絵に描いた餅はおいしいですか
問題 相対論とだまし絵
 相対論の説明で、よくだまし絵が使われます。たとえば、黒白の絵で、鳥が飛んでいるのがあります。黒の鳥と見れば、鳥は右に飛んでいて、白の鳥と見れば左に飛んでいるように見えます。
 あるいは、「図と地」という絵は、白を見れば、花瓶に見え、黒を見れば、顔に見える絵です。心理テストに使われる絵だそうです。
 相対論ではこれをこんなふうに使います。
 AとBという人がいます。お互いは動いていて高速ですれ違います。Aが動かないとするとAから見ればBの時計が遅れる。相対論で考えると、同じことを、Bが動かないとも考えられるので、Bから見ればAの時計が遅れるというときにです。いわゆる双子のパラドックスです。
 これは、一見矛盾するようだが、矛盾しない。Aが動かないというのを、白を基準にすると考える。すると、Bの時計が遅れる=花瓶に見える、になる。Bが動かないというのを、黒を基準にすると考えると、Aの時計が遅れる=顔に見える、になる。
 「この絵が顔の絵なのか、花瓶の絵なのか決めることができないように。Bの時計が遅れるのか、Aの時計が遅れるのか、どちらが正しいということを決めることはできない。絵が、どちらの絵か決められなくても矛盾しないように、どちらの時計が遅れるのか決められなくても矛盾しない。」、というわけです。
「Aの時計とBの時計とどちらか一方だけが絶対的に遅れると主張してやまない人は、」
「白地の花瓶か、黒地の横顔かどちらか一方だけが正しい絵だと言っているのと同じなのだ。」とある相対論の紹介の本にあります。
言葉の遊びですか?物理学ですか?
この比喩のおかしなところが分かりますか。
@  絵の内容は、事実か虚構か?
 絵はもちろん虚構の世界です。事実ではありません。事実にこんなことは存在しません。
 本物の白鳥が北から南に飛んでいたとします。本物の鳥にはその事実しか存在しません。黒鳥が南から北に飛んでいることには絶対になりません。白鳥の影が黒鳥に見えたからといって、黒鳥が飛んでいることでないのは当たり前のことです。仮に同時に黒鳥が南から北に飛んでいるなら、白鳥が北から南に、同時に黒鳥が南から北に飛んでいることになります。
 ふつう、空には鳥はいっぱいいるので、白鳥やら、すずめやら、カラスやら、いろんな鳥が飛んでいる、となるでしょう。
 絵と事実は違います。絵の世界を事実に当てはめることなどできません。 
 もちろん、もうひとつの絵だって同じです。現実に、花瓶が顔になったり、顔が花瓶になったりすることはありません。いくら花瓶の影が顔そっくりであっても、それは、花瓶の影で顔ではありません。
 現実の出来事はただひとつしかありません。解釈はさまざまあっても、出来事はひとつです。出来事と、解釈を意図的に混同させて、言いくるめようとするのは、科学的ではありません。科学は、商談と違って、真実を追究するためにあるのです。決して相手を言いくるめるためにあるのではないのです。
A  絵を事実で見れば
 では、この絵を事実で定義すればどうなるでしょう。簡単です。紙に白黒のインクで印刷された絵である。となります。絵のあらわしている中身は関係ありません。絵の中身は観念の世界です。
B  絵に題をつけるとするならば
 それでも一歩譲って中身に触れてみましょう。 
  「この絵は、白を基準に見れば左向きに飛んでいる白鳥に、黒を基準に見れば、右向きに飛んでいる黒鳥に、とふた通りに見えるだまし絵である。」と定義できます。これがこの絵に描かれてある内容に対するたぶん唯一の定義です。
 もうひとつの絵も、白い花瓶の絵でも、黒い顔の絵でもありません。正しくは、「見方によって、白い花瓶に見えたり、黒い顔に見えたりするように描かれただまし絵」と定義できます。
 二つの内容が書かれた絵なのだから、二つの内容を言うべきなのです。猫と犬がかかれた1枚の絵を定義するのに、これは猫の絵だ、いや、これは犬の絵だと論争してもしかたないのと同じです。まあ、普通に考えれば何ちゃないことを、ああだこうだひっくり返して、しっちゃかめっちゃかにするところが相対論のすばらしさなんでしょうが。
C  科学と芸術の違い
 事実はひとつしかありません。しかし、それがどのように見えるかはもちろん見る人しだいです。その絵が蛸に見える人もいるでしょうし、チューリップに見える人もいるかもしれません。見る人に蛸に見えたら蛸に、チューリップに見えたらチューリップになります。絵とはそういうものです。その見方は間違いだといっても水掛け論です。これは感覚の世界と、科学の世界の根本的な違いのひとつです。
 たとえば、豚がりんごをくわえている絵があるとします。ある人は、豚がりんごを食べようとしているといいます。他の人は豚がりんごを吐き出そうとしているといいます。どちらが正しいかって。感覚的にいえばどちらも正しいのです。しかし、科学的にいえば、どちらも間違いなのです。なぜなら、絵の豚はりんごを食べたり吐き出したりできないのです。100億人の人が、豚はりんごを食べようとしている、なぜなら、豚は貪欲であると言ったとしても、絵の豚はりんごを食べたりしません。反対に、10人の人が、豚はりんごを吐き出そうとしている、なぜなら、そのりんごが毒入りであると気がついたからだ。豚の舌はとても敏感だから、と言っても、絵の豚が驚いて、りんごを吐き出したりすることはありません。どのようなすばらしい理由をつけたところで同じです。それで、絵の豚がどうにかなるわけはありません。なぜなら、絵の豚は、キャンバスにくっついた干からびた絵の具であって、本当の豚ではないのです。
