雑談目次
春に向けて
もうすぐ春だ

45年


田 敞

 

「もう45年になるから」

 大工さんと3時のお茶をしている。

「45年も経てば、何もしなくてもベニヤは傷んじゃうから」と大工さんが言う。

 先日から、家のリホームをしてもらっている。庭に、白いベニヤ板が落ちているのを久美子が見つけた。私も、その前日見たけど、どこかから飛んできたのだろうと気にもしていなかった。

「なんのベニヤかしらと見たら、軒下のベニヤがはがれて落ちてたの。見てきて」と言う。見て回ると軒下のベニヤ板が2カ所剥がれ落ちていた。

 それで、大工さんに頼んで、全部貼り直してもらうことにした。二つ落ちていたということは他も傷んでいて、遅かれ早かれ落ちることになるだろうと思ったからだ。ついでに、雨が降ると必ずあふれる雨どいを付け替えてもらうことにした。するといろいろな不具合が目について、ペンキ塗りやら、なにやら次々に頼んだ。それが45年の月日というものなのだろう。

 この家は結婚した翌年に、友達の父親が大工をしていたので、頼んで建ててもらった。金もないのに建てて、ローンは50歳まで続いた。といっても、土地は、久美子の実家の栗畑の一部を借りたし、大工さんは知り合いだから建築費も安くしてもらったので、50歳で終わることができた、と言った方が当たっている。

 その大工さんはとっくの昔に亡くなっていて、今やってもらっている大工さんは、以前よく行っていたみちこさんの喫茶店をリホームしていた大工さんだ。とても安く丁寧にやってくれるとみちこさんが言っていた。あまり人を褒めないみちこさんが褒めるのだから信用して頼んだ。

 考えてみれば「たかしは根なし草だから」と父に言われていたのに、もう45年もここに住んでいる。確かに、若いころは、ふらりふらりとさ迷って、ほんとに根なし草だった。親に心配と苦労をかけて、それを何にも気づかずに独りよがりに過ごしていた。今でいえばニートとでもいうのだろう。

 ここに住み始めたころは、家の前の農道はまだ砂利道だった。その道路に沿って、細い用水路が走っていた。用水路に沿った長く続く田んぼの向こう側は本当の小川が流れていた。その向こうは、小さな工場と、広い運動場があった。日曜には子どもたちやときには大人が野球をやっていた。今は、運動場に役場が引っ越してきた。農道は舗装され、用水路は無くなり、代わりに、深井戸からのパイプになった。小川はコンクリートの壁の川になった。

小川の向こうの、役場の周りには新しい住宅が増えたがこちらはあまり増えていない。相変わらずの、田んぼと、畑と、里山の間に、家がところどころに埋もれているという田舎のままだ。でも、来たころは見えていた天の川は、今はどんなに目を凝らしても見えない。いつから見えなくなったのか。仕事に追われて夜空を見上げないうちに、消えてしまっていた。星もすっかり少なくなった。

消えたのはそれだけではない。梅雨になると田んぼに飛び交っていた蛍は1匹もいなくなった。朝早く、まだ夜露で動けない蝗を小遣稼ぎに獲っていたお婆さんたちもいなくなった。無数にいた蝗がすっかり消えたのだ。秋空を見上げると、無数の赤とんぼがつながって飛んでいたものだが、その景色もなくなった。蛙も、田んぼから離れて住むアマガエルはいるけれど、トノサマガエルや牛ガエルはいなくなった。夏の夜、街灯の灯りに、飛び交っていた無数の虫もすっかりいなくなった。蚊柱さえ立たない。だから、赤とんぼをひょいひょいとくわえて巣に運んでいた燕ももう田んぼの上を飛ばない。雀もほとんど姿を消したから、かかしも、鳥を追う光にきらめいていたテープももうなくなった。そして子どもがいなくなった。このあたりには小学生はいない、中学生が数人いるだけだ。若い親が少なくなったからだ。

でも増えたのもある。増えたのは、街燈と、近くにできた国道のバイパスを走る車。そして年寄り。わたしもその年よりの仲間だ。先日、もしもの時の連絡先はと民生委員が確認に来た。年寄りだけの世帯を回っているという。うちもそうだけどねと彼も笑って言った。だからか、介護施設は45年前にはなかったけれど、今は歩いて行ける所に二つもできた。町にはいくつできたことか。

蝶のツマグロヒョウモンと赤星ゴマダラチョウも増えた。私が住み始めたころにはいなかった。いつ現れたのか定かでないが、いつの間にか、飛んでいるのをよく目にするようになった。本来いるはずのヒョウモンチョウやゴマダラチョウはほとんど見かけないのに比べると、多さが際立っている。新参者の強さなのだろうか。

わたしも新参者だ。30歳近くまで名前さえ知らなかった町に住んでいる。都会に育って、田舎に流れついて45年。立身出世も金も縁が無かったけれど、雨露をしのげる家と、子どもと、庭と、畑を持った。子どもたちは無事巣立って都会に根付いた。庭と畑は、久美子の父が苦労して買い集めた土地だ。その畑に去年ばらの苗を10本ほど植えた。水仙や彼岸花やムスカリなどのいろいろな球根も植えた。毎日盆栽に水をやり、花の世話をして暮らしている。兄弟の中で花を育てるのが好きだったのは私だけだ。そして、今庭を持っているのは私だけだ。望んでそうしようと努力したわけではない。かってにそうなった。花を育てるところに住めるようになったのは、最初から定められていたような気がしさえしている。ひょっとして誰かが導いたのかもしれないとさえ思ったりしている。

都会なら、アパート暮らしで、とても庭など持てる暮らしはできなかっただろう。いろいろあったけれど、公民館のクラブで、仲の良い人たちも何人かできたし、とてもラッキーな暮らしだと思う。でも帰来の怠け者だから、花壇は草ぼうぼうで、たくさんの花もばらも青息吐息だ。私に見つかったのが不運だった、と嘆いているかもしれない。