物理学者様は神様です
(「王様ははだかだ」はこれで終わりです。)
 「王様は裸だ」もこれで終わりです。最後に、どうして、ニュートンの物理学には面倒な、パラドックスや、常識はずれなことが起こらずに、相対論には起こってしまうのかまとめてみます。
 一言で言えば、「王様は裸だ」に尽きるのですが、それでは身もふたもないので、少し話します。
 ニュートンの物理学は、自然現象が全てです。人は関与しません。それに対して、相対論は、自然現象と人間が対等かもしくは人間のほうが上位になる物理学です。それも、ただの人間ではなく、有能な物理学者が、全ての実権を握っている、専制君主の帝国です。これは、同じようなパラドックスを持つ量子力学にも見られることを考えると、人間が中心であるという考え方が、パラドックスを生む唯一、最大の原因であると考えられます。
 なぜそんなことが起こったのか、推測してみます。
 ニュートンまでは、物や現象を研究して法則を見つけ出していました。法則より、現実のほうがはっきり優位でした。ところが、物理学が進歩してくると、法則から現象や、物の存在を予測して発見することが多くなりました。現象より、法則が先になったのです。法則優位からいつのまにか、法則がすべてになっていきました。その結果、現象は置いてけぼりになってしまったのです。そして、その法則を使いこなす物理学者が先頭に立つことになったのではないでしょうか。
 とくに、小さすぎて見えない量子の世界や、速すぎて実験できない光の世界や、遠すぎてはっきり見えない宇宙の果てなどは、法則から考えることがほとんどになり、法則がすべてになっていったのでしょう。そして、それを操る頭脳明晰な人たちが魔法使いを超えて、神様のように、自然現象を操ることができると思い込んでしまったのでしょう。
物理学者は神様です
 相対論に見られる人間(観測者)中心の考え方
 無人島に流れ着いた二人の人が、ある日漂着しているコーラのビンを海岸で見つけます。このびんは彼らが無人島で暮らしている間に作られたビッグサイズのびんです。彼らはそれを知りません。そのビンを拾った人が言います、「おい、俺らは縮んじまった。」と。
 このコマーシャルの笑い話を例にして、相対論者は言います。大きさは、比較するものがなければ分からない、と。寝ている間に世界の全てが大きくなっていたら、だれが大きくなっていることを知ることができるだろう、と。物事は比較するものがあってこそ知ることができるというのです。
 確かにそのとおりです。物理学者は神様のつもりでも、ほんとうは絶対的な目は持ち合わせていないのです。だから人間には、比較するものが必要になるわけです。
 そこで、笑い話に戻ります。なぜ、最初の話が笑い話かというと、彼らが無知だからです。聴いている人の常識であるコーラのビッグサイズを知らない彼らを笑っているのです。「はだかの王様」と同じ心理をついたうまいコマーシャルです。知らないと笑われるのですから。
 もし、一夜にしてこの世の全てが大きくなったのなら、大きくなったのです。人間がそのことを知ろうと知るまいとそんなことは自然の知ったことではないのです。全能の物理学者が、「俺の分からないことはないことだ。」と叫ぼうと、大きくなったのなら大きくなったのです。ビックサイズのコーラのびんを知らなかった漂流者と同じようにそれを知らない物理学者が無知なだけです。
 この話が、笑い話である例は、10倍になった宇宙を考えてみればわかります。たった10倍です。すると、170センチの身長の人は、1700センチになります。17メートルです。体重はもと70キロとすると、700キロかというとそうではありません。体積だから、1000倍になります。70000キロです。なんと70トンです。靴の大きさは、26センチから、2メーター60センチになっています。この靴で、10トン済みのダンプカー10台分の砂利を支えることになります。ちょっとした地面なら足がめり込んでしまうでしょう。でもこれだけではありません。地球も大きくなっています。したがって引力も大きくなっているはずです。引力が質量に比例するなら、やはり1000倍になっています。単純にはいかなくてもそれに近いはずです。すると、体重は70トンかける1000です。7万トンです。そんな人が歩いたら、アスファルトだって砕けるでしょう。
 10倍でさえこうです。1億倍の大きさになったラドうなるでしょう。1億倍になった地球と、1億倍になった人間です。人間は地球の上に立っていられないでしょう。1億倍になった地球の引力の中で、1億倍になった人間の体重をどうやって支えられるというのでしょう。骨も筋肉も1億倍になっているから変わらないなどという単純な問題ではありません。だいいち、地球そのものが重力でつぶれ、太陽のように燃え出すでしょう。
 このことから、人にはわからなくても大きさが変われば、現象が変わってしまうことが言えます。すなわち相対的な大きさが変わっていなくても、絶対的な大きさが変わっているということがいえます。
