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忘れ物


著者 田 敞

「忘れてるのよ」とみちこさんがあきれている。

久しぶりに緑さんとみちこさんの家を訪ねた。喫茶店をやめた当初はときどき訪ねたのだが、そのうち足が遠のいていた。

「自分の夫よ。忘れる」

 古いアルバムを見てたら、「この人だれ」と、母親が言ったらしい。それで怒っているのだ。

相変わらず、何でもかんでも憤慨するみちこさんは健在だと、私はニコニコしている。彼女は正義感が強くて、不道徳をほっておけないだけなのだ。

「お父さんもそうよ」と緑さんが口を尖らせる。

「昔の写真を見て、お母さんはヤンキーだったんだ、って言うのよ。おしゃれで、すごくきれいなのよ。それなのにヤンキーって言うの。お母さんのこともう何とも思ってないのよ」

 やっぱり憤慨している。

 緑さんが、田舎には珍しいちょっと派手目なおしゃれをするのは母譲りなんだ、と、やっぱりニコニコ考える。

「おかあさんのあと、お父さんは恋人できたからじゃない」と私は言う。

 奥さんが亡くなった後、公民館のダンスクラブに行きだして、そこで、モテモテだったり、特に仲のいい人ができたりしたのを、以前緑さんが話していた。

「新しい恋は、古い恋を駆逐するって言うじゃない」

「そうよね。仕方ないはね」と緑さんは寛容的だ。緑さんはみちこさんほど道徳や常識にはこだわらないのだ。

「みちこさんのお母さんだって、旦那さんが亡くなってから40年ぐらいなるんじゃない。忘れるよ」

「いくら長くったって忘れるなんて間違ってるわよ」とみちこさの怒りは収まらない。

 

 以前、高校の卒業アルバムが出てきて、その当時の片思いの人の写真を名前を頼りに見つけてみた。まるで見覚えがなかった。名前を間違っているのかとも思ったが、他の写真を見てもそれらしき人は見つからなかった。第一見覚えのある顔は一人もいなかった。高校を出てからせいぜい20年そこそこだったころだ。まあ、片思いと夫婦では重みがまるで違うから比較にはならないのだろうけど。

 いろんなことをしっかり覚えていると、生きているのに邪魔になるから、適当に忘れて行くのだと以前どこかで聞いたことがある。

 そうかどうかは知らないけれど、私なんか何でも忘れてしまう。英単語など、覚える端から忘れてしまって困ったものだ。

 みんなはどうなんだろう。楽しいことや、いいことをいっぱい思い出すのだろうか。苦しいことや、嫌なことや悲しいことや、失敗やら、間違いをよく思い出すのだろうか。

 私なんかは、どうも、ネガティブなことを思い出して暗い気持ちになることの方が多いたちのようだ。楽しいことなんかあんまり思い出さない。困ったもんだ。

 大昔の人は、ライオンやオオカミや、もっと恐ろしいサーベルタイガーなどと暮らしていたから、一つの失敗が死に直結しただろう。だから、失敗を繰り返さないために、失敗や間違いをしっかり記憶するようになったのかもしれない。現代でも通用するのだろうか。役に立つならそれもありがたいのだが。でも嫌なことは思い出したくないものだ。楽しいことを思い出して温かく生きたいものだ。

 

「今度リホームするの」

 みちこさんが嬉しそうに言う。

「ここは板を張るの。あっちはタイルにして」とみちこさんは話している。

 言われても、うまく想像できないけれど「うん、うん」と聞いている。

喫茶店で会っていた人とも顔を合わせることもなくなった。たまに、スーパーや図書館でばったり会うことはあっても挨拶程度の立ち話で終わりだ。みんなそれぞれに話場所を見つけているのだろう。そして、いつか、写真を見ても思い出せなくなるのだろうか。いや、もう忘れ去るほどこの先は残ってないか。

みちこさんの説明は続いている。ますます想像できなくなってきたが、みちこさんは絵心があるから、きっといい部屋になるだろう。

風が窓の外のシャラの木の葉を揺らしていく。残暑とはいいながら、いつのまにか風はもう耐えられないほどではなくなっている。すぐに秋だ。あと2週間もすると、厚い掛け布団が欲しい夜が来る。