相対性理論について 相対性原理は正しいか   絶対静止に対応する現象 メッセージ 

「アインシュタイン相対性理論」

(アインシュタイン著、内山龍雄・訳、解説)「岩波文庫」

 の考察2


 著者 田 敞


(以下{ }内は上記本よりの引用)


問題

“静止系”と座標系について

 



1 “静止系”(
P16

{今,ひとつの座標系があるとし,これを基準にとるとき,ニュートン力学の方程式が成り立つとしよう.この座標系を,後にでてくる他のいろいろな座標系と,呼び名の上で区別するために,また、この座標系のもつ概念を厳密にするために,これを“静止系”とよぶことにする.}

2{“静止系”の定義}(訳者補注)

{どの座標系(慣性系)でも、1人の観測者および、多数の観測協力者が,その座標系に正座しているものと考える.特に“私”が正座している慣性系をここでは“静止系”と名づける.それゆえ,他の観測者にとっては,その人が正座している系は,その人から見れば,勿論,静止しているが,それにもかかわらず,静止系とは呼ばない.}

3参考

{特別な性質を与えられた“絶対静止空間”というようなものは物理学には不要であり,}

{力学ばかりでなく電気力学においても,絶対静止という概念に対応するような現象はまったく存在しないという推論に到達する.}

問題

1 “静止系”は何故特別なのか。

“静止系”はなぜ静止系と名付けられたのか?他の観測者が正座している系はなぜ“静止系”と呼ばないのか?根本的な違いはなにか?

2 “静止系”と“絶対静止空間”との関係

{特別な性質を与えられた“絶対静止空間”というようなものは物理学には不要}だが、特別な名前をつけられた“静止系”は必要なようだ。両者の違いはなにか。

 

問題1

“静止系”はなぜ静止系と名付けられたのか?他の観測者が正座している系はなぜ“静止系”と呼ばないのか?根本的な違いはなにか?

考察1

1 名前をつけた理由の推論

のちのち、こう名付けたことで、理論からは静止はないのに“静止系”という名を根拠に物理的に静止しているとして、理論を運ぶための方策であろう。絶対静止を否定しても静止という現象がなければ説明できないから、ここで名前だけだと断って、静止を持ち出す撒き餌を投じたのである。

2 名前の根拠

 ひとつの座標系を、“静止系”という名前にする物理的理由は何一つ述べられていない。この座標系は、絶対静止ではないので、訳者も述べているように慣性系である。物理的性質から名付けるなら“慣性系”と名付けるべきものである。あるいは、{他のいろいろな座標系と,呼び名の上で区別するために}だけ名前をつけるなら、花子とかジョニーとか馴染みやすい名前にしてもいい。

静止していないのに、“静止系”と名付けたのは、走っている車に、“静止号”と名付けたようなものだ。まるで正反対の性質の名前をつけるという普通では考えつかないようなこの発想がアインシュタインの素晴らしさなのだろう。まあ、計算づくと言えば言えるけど。

考察2 “静止系”と他の慣性系の違い

“私”がいる系と、他の私がいる系との、物理的違いは書かれていない。もちろん科学的説明もない。自分の理論のために必要だから区別しただけのようだ。科学的根拠はないといえる。

問題

 {特に“私”が正座している慣性系}の“私”とは何者なのか。

考察

 “私”と、他の慣性系の私の物理的違いは何なのか何一つ述べられていない。なぜなら、その違いが存在しないから述べられないのだ。

“私”は神様で、他の観測者は、単なる人間か、カニクイザルか、ザトウクジラか、はたまたミミズだからというのであれば、気分的にほんの少しは理由になるかもしれないが、それでもそれは感覚の問題で、物理現象とはなんの関係もない事柄である。

要するに、一つの座標系だけを特別視するために、何一つ根拠のない、空想の“私”を持ちだしただけである。絶対静止を否定したが、それに代わる絶対静止が必要だから、特別な、“静止系”やがて“ ”を取って、慣性系なのに静止系となるものを持ちだしたということだ。