 暗闇の宇宙ですれ違うロケットが、どちらが動いているか全能の物理学者には分からなくても、どのように動いているかは、決まっています。それは、人間の観測や意志とは無関係に物体の現象に過ぎないのですから。比較するものがないから分からないのは、全能の物理学者がたんに無能だからです。笑い話です。
シュレディンガーの猫
 これは、量子論のパラドックスですが、同じように観測者が全て、的なことが原因のパラドックスなのでついでに書いておきます。
概略
 箱に猫と青酸カリの入ったビンを入れてふたをします。このビンは、1時間内に割れる確立は2分の1にセットされています。セットの方法が重要なのですが、ここでは省きます。
 猫を入れて1時間たったときふたを開けます。すると、猫が死んでいるか生きているかが分かります。ここまでは普通のことです。量子力学の正統派(波動関数は確立を表す)ではここからが問題です。ふたを開ける直前の猫はどうなっているかというのです。見ていないのだから確定していない。確定していないというのだから、生きていると死んでいるの二通りが考えられる。すなわち、猫は死んでいると生きているの二通りが箱を開ける直前まで重ね合わさっている。というのです。そして、箱を開けた瞬間にこのどちらかに決定される、というのです。これを「波束の収縮」というそうです。
問題点
 これは、量子の世界では、観測するまでは全ての可能性が重なって存在しているというボーアの理論に対してシュレディンガーが投げかけた問題です。こんなことがあるわけないだろうというわけです。これに対する明快な答えはまだないそうです。ふたごのパラドックスの明快な答えがないのと同じです。
 何が問題かというと、猫の生死はビンが割れたか否かで決まるのに、箱を開けたことで決まったとすることです。ふたを開けようが開けまいが、猫の生死は決定されているのが普通の現象です。ところが、量子の世界では、箱を開けた観測者が観測したことが猫の生死を決定するというのです。とても常識では考えられない現象です。
  でも、今のところ、量子の世界を計算するときには、それで問題がないので、普通の世界と、量子の世界では違うのだろうくらいで「猫の問題」は無視してやってるみたいです。でも、少しは答えを見つけ出そうとしたこともあるみたいです。以下にその答えの概要を書きます。
量子論者の解答1
 箱の中の猫はふたを開けるまでは生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている。箱を開けた瞬間からひとつになる。生きている猫を見た人は、猫が生きているという未来世界になり、死んでいる猫を見た人は、死んでいる猫といっしょの未来世界に入る。漫画でいうパラレルワールドです。
 こんな回答がまじめだとはとても思えません。世界中で、毎日毎日、何兆個もの箱が開けられています。傷のあるテレビ、ないテレビ、部品の足りない冷蔵庫ちゃんとした冷蔵庫等々、パラレルワールドには事欠きません。そのそれぞれの箱にそれぞれの世界ができたら、宇宙はあっというまに満タンになってしまいます。誰かが、1個箱を開けると、一人の人間が二人に分裂し、それに伴って、世界60億の人間がそれに付き合って増殖し、それを乗せる地球も二つになり、太陽も二つになり、宇宙も・・・・となるわけないでしょ。そしてそのそれぞれの場合の組み合わせときたら、それこそ天文学的数字になってしまうでしょう。毎秒、毎秒、宇宙は数十兆、数千兆、いや、その数千兆倍に増殖しなければならなくなるのですから。質量保存の法則はいったいどうなるの。
 なぜこんな解答が出たか。
 観察直前まで過去は二つあり、観察したとたんに現在は一つになるという解釈が現実と相反しているからです。実際は、観察されない過去もひとつです。
 未来は決まっていないのでさまざまな確率があります。しかし、どうなるかという確率はあっても、何も起こっていないのだから事実はまだなにもありません。人間の頭がいろいろな可能性を考えているだけです。競馬の予想や、天気予報やみたいな物です。数千万の確率はあっても、起こる出来事はたったひとつしかありません。出来事が起こった現在はひとつなのです。
 全ての確立は人間のためにあるのです。自然界には確率は存在しません。すべての出来事は起こったことしか存在しないからです。明日は99,99パーセント雨の確率であると予報しても、晴れたら晴れなのです。99.99パーセントの雨は、人間の頭の中だけの出来事です。もちろん、明日になるまで天気は雨と晴れと曇りと霧と雪と・・・とが重なっているわけはありません。未来はまだなにも存在していないのです。事実は100パーセントの晴れしかありません。自然界の出来事に確率は存在しません。おこったことだけがすべてなのです。
