がんばれ小保方晴子さん22

著者 高田敞


理研のSTAP細胞検証実験の結果発表(2014,12,19)について


「科学者としてお答えできない。言えることは再現できなかったということだ」

 

疑問T 理研はなにを検証したのか?

記者から、STAP細胞は存在しないのですか、という質問が出た。それに対して、理研の実験統括責任者の相沢慎一特任顧問が、逡巡した後、{「科学者としてお答えできない。言えることは再現できなかったということだ」と繰り返した。}({ }内は朝日新聞からの引用)

考察

 STAP細胞は再現できなかった。しかしそれをもってしても、科学者としてはSTAP細胞が存在しないということはできないという。なぜ言えないのだろう。不思議だ。

 理研は、論文の映像は流用だった。また捏造もあったと言っている。その上今回STAP細胞は再現できなかった。これだけそろえば、科学者として、STAP細胞はないと言えるのではないだろうか。この他にどのような根拠がいるのだろう。

 もし、小保方氏以外の科学者が、他の方法で作ったSTAP細胞の論文を発表していたら、小保方氏の方法で再現できなかっただけでは、STAP細胞の存在を否定できない。それは小保方氏の方法では再現できない、ということであって、他の方法で作れる可能性があるということだからだ。しかし、STAP細胞の存在は小保方氏の論文の中でしか存在しない。小保方氏の論文が、捏造であり、その再現実験で再現できないなら、STAP細胞はないといえるはずだ。理研はなぜかその他のさまざまな方法でもSTAP細胞を作ろうともしている。それもことごとく失敗している。

 科学者としてなぜないと言えないのか。その根拠は何なのか。科学者でなければなんだったら言えるのか。疑問である。

 

疑問2 「今回の検証は、科学のやり方でない。」

考察

 朝日新聞では、同じ相沢氏が{終了後、退席しかけて突然振り返ると、再びマイクを手に報道陣に向かって話しかけた。「今回の検証は、科学のやり方でない。犯罪者扱いは科学にあってはならない」}と述べたとある。({ }内は朝日新聞からの引用)

 実験統括責任者が、理研の行った、しかも、自らも責任者として参加している検証実験を科学のやり方ではない、と、否定している。科学でないならなんの実験だったのか。

STAP細胞を否定するのではなく自分らのやり方のほうを否定している。このことが科学者としては答えられないということの一つの原因なのであろうか。科学のやり方でない実験は科学の検証実験ではない。したがってその実験を持って科学者としてはなんの判断もできないということなのだろうか。

 

疑問3 なにを検証すべきだったのか

 今回の問題は、STAP細胞があれば、ノーベル賞に値するすごい発見である。なければ、超一級のペテンであるということだ。

考察

 STAP細胞が本当なら、ノーベル賞を取ったIPS細胞の上を行く細胞であるから、ノーベル賞を取れるということだ。

STAP細胞は再生医療に大きな貢献をすることができる夢の細胞である。若返りの薬さえできる可能性があると言っている。

しかも、科学の常識を覆す発想なのだ。

STAP細胞が嘘なら、多くの一流の学者が騙されたということだ。

理研の科学者たちは、STAP細胞の存在を信じて、世界各国に特許の仮申請をしている。とても大変な作業であっただろう。また、金もかかっただろう。それを行ったということは小保方氏の研究を心底信じていたということだ。

また、ネイチャーに依頼を受けて、小保方氏の論文を審査した人たちも信じている。彼らは世界一流の科学者である。彼らも信じた。

もしこれらの人を騙せたのだとしたら、世界超一流のペテン師といえる。

 このことから、検証しなければならないことは、STAP細胞が実際に存在するのかしないのかであるはずだ。

STAP細胞が再現できるか否かは、そのための実験であるはずだ。ところが、再現できなかったにもかかわらず、その実験統括責任者の相沢慎一特任顧問は、科学者としてはSTAP細胞の有無については答えられないという。不可思議である。

 科学実験として、再現実験をしているはずだ。その結果から判断するのは科学であるはずだ。それなのに、「科学者としては、…」と述べている。その理由は何なのだろう。

 ひょっとして、理研は検証といっているが、本当は違う目的で行ったのではないだろうか。

疑問4 理研はいったい何を検証しようとしていたのだろう。

考察

 どうも、理研はSTAP細胞の有無ではなく、STAP細胞の再現をすることが目的であったように思える(再現実験といっているのだからそうなのだろう)。STAP細胞があるかないかという目的と、STAP細胞の再現を目的とした実験は、同じようで、大きく違う。STAP細胞があるかないかの目的は、論文の正誤を決めることが目的である。再現を目的とするのは、STAP細胞を自分たちで作りたい、ということが目的になっている可能性がある。自分たちで作りたいということはSTAP細胞が存在すると思っている、ということが前提である。大きな違いがある。