 芸術(観念)の世界では豚でも、科学の世界では絵の具なのです。混同してはなりません。
 科学の世界では、蛸は蛸です。チューリップはチューリップです。絵は、絵の具です。人が、どう思おうと、どう見ようと、蛸がチューリップになることはありません。
 科学と、感覚を同列に置くのですから、相対論者はかなり大胆です。
 では、どうして、「図と地」という絵では「何の絵ですか。」などと質問をするのでしょう。それは、心理テストだからです。答えはどちらでもいいのです。本当にその絵がどちらかだと科学的に決めるために聞いているのではないのです。質問者は、花瓶と顔が描かれてある絵ということは知っているのですから。この本の相対論者が知っていたように。
D  事実と虚構
 では、なぜこのような話を持ち出さなければならなかったのでしょう。それは、そもそも最初の設定が虚構だからなのです。
 AとBという人が「お互いは動いていて高速ですれ違います。」という設定のはずなのに、「Aが動かないとすると」と、動いているはずのAを理由もなくとめてしまいます。動きと、時間の関係を実験(思考実験)するのに、その一番重要な設定を勝手に変えてしまっては正しい実験とはいえません。
 動いているものを、止まっているものと同一視することはできません。相対論では、絶対静止がないから動いているものも止まっているものも同じ状態みたいですが、事実は、まるで違う現象です。運動エネルギーが違います。互いに動いているAとBが正面衝突した場合と、Aが止まっていて、Bが衝突した場合は、そのあとの両者の動きがぜんぜん違ってきます。同じというわけには行きません。
 どこがだまし絵と同じなのかというと、「とすると」というところがです。「・・・とすると」というのは、虚構の世界への扉です。たとえば「人類は存在しない。なぜなら、恐竜が絶滅しなかったとすると哺乳類は繁栄しなかっただろう。したがって、人類も生まれてこなかった。」とか「人が、めだかとすると、人は、ヤゴに食べられてしまう。したがって、トンボは人間の天敵だ。」などと、どんなことでも可能な世界になってしまいます。そう、お話の世界です。
 例があまりに変だからそれとはちがうと思うかもしれませんが、この相対論者はこれと同じことをやっているのです。そうなんです、相対論は虚構の世界なのです。だから虚構の世界を持ち出さなくては証明できないのです。しかもそれに照らし合わせてみるとなんとぴったりなことか。
 上記の本では「二つの本当を統一するような視点は存在しない。だから、どちらが究極の本当かを決める方法はない。となれば、全てが本当だといっても、全てが見かけだといっても、単なる言葉の文(あや)に過ぎないことになる」といっています。絵という虚構から証明したのは、本当と、見かけは、「言葉の文」です。相対論は見かけでしか起こらない。しかし、見かけは本当と区別できない。したがって相対論は本当と区別できない。だから、相対論は真実だぞとでもいいたそうです。 「文」といってごまかしながら、本当と見かけにめちゃこだわっている。
 やっぱり見かけは見かけだもんね。見かけがよくったって、中身の薄いのはいくらでもいるもんね。
  
E 昔の考えで出ています。
 事実と、見かけははっきりと区別しなくてはなりません。それが科学です。と私は思っていました。しかし、この本の人はこういます。
 「みかけはみかけ、本当は本当。だけどそれは、ニュートン力学的な考え方なのだ。相対論では、みかけも本当もありゃしない。あるのは、A氏とB氏の相対的な世界観だけなのだ」
 そして、「相対的な状況が崩れたとき本当のことが起こる」といっています。このように特殊相対論で起こるとされることは、みかけ上起こることだと思っています。地球上で起こっている本当のこと、すなわちすべての出来事は、相対的な状況が崩れたために起こっているのでしょうか。ホント言葉の『文』ですね。
 このように見かけと本当を区別しながら、
 「従来の相対論の誤解のほとんどはみかけと本当の区別という、古い考え方の呪縛から生じたのだといっても過言ではない。」と、見かけ=本当。本当=見かけ、としてしまいます。これこそ、言葉の「あや」です。いや、『欺瞞』です。古い考え=旧態然とした考え=間違った考えという、言葉の持つ言外のニュアンスを巧みに使って、何の根拠もないのにそう思い込ませるといううまい方法です。古い考えが間違った考えであるとはきまってません。それがもしいえるなら、相対論より、私の考えのほうが新しいから、私のほうが正しいといえることになります。もちろん私のほうが正しいけれど、私はそんなことで証明するつもりはありません。
 
物の見方