動いている物は時間が遅くなったり、長さが縮んだりするから、基準となる動かないものが必要になったのだろう。

結論

“静止系”の物理的性質や根拠は示されていない。まるっきり自分の理論を進めるために作られただけのものである。

 

問題

{他の観測者にとっては,その人が正座している系は,その人から見れば,勿論,静止しているが}

考察

これは間違っている。静止しているように見えるだけで、静止しているのではない。正確にいうならば「その人から見れば,勿論,静止しているように見えるが」とならなければならない。

感覚では静止でいいだろうが、科学では、相対位置が変わらないから静止しているように見えるだけである。実際の現象は慣性系なので動いている、とすべきである。この本でも慣性系と述べているのだから静止とは異なる現象である。なにが何でも静止させたいようだ。

 これについて、列車で考えてみる。

 列車の座席に座っている私には、他の席に座っている人は静止しているように見える。これは互いの相対位置が変わらないからだ。アインシュタインの言う、他の観測者や“私”のいる慣性系もこのような状態であろう。

 他の観測者や“私”が座席に座っている列車や人は{その人から見れば,勿論,静止しているが}とする。すると、窓の外に見える景色が動いていることになる。地球が列車の後部に向かって動いていることになる。地球ばかりでなく、太陽も月も動いていることになる。

 地球や太陽や月が列車の後部に向かって動くことは、宇宙全体が、列車の後部に向かって動いていくことになる。

 宇宙全体を動かす仕組みやエネルギーはどのようになっているのだろう。

 列車のモーターが回転すると宇宙が動きだすというのは、エネルギー不変則に反している。

 ある科学者は、これでは困るので、動いている船の中に観測者を閉じ込め、すべての窓を覆って外が見えないようにしたりしている。あるいは、窓のないエレベーターを落としたりしている。外が見えないから、動いているかどうかわからないから大丈夫ということにしている。手品の種じゃあるまいし。肝心なことを見えなくしているのは科学ではない。すべての現象から考えるのが科学である。たとえ理論に不都合な現象であってもないことにするのではなく、不都合であればあるほど、それをしっかり検討するのが科学である。

問題 慣性運動と慣性系

 何が間違ったかというと、慣性系という言葉である。

 ニュートンの慣性の法則は、新たなエネルギーが加わらない限り、物質は、同じ運動を続けるというものだ。物質が運動するということで「系」なる状態が同じ運動をするということではない。

 上の例でいえば、列車のモーターのエネルギーを受け取って動いている物(列車本体、乗客、荷物)だけに適用できる法則である。摩擦、空気抵抗、引力がなければ、モーターを切ると、列車は等速直線運動になる。このとき物質でない、光や、真空や、「系」という用語の表すものは慣性質量を持たないので、列車と共に等速直線運動はしない。

 このとき等速直線運動をする列車は、ニュートンの場合、絶対静止に対しての等速直線運動になる。動いているのは、列車だけだ。他のすべては、絶対静止空間の中を列車の動きとはなんの関係を持たずに固有の運動をしている。絶対静止のないアインシュタインの場合、“私”の乗る列車は“私”から見ると静止して見える。外の景色は動いて見える。「見える」を取ると、列車が静止し外の景色が動きだす。“私”の静止だから、窓の外が動きだすことになる。

 慣性系の中の私から見ると、中の人は静止しているが、慣性系の外は等速直線運動をしている。実際の現象としてはありえない運動状態になる。

物質は慣性運動をするが、慣性系というものが等速直線運動をすることではない。

 

結論

{その人から見れば,勿論,静止しているが}というのは間違いである。その人から見れば相対位置が同じである、というべきである。高速道路を走っている車の運転手が助手席の人を見て、{勿論,静止している}というだろうか。「一緒に走っている」と考えるだろう。

結婚相手選びでは見かけだけで判断するのは失敗の元と考えている人が多い。科学の世界でも見かけだけで判断するのは間違いの元である。それも、{その人から見れば}という、その人の完全な主観だけの判断である。その人以外の人や、他の物質との客観的比較がなくては物理学とはいえないのではないだろうか。

