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散歩道
田 敞
田 敞
何度か南風が吹いた。そのたびに冬が何くそと北風を送り込んだが、もうすっかり力がなかった。毎日、朝になるとすっかり凍っていた小鳥のための皿の水も、薄氷が朝日にちょっと光ってあっさり溶けるようになった。黄色のクロッカスがお椀の花弁の中に陽をためて、蜂を待っている。でも、蜂は来ない。まだそんなに春ではない。でも、ラッパズイセンもいつの間にか伸びあがり、今にも開きそうだ
夕方、いつもの散歩に出た。散歩といっても、歩きだすと風が冷たい。冬が何くそと、土俵際で踏ん張っている。
家の前の道路は舗装されているが農道だ。すぐ上の、東西に走る県道から直角に北に向かって真っすぐ伸びている。あるかないかの下り坂だ。日本には、下り坂と、上り坂どちらが多いでしょう、というクイズがあった。一生懸命考えた。答えを聞いて笑ってしまった。
道路の脇は田んぼだ。その向こうには見えないけれど小さな川がある。その川に沿った低地に田んぼが遠くから続いてきて、遠くにつながっていく。川といっても、深さ1mほどのコンクリートの壁でできた大きな溝のようなものだ。でも一応、いつも20センチくらいの深さで、澄んだ水が流れ、ザリガニも、小魚も住んでいる。夏には水草も流れに揺れる。ところが、何年かに一度は、大雨で田んぼにまで水が溢れ出し、大河になって荒れ狂って流れる。名は体を表すというが。さすが軍神川だ。
隣の家を過ぎると、栗畑を通って冷たい風が吹きつけてきた。栗はまだ小さく、葉もないから、吹きっさらしの冷たい風の原っぱだ。
今日は東の風だ。東風吹かば匂い起こせよ梅の花と昔の人は読んだが、このあたりの東風は冷たい。梅雨の頃にこの風が続くと、東北は冷害になる。九州の東風とは違うようだ。
寒波が来ているのか、真冬の風だ。
あちらから、白い犬を連れたお婆さんがゆっくりゆっくり歩いて来る。
「こんにちは。寒いね」
と声をかける。
「寒いですね」
ニコニコしながら言う。
「なんかまた真冬になったね」
私もニコニコ言う。
10年くらい前から、お婆さんはこの犬と一緒にこの道を歩いている。久美子の話によると県道の向こうの林の中に家を建てて引っ越してきたそうだ。いつもうちの前を通るので顔見知りになった。最初の頃は挨拶をしても、あちらを向いてぶつぶつ小さく言っていた。ナンパ男なんかと話さないわよと思っていたのだろう。いつの間にかずいぶんお婆さん顔になっている。時間は止まらない。
犬は小型犬と中型犬の間くらいの小さな犬だ。白くて丸々と太っている。おとなしく、お婆さんの歩く速さに合わせてトコトコ歩いている。お婆さんの足を気づかっているのだろう。あの速さでは、身を引き締めるほどの運動にはならないのだろう。
勿論立ち止まって話し込むというようなことはない。そのまますれ違う。栗畑の隣の家を過ぎると、田んぼを突っ切って川に流れ込む小さな排水路の橋を渡る。橋から上流の方はもうどこの田んぼにもつながっていない。唯一残っていた田んぼは埋め立てられて、栗畑と宅地になった。いつも、「俺のとこが一番だ」、と田植えの速さを自慢していたのだが。だからいつもほとんど水は流れていない。
その先のスギ林を過ぎると、それまで北に向かって流れていた川が大きく東に曲がって道路をさえぎる。田んぼも向きを変える。あちらから来る桜川と沿いの田んぼと合流し、広々と視界が開ける。東風がどっと吹き付ける。
その風の中で歳とったお婆さんと若いお婆さんが話している。
「こんにちは」と挨拶する。
「こんにちは」と二人がニコニコ挨拶する。
「もうこんにちはではないわね」と若いお婆さんがニコニコ言う。
「おばんかたじゃないの」と私もニコニコ答える。
「そうだわ。高田さんよく知ってるね」と若いお婆さんが言う。組内だから私がよそから来たのを知っているのだ
「来たころ、歳取った人はみんなそういってたから」
「そうだよね。そうだよね。今頃がおばんかたで、もう少しすると、おばんです、だったよね」と懐かしそうに言う。
その向こうで、お兄さんが、茶色と白の斑の、むくむくした犬の引き綱をしっかり押さえて道のわきによけて立ち止まっている。最初会った時から吠えかかってきた犬だ。その後も遭うたびに吠えた。「大丈夫だよ」、と犬に声をかけて通り過ぎたりしていた。そのうち、顔を覚えたのか、私が近づいてもそこらの地面を嗅ぎまわっていて、顔も上げなくなった。それでも、私に遭うと、いつも申し訳なさそうに青年は犬を押さえている。
歩いているといろんな犬に遭う。まず犬で覚えて、それから、それを連れている人を覚える。いつも下を見て歩いているからだろう。カッコよく歩こうと顔をあげるのだが、気が付くと、道路を見て歩いている。それでも、このごろ姿勢良くなったわね、と畑に出ている近所のおばさんが言ってくれたりする。そう、ウォーキングなのだから。
軍神川の小さな橋を5歩で渡って西へ曲がる。東へ行く川とはさよならだ。
家が増えて、風がさえぎられて、冷たくなくなった。遭うのはたいがいお婆さんだ。たまにお爺さんもいる。みんな健康のために歩いている。「寝たきりは嫌だものね」とみんな言う。私もそうだそうだと言う。
最近、よくこの道で遭っていたお婆さんが、二人鬼籍に入った。そういえば最近見かけなかったなと思う。むっつり歩いていた人と、にこにこ歩いていた人と。二人とも犬は連れていなかった。共に独り暮らしが長かった。女の人は一人になると、急に元気になるね、と、やはり、よく遭う近所のお爺さんが言っていたが、定めにはしかたがないようだ。私もいつまで続くことやら。
先月古稀になった。早いものだ。林の中を通りすぎていく。あと少しすると、この林でも鶯が鳴きだす。ここにきて40年目の春がやってくる。