これは、理研が、春から独自の方法でSTAP細胞の生成実験を行っていることからいえる。論文と同じ方法ではない方法でやるのは検証実験ではない。STAP細胞の生成の新たな実験である。再現実験でもない。このことに対して、第三者諮問機関から、それでは検証ではないからだめだとクレームさえついている。

 それでも、理研はさまざまな方法でSTAP細胞を作る実験を行っている。結局できないから、自分たちで作るのはあきらめて小保方氏に実験をさせている。監視カメラでその方法を逐一映して小保方氏の秘密のレシピとやらもしっかり映している。もちろん、理研は、インチキを見逃さないためだといっている。言うのはなんとでもいえる。

 理研は、小保方氏の論文の正偽やSTAP細胞の検証ではなく、自分たちで、独自のSTAP細胞を作ることを目指したのではないだろうかという疑問が出てくる。すなわち、STAP細胞の存在を信じているということだ。

 

疑問5 {予想をはるかに超えた制約}

小保方氏のコメントの中に{予想をはるかに超えた制約の中での作業となり、細かな条件を検討できなかったことなどが悔やまれますが、}({ }内は朝日新聞からの引用)とある。

予想をはるかに超えた制約とはどのような制約だったのだろうか。また、なぜ制約をしなくてはならなかったのだろう。なぜ自由に再現実験をさせなかったのだろう。自由にやらせたらどのような不都合が出ると理研は考えたのだろう。まあ、再現されたら困るから、ということはないと思うが、これらは、不明であることは言える。

これも実験統括責任者をして、「今回の検証は、科学のやり方でない。」と言わさせた理由の一つではないのだろうか。

 

疑問6{犯罪者扱いは科学にあってはならない」}

実験統括責任者の相沢慎一特任顧問が述べている。

どのような犯罪者扱いをしたのだろう。監視カメラだろうか。それ以上になにかあったのだろうか。不明である。

 また、実験統括責任者がだめだと考えていることを誰がやらせたのだろう。実験に関して、実験統括責任者が手出しできなかったということだ。それ以上の力が働いていたということなのだろうか。

 

ここまでについてのまとめ

 実験統括責任者の相沢慎一特任顧問は科学者としては答えられないと言った本当の理由を公にしなければならないと思う。また、理研は、小保方氏の検証実験をなぜ制約したのかの本当の理由を公にしなければならないと思う。

そして、理研は検証実験をなんのために行ったのか、その目的は達せられたのかを述べなくてはならない。

 

疑問7 検証実験の意味

検証実験は、普通、論文が正しいか否かについて、検証するために行う実験である。

今回の場合、STAP論文は取り下げたためにすでに存在しない。存在しない論文に対して、検証実験を行っている。なにを検証したのだろう。出発点が既に科学の方法ではないといえる。

小保方氏がネイチャーに出した論文を検証したというのだろう。実際そうなのだろう。しかし、それは間違いである。理研は捏造だといって、論文を取り下げさせている。取り下げた段階で、論文は白紙になったということだ。すなわち、論文の中身は存在しない。中身のない論文を検証するというのは意味がない。

普通、論文の正誤を判断するために検証実験をするのだから、論文を取り下げさせるのは検証実験を行ってその結果によって行う。理研は検証もしないで取り下げさせて、その後で検証している。順序がまるで違う。この段階ですでに科学のやり方ではないといえる。

取り下げさせた段階でも、理研はSTAP細胞の存在を肯定しているふしがある。論文が捏造である、すなわち嘘であるといって、論文を取り下げさせていながら、STAP細胞の特許の仮申請は取り下げていない。小保方氏の権利は剥奪したが、自分たちの利権は確保している。理研がSTAP細胞の存在を信じている証拠である。

 今回も、小保方氏を追いやったのに、STAP細胞の存在はうやむやにしている。

 重要なのは、論文の書き方ではない。STAP細胞の存在なのだ。それがあれば、ノーベル賞級の発見なのだ。小保方氏の言うように、夢の若返りの薬もできる可能性がある。多くの難病も治せる可能性がある。世界の人々を救う、素晴らしい発見なのだ。もちろん莫大な利権も生まれる。100億200億なんて問題ではないだろう。

論文のどこに線を引くとか、どこに引用のしるしを打つとか、大学入試の採点のようなちんけなことを世間は問題にしているが、本当に問題としなければならないことはそれではない。STAP細胞の有無なのだ。