 ニュートンの絶対空間の場合、物質や光の速度は決まっている。絶対速度になる。アインシュタインの相対性の場合、物質の速度は私によって変わる。

 このような、“私”の主観だけの判断で論が進められている相対性理論は、科学の方法論としても間違いであるといえる。

 

問題

絶対静止と、“静止系”

{今,ひとつの座標系があるとし,これを基準にとるとき,ニュートン力学の方程式が成り立つとしよう.}

考察

ニュートン力学が成り立つひとつの座標系が。“静止系”であるということだ。

このことからこの座標系は慣性系であるということになる。勿論、アインシュタインは絶対静止を否定しているから、この“静止系”は絶対静止系ではないことになるので、矛盾はない。

そこで、上に書いた慣性運動をしている列車の例と比較して、“静止系”とその中に正座している“私”について考えてみる。

 

 例 新幹線

 新幹線から見ると、中の人は、新幹線のモーターのエネルギーを受けている。空気抵抗や、摩擦抵抗、万有引力の影響がなければ、モーターを切ると直線等速運動になる。慣性運動である。

 これで考えてみる。外の景色は、新幹線のモーターのエネルギーを受けていないから、新幹線の慣性運動とは無関係である。

 座っている私から見ると、新幹線は静止しているように見える。この私が“私”なら、新幹線は“静止系”と呼べる。実際、“私”の前に座っている人は動いていないように見える。座席も床も窓も動いていないように見える。ところが、窓の外を見ると、景色が動いているように見える。新幹線の後方に向かって直線運動をしているように見える。

静止しているのは、静止して見える新幹線の中の人で、動いているのは動いて見える新幹線の外の景色になるのだろうか。

すると、地球が時速200kmで動いていることになる。勿論、月も太陽も、その他の惑星も、引力で結びついているから、時速200kmで新幹線の後方に動いていることになる。

 こんな現象は起こっていない。動いているのは新幹線の方だ。新幹線のモーターのエネルギーで新幹線が動いている。太陽系には新たなエネルギーは加わっていない。エネルギー不変則から考えても、太陽系の速度を変えることはできない。

 

新幹線の例から“静止系”を考える。

 この本によると、“静止系”の中にある物質は“私”から見ると静止しているように見えることになる。すると、“静止系”の外にある物質は、“静止系”の運動方向と反対方向に動いているように見えるはずだ。(注:“静止系”は、いろいろな慣性系の中で区別するために特別に付けられた名前だから慣性系である。したがって、他の系があればそれに対して動いている)

・ 慣性系である“静止系”の運動

 この“静止系”は新幹線のモーターのような共通のエネルギー源があったのだろうか。全宇宙の星が、共通のエネルギー源で動いていたということはあり得るのだろうか。まあ、ビッグバン宇宙は最初1点から始まったから、それが共通のエネルギー源で、共通の速度なのかもしれない。勿論私はそうは思っていないが。とにかく、アインシュタインは“静止系”とその他の系との運動についてはなにも言及していない。考えもしなかったのだろう。あるいは、相対論がたちいかなくなるから知らんふりをしたのかもしれない。

そこで、代わりに“静止系”と外の系との関係について考えてみる。

 

2 問題 

“静止系”と“絶対静止空間”との関係

{特別な性質を与えられた“絶対静止空間”というようなものは物理学には不要}だが、特別な名前をつけられた“静止系”は必要。両者の違いはなにか。

 

1 “静止系”が無限の大きさの場合

 “静止系”以外の宇宙がないから“静止系”が動いていく場所がないので“静止系”は動くことができない。これは全宇宙が絶対静止になるということである。

アインシュタインが否定している絶対静止空間になるから、アインシュタインの理論と相いれない。

この本でも、“静止系”のほかに他の慣性系なるものがあると述べているので、この条件はないということだ。

2 “静止系”が有限である場合

ア “静止系”が静止している場合

@ その外の系もそれに対して静止している場合

すべての宇宙が静止していることになるので、1と同じように絶対静止になる。アインシュタインの理論と相いれない。

A “静止系”の外の系が動いている場合

 外の系が一定方向に動くためには外の系すべてにかかる運動エネルギーがいる。しかし、新幹線の外の物質をすべて同じ方向に動かすエネルギーがないように、“静止系”の外の物質をすべて一定方向に動かすエネルギーは存在しない。やはり、これも、あり得ないことになる。

