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めでたくもあり、めでたくもなし



田 敞

 

「こんにちは」、と大きなマスクのおばさんに声をかけられたが誰か分からなかった。大きなマスクで顔が見えなかったからだ。

最近は週に1回か2回になってしまった夕型の散歩(本人はウォーキングだと思っているのだが)で、いつもの折り返し地点の合同庁舎のロータリーでのことだ。

よく見ると、にこにこぱっちりお目目はみどりさんそっくりだ。

「この前楽しかったわね」と言う。

声もみどりさんそっくりだ。ロマンスグレーの髪もみどりさんだ。何のことはないみどりさん本人のようだ。

1週間ほど前、みどりさんと敏子さんがみちこさんの小屋に行くというので私も押しかけた時のことを言っている。みどりさんが私に「楽しかった」なんて言うの初めて聞いた。還暦になって、他の楽しみが減ったのかな、なんてへそ曲がりなことを考えたりする。困った爺さんだ。でもうれしくて、「いつものように素敵だね」と答えた。これは、いつものように完全無視だ。チャラオ爺さんの甘い言葉なんか聞いてられないわ、ってことだ。

「今日は何」と聞くと、

「図書館で本借りてきたの」と応える。

「借りただけ。忙しいの」と言う。

「お父さんが大変なの」

「どうしたの」

「もう、動けないの。病院行こって言っても、苦しいから嫌だって言うの。もう体起こすだけでも苦しいみたいなの。酸素やってもらおうと思ったんだけど、本人が来なければだめだって病院の人は言うし」

じゃどうすればいいのという顔だ。

「どこ悪いの」

「心臓」

「そうだ。この前言ってたな。困ったね」

「そうなの。寝てるだけでも苦しそうで」

「体中が弱ってるんだ」

「お父さんは家で死にたいの。病院は嫌みたい」

遠い故郷から娘に引き取られてきたから、今の家になじんでいるからではなく、きっとなけなしの時間を妻の若いころに似た娘の傍にいたいのだろうと思ったけど言わなかった。

「いろいろ管につながれて苦しむのが嫌みたい」

「そうかもな。少し長く生きるためだけに延命されても、苦しみが長引くだけなら意味ないものな」とありきたりのことを言う。

「いっぱい生きたから、もうお母さんのところに行きたいのかも」

「そうかも」

「来月は仕事休んで家にいることにしたの」

「そうなんだ」

「じゃね。ゆっくりできなの」

みどりさんはそそくさと車に行く。

先日も、私と同じ年のクラブ仲間がしょぼんとしてるので、聞いてみたら「夫が入院したの」と言った。「大変だね」と聞くと「命には関係ないから」という。「じゃ良かったじゃない」「もう何度も入院してるから」と言う。くわしく聞くのは遠慮した。「こんなことして遊んでていいのかしらって思うの」「いいんだよ。みんなでしょぼくれてても仕方ないだろ」と、なんだか適当なことを言った。

義母は去年の暮れに施設に入った。久美子はホッとしている。毎日面倒みに施設に行っているが、一日中心配やら面倒みやらしていたのに比べると、肩の荷が下りたのだろう。義母の方も、姥捨てだと言っていたのが、かゆい所に手が届くように世話をしてもらってニコニコだ。こちらは、めでたしのようだ。でも、それだって普通の暮らしには届いていない。

 病気や介護や葬式の話ばかりの年の始まりだった。周りがみんな年寄りばかりになってしまったから仕方がない。そう言う私も、次は私の番でもおかしくはない歳になっている。

 正月といっても、もうさしてうれしくもない。子供の頃のように正月を待つ嬉しさもない。たぶん心に踊る体力がなくなってきたのだろう。

 でも、そのなけなしの気力と体力で、みんなニコニコ生きている。地位も名誉も富も今さらである。夢だって、愛だって三途の川の渡し守りは乗せてくれないだろう。もう、たいしたことはいらない。日常のちょっとの楽しみがあれば十分なのだ。