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「アインシュタイン相対性理論」(内山龍雄・解説)「岩波文庫」

 の考察6                  

   著者 田 敞

(以下{ }内は上記本よりの引用)

 

§3.{静止系から,これに対して一様な並進運動をしている座標系への座標および時間の変換理論}1(P24)

{“静止している”空間の中に二つの座標系があるとしよう.ここで座標系とは,どちらも,それぞれ1点から突きだした,互いに直交する3本の剛体製の棒からできていると考える.}

{さて両系のうちの一方の座標系(k)の原点が,他の静止している系(K)のX軸の正の向き(x軸の増加する方向)に,Kに対して一定の速さvを持って走っているとする.}

 

問題 

{“静止している”空間}

 

考察

アインシュタインは、絶対静止を否定している。この{“静止している”空間}とはどういうものなのか不明である。

この空間の静止の条件は何も述べていない。またその大きさも述べていない。

 そんなものは関係ないということではない。アインシュタインには、私から見た静止はあっても、私がいない、{“静止している”空間}なるものは存在しないはずだ。

 ある解説書に、「何もない宇宙空間に、2機のロケットが飛んでいる。比較するものがないからどちらが動いているかわからない」というのがあった。「Aから見たらBが動いている。Bから見たらAが動いている」というのである。これが相対論だ。静止している空間はない。私が基準で、私が静止で、私が見ているものが動いているのである。ニュートンだと、宇宙空間は静止しているから、ロケットの動きはそこから計れることになっている。

訳者補注の“静止系”にも、{この論文では,どの座標系でも(慣性系),1人の観測者および多数の観測協力者が,その座標系に正座しているものと考える。特に“私”が正座している慣性系をここでは“静止系”と名付ける.他の観測者にとっては,その人が正座している系は,その人から見れば,勿論,静止しているが,それにもかかわらず,静止系とは呼ばない}とあるように、静止系には常に、“私”という観測者が必要であると述べている。

 ここで私のいない“静止している空間”が突然何の説明もなくあらわれている。

 絶対静止を否定していた相対論は、ある慣性系を他の慣性系から区別するために“静止系”と名付けて、次に“ ”を取って静止系を登場させ、ここで、私のいない完全な{“静止している”空間}となった。

 先に書いたように、この{“静止している”空間}が宇宙全体の大きさなら、完全な絶対静止である。宇宙より小さければ、この静止系に対して、動いている宇宙が存在することになる。その宇宙は、この{“静止している”空間}に対して、列車から見ると景色が列車の後方に動いているように、一定速度で一定方向に動いていることになる。あるいは、複数の慣性系があって、その慣性系が、この{“静止している”空間}の周りをうろうろしているのかもしれない。絶対静止を否定していることから始っているのに、それとほぼ同じ性質を持つ“静止している空間”を持ちだしたのだから、はっきりと説明する必要があるはずだ。

問題 

{他の静止している系}

考察

{“静止している”空間の中に二つの座標系があるとしよう}として、{両系のうちの一方の座標系(k)の原点が,他の静止している系K)のX軸の向き}といって、今度はこっそりと、何の根拠もなく{他の静止している系}なるものが出てくる。

{他の静止している系}とは何なのか。これは今までの静止系(慣性系)とは異なるのだろうか。上に書いた訳者補注には{他の観測者にとっては,その人が正座している系は,その人から見れば,勿論,静止しているが,それにもかかわらず,静止系とは呼ばない}とあるように、“静止系”には“私”がいなければならない。他の私がいる系は静止系とは呼ばないと言っている。

この空間の中にある二つの座標系には直交する3本の剛体製の棒と1個の剛体の物差しと多数の時計があるだけだ。“私”も「私」さえもいない。“静止系”ではなくたんなる「静止系」ともいえないはずだ。ところが「静止系」といっている。

“静止系”ではなく{“静止している”空間}に対して静止しているから静止系ということなのだろう。なら最初から、{“静止している”空間}からすべてをはかれば事は簡単になるはずだ。神様みたいな得体のしれない“私”を登場させて、そこから見たら“静止系”になるなどと言わずに、{“静止している”空間}から測れば静止も、速度も、絶対速度として測れる。ところが、それでは、否定したニュートンの絶対静止と何ら変わらなくなってしまう。アインシュタインの出番はなくなってしまうから、困ったことになってしまうのだろう。やはり、静止はないけど、時間や空間を伸び縮みさせるために自分の理論の必要に応じて慣性系を“静止系”にしたり「静止系」にしたりしないと困るのだろう。

 何故、{“静止している”空間}。

 {“静止している”空間}を登場させた理由は簡単である。今までの、慣性系だが“私”から見ると“静止系”であるというだけでは、運動するものは時間が遅くなるということをはっきりいえないためだ。

この章では「私」はいない。静止系と運動系という絶対静止と絶対速度の二つの系を宇宙空間の中で確定させている。どちらが動きどちらが静止しているか決めている。どちらが動いているか決められないという相対性ではない。では、なぜここでは確定させたのか。運動系の時間が遅くなるということを計算するためには、基準になる、“静止系の時間”というものがいる。基準の静止系が動いていたら、運動系の時間になってしまうから、基準の“静止系の時間”が作れなくなる。基準の時間がないと、運動系の時間がどれくらい遅れているかを計算できなくなる。そこで、静止系を登場させる必要があった。

ところが、これが「私が見た静止系」であっては、どちらの系にも私がいるから見る人によって、どちらも動いていることになってしまう。やはり基準がなくなる。(注:或る本では、私がいる方が静止だから相手の時間が遅れる、見る立場によって時間が遅れる方が変わるという。その時は私がいる方が必ず静止である。両方動いているということはない)そこで、{“静止している”空間}なるものを何気なく登場させて、一方は、静止している空間の中で静止しているとして、片方を静止させたのだ。うまいやり方である。何気なく登場させて、あたかも、最初から言っていましたと言わんばかりだ。だから根拠や、定義は書かなくてもいいというわけだ。しかし、これでは絶対静止と変わらなくなる。否定しているニュートンの絶対静止とどこが違うのかをはっきり書く必要がある。

(注:ニュートンの宇宙の場合は、この宇宙全体が静止している空間だ。その空間の中を、すべての物質、星や、星雲や、銀河や、宇宙線が動いている。電磁波も動いている。しかし、系や、座標系は具体的に存在しない。勿論{それぞれ1点から突きだした,互いに直交する剛体製の棒}なるものも存在しないからそれらが現実の宇宙の中を動いているということはない。ゲーム機の中のバーチャル空間を動いてる、バーチャル物体、幻想にしかすぎない。幻想だから何でも作者の意図どうりにできる。電磁波や、ニュートリノは、光速だ。この光速も、宇宙全体の静止空間に対して、光速である。勿論、ニュートリノは質量を持っているが、光速でも時間が止まったり遅くなったりしていない。これは、小柴氏の超新星からのニュートリノ観測から光とニュートリノは15万光年の距離を同じ15万時間で地球にやってきたことで証明されている)

結論

{“静止している”空間}や{他の静止している系}は、今までの、正座している私がいるから静止しているという相対性的考え方と根本的に異なる。どちらかというと、ニュートンの絶対静止空間の考え方だ。ところが、この説明は何もしていない。説明できないからだ。説明できないけれど、論理に必要だから内緒で持ち出した、というところだろう。