 昨日の天気は世界中で決定しています。人が観測したところも人が観測していないところも同じように決定しています。人が見ていない、観測装置もない、だからそこの昨日の天気は決定していないということはありません。人間に分からないだけです。だれも見ていない昨日のそこの天気を予測したって、あったことが覆るわけではありません。過去はひとつです。そして、未来にどんなに多様な可能性があっても現実に起こることはひとつです。なぜなら、未来は存在していないからです。存在しているのは現在だけです。パラレルワールドは存在しません。
量子論者の回答2 (いよいよ神様です)
 もっとすごい話があります。「ウィグナーの友人」というパラドックスです。これは、先ほどの猫の箱に友人を入れるのです。猫が、箱を開ける前にどうなっているかを調べようというわけです。そしてこの観測者に外から電話をして猫の生死を聞くという設定です。猫の死が確定するのは、友人が猫の死を記録したときか、ウィグナーが外から電話して答えを聞いたときかというのです。
 そしていろいろな場合を想定したあと、こんなことをいうのです。「結局、量子力学の観測の理論では、起こった現象をきちんと理解できる、知識を持った存在がその現象を観測したときに始めて現象を観測したことになり、波束の収縮が起こったと考えなければなりません。」すなわち、猫はきちんとした物理学者が確認したとき初めて死ぬということです。それまでは生きているか死んでいるか重なっていて定まらないというのです。
 なんということでしょう、物理学者に見とってもらわなければ、猫は死ぬに死ねないのです。世界中の猫は、引導を渡してもらうために物理学者を探して回らなければなりません。それも生半可な物理学者じゃだめです。量子論をちゃんと理解した立派な物理学者を探しまわらなくてはなりません。物理学者は、みんな研究どころではありません。猫のお坊さんになってしまいます。
 ここにいたってはもはや何をか言わんやです。「物理学者は神様です。」というわけです。
では、先ほどの猫の死はいつ起こったかです。こんなことは簡単です。常識的には、ビンが割れて、ガスを吸った猫の心臓が止まったときです。猫の心臓が止まるまでは、誰にも猫の心臓が止まる時刻はわかりません。生き残る可能性を含めて、あらゆる可能性が存在します。でもそれは可能性であって、出来事ではありません。
 上の問題は、猫の心臓がいつ止まったかということと。猫の死を確認したのはいつかという問題が混同されていることから来る混乱です。猫の心臓が止まった時刻は、物理学者が確認しようがしまいが厳然と存在します。また、その猫の死を脈を取って確認した時刻も厳然と存在します。両者が一致するときもあれば一致しないときもあります。
 箱を開けるまで猫が死んでいるか生きているかがわからないのは当たり前です。生きているか死んでいるかの確立は2分の1だというのは、観測者の問題です。箱の中の猫は、死んでいるか、生きているかどちらかにきまっています。確立は存在しません。物理学者が何回箱を開け閉めしても結果は同じです。
 結論
 このように、相対論でも、量子論でも、人間の観測が自然界の中心に君臨していると考えるとき、どちらの理論でもパラドックスが起こっています。ほんとうは、パラドックスなんてお行儀のいいもんではありません。単に誤謬にしか過ぎません。
 相対論のロケットは、物理学者が分かるか分からないかではなく、ロケットのもつ固有の物理的な運動量として存在すると考えればパラソックスはなくなるし、量子の猫も観測者が見たときではなく、猫が死んだときが猫の死とすれば、何のパラドックスも生じません。観測と一致させたいなら、箱を貫いて見る、透視の目を持てばことは足ります。天気予報も、全てのデーターを完全に網羅し、状態を完璧に計算するコンピューターを持てば、翌日の天気ぐらい100パーセント当たるでしょう。それができないのは、まだその能力が人間にはないからです。同じように量子の世界だって、人間には観測する能力がまだないから、もやっと、雲のように存在しているとしか見えないといっているだけなのです。
 たかだか二、三百年程度の物理学の世界で、それも、分からないことだらけのくせに、物理学者が観測したおかげで、全ての現象は決定されるとはあまりにも傲慢すぎるのではないでしょうか。人間が見ようが見まいが、木々は成長し、波は打ち寄せています。宇宙の中で、人など関係なく星は生まれ、また爆発しています。この、果てしない宇宙の中で、点にさえならない人間に、この、果てのない時の流れの中の一瞬にも満たない生しか持たない人間に、何が影響できるというのでしょう。
 自然現象は人間なんかお構いなしに起こっているのです。頭がいいからといっておごるなかれ。真実は人間とともにあっても、事実は、人間などまるっきりお構いなくただただ存在しているのです。
ごあいさつ
 これで「王様はハダカダ」はおしまいです。少しは、王様はハダカだと思えましたか。それとも、「これだから素人は困る、よく見てみな、王様は素敵な服を着ているだろ。」でしたか。
長い間、独りよがりな話に付き合っていただきましてありがとうございました。それではまたいつの日か。
2004年2月16日   妹空並刻記
あちらをたてれば
王様は裸だ!目次
訊かなくていいの