メッセージ  天道説と地動説は同等 座標の対比



「アインシュタインが考えたこと」について2


(「アインシュタインが考えたこと」佐藤文隆、岩波ジュニア新書31)

著者 高田敞

 

(以下{ }内は上記本からの引用です)

 

問題


 {塔の上に登って石を真下に落とすと、地球が動いていても動いていなくても、真下に落ちるんです。たとえ動いていても真下に落ちるんです。石は真下に落ちても「それでも地球は動いている」ということなのです。これが相対論です。}


考察


 {これが相対論です。}といっているけれど、普通のひとには意味不明です。なぜ、どこが相対論なのですか?これはガリレオが事実を見つけ、ニュートンが理論化した慣性運動です。どこも相対にはなっていません。

 なぜ、ニュートンの慣性の法則を教えないのだろう。そんなに難しいことではない。

塔の上の石は塔の速度と同じ速度で動いている。だから、塔から石を落とすと、落下と共に、石の持っていた速度で、横にも動くということです。

これは、ボールを投げる時も同じです。ボールは、手から離れると、真下に落ちるかというとそうではない。手の速度と同じ速度で動いていたから、手から離れた後も同じ速度で飛んでいく。地上に落ちるのは、引力によって引っ張られているからである。落下するまでの時間空中を前方に進んでいく。ボールが飛ぶ理論です。

鉄砲の弾も同じ原理です。鉄砲から出た弾は、その後、前方方向にはなんの力も加わっていないけれど飛んでいきます。それは、火薬によって、力が加わって動かされたら、その力を維持して飛んでいくのです。

これは物質が慣性質量を持っているからだと説明されています。子供たちにはこれを説明すべきではないでしょうか。{これが相対論です。}といっても、子供たちはふうん、相対論ていうんだ、しかわからないでしょう。中身がないし、事実に合っていないし。

相対論では同じかもしれないが、慣性の法則の考えだと、上の{塔の上に登って石を真下に落とすと、地球が動いていても動いていなくても、真下に落ちる}という考えは変わってくる。相対論で地球が動いていないときは、石は真下に落ちる。しかし、塔が動いているときは、石は真下に落ちない。塔の上と、地上では速度が異なっている。塔の上の方が速度が速い。(地上と、塔の上では、円周が塔の上の方が長いから、地球が1周するときに塔の上の方が長く進む。したがって塔の上の方が速くなる)

塔の上から落とした石は、地上より速い速度で進行方向に進む。だから、石は真下ではなく、地球の自転方向の前方に落ちることになる。風があるから正確な測定はできないが、自然現象でこの効果が表れている。低気圧や高気圧の回転である。これは地球が低緯度地方の方が直径が大きいので、流れる風と地球の関係から現れる現象である。

結論


 地球が止まっているときは石は真下に落ちます。しかし地球が動いているときは、石は真下には落ちません。動いているときと、止まっているときは現象が異なります。

{塔の上に登って石を真下に落とすと、地球が動いていても動いていなくても、真下に落ちるんです。}は間違いです。

 ところで、慣性の法則といってはならないことでもあるのでしょうか。高校までの物理で習います。子供にはそれの方がよくわかるはずです。もし、相対論に結び付けたいために慣性の法則を述べないのは間違いと思います。自分の望む結論を導き出すために、不利な理論を隠すのは科学的態度ではありません。慣性の法則と、相対論を並列して、どちらが自然現象をよく説明できているか比較させることも、子供たちが、科学的態度を学ぶのには教育的だと思います。

 慣性の法則は、慣性質量が大きなカギです。物質には慣性質量があります。しかし、光には慣性質量がありません。ガリレオやニュートンは慣性質量のある物質において、座標系が成立すると考えています。アインシュタインは、光もこの慣性の法則と同じ現象が起きると考えています。慣性質量のない光が慣性の法則と同じ動きをする原因を説明することができないから、慣性の法則をここで封印し、意味不明の相対論を持ち出しているとしたら、ただ相対論という言葉を意味もわからずに丸暗記するだけの子供になってしまいます。自分で比較して考えることや、それがどういうことなのかを考えることがない子供に育ってしまいます。

{科学的な真理は決して時の権力では変えることができないんだ。真理はあくまでも真理なんだ、そういう物語として大変有名です}

 ガリレオは、宗教者だけではなく科学者からも否定されています。時の科学の定説という権威からです。今の科学の定説の相対性理論に反することを述べないのは、定説を信じてガリレオを否定した科学者と同じです。