 「真理も相対的なものだということです。というか、目撃者、言い換えると、観測者と切り離された真理など存在しないということです。」
 観測者べったり。しかも物差しの使い方も知らない、つごうのいい事しか見ない近視眼的な観測者と物事が表裏一体となって、全てが観測者の主観しだいであるという人間中心主義は真理なのでしょうか。人間とはそんなにご大層なものなのでしょうか。自分たちにわかるものだけが真理で、観測者に判断できないものは存在しない事象なのだと大見得を切れるほどのものなのでしょうか。たかだかサルに毛が3本余計に生えただけで何をそんなに威張ってんでしょう。
 人間が見ようが見まいが、太陽は存在しているし、人間が法則を考え出す前から、風は今と同じに吹いていました。
 1秒後に、風がどちらにどの強さで吹くか当てられますか。たった、1秒後の物理現象さえ予測できないのに、俺たちこそ真理だとは、たいしたものです。
 
 科学はたんにものごとを客観的に見ればいいのです。それを、理論につごうがいいからといって言葉遊びをしてはなりません。相対論が観察中心の論理なら、自分たちこそちゃんと、時計と、物差しを持って測ればいいのです。動いているのに止まっているとしたらとか、エレベーターの外が見えないとしたらとか、ぜんぜん振動しない船に乗ったとしたらとか、宇宙を2機のロケットがすれ違うときほかに何もないとしたらとか、とにかく、一番肝心なことが観測者にはわからないような条件設定にしたりせずに。そうすれば事実は相対論のためだけにあるのではないのが少しはわかるでしょう。そして、事象は、相対論とは関係なく動いていることも見えてくることでしょう。
相対論の精神
 そこで、この本では、どちらの時計が遅れるのかというパラドックスを、「どちらも遅れる、それを決めることが間違いだ」といっているわけです。
双子のパラドックスで言えば、ロケットで旅行をしてきた兄が、弟より若い。そして、また、地球にいた弟のほうが兄より若い。両方お互いより若い。これが真実であって、どちらが若いと決めるのが間違いである。ということになるわけです。(ところが、この本では、あとで、乗換えという手段を使って、決めるのが間違いだといいながら、なぜか、兄のほうが若いことに決めてしまうのですが。)
 まるっきり言葉の遊びでしょう。だまし絵なら、そういうことも可能かもしれませんが、現実に生きている人間にそんなことが起こるわけがありません。
 どちらも、互いに遅れている時計を並べてみてほしいものです。絵じゃない本当の時計を。
 それに対してはこういいます。「相対論の第一のポイントは、本当と、見かけの区別がなくなることなんだ。だから、ローレンツ収縮や遅れる時計が、単なる見掛けの現象だ、と理解するのでは、相対論の精神に反するんだ。」といっています。相対論の精神はそのとおりかも知れません。でも、相対論の崇高な精神には反しても、そのあたりに転がっているありふれた事実に反しなければそれのほうがいいのではないでしょうか。遠い宇宙の、誤差のほうが大きい場所でしか出現しない相対論的現象より。
 いまどき、精神主義の復活ですか。つごうが悪くなると、精神がたるんどる、では進歩がありませんよ。
まとめと感想
 どんなに生き生きと描かれた人の絵でもそれはキャンバスに絵の具を塗った、物です。どんなに生気のない人だって、人は人です。見かけと本当は違います。 
 で、こういうのです。それは、「頭の切り替えができていないからだ」と。そして、「そういう人は相対論に文句を言う資格はない」と。
 相対論を信じない人は、相対論に文句を言うなというわけです。神を信じないものに神を論ずる資格はないというわけです。
 これこそ「はだかの王様の理論」の真髄です。
 『はだかの王様」では、詐欺師たちは、最大の欠点である、『服がない」ということを指摘する人を、馬鹿呼ばわりすることで、誰もその欠点を追及できないようにしたのです。この相対論者もそうです。相対論のいう現象は現実には存在しないという、相対論の最大の欠点を追及させないために、あの手この手を使っています。挙句の果てに、相対論から追放です。
 ついでに言えば、相対論の予言した現実の現象といわれている、アインシュタインリングも、太陽のそばで曲がる光も、位置がずれていく水星の軌道も、加速器の中で、スピードの増加とともに必要なエネルギーが急激に増大する電子も、みんな旧態然とした理論でも十分説明可能な現象なんですよ。空間を曲げてみたり、質量を増やしてみたりと、誰も観測したことはないし、これからも観測されることはないだろう思考実験だけの現象を持ち出さなくても。
 しかも、細かい計算を除いた原理だけなら、中学生、一部は、小学生の理科で十分な程度のことなんですよ。
 そう、あのお話のとおり、子供が「王様はハダカダ」というわけです。
 これは相対論に物申すというより、ある人の考え方批判みたいになってしまいました。それも、感覚的に。あまり感心したことではありません。
ぽんとでた
04,1,29 並刻記
むかしむかしあるところに
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