ウォーキング

ウォーキング

��帖【�

「いや速いね」

　隣の家のおじいさんが笑いながら声をかけてきた。つい数分前、車を洗っているおじいさんの前を通り過ぎるとき、「今年もよろしく」と挨拶したばかりだ。お爺さんといっても私より三つ年上なだけだ。でも、私は高齢者だけど、彼は後期高齢者になるから、私はお爺さんではないけど、彼はお爺さんなのだ。

「もう遠くまで歩けないよ」

　と私も笑って答える。

　去年は足の不調が多かった。その前の年、無理をしたのが原因で痛風などになったのもあって、ウォーキングをやめていた。というのは言い訳で、疲れるからが一番だった。ダンスや庭仕事をやっているから大丈夫だろうと思っていたが、そうは問屋がおろさなかった。秋になって、膝が痛くて医者に行った。治るのにひと月ほどかかった。膝ばかりでなく、足のうしろの筋肉も突っ張っている。

「どうも、原因は足が弱ってるからみたいだ」と久美子に話したりしていた。そこでウォーキングを再開した。でも、やってみたら前のようには遠くに歩けない。すぐそこで疲れて嫌になってしまうのだ。

ウオーキングを再開したての頃、近所のおばあさんたちが立ち話をしているところを通りがかって「速いね」などと、応援されたのですぐには引き返せずに遠くまで歩いたら、次の日は疲れが残って歩くのが嫌になって歩かなかった。

　そこで、「往復千歩を日に三回を目指す」、と久美子に宣言した。目指すのだからそうでなくてもいい、と腹の中で考えている。かなり適当なのだ。数えながら歩いてみると、家の前の農道を突当たりまで行くと片道ちょうど五百歩になった。往復千歩になる。

　冬になり始めたころからだから、歩きはじめてからそろそろひと月半になる。最初は、日に一回が大変だったが、今は二回を普通に歩けるようになった。たまに目標の三回を達成したりしている。やっぱり目標は立てるものだ。

　この道はたくさんの人が歩く。たいがいは犬を連れたお婆さんやお爺さんだ。突き当りのＴ字路を左に行くと、細い町道が続いている。静かで、車もたまにしか通らない。犬を連れて歩くにはもってこいなのだろう。十数年前、退職してから私もその道を通って毎日犬を連れて遠くまで歩いていた。農道を通り、町道を通り、そこから外れて小川の土手をずっと歩いた。かなり遠くまで歩いていた。

　犬は歳をとるのが早いから、初めのころすれ違っていた犬は、もういない。だんだん年を取って、腰が曲がり、やがて来なくなる。そして新たな犬が飛び跳ねながらやってくる。

　連れている人も、だんだんゆっくり歩くようになる。

　犬を連れない人も歩く。そのうちゆっくりゆっくり歩くようになって、見かけなくなる。

東北の震災の夏にわたしの犬も死んだ。歩けなくなって、寝たきりになった。長く生きたから仕方がない。

　その後も一人で散歩していたのだが、距離は半分になった。やがて毎日ではなくなったけれど、三年ほど前までは続いていた。痛風をきっかけに、歩くと庭仕事があまりできない、というのを言い訳に歩くのをやめた。一昨年の秋の終わりに電動自転車を買った。ひと月ほど乗りまわしていたのだけれど、それもやめたので、確かに運動不足にはなっていた。ダンスも庭仕事も、たいして運動にはならないみたいだ。買い物に行くと、携帯の歩数計は二千歩前後をさすのだが、それもあまり役には立っていないみたいだ。買い物カートにすがってだらだら歩いているのでは運動にはならないのだろう。

　で、今は毎日一生懸命速足で歩いている。腕も痩せてきて力がますますなくなってきているので、にぎにぎしたり、曲げたり上にあげたりしながら歩いている。やればまだまだ早足で歩けるのだ。

　「いや外は寒い。手袋して行かなかったから、手が痛い」と炬燵で本を読んでいる久美子に言う。

「そう」と適当だ。

「歩くのだいぶ楽になった。往復しても楽勝だ。最初は端まで行くのが大変だったのになあ」という。

「ほら、左手だって、痩せて力がなくなってたのに、ふっくらしてきただろ。動きも良くなったし」と掌を差し出す。

「継続は力ね」とちらっと手を見て言う。

確かに継続は力だ。結婚してもう四十年になる。久美子はすっかり結婚にも俺にも飽きているのに良く続けているものだ。まあ、いろいろあるのだろうけど。

「梅もう咲くかしら」久美子が本を置いて言う。

「うちのは遅いから、あと二カ月かな。でも、もうつぼみの粒粒は結構大きくなってる」

　寒いさむいといっても今年の冬は暖かい。高齢者にはありがたいことだ。庭に出る回数も多い。寒いと冬じゅう炬燵に丸まっていたりする。寝たきり爺さんになってしまう。あと十年、楽しくダンスができるように頑張らなくっちゃ。