イ “静止系”が動いている場合

“静止系”の中は、新幹線の中のように物質は同じ動きを共有している。しかし、“静止系”の外は新幹線の外の景色のように“静止系”の動く方向と、反対方向に動いているように見えることになる。

・ “静止系”の動き

“静止系”そのものを動かす共通のエネルギーがいる。上に書いたように、新幹線のモーターのようなエネルギーが必要になる。

・ “静止系”の外の動き

 “静止系”から見ると、“静止系”の外は新幹線から見る外の景色のように。一定方向に動いているように見えることになる。あまり遠すぎて、視差を観測することはできないから、実証は今のところ不可能であろう。この場合、外の系も、絶対静止はないので何らかの運動をしていることになる。外の系全体を動かすエネルギーの存在が必要になる。そのエネルギーは今のところ、理論も観測もない。外の系と、“静止系”がぶつかる場所が必ず出てくる。そこはどうなるのだろう。また反対に、外の系と“静止系”が離れる場所も出てくるはずだ。その間は何になるのだろう。変な現象しか出てこない。

ウ “静止系”と光の速度

 光は、光速度不変の原理によって、光源の速度に影響されないで、真空中を光速度cで伝播する。

 すると、光は、“静止系”の速度に影響されることなく、真空中を光速度cで伝播する。

 慣性の法則は物質の法則である。したがって物質でない真空には作用しない。真空は慣性系の速度とは無関係であるから、光がその真空中を光速度で伝播すると、慣性系とは無関係な速度になるはずだ。すると、慣性系として動いている“静止系”とは相対速度を持つことになる。

 慣性系の{どれから眺めても,電気力学の法則および光学の法則はまったく同じであるという推論である}という、アインシュタインの推論は間違いであることになる。

問題 ひとつの座標系

{ひとつの座標系があるとし,これを基準にとるとき,ニュートン力学の方程式が成り立つとしよう.}

考察

 座標系とは具体的に何を指すのだろう。

 新幹線の中で手に持ったボールを落とすと、床に真っすぐ落ちる。慣性の法則である。このことから、新幹線の中の座標系ではニュートンの法則がなり立つということなのだろうか。もし、窓からボールが飛び込んできたら、ボールは、後方に斜めに飛ぶように見える。飛び込んできたボールは、新幹線の運動エネルギーを持っていないので新幹線に対して真っすぐには飛ばない。走っている新幹線の内部にあってもボールが異なる運動をしている。新間瀬の慣性系というような空間は存在しない。

同じように、窓から外に投げると、ボールは新幹線と共に飛ぶことになる。新幹線の外でも、新幹線の運動エネルギーを持っている物質は新幹線の速度を持って動く。新幹線の外部で、新幹線とは関係ない空間でも新幹線の慣性運動をする。やはり、空間とは関係ない、物質の慣性運動である。慣性系というのは言葉だけで、実際は、慣性質量を持った物質の、運動エネルギーの保存である。「系」なるものが、慣性運動をするということではない。

新幹線の慣性運動は、新幹線のモーターのエネルギーを受け取った物質だけの慣性運動である。地球上の物質は、地球の運動エネルギーを受け取った物質のみの慣性運動である。太陽系の運動は、太陽系の運動のエネルギーを受け取った物質のみの慣性運動である。銀河の回転は、銀河系の運動エネルギーを受け取った物質の慣性運動である。

慣性質量を持たない光はこれらとは関係ない運動をする。真空は何もないから勿論何も運動しない。座標系や、慣性系は、抽象概念だから慣性質量を持たないから、これらも慣性運動はしない。

結論

実際の観測や実験の示す事実を元に理論を組み立てるのではなく、抽象概念である、座標系や、慣性系や、架空の“私”を考えの中心に置いて宇宙の現象を考えることは物理学として正しい方法なのだろうか。