 理研は、今もSTAP細胞の有無について結論を言っていない。いや、あると思っているのではないだろうか。そうでなければ、これだけの完璧な証拠を提出しているにもかかわらず否定しないわけはない。否定せずに、幕引きを行っている。結論を出さずに、なぜ幕引きをしたのか。理研は、ひょっとして、自分たちの目的を達したから、幕引きをしたのではないのだろうか。STAP細胞を自分たちで作ることができる、という目的を、と勘繰りたくさえなる。

 

疑問8 他の検証について

 朝日新聞(2014,12,20)に次の記事がある。{では、論文に載ったSTAP細胞からできたとされるキメラマウスや、さまざまな組織は、何だったのか。別の万能細胞である「ES細胞」の混入や、試料自体の捏造の可能性も指摘されている。}({ }内は朝日新聞からの引用)

このキメラマウスやさまざまな組織を調べれば、STAP細胞の有無についての決定的な証拠になるはずだ。

このことはずいぶん前に言われている。理研はこれらのマウスや、様々な組織が何からできたのかを調べる時間はたっぷりあったはずだ。検証実験と並行してできたはずだ。ところが、今回そのことはなにも発表されていない。科学なら、「可能性」があるという憶測ではなく、疑問が出たら実際に検証しなくてはならない。それも、STAP細胞の有無の根幹にかかわる事象だ。無視していいことではないはずだ。それはどうなっているのだろう。今でも憶測のままだ。すなわち、そのことは、それこそほったらかしなのだから「科学者としてお答えできない」という状態のままだ。肝心なことなのになぜ調べないのか。検証のしようがないのか、検証したくないのか。検証の必要がないのか。

調べなかったのは、理研は、STAP細胞は存在すると考えているからではないのだろうか。今まで理研は書き方の不備は言っても、STAP細胞がないとは断言していない。今回の会見でも、STAP細胞の有無については、論外であったことからもそれがうかがえる。小保方氏を攻撃しても、STAP細胞がないとは言わないのだ。

結論

一番肝心のSTAP細胞の有無について、「科学者としてお答えできない」というのが理研の答えである。一番肝心の、それがすべてであるはずのことに答えが出ないまま、理研はどうして幕引きをするといったのだろう。自分たちには調べる能力がありませんというのだろうか。それとも・・?

これで世間は、STAP細胞はなかった、小保方氏は嘘をついたと思いこむだろう。決定的な結論はうやむやのまま、小保方氏は嘘付きとされてしまう。

いろいろなうわさを流して、一番肝心なことをうやむやにしている。目的は何なのだろうと勘繰ってしまう。

ところで、世界各国に申請したSTAP細胞の特許の仮申請はどうなっているのだろうか?もちろん取り下げているはずだ。論文は捏造である、検証実験も間違いとでた。実験もここで打ち切りであるのだから。それとも、STAP細胞の有無は分からないのだから、申請は継続するとなっているのだろうか。

もちろん、STAP細胞を作るノウハウはしっかり映したから、小保方氏はもう必要ない、幕引きだ、というサスペンス劇場のようなことはないと思う。

 

追加

{では、論文に載ったSTAP細胞からできたとされるキメラマウスや、さまざまな組織は、何だったのか。別の万能細胞である「ES細胞」の混入や、試料自体の捏造の可能性も指摘されている。}

考察

STAP細胞からできたとされるキメラマウスや、さまざまな組織が、ES細胞からできたとしよう。それでも、この細胞が、キメラマウスや、さまざまな組織を作る力があるということは変わらない。すると、この細胞が再生医療に大きく貢献することは変わらないということだ。ES細胞が、夢の万能細胞になったということだ。ES細胞をこのように万能細胞に変化させたということは素晴らしい発明である。ES細胞から、万能細胞を作ったということは称賛に値することであるはずだ。もちろん今後の医療における貢献を考慮すると、ノーベル賞の候補にはなる発明であるだろう。そして、医療分野に応用すると、たくさんの人が助かる。些末事だが、莫大な利権も生じるだろう。

STAP細胞であろうが、ES細胞由来であろうが、できた万能細胞の素晴らしさは、変わらないのではないだろうか。それともES細胞由来の万能細胞は、キメラマウスや、さまざまな組織を作ることはできても医療には応用できないのだろうか。

それとも、すでに誰かが、ES細胞からさまざまな組織を作ることができる万能細胞をつくっているのだろうか。

そのあたりはどうなっているのだろうか。ただ、小保方氏のつくった、万能細胞を医療に応用しようという動きは今のところなさそうだ。さまざまな組織ができるなら、十分応用できそうなのだけれど。