたりしたとき夜空を見上げたりしたけど、いくら見上げていても、1個も見えたことがなかった。だから、このごろは見ない。いくら流れ星が飛んでも見えないのが分かってきた。空が明るくなったから流れ星も見えないのだ。誰かの詩に「見えないけれどあるんだよ」とあるように、見えないけれど流れ星は空の上を飛んでいるのだ。子どものころ、夏休みに学校の校舎に大きな膜をかけて映画会があった。敷いてある茣蓙の上に座ってみんなで見た。寝転んで空を見あげると、流れ星がいくつも飛んだ。流れ星なんかいつでも見れたものだ。
同じように昴もどこにあるか分からなくなってしまった。以前、町の裏山で星の観測会があった。星はちゃんとあった。昴もあった。星の固まりで、もう歳だから5個も6個も数えられないけれどちゃんと光っていた。望遠鏡で見ると、数えられないほどの星が集まって輝いていた。
「太陽もあんな風に46億年前に集団で生まれてそれからバラバラに離れていったと言われています」
と講師の人が話していた。
「太陽の兄弟星は、どれだかわからないようです。一番近い星でも4光年も離れているんですから」
「だから、昴もいつかバラバラになっていくらしいです」
つかの間の家族なんだ。といっても天の川と共に回転しながらの、何億年か何十億年かのつかのまなのだろうが。
この辺りもほとんどの家で子どもは遠くに出ていっている。いるのは年寄りばかりだ。近くに小学生はいない。一番小さな子で中学生だ。それも二人。
星も見えないし、若者も子どももいない。赤とんぼも蝗も数えられるくらいにしかいなくなった。
私はもう働かなくても年金とちょっとの蓄えで、おそらく死ぬまでのんびり生きていられる。良い時代だったのだろう。ここらはそんな年寄りばかりだ。
「昔はクーラーなしだったのよ」
久美子が言う。わたしたちは貧乏してたのだ。
「ほんと、扇風機だけだったんだものな。ありがたいことだ」
わたしの子どものころは扇風機も無かった。ぐったりしている僕たちを母がうちわであおいでくれていた夏の夕べを思い出す。
「今年は暑いわね。こんなの初めてかも」
「いや昔も暑かったよ」
私は答える。
「そうかしら」
久美子はまた本